1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めてきて、今日から9章に入ります。8章までは、パウロの福音理解が告げられていました。特に8章は、この福音によって救われた者に備えられている恵みの祝福が次々と告げられ、最後にはその喜びが爆発したような「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(8章39節)という、勝利の宣言で終わりました。ただ信仰によって主イエス・キリストと結ばれ、神の子とされ、イエス様に似た者とされる救いの完成に向かって歩むキリスト者。聖霊なる神様は、その歩みを守り、支えてくださっている。ですから、私共は何も恐れることなく、御国に向かっての歩みを為していけば良い。私共は8章においてそのようなメッセージを受けました。
その喜びの叫びから、9章になるといきなり調子が変わります。明るい日差しがいきなり厚い雲でさえぎられたような感覚さえ覚えます。ここで告げられるのはユダヤ人の問題です。9章から11章まで、この問題が論じられていきます。12章からはキリスト者の倫理が語られます。福音の筋道とそれに与る喜びが8章までに告げられており、それに基づいたキリスト者の生活、キリスト者の倫理が具体的に12章から語られる。ですから、乱暴な言い方をする人は、9章から11章まではローマの信徒への手紙においては本筋ではなくて、枝葉のようなところだから、この部分は飛ばしても良いとまで言います。しかし、そうではありません。このユダヤ人の問題は、パウロにとって決して無視することの出来ない、福音の本質に関わることでした。第一に、彼自身がユダヤ人だったからです。同胞の救いがどうなるのか。それは、どうでも良い問題であるはずがありません。第二に、ユダヤ人は旧約以来の神の民です。ユダヤ人の救いがどうなるのか。それは、旧約での神様の契約、神様の約束はどうなってしまうのかという問題です。神様の気が変わった。そんな単純なことで納得出来る問題ではありません。そんな風に気が変わるような神様ならば、私共の救いだってどうなるか分からないということになってしまいます。この二つの点から、パウロはどうしてもこのユダヤ人の問題を取り上げないわけにはいかなかったのです。
2.パウロの悲しみと痛み
2節でパウロは、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」と告げます。8章の最後の喜びの叫びから、いきなり「深い悲しみがある」「絶え間ない痛みがある」と語るのです。キリストに捕らえられている喜びと、この「深い悲しみ」や「絶え間ない痛み」は一人の人間の中で同居出来るものなのでしょうか。そもそも、パウロの「深い悲しみ」「絶え間ない痛み」とは何だったのか。それはユダヤ人の救いの問題でした。パウロはこう続けて語ります。3節「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」肉による同胞、つまりユダヤ人ですが、彼らのためならば自分がキリストから離され、神様から見捨てられても良い。そこまでパウロは言うのです。
使徒言行録を見れば分かりますけれど、パウロが伝道する時、彼は必ずその町のユダヤ人の会堂に行って、イエス様の福音を告げました。パウロは異邦人伝道のために遣わされた伝道者でしたけれど、同胞のユダヤ人はどうなっても良いなんて考えたことは、一度もありませんでした。ですから、ユダヤ人の会堂に行ってイエス様の福音を告げるわけです。イエス様こそあなたがたが待ち望んでいたメシアだ。この方を信じるだけで、神の子とされ、救いに与れる。そう告げるわけです。しかし、パウロの言葉に耳を貸す者はいません。それどころか、ユダヤ教の裏切り者、律法に背く者としてパウロは排撃されてしまいます。パウロが逃げるようにして次の町に行けば、そこまで彼らは追ってくるほどででした。パウロの伝道が進展すればするほど、ユダヤ人たちのパウロに対する憎しみは増していきました。遂には、パウロを殺そうと相談するほどでした。パウロは、彼らの気持ちが良く分かる。何故なら、パウロ自身、キリスト者を捕らえて迫害していたからです。ユダヤ人から自分がどう見られているのか、パウロはよく分かっていました。だったら、ユダヤ人の会堂でイエス様の福音を伝えるなんてことをしなければ良かった。でも、彼は伝えないわけにはいかなかった。ユダヤ人たちの考えている、律法を完全に守ることによって救われるという救いの道は破綻しているからです。しかし、それを言えば言うほど、パウロは嫌われ、憎まれ、恨まれてしまう。どうすれば良いのか。どうすれば、ユダヤ人たちもイエス様の福音を受け入れ、救いに与れるようになるのか。パウロは異邦人伝道に生涯を捧げましたけれども、この同胞の救いということを忘れたことは片時もありませんでした。ですから、パウロはうめくように、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」と言うのです。そして、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」とまで言う。それは、何としても同胞の者たちもイエス様の救いに与って欲しいからです。神の民として歩んで来た同胞の者たち。アブラハム以来、神様の恵みと共にあった民。愛する同胞の者たちが救われないで良いはずがない。パウロは彼らを愛しているのです。
彼らはパウロを迫害しました。パウロは彼らによって何度も痛い目に遭いました。命さえも狙われました。しかし、パウロは少しも彼らをうらんだり、憎んだりしていません。それどころか、自分の命を差し出してもいいから救われて欲しい。そう、心から願っていました。だから、パウロは深く悲しみ、絶え間ない痛みを味わっていたのです。
3.モーセ
先ほど、出エジプト記の32章をお読みしました。この箇所は、モーセが十戒をいただきにシナイ山に登っている間に、下で待っていたイスラエルの民がモーセを待ちきれなくなって、金の子牛を造って神様として拝んでしまったというところです。何ということをしてくれたのかとモーセは思った。神様はイスラエルの民に怒りを燃え上がらせ、滅ぼし尽くすと言われる。しかし、モーセは神様に執り成します。何とかイスラエルが滅ばされないようにと、アブラハムと結んだ契約を思い起こしてくださいと神様をなだめます。そして、その最後にモーセが神様に告げた言葉が先ほど読んだ箇所です。31~32節「モーセは主のもとに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。』」モーセは、金の子牛を造ってこれを神様として拝んだイスラエルのために身代わりとなって裁きを受けます。自分は滅んでも良い。だから彼らを赦してください、と神様に願いました。
この姿は、パウロの同胞に対する思いと重なります。この時まで、イスラエルの民はエジプトを脱出させてくれた神様の御業に、何度も何度も与っています。それなのに、モーセが神様の所に行って十戒をもらって来る間、彼らは待っていることが出来ず、金の子牛を造って、これを自分たちの神として祭りをしていたのです。神様が怒るのも当然です。モーセも、何ということかと思った。モーセはこれまでも、この民が自分の都合しか考えず、神様に不平を言い、神様に感謝せず、神様を愛さず、神様に従おうとしない、そういう姿を何度も見て来ました。でも、この時もモーセはイスラエルの民を見捨てることはしせんでした。それは、この民を愛していたからでしょう。それに、ここで神様がイスラエルの民を見捨てたならば、アブラハムと契約した神様の真実が立たないからです。神様の栄光が現れないからです。だから、モーセは何としてもイスラエルを助けようとして、神様に執り成したのです。
4.イエス様の愛が
パウロにしてもモーセにしても、何としても同胞が救われて欲しい、そのことによって神様の栄光が現れるようにと願いました。愛していたからです。しかし、この愛はパウロやモーセの中から生まれてきたものではありません。この愛はイエス様の愛です。イエス様の愛が彼らの中に宿ったのです。イエス様こそ、自分を十字架に架けた者たちのために神様に執り成し、文字通り御自らの命を身代わりとして差し出された方です。この方の愛を受けて、その愛によってパウロもモーセも導かれていました。確かに、モーセはイエス様が生まれるより千数百年前の人ですけれど、神の独り子であるキリストの霊がモーセに宿ったのでしょう。そして、モーセはその執り成しの姿をもって、後のイエス様の十字架の愛を指し示しました。そしてパウロは、イエス様の霊である聖霊が宿って、イエス様の愛をもって自分を迫害する者が救われるようにと願い続け、祈り続け、伝道し続けた。パウロの伝道の歩みは、このキリストの愛と結びついています。8章の最後にパウロが叫ぶようにして告げた、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」このキリストの愛とパウロは深く結びついていたが故に、彼は同胞であるユダヤ人たちのために悲しみ、心を痛めていた。私共はこのことを、よくよく心に刻んでおかなけばなりません。
5.私の愛が、祈りが問われている
私共は伝道をしたいと思っていますし、伝道の実りが与えられることを願っています。そのためにどうすれば良いのかと、思いを巡らせます。それは大切なことです。しかし、このパウロの言葉から私が示されましたことは、何よりもまず、「自らの愛が問われている」ということでした。何としても、私の愛する者が救われて欲しい、同胞が救われて欲しい。そうでなければ悲しくて、心が痛くて仕方がない。そのような思いの中で私はこの日本で伝道してきただろうか。そのように厳しく問われました。私はどこかで、「仕方がない」と思っていなかっただろうか。そう問われました。勿論、同胞への伝道は難しいのです。パウロだって、同胞への伝道に成功したとは言えないでしょう。しかし、彼にはキリストの愛があり、それ故の祈りがありました。「仕方がない」なんて決して言わない熱がありました。
それは、預言者エレミヤにもありました。彼は「悲しみの預言者」と言われます。彼が預言すればするほど、彼はイスラエルの同胞からうとまれ、あざけられ、笑いものにされました。それでも彼は語り続けました。エレミヤ書20章9節で彼はこう言います。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤは神様の御名によって語ることを止めようと思いました。誰も相手にしてくれず、かえって自分を嫌うばかりだったからです。しかし、彼の中に与えられた神の言葉がそれを許しませんでした。彼の心の中で、彼の骨の中で、御言葉が燃え上がり、それを押さえつけることが出来なかった。エレミヤは「わたしの負けです。」と言います。エレミヤに負けを認めさせた熱い神の言葉、神の愛。私は、それで満たしてくださいと願い求めます。
6.まず、愛を求めよう
日本ではキリスト者が1%に満たないという統計が随分前から出ています。更に今は、コロナ禍の中でそれぞれの教会も厳しい状況にあります。今日は本当でしたら総員礼拝でしたけれど、コロナ禍の中3月6日に延期しました。このような状況の中で礼拝に誘うハガキを出すことは無理だと判断しました。コロナ禍の中で求道者の方も少なくなっています。中々、教会に人を誘うということ自体が難しい状況です。しかし、私は改めて、本当に愛する者が救われることを、また同胞が救われることを切実に祈り、願っているか。そのことが今朝の御言葉から問われました。私はイエス様によって救われた。それで十分。そう思ってはいないか。自分の信仰と家族の信仰は、別だ。信仰は自由なのだから仕方がない。そんな風に思っていないか。勿論、個人の信教の自由は保障されなければなりません。しかし、その人権問題と、家族や同胞への愛は、全く別の問題です。あるいは、伝道は難しい。けれど異教の国の日本なのだからそれも仕方がない。どこかでそんな風に思ってはいないか。私は問われました。
私共の心にイエス様の愛が注がれたならば、熱をもって、この愛する人は何としても救われて欲しい。そのためならば、自分はどんなことでもしよう。そのように導かれていくでしょう。だから、こうすべきですとか、ああしよう、こうしようと言うつもりはありません。そうではなくて、まず、私はその愛を願い求めようと思います。この日本に住む、富山に住む同胞を愛し、それ故に彼らが救いに与らなければ心が痛くて、悲しくて仕方がない。その思いが片時も私の心から離れない。そのような愛を与えてください。そう祈ろうと思います。そもそも、私はこの日本の同胞を愛しているのかとも問われました。愛を与えてください。まずはそこからです。伝道と言えば、すぐに数字の話になります。数字は大切です。でもそれ以前に、そしてもっと大切なのは、この愛です。この愛からしか何も始まりません。そして、その愛を与えてくださるのは神様・イエス様です。私の中にこの愛はありません。愛がない。だから、求めるしかない。この愛は十字架の愛だからです。
7.神の民イスラエル
パウロは同胞のユダヤ人を4節で、「彼らはイスラエルの民です。」と言います。イスラエルの民とは、神の民ということです。アブラハムと神様との契約によって生まれた民です。旧約以来、神様と共にあった民です。旧約の出来事は、イスラエルの民の出来事です。彼らは特別な民です。勿論、すべての民族が神様の創造の御手の中で造られ、神様の御支配の中を歩んで来ました。しかし、それを神様によって教えられ、そのことを自覚し、聖書という書に記してきたのはイスラエルの民だけです。イスラエルの民よりも歴史が長いという民もおりましょう。イスラエルの民よりも古い文明を持っているという民もおりましょう。彼らも特別な民であるには違いありません。しかし、それはイスラエルの民が特別であるというのとは全く意味が違います。
その特別さをパウロは4節bで続けて、「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」と告げました。イスラエルは神の子としての身分を与えられており、神様の栄光を現す民とされており、神様と契約を結んでおり、律法を与えられて神様の御心を教えられており、まことの神様を礼拝することも与えられていた。アブラハムとの契約、シナイ山での契約、ダビデとの契約、預言者を通して語られてきた数々の約束。それらをイスラエルの民は持っている。イスラエルは、神様との関係において、全く特別な民です。そして決定的なことは、イエス様が肉によれば彼らから生まれたということです。それは何を意味しているかと言えば、イエス様によって与えられた救いは、旧約に記されている神様の救いの御計画と一繋がりだということです。そうであればこそ、イスラエルの民であるユダヤ人こそ、誰よりも先にイエス様の救いに与らなければならないはずです。それなのに、彼らは頑なにイエス様を受け入れない。どうして、そうなのか。パウロは、神様の救いの御心、救いの御計画は、永遠に変わることのない絶対的なものであると信じています。人間の側の都合で変わったり、頓挫したりするようなものではない。そうでなければ、私共の救いの確かさだって保証されないでしょう。私共は新しい神の民、新しいイスラエルなのですから。古いイスラエルが捨てられるならば、新しいイスラエルが捨てられない保証なんてありません。
8.神様の選びによる救いの確かさ
ですから、パウロがここで論じ始めるユダヤ人問題は、ユダヤ人だけの問題ではありません。すべてのイスラエル、民族としてのイスラエルも、新しいイスラエルとしてのキリスト者にとっても、救いの確かさがどこにあるのかという問題です。ですから、パウロはこの問題を素通りすることは出来なかった。この問題についてはこれから順に学んでいきますけれど、結論を先取りして言えば、神様の救いの御計画は昔も今も何も変わりません。確かに、パウロが出会うユダヤ人たちはイエス様に敵対し、信仰によって救われるという福音を受け入れようとはしませんでした。しかし、だからユダヤ人たちは滅びの民だ、とはパウロは決して言いません。そうではなくて、神様の大いなる救いの御計画の中でユダヤ人も用いられている。その何よりの証拠が、イエス様の誕生です。イエス様はユダヤ人です。これは重大なことです。ユダヤ人がいなければ、イエス様の誕生もありません。この大いなる神様の救いの御計画の中で、異邦人である私共も救いに与りました。ユダヤ人の救いも、異邦人である私共の救いも、ただ神様の救いの御心、救いの御計画の中でのことだということです。自分が少しばかり善いことをしたから、私が少しばかり善い人だから救われるという話ではありません。私共の救いは、徹底的にこの大いなる神様の救いの御心、神様の御慈悲と言っても良い。そこにこそ、そこにだけ、私共の救いの確かさはあります。
イエス様を見上げる時、パウロはこの神様の御心に触れる。だから、「肉によればキリストも彼らから出られたのです。」と言って、キリストという言葉を口にするとパウロは「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」と言わないではおられなかった。私は「イエス」とは言いません。「イエス様」と言います。以前は「主イエス・キリスト」と言っていましたが、今は説教の中では「イエス様」と言っています。インターネットで他所の教会の説教を聞くことが出来るようになりましたけれど、時々「イエス」と言う説教者がいます。私は生理的に、そのような説教を聞くことが出来ません。「イエス」ではなくて「イエス様」でしょう、と反射的にツッコんでしまいます。 ユダヤ人の救いも、異邦人の救いも、すべてはこの方によって与えられました。この救いの出来事を覆すことは誰にも出来ません。私共もこの方によって神の子とされ、神様の栄光を現す者とされ、神様と契約を結び、神の民として御心に従って生きる者となりました。父・子・聖霊なる神様を礼拝する者となり、神様の約束を信じて生きる者とされました。私共が新しい神の民とされたということは、私の愛する者、私の愛する同胞もまた、新しい神の民となるように招かれているということです。だから、「仕方がない」ではなくて、愛する者の救いのために、心を焦がして祈って参りましょう。それこそが、私共が神様の御前に立って、今、試さなければならないことなのです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に富み給う、全能の父なる神様。
あなた様は、今朝、御言葉を通して、私共が新しい神の民とされていることを教えてくださいました。そしてまた、私共の愛する者も、愛する同胞も、あなた様の救いに招かれていることを教えてくださいました。どうか、私共にイエス様の熱い愛を注いでください。そして、いよいよ家族を、隣り人を、同胞の者たちを愛する者としていただき、あなた様の福音を伝えていくことが出来ますように。この日本に、富山に、あなた様の福音を満たしていってください。あなた様の救いに与る者を起こしていってください。そのために私共を用いてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年2月6日]