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礼拝説教

「神の自由な選び」
出エジプト記 33章18~23節
ローマの信徒への手紙 9章6~18節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めて、先週から第9章に入りました。9章~11章はユダヤ人の救いという問題を扱っています。ユダヤ人の救いの問題は、日本人にはあまりピンと来ない問題かもしれません。しかし、パウロは同胞のユダヤ人たちがイエス様を受け入れないという現実を目の当たりにして、これはどういうことなのか。彼らは神様によって救われると約束されていた民、特別な民、神の民ではなかったか。それなのにどうして、イエス様の救いに与らないのか。この問題は、パウロ自身がユダヤ人であったということと共に、キリスト者の救いの確かさというものと深く関係しています。ですから、パウロはどうしてもこの問題を無視することは出来せんでした。それは、神の民であるユダヤ人が救われないとするならば、新しいイスラエルとしてのキリスト者もまた、確実に救われるとは言えないということになってしまうからです。旧約において告げられた神様の救いの約束、それが反故にされるとするならば、私共に与えられたイエス様による救いだって反故にされないとは限らない。神様は真実な方である。嘘はつかない。これが揺らいでしまえば、私共はどこに立って救いの確信を得ることが出来ましょう。神様の真実は、私共の信仰の大前提です。確かに、ここで扱われているのはユダヤ人の問題ですけれど、これは私共の救いの問題と直結していることなのです。

2.神の真実:神の言葉は効力を失わない
 今朝与えられた御言葉の冒頭で、パウロは「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」(6節)と告げます。ここでパウロが言う「神の言葉」とは、私共が旧約聖書と呼んでいるものに記されている言葉です。神様がイスラエルの民に与えた約束の言葉です。これは、反故にされたり無かったことにされたりすることは決してない。そうパウロは告げます。旧約聖書の神様の約束は、イエス様によって効力を失った、無効になった。時々、そのように考える人がいますけれど、そうではありません。そういうことならば、イエス様が告げられた言葉だって、時代が変われば効力を失うこともあり得るということになってしまいます。それでは、私共の救いはどうなるでしょう。神様の言葉、神様の約束は決して反故にされることない。これがパウロの確信です。そして、これがキリストの教会が立ち続けてきた大前提です。これがなければ、神様について、救いについて、人間について、罪について、何を根拠にキリストの教会は語ることが出来ましょう。私共が毎週の礼拝の中で告白している日本基督教団信仰告白は、その冒頭において、聖書が教会の拠るべき唯一の正典であり、神の言葉であり、誤りなき規範であると告白しています。
 ちなみに「正典」とは、「正しい」典と書きます。典とは書、本ということです。これは聖書の聖という字を使った「聖典」とは意味が違います。聖なるの方の「聖典」の方が一般的に用いられている言葉でしょう。聖なる書ということですから、これは聖書以外のコーランも歎異抄も法華経もみんな聖なる書である聖典です。しかし、正しいという文字を用いる正典は、「基準」となる書という意味です。聖書を正しい典の正典とするということは、私共はこれが信仰のすべての基準であって、これ以外に神の言葉ない、そのように聖書を受け止めているということです。聖書が基準であるということは、そこに記されている神の言葉は決して効力を失わない、神様の真実によって裏打ちされているということです。この聖書に対しての信頼、神の言葉に対しての信頼が、私共の信仰告白の最初にあるということは、その後に告白される信仰内容のすべてが、この聖書の真実、神の言葉の真実に拠っているということです。そして、宗教改革者たちはこのことを「聖書のみ」という言葉で言い表しました。

3.肉による子が神の子ではない
 だったら、どうして神の民であるユダヤ人たちが、イエス様の救いに与らないのか。この問いが生じてきます。パウロは第一に、肉によるアブラハムの子孫、つまりアブラハムの血によって繋がっている子孫が、すべて神様の救いの約束に与る本当のイスラエルというわけではないと言います。7節「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。」と告げます。ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫である。だから神の民であり、救われるはずの者である。他の民族とは違う。そう自負しておりました。しかしパウロは、血によってアブラハムに繋がっていることが、即、神の民・イスラエルという訳ではない。そう言うのです。そして、その実例として旧約からアブラハムの子である「イサクとイシュマエル」、そしてアブラハムの孫である「ヤコブとエサウ」を取り上げます。
 まず、イサクとイシュマエルです。アブラハムは、自分の子孫が大地の砂粒のように、天の星のように多くなる。そう約束されたのですけれど、一向に子どもが与えられる気配がありません。アブラハムは75歳で神様に召し出されました。妻のサラは65歳でした。それから10年しても子どもが与えられません。年令を考えれば当然ということなのでしょうけれど、そこでアブラハムの妻サラは、自分が高齢だから子どもが与えられないのだと考え、自分の女奴隷であるハガルにアブラハムの子どもを産ませようとします。奴隷の子どもは主人のものとなったからです。そして、この目論見は当たりました。ハガルはアブラハムの子を産みます。それがイシュマエルです。ところが、神様はこのイシュマエルを約束の子、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とは認めませんでした。そしてこの後、アブラハムが100歳、サラが90歳の時にイサクが与えられます。この前の年に、神様がアブラハムとサラとの間に子どもを与えると告げられのですが、アブラハムもサラも笑ってしまいます。こんな高齢になった者に子が与えられるはずがないと思ったからです。しかし、次の年イサクが誕生します。神様はこのイサクをアブラハムの祝福を受け継ぐ子とされました。イシュマエルもイサクも、アブラハムの子であることに違いはありません。しかし、神様はイサクを約束の子としたのです。
 次にアブラハムの孫であるヤコブとエサウです。イサクは妻リベカとの間に、双子の男の子が与えられました。ヤコブとエサウです。エサウが兄、ヤコブが弟です。そして、アブラハムの祝福の約束を受け継ぐ者とされたのは、ヤコブでした。ヤコブとエサウは双子ですから、血統による優劣はありません。ヤコブのやったことを見てみると、父のイサクと兄のエサウをだましてアブラハムの祝福を受け継ぐなど、ヤコブの方が神様の祝福を受け継ぐのに相応しい者であったとはとても言えません。そもそも、ヤコブがアブラハムの祝福を受け継ぐ者であるとイサクの妻リベカに神様が告げられたのは、二人がリベカのお腹にいる時、まだ二人が生まれる前でした。ということは、ヤコブがどういう人であるか、そんなことには関係なく神様がヤコブを選ばれたということでしょう。ヤコブの12人の息子はイスラエル十二部族となっていきます。しかし、エサウの子孫はイスラエルにはなりませんでした。
 この二つのことから、アブラハムの子孫であるということが、即、神様の約束の子となるというわけではないということは明らかだ。そうパウロは言うのです。

4.神様の憐れみによる選び
 だったら、何によって神の民イスラエルは生じるのでしょう。パウロは「それは、自由な選びによる神の計画」によってだと言うのです。ユダヤ人たちは、自分の血統や自分の善き業という、自分の側に神様の民とされ、救いに与る理由があると考えておりました。しかし、パウロはそうではないと言います。血統だろうと、善き業だろうと、私共人間の側に救いに与る理由や根拠など何もない。ただ、神様がその人を自由に選ばれた、それだけが理由だと言うのです。それはもう、ヤコブとエサウを見れば明らかです。ヤコブの方がエサウと比べて優れていたとか、神様の御心に適う者であったとか、そんなことは全くありませんでした。何しろ、ヤコブが選ばれたのは二人が生まれる前なのですから。ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であるということを救いの根拠とし、これに頼って自らを誇っておりました。これに対して、洗礼者ヨハネはこう言いました。マタイによる福音書3章7~9節「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々(これは当時のユダヤ教の指導者たちです)が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。』」洗礼者ヨハネは、神様の自由な選びによって救われるのであって人間の側にはそれに価するものなど何もない、とはっきり告げました。だから、「悔い改めよ」なのです。ただ神様の憐れみを求めて、おごりを捨てよ。自分の中に神様の救いに与る価値があるなどと思ってもみるな。お前たちが救いの根拠にしているアブラハムの子孫であるということなど、救いには何の保証にもならない。神様は石ころからでも、アブラハムの子孫を造ることがお出来になる。お前たちの誇っていることなど、石ころほどの値打ちしかない。だから、ただ神様の憐れみを求めて、悔い改めて、救いを求めよ。そう告げたのです。
 この「自由な選びによる神の計画」によって救われる。これが8章までに繰り返しパウロが語ってきた「信仰によって救われる」ということの中身です。「信仰によって救われる」というのは、「私が信じるという私の業によって救われる」ということでは、全くありません。そうではなくて、「私には救われるに価するものなど何もないけれど、神様が私を憐れんでくださり、選んでくださって、信仰を与えられ、救いへと導かれた。」ということです。私共が救われるのは、ただ神様の憐れみによってです。それ以外に私共が救われる理由はありません。自らの血肉によらず、ただ神様の憐れみによって、ただ神様の選びによって救われる。これは「ただ信仰によって救われる」という福音と一体のものです。私は救われた。これが神様の自由な選びによる以上、この救いは動かされることありません。もし、私共の信仰深さや熱心によって救われるということならば、私共の救いは少しも確かなものではありません。何故なら、私共の信じている気持ちなどは、しょっちゅう揺れるからです。先週は救われると思ったけれど、今週はちょっと難しいかもしれない。しかし、そんなバカなことがあるはずがありません。一方、私共の救いが神様の計画によるのであれば、私共の救いは揺らぐことはありません。神様は真実な方であり、全能のお方だからです。だから、安心してよいのです。
 しかし、人間とは不思議なもので、「自分はこれだけやっているのだから、救われるに違いない。」と思いたい。このほうが救いの手応えがある。今、オリンピックが開催されていますけれど、「今まで自分がやって来た努力は裏切らない。」そう思ってスタートラインに着く人も多いと思います。オリンピックはそれで良いのです。人間の業の祭典ですから。しかし、神様による救いはそうではありません。

5.神様は正しくないのか?
 しかし、このように「神様の自由な選びによって救われる」と申しますと、神様は救いに選んだり、そうでないほうに選んだりと、気まま勝手にしているように思う人がいるかもしれません。神様は誰に対しても平等ではないのか。えこひいきするような神様でいいのか。そんな問いがよぎる人もいるでしょう。そのような問いが生まれることも、よく分かります。しかし、この問いには決定的な欠けがあります。それは、神様の自由な選びによる救いの御業を外側から見て論じているということです。良く言えば客観的に見て論じているということです。もっとはっきり言えば、このような議論には、自分の救いが懸かっていない、ただの理屈です。そもそも、神様の救いの御業を外から見ることが出来るほどに、私共は大きな者なのでしょうか。ここには、自分が神様を正しい、正しくないと判定出来るという、思い上がりがあるように私には思えます。更に言えば、自分は神様に救われて当然だ。それだけの価値がある。そう思っているのでしょう。しかし、神様の救いの御業というものは、それに与り、その御業の中でしか論ずることは出来ないものなのではないでしょうか。これはキリスト教の救いの筋道を論じる「神学」というものについて昔から言われていることです。キリストを信じていない人に、キリスト教の神学を論じることが出来るのか。答えはNOです。それはキリスト教に限ったことではありません。私は浄土真宗の神学と言うかどうかも分かりませんけれど、それについて論じる資格はないと思っています。私やこの教会の歴代の牧師たちが学んだ東京神学大学が、洗礼を受けていない人は入学することが出来ないのはそういう理由です。
 パウロはこの問いに対して、明確にこう応えます。14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」神様に不義があるのか、つまり神様が間違っているのか。決してそうではない。そう告げます。そして、続けて15節で「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。」と言うのです。この言葉は、先ほどお読みいたしました出エジプト記33章19節の引用です。神様は何にも束縛されず、自由に憐れむ。それは神様がすべてを造り、すべてを支配される主権者だからです。この神様の主権というものを認めなければ、神様の自由な選びというものに納得することは出来ません。そして、更にパウロは16節で「従って、これは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」と続けます。自分がどうしようとした、何をした、そんなことは救いには関係ないと言うのです。これは実に驚くべき救いの論理です。人間の宗教的常識に完全に反しています。善いことをすれば救われる。善い人が救われる。それが人間の宗教的な常識でしょう。しかし、そうではないとパウロは明言します。これが、福音です。人間の宗教的な常識は、人間が考えることです。しかし、福音は神様のお考えです。ですから、人間の宗教的な常識とは違うのです。私は救われるに価する何ものも持っていない。にもかかわらず、神様は自由に私を憐れんでくださって、選んでくださり、救ってくださった。これが福音です。信仰によって救われるとは、こういうことです。

6.ただ神の憐れみによって
 パウロはキリスト者を迫害していたのに救われました。それは、自分の中に救いに価するものなど何一つないにもかかわらず救われたということでした。アブラハムの子孫である自分が律法を守ることによって救いに至る。そう信じていたパウロにとって、これは全く考えたこともない、ただただ驚くべき恵みでした。そしてそれは、ただただありがたいことでした。パウロはこのことを横に置いて、救いの筋道を考えることなど出来ません。私共もそうです。私共はどうしてキリスト者になったのでしょうか。親がそうだったから。真理を求め続けていたから。友人に誘われたから。きっかけは、それぞれありましょう。でも、私共の中に神様の子とされるに相応しい所など何一つありませんでした。そもそも、私共は異邦人であり、神様のことなど知りもしませんでした。ところが、このように神の子とされ、天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼び、主の日のたびごとに礼拝を捧げています。神様が私を憐れんでくださり、選んでくださり、信仰を与えてくださったからです。
 そして、この私が救われたという事実は、他の人と比べたりすることなど出来ません。どうして私が選ばれ、あの人は選ばれないのか。そんなこと分かるはずがないからです。自分が救われたことさえも、私の側にはに何一つ理由がないのですから、ましてあの人はどうして救われていないのか、そんな他の人のことなど分かるはずもありません。私共に言えることは、その人にはその人の、神様の御計画があるということだけです。それがどういう計画なのか、それは分かりません。神様にしか分かりません。そして、まだ信仰が与えられていない人は、「今はまだキリストの救いに与っていない」というだけであって、これからどうなるかは全く分かりません。キリストの教会が、まだイエス様を信じていない、救いに与っていない人を「未だ信仰を与えられていない者」という意味で「未信者」という言葉を用いてきたことを忘れてはなりません。「未信者」であって、不信者でも非信者でも無信者でもありません。その人が救いに与るかどうか、それはその人がどのような人生を歩んできたのか、どういう境遇にあるのか、そんなこととは一切関係ありません。神様が自由にお決めになることです。そして、私共には一人一人についての神様の御計画は分からないのですから、その人が神様の憐れみによって信仰を与えられるようにと祈るしかありません。勿論、ボーッと祈るのではありません。真剣に、そして神様の憐れみを信頼して、御業を為してください。憐れんでください。そう祈る。神様の憐れみを信じて祈る。それが、先に救いに与った私共が為すべきことなのです。

 お祈りいたします。

 恵みと憐れみに富み給う全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉によって、私共がただあなた様の憐れみに満ちた自由な選びによって救いに与ったことを改めて教えてくださいました。ありがとうございます。私共の中には、あなた様の救いに与り、あなた様の子どもとされるに価する善きものなど何一つありません。それはあなた様が、誰よりもよく御存知です。にもかかわらず、あなた様は私共を憐れんでくださり、愛してくださり、あなた様の独り子イエス様の十字架の血潮をもって、一切の罪を赦してくださいました。聖霊を注ぎ、信仰を与え、あなた様に向かって「父よ」呼ぶことの出来る者としてくださいました。まことにありがたく、感謝いたします。これはあなた様の選びによることですから、揺らぐことがありません。どうか、まだあなた様を知らない者たちに、あなた様を愛する信仰を与えてくださり、共々に御名を誉め讃えさせてください。どうか、私共の愛する一人一人を憐れんでください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年2月13日]