1.はじめに
一月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。ルツ記の第4章です。
まず3章までのところを振り返っておきましょう。ベツレヘムに住んでいたエリメレクとその妻ナオミ、それに二人の息子は、飢饉のためにベツレヘムからモアブの地へと移り住みました。そして、エリメレクと二人の息子は、その地で亡くなります。二人の息子にはそれぞれモアブ人の妻がいましたが、どちらにも子どもがおらず、残されたのはナオミと二人の嫁だけでした。ナオミは失意の中、モアブの地で生きていく気力を失い、エリメレクの故郷、ベツレヘムに戻ることにしました。ナオミは嫁たちに実家に帰るように言いましたが、嫁の一人ルツはナオミについて行くと言って聞かず、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに戻って来ました。ここまでが1章です。ベツレヘムに帰って来たと言っても、二人には仕事もありません。ルツが落ち穂拾いをして、ナオミとルツは何とか食いつなぎます。この時ルツが落ち穂拾いに行った畑が、期せずしてボアズの畑でした。ボアズはエリメレクの親戚でした。ボアズはルツにとても親切にしてくれました。それが2章です。そして、ナオミはルツに、ボアズがエリメレクの家を絶やさぬようにする責任がある人だと教えます。ルツは、ボアズにその責任を果たしてくれるように願い、ボアズもこれを受け入れました。ボアズは、律法に示されている親戚としての責任を果たすと約束します。ボアズとルツとの年の差はかなりあったと思いますけれど、これは実質的には、二人が結婚することを意味しました。これでめでたしめでたしとなるかと思いきや、まだ問題が一つ残っていました。それは、ボアズよりも近い親戚が一人いたということです。この人がエリメレクの家を絶やさぬようにする責任を果たしますと言えば、ボアズに出る幕はありません。ボアズはその日のうちに公に決着をつけようとします。ここまでが3章です。そして、この問題に公に決着をつけてボアズとルツが結ばれたというのが、今日の4章に記されていることです。
2.律法に従った決着
ボアズがエリメレクの親戚として果たさなければならなかった責任とは、レビラート婚の拡大解釈によるものです。当時のイスラエルにおいては、レビラート婚というものが行われていました。これは前回の3章の時に見ましたように、申命記25章5節以下に記されている律法に基づいたものです。レビラート婚は、「一人の人に妻があって、子どもを得ずして亡くなった場合、その兄弟が亡くなった人の妻を自分の妻として迎え、子どもをもうけ、その長子に亡くなった兄弟の名を継がせる」というものでした。エリメレクには兄弟がいなかったのでしょう。それで、近い親戚がその責任を果たさなければならなかったわけです。ボアズは既に、ルツのこともナオミのことも良く知っています。その責任を果たすつもりでした。しかし、これは当時のイスラエルにおいては、公に取り決められ、公に実行されなければならないことでした。ボアズとルツがお互い好きになって、合意したので結婚します。そういうことではありません。
そこでボアズは、その日のうちに町の門の広場で、公にこの事に当たることにしました。新共同訳の小見出しは「交渉」となっていますが、ここで行われたのは、今で言えば「民事裁判」という内容です。当時のイスラエルにおいては、町の門の広場が裁判所であり、議会でもありました。例えば、自分の牛がこの人に盗まれたと訴える人がいれば、公に律法に従って裁きが行われなければなりません。それが町の門の広場において為されたのです。そして、その裁判の根拠となるのが律法でした。ボアズは十人の長老に来てもらいました。この長老たちは、この裁判が律法に基づいて正しく為されているかどうかを見ると同時に、決まったことに対しての証人にもなります。そして、ボアズは自分よりもエリメレクに近い親戚の人にそこに来てもらいました。
そして、本題に入ります。3節からです。「ボアズはその親戚の人に言った。『モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。』」ここで、「責任を果たす」と訳されている言葉は、前回申し上げましたように「贖う」という言葉です。口語訳はそのように訳していました。これは聖書においてとても大切な言葉です。ボアズは、エリメレクの土地を買い取ってエリメレクの家族を「贖う」意思はありますか、と聞いたわけです。答えは、「それではわたしがその責任を果たしましょう」。「私が贖いましょう」というものでした。これではボアズの出る幕はありません。ボアズの意図から外れた結果になるかのように見えましたけれど、ボアズは次の矢を放ちます。5節「ボアズは続けた。『あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。』」それを聞いて相手は「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」と答えたのです。これで決着がつきました。ボアズがエリメレクのすべてを贖い、引き受けることになりました。
そして、それを律法に従ってみんなの前で、はっきりとさせることが行われました。それが 、8節「その親戚の人は、『どうぞあなたがその人をお引き取りください』とボアズに言って、履物を脱いだ。」という行為です。これも申命記25章に記されている手続き行為です。現代の日本で言えば、署名捺印したということです。これで決まりです。
3.「贖う」ことは愛の業
しかし、どうしてこの人は最初「贖う」と言っておきながら、舌も乾かぬうちに「贖わない」と言ったのでしょう。多分、こういうことではないかと思います。彼はナオミから土地を買うならば、ナオミには子どももいない。だからやがてはその土地は自分のもの、或いは自分の子どもたちのものになる。これは悪い話ではない。そう思ったのでしょう。しかも、律法に従って行うのですから、彼は良いことをするということになります。誰にも悪く言われません。ところが、ルツというモアブの女も付いてくるとなると話は別です。この女はまだ若い。ですから、この女との間に子をもうけなければなりません。そして子どもが出来れば、この土地は現在の自分の子どもではなく、ルツとの間に生まれた子どもが受け継ぐことになる。何も良いことがないわけです。ナオミとルツと、更には生まれる子の面倒まで見なけばならないだけで、最後にはこのエリメレクの土地さえも自分のものではなくなる。何の得にもならない。損するだけ。そのようにそろばんをはじいたのではないでしょうか。だから、贖うことを止めた。更に言えば「ルツがモアブの女」であることも関係していたかもしれません。どうして、外国人の妻まで娶らなければならないのか。そこまではやっていられない。そう思ったのかもしれません。
もともと、この律法におけるレビラート婚というのは、得をするためにやることではありません。神の民であるイスラエルがアブラハムの祝福を受け継ぎ、ヨシュア記に記されている神様によって与えられた約束の土地をイスラエルが保持し続けることが出来るようにするためのものです。そして、更に言えば、子がなくて寡婦(やもめ)となった者を守るためのものでした。ですから、レビラート婚によって為される「贖う」という行為は、贖う側には何のメリットももたらしません。しかし、愛の故に、損と分かっていても行う。それが「贖う」ということです。神様の御心なのだから、神の民として、たとえ損であっても律法に従って行う。それが「贖う」ということです。ボアズはまさにナオミとルツを愛し、憐れみ、損であるとか得であるとかということではなくて、彼らを贖うことを決めたのです。そうすることが、神様の御心に適うことであると信じたからです。
ここで私共は、私共を贖ってくださったイエス様を思い起こします。イエス様は私共の一切の罪を「贖う」ために天から降り、人となり、十字架にお架かりになった。イエス様は私共を贖って、私共を神様のものとして取り戻してくださった。そのために支払われたのが十字架の血潮です。これによってイエス様は何か得をすることがあったでしょうか。何もありません。でも、為してくださいました。それが神様の御心に適うことだったからです。私共を愛しておられたからです。私共はこのイエス様に贖われて、イエス様と共に生きる者、イエス様に従って生きる者とされました。ですから、私共にも損得を超えて為さなければならないことがあるということでしょう。
4.人々の祝福
この決着に、人々は祝福をもって応えました。ボアズもそしてナオミとルツも、ベツレヘムの人々に愛されていたのでしょう。人々は三つの祝福をボアズに告げました。11節から記されていますが、①主がナオミとルツを、ラケルとレアのようにしてくださいますように。②ボアズが富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。③主がルツに子宝をお与えになり、家庭が恵まれるように。ということでした。
①の「ナオミとルツ」を「ラケルとレア」のようにというのは、「ラケルとレア」はヤコブの妻であり、この二人から十二人の息子が生まれてイスラエルの十二部族となったわけですから、ボアズの家系の将来に与えられる祝福を願ったということでしょう。「ラケルとレア」はとても仲が悪かったのですけれど、そういう意味で重ねられているわけではありません。
②の祝福は、目に見える幸いを願うもので、結婚する人には誰にでも言いそうなものです。でも、これも大切であるには違いありません。
③「タマルがユダのために生んだペレツのように」というのは、ボアズが十二部族のユダ族の中でペレツの子孫に当たっていたからでしょう。創世記38章にある、タマルがユダとの間にペレツを生んだ経緯(いきさつ)は、とても大変なものでした。タマルはユダの息子のお嫁さんでしたが、子どもが与えられる前に夫が亡くなってしまい、色々ありましたけれどレビラート婚によって舅であるユダの子をもうけることになりました。そこで生まれたのがペレツです。ボアズとルツもレビラート婚によって結ばれるわけですが、そこで与えられる子が、ペレツのようにその子孫が増え、栄えていくようにと願ったのです。
5.神の祝福
そして、神様は彼らを祝福されました。それは、人々が願った祝福に呼応しています。ボアズとルツは結婚し、子どもが与えられました。聖書は13節で「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」と記します。「ルツは身ごもって男の子を産んだ」で良さそうなものを、わざわざ「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」と記します。ルツが男の子を産んだというこの出来事は「神様の御業」であると、明らかに聖書は告げています。
「子が与えられる」ということが、神様がボアズとルツそしてナオミに与えられた最も大きな祝福でした。子とは与えられるものです。神様が与えてくださるものです。神様の祝福そのものなのです。人間は命を作ることは出来ません。子は神様が与えてくださった祝福です。私共は、この子がもっとこうならとか、もっとあんなだったらと思うこともありましょう。けれど、それは私共のエゴでしょう。私共の思い通りに子が育つなんてことはありません。子は神様のものであって、私のものではないのですから当たり前です。神様の愛と祝福は、子どもと共に私共に注がれています。子とは、与えられるだけで、いるだけでありがたいものなのです。子どもは神様の祝福だからです。
6.みんなの喜び
子が与えられるということは、私共は両親や家族の喜びだと受け止めているでしょう。もちろん、両親も家族も嬉しい。でも、聖書は子どもが与えられることの喜びは、両親や家族だけのものではないことをも教えます。聖書はこの子が与えられる喜びを、ボアズでもルツでもナオミの言葉でもなく、近所の女たちの言葉として記しています。これは、現代の私共から見ると、少し変な感じがあるかもしれません。しかし、とても大事なことを私共に教えています。それは、子が生まれるという出来事は、その両親や家族にとっての喜びであるだけではなくて、共同体全体の喜び、みんなの喜びであるということです。そして、神の民、神の家族である教会は、このような喜びを共有することの出来る、共に喜ぶ共同体だということです。
近所の女たちはこう言って喜びました。14節「女たちはナオミに言った。『主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。』」夫も息子も失い、生きる希望さえも失ってベツレヘムに戻って来たナオミ。そのナオミの魂を生き返らせ、もう一度生きる力と希望をこの男の子の誕生が与えました。そのことによって「主がナオミを見捨てていないこと」が示された。神様の憐れみがここに現れた。だから「主をたたえよ」なのです。そして、ルツに対しては「七人の息子にもまさる嫁」と言います。外国から来た嫁に対して「七人の息子にもまさる」とは、何という褒め言葉でしょう。三千年以上前の男尊女卑の甚だしい時代にあってこれほどに言われるのは、神様が外国の女をも用いて愛を示されたからです。神様の憐れみが現れた出来事として受け止めたからです。この子が与えられることによって、主なる神様がナオミを、ルツを、そして先に亡くなったエリメレク、そしてその二人の息子マフロンとキルヨン、それらを神様は見捨てなかったということが明らかにされたからです。
16節で「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。」と聖書は告げます。この男の子を抱き上げた時のナオミの喜びはいかほどだったでしょう。今までの苦労や嘆きがすべて吹っ飛んでしまう喜びであったに違いありません。女たちはこの出来事に、神様の憐れみを見ました。そして、主を誉め讃えたのです。
7.オベド
そして何と、この男の子の名前を、この近所の女の人たちが付けたというのです。びっくりです。子どもの名前というのは、普通は両親や親戚が付けるものです。それほどまでに、この子どもの誕生はみんなの喜びだったということなのでしょう。その名は「オベド」。その意味は「仕える者」です。神に仕える者という意味の名前です。このオベドがダビデのお祖父さんになります。オベドからエッサイ、エッサイからダビデが生まれるわけです。そのことによって、このベツレヘムの町はダビデの町と呼ばれるようになり、ベツレヘムの名前は全イスラエルに知れ渡ることになります。更に、イエス様がこの町でダビデの子孫としてお生まれになって、ベツレヘムの名は全世界に知れ渡りました。本当に不思議なことです。すべてを失い、神様が私を不幸にしたと嘆いていたナオミでしたけれど、嫁のルツはモアブ人でありながら自分と一緒にベツレヘムに来てくれて、ボアズと結ばれてオベドが生まれた。そして、その孫にダビデ王が生まれ、更にイエス様の誕生に繋がっていく。誰も思ってもいなかったことです。神様はイスラエルの民ではないモアブの女であるルツをも用いて、出来事をもってその愛を示されました。私共には何の脈絡もないように思える出来事が、神様の御計画の中で一つ一つが意味を持ち、繋がっている。私共もその神様の御計画の中で生かされています。
女たちは「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」と言ったのですが、「家を絶やさぬ責任のある人」とは前回申し上げた「贖う人」(ゴーエール)です。この時まで、ナオミやルツを「贖う人」(ゴーエール)はボアズでした。しかし、この男の子が産まれた時、近所の人たちはこの男の子が「贖う人」(ゴーエール)だと言ったのです。「今日お与えくださいました」とはそういうことでしょう。オベド(仕える人)・男の子・贖う人、これはまさにあの馬小屋でお生まれになった救い主、主イエス・キリストを指し示しています。ボアズもナオミもルツも近所の人たちも、そしてオベド自身も、誰も思ってもいなかったことです。しかし、神様の御業はこのように進んでいきます。私共も神様の御計画の中ではナオミであり、ルツであり、ボアズであり、オベドなのです。私共に、そして私共のまだ見ぬ子孫のために、血で繋がっていなくても、信仰によって結ばれた子孫たちに、神様のどのような御計画が備えられているのでしょうか。それを期待して良いのです。彼らは、やがて再び来られるイエス様と相まみえることになります。その日を待ち望みつつ、今の時を神の民として歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、御言葉を通して、あなた様は私共を見捨てることなく贖ってくださることを教えてくださいました。この地上の歩みにおいてはナオミのように、「神様は私を不幸にした。」と嘆く時もあります。しかし、あなた様は決して私共をお見捨てになることなく、恵みの御計画の中で出来事を起こし、すべてを贖ってくださいます。私共に信仰における子どもを与えてくださり、神の民の喜びを与え続けてくださいます。そして、私共の眼差しを、私共の思いを超えたあなた様の永遠の救いの御計画へと向けさせてくださいます。ありがとうございます。どうか、私共があなた様の御名を誉め讃えつつ、新しい一週も歩んでいくことが出来ますよう導いてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年1月30日]