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礼拝説教

「怒りの器と憐れみの器」
ホセア書 2章20~25節
ローマの信徒への手紙 9章19~29節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めてまいりまして、9章からはユダヤ人の救いの問題が扱われています。確かにここで直接扱われているのはユダヤ人の救いの問題ですけれど、その中身は「神様の選び」「神様の憐れみ」ということです。神様は、自由な選びによって私共を救ってくださるのであって、私共の側に救われる根拠はありません。善いことをする人は救われるが、悪いことをする人は裁かれ、滅ぼされる。これが人間の持つ「宗教的な常識」ですけれど、聖書が告げる救いの筋道はこれとは全く違います。ただ神様の恵みによって、ただ神様の選びによって救われる。これが福音です。聖書が告げる救いの筋道です。しかし、神様が、この人は救われる、この人は救われない、そのように一方的に救われる者と救われない者を決める。しかもその人が生まれる前からだというのは、何とも不公平であり、理不尽ではないか。そう思う方もおられるでしょう。この神様の選び、あるいは神様の予定の教理というものは、しばしばそのように受け取られてきました。しかし、前回申し上げましたように、パウロは、この神様の選びによって救われるという救いの筋道、神様の救いの御業というものを、外側から眺めて、客観的な理屈として告げているのではありません。パウロはキリスト者を迫害していたにもかかわらず救われた。自分に与えられたこの救いの恵みを考えた時、「神様が憐れみをもってわたしを選んでくださった。」そのようにしか言えないということです。
 それにしても、神様が自由に選んで決められているのだったら、私共人間としてはどうしようもないではないか。神様を信じようと信じまいと、神様がお決めになっているのならば、私共はどうしようもない。それなのに、信じなければ救われないというのは、おかしいではないか。神様には誰も逆らえないのだから、人間に責任はないでしょう。そのような疑問が生じます。この問いを入り口として、神様の御心を説いているのが今日与えられているところです。

2.陶器師と器
 パウロは、今申しました問いを今朝与えられている御言葉の冒頭に掲げます。19節「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」神様の自由な選びによって救いが決まっているならば、神様はどうして、信じないからといって裁かれるのか。そんなのはおかしい。神様の御心に人間は逆らえないのだから、信じないということだって神様の責任でしょう、私のせいじゃない、ということです。
 理屈だけで考えれば、そういうことにもなるのでしょう。パウロは、これには直接答えません。そして、焼き物師と焼き物師に造られた器のたとえを話し始めます。焼き物師は色々なものを造ります。同じ粘土から、貴いことに用いる器を造り、貴くないことに用いる器も造る。それは焼き物師の自由であって、造られた器が文句を言うことは出来ない。当たり前ですね。ここで焼き物師にたとえられているのは、天と地のすべてをお造りになられた全能の父なる神様です。そして、器にたとえられているのが人間です。創造者と被造物。この差はとてつもなく大きなものです。この隔たりは、まともに口をきけることなどあり得ないほどのものです。パウロは、信じないのは自分のせいではない、神様の責任でしょうと言う人に対して、よくまあそんなことを言えたもんだ、自分の立場をわきまえろと言うのです。造られたものが、造ってくれた方に文句が言えるかということです。神様を焼き物師に、人間を器にたとえるのは、パウロのオリジナルではありません。イザヤ書やエレミヤ書にも出てくる旧約以来の伝統です。
 そもそも私共人間は、一人一人全く違います。生まれ育ったところも、与えられている賜物も全く違います。同じ兄弟でも違います。これについて、神様に文句を言っても仕方がありません。その意味では、神様は人間が考えるような平等で公平な方ではありません。でも、これに文句を言っても仕方がない。造られた器は、自分を造った焼き物師の考えに従って用いられるわけです。植木鉢は植木鉢として、お茶碗はお茶碗として用いられるわけです。植木鉢をお茶碗として使ったら大変です。下に穴が空いていますから汁が全部流れてしまいます。逆もそうです。お茶碗を植木鉢にしたら、水はけがないので根腐れを起こします。私共は、自分の才能・能力、与えられた状況の中で精一杯のことを為していくしかありません。分かりやすいのは、人の身長はバスケットボールなどの競技では決定的な才能の違いとなるでしょう。でも、その反対もあります。しかし、誤解しないで欲しいのですが、パウロは、人間には神様によって決められた運命があって、それに反論したり逆らったりすることなど出来ないと言っているのではありません。聖書は運命を語りません。これは大切な点です。今、「運命」と「神様の御心」の違いについて丁寧に論じる暇はありませんけれど、決定的な違いは、運命には愛がないということです。しかし、神様の御心は愛に満ち、私共を救いへと導こうとされます。パウロは神様の主権を語りますけれど、人間に責任はないとは決して言いません。人間には自由があるからです。しかし、その自由は神様の御心に反するためではなくて、神様の御心に従うために用いられるべきものです。神様を信じないためではなくて、神様を信じるために用いられるべきものです。

3.滅びの器と憐れみの器
 本題に戻りますが、神様は自由な選びの中で人間をお造りになった。そして、怒りの器と憐れみの器を造られた。怒りの器というのは滅びることになっている器であり、憐れみの器とは救われることになっている器のことです。このような怒りの器と憐れみの器という言葉が出てきますと、私共は、神様が自由に選んで、ある人を怒りの器とし、ある人を憐れみの器とした。だから、私共にはどうしようもない。滅びるのか救われるのか、もう決まっている。それは変えようがない。そう思うかもしれません。しかし、パウロがここで言っているのはそういうことではないのです。
 22節「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれた」と言うのです。どういうことかと言いますと、ユダヤ人たちは自分たちが神の民であり、自分たちは神様に選ばれた、救われるはずの者だと思っているけれど、聖書にはそのようには記されていません。イスラエルは神様に何度も何度も何度も背いた。背き続けた。神様の怒りによって滅ぼされても当然の歩みを為し続けてきた。旧約が記すイスラエルの歴史はそういうものです。出エジプトの旅においてもそうでした。モーセがシナイ山に登って十戒を神様からいただいてくる間に、金の雄牛の像を造って神様にしてしまう。約束の地に着いた後でも、士師記にあるように偶像の神を拝む者になってしまう。神様はイスラエルを懲らしめるのですけれど、喉元過ぎれば何とやらで、神様がイスラエルを守るために送られた士師がいなくなると、すぐに他の神様になびいてしまう。これを何度も何度も繰り返す。更に王国時代になってもこれは変わりません。列王記には北イスラエル王国と南ユダ王国のすべての王様が記されているのですが、ほとんどの王様は「主の目に悪とされることを行った。」と記されています。この言葉が繰り返し出てくる。「主の目に悪とされること」とは、端的に言えば偶像礼拝です。その結果が、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡であり、南ユダ王国のバビロン捕囚という悲惨な結末でした。しかし、それでもなおユダヤ人は残りました。イスラエルは怒りの器として滅ばされなかった。何故でしょうか。パウロは、その理由が「神様の忍耐」だったと言うのです。
 この神様の忍耐によって、何が起きたでしょうか。それは、怒りの器の中から憐れみ器として召し出される者が生じたのです。24節「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」と告げます。パウロは怒りの器となったユダヤ人の中から召し出され、イエス様の救いに与る者、憐れみの器とされました。パウロだけではありません、他の使徒たちもみんなユダヤ人でした。使徒の他にも、この手紙を読むローマの教会には、ユダヤ人キリスト者たちがいました。そして、異邦人キリスト者です。私共もそれに当たるものです。異邦人とは本来、怒りの器です。しかし、その異邦人の中から憐れみの器として召し出され、救いに与った私共です。私共はまことの神様を知らず、偶像を拝み、自分に利益を与えてくれるものなら何でも神様にしてしまうような者でした。怒りの器・滅びの器そのものでした。ところが、神様は私共を滅ぼさず、耐えに耐え、忍びに忍び、私共をイエス様の救いに与る者として召し出してくださいました。これが神様の愛です。神様の御心です。

4.神の愛=神の忍耐
 パウロはこの神様の愛を、25節以下で旧約のホセア書とイザヤ書を引用して告げます。
 まずホセア書ですが、ホセアという預言者は紀元前8世紀、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされる時代に神様から召命を受けた預言者です。彼が神様から召命を受けた時に告げられたことはまことに凄まじいものでした。ホセア書1章2節以下にこうあります。「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。」ホセアは預言者として召されたその時、神様から告げられた言葉は、姦淫する女性を妻として迎えよ、その子を自分の子として迎えよ、というものでした。これはいくら何でもひどいでしょう。しかし、ホセアはその通りにしたのです。これはどういうことかと言いますと、象徴預言あるいは行為預言と呼ばれるもので、預言者が神様の御心をその行為・行動でもって象徴的に示して預言するというものです。姦淫の妻はイスラエルを意味し、その姦淫の妻を迎えるホセアは神様を示します。このことにホセア書のすべてが示されると言って良いと思います。25節は、先ほどお読みいたしましたホセア書2章25節の引用で、26節は、ホセア書2章1節の引用です。ホセア書の方を見ると分かりますが、25~26節に引用されている「自分の民でない者」というのは「ロ・アンミ」という言葉です。そして、「愛されなかった者」とは「ロ・ルハマ」という言葉です。「ロ」はヘブル語の否定語です。そして、この「ロ・アンミ」「ロ・ルハマ」というのは姦淫の妻ゴメルが生んだ息子の名前なのです。つまり、神様との契約を破って他の神々に仕えるイスラエルは、もう自分の民ではない。けれども、それを「わたしの民」「愛された者」「生ける神の子」と呼ばれるようにする。つまり、ホセアが姦淫の妻ゴメルの子を自分の子として受け入れ、育てたように、神様はイスラエルを御自分の「愛する者」「わたしの民」として受け入れる。そういう神様の驚くべき愛と赦しをホセアは告げたわけです。この驚くべき愛の故に、神様は耐えに耐え、忍びに忍んで、イスラエルを滅ぼし尽くすことはされなかった。そうパウロは言っているわけです。
 次にイザヤ書からの引用ですけれど、27~28節は、イザヤ書10章22~23節の引用、29節は、イザヤ書1章9節の引用です。ここでポイントになる言葉は「残りの者」という言葉です。英語ではレムナントと言います。この「残りの者」というのは、イザヤ書やエレミヤ書においてとても大切な言葉です。神様はイスラエルを裁くけれども、滅ぼし尽くすことはなさらない。「残りの者」を残される。そして、その「残りの者」から新しい救いの歴史を歩ませていく。神様の救いの歴史はこの「残りの者」によって継続されていく、というものです。
 つまり、怒りの器・滅びの器だったイスラエルは、ホセアによって預言された神様の徹底した赦しと徹底した愛によって滅ぼされなかった。彼らはイザヤによって預言されたように「残りの者」とされ、神様の救いの歴史は継続している。この神様に赦され、滅ぼされず、残りの者とされたのがキリスト者なのだ。そうパウロは言っているわけです。つまり、怒りの器は単純に滅びの器となるのではなくて、憐れみの器となり得る。それは、ただ神様の憐れみの故だ。ただ神様の恵みによってだ。異邦人である私共が滅ぼされることなく神様の救いに与るということは、本来あり得ないことであり、それは驚くばかりの神様の愛の故です。神様は私を救って当然。私は救われて当然。そんなことは、決してありません。神の御子が身代わりになってくださらなければ、赦されるはずがない、滅びるしかない。それが私共でした。しかし今や、神の子とされ、神の民とされ、神様に向かって父よと呼ぶことが許されています。本当にありがたいことです。

5.信仰=契約に基づく関係
 先週の礼拝の後で、「今日の説教は、よく分かりませんでした。」と言われました。本当に申し訳なかったと思いました。もっと丁寧に話さなければいけなかったと思いました。この神様の選び・予定論の話は、確かに難解な所がありますけれど、先週の所と今日の所は繋がっていますので、多分このことが分かりにくかったのではないかと思われる二つの点について、少し丁寧にお話ししたいと思います。
 第一に、信仰とは「私の信じる気持ち」ではないということを申し上げました。勿論、私共は神様を信じ、愛しているわけですから、信じる気持ちを否定するつもりはありません。それは大切な心です。しかし、「信仰によって救われる」と言った時、その信仰が「私の信じる気持ち」だけならば、私共はとても救いの確信なんて持てないでしょう。私共の気持ちはいつも揺れ動いているものだからです。だったら、私共を救いに与らせる信仰とは何なのか。それは、神様との契約に基づく関係ということです。これは、恋愛と結婚の違いを考えれば分かりやすいかと思います。恋愛をしている時、私共はその人が好きだという確かな感情、気持ちがあります。しかし、結婚して1年か2年もすれば、好きだという感情は薄らいでいきます。でも、多少の口げんかをしても、これでもう二人の関係が切れてしまうなんて少しも思いません。恋愛している時は、そうはいきません。もう嫌われて、電話もかかってこないのではないかと不安になります。結婚によって、私共には恋愛している時よりももっと落ち着いた関係が築かれていきます。これが愛です。神様への信仰とは、この結婚において育まれていく愛の交わりのようなものです。恋愛と結婚の違いは、二人の間に契約があるかどうかです。そして、共なる日々の生活があるかどうかということでしょう。私共の信仰とは、そういう神様との関係のことなのです。

6.じゃ、どうすれば良いの?
 第二点は、その信仰も神様の自由な選びによって与えられるとするならば、人間は何をすることが出来るのかという問いです。これは、当然生まれてくる問いです。今朝与えられた御言葉の冒頭においてパウロが提起している問いでもあります。神様を信じないことだって神様が決めたのならば、全部神様のせいではないか。人間の私共に何が出来ようかという問いですね。要するに、私共はどうすれば良いのかという問いです。これは難しい話ではありません。とっても単純です。先ほどの結婚のたとえで言うならば、神様からの愛の告白を受け入れる。それだけのことです。愛の告白を受け入れなければ、結婚には至らないでしょう。誰に告白されても、私共はいつも喜んでそれを受け入れるとは限りません。何でこんな人に告白されるの、気持ち悪い、とっても無理、と思うこともあるでしょう。それでは結婚には至りません。パウロがここで問題にしているユダヤ人たちは、このイエス様によって告げられた神様の愛を受け入れなかった人たちなのです。異邦人さえも愛する神様なんて、私の神様じゃない。私たちの神様は、ユダヤ人だけを愛する神様だ。そのように頑なに拒んだのです。これではダメです。
 神様は私共を愛しておられる。私共に命を与え、必要なものすべてを備え、そして愛する独り子さえも与えてくださいました。そこまでして私共を愛してくださいました。この愛を受け入れる。それが私共に出来ることです。でも、たとえそれを受け入れても、本当に神様は自分を選ばれたのかどうか、どうして分かるのか。そう思われる方もいるかもしれません。神様の選びをどうやって知ることが出来るのか。これも単純なことです。神様の愛の告白を聞いたということは、神様に選ばれたからです。だから聞こえたのです。そして、神様の愛を受け入れるということは、神様に選ばれた者にしか出来ないことだからです。ですから、神様の愛の言葉を聞いたならば、「ありがたいことだ」と言って受け入れれば良い。そして、洗礼という契約を結ぶ。それだけのことです。そこに、どんな力によっても揺らぐことない、神様の恵みとしての信仰という、神様との確かな愛の交わりが形作られます。怒りの器だった私共が、憐れみの器へと変えられる。そして、信仰を与えられてから思い返すと、このことも神様は自由な選びの中でお決めになっていたことだったのだなと思うのです。
 私共は様々な出会いを通して信仰へと導かれました。両親、友人、書物、あるいは自分の子ども、様々なきっかけを与えられて教会に集うようになったわけでしょう。この出会いというものは私共が意図して作ったものではありません。出会いとは与えられるものです。私共の人生の不思議、深みと言っても良いですが、それはこの出会いにあると言っても良いほどです。私共にこの出会いを与えられるお方。それが自由な選びによって私共を救ってくださる神様なのです。この神様の永遠の選びの中で、私共は信仰を与えられ、救いへと導かれた。ですから、何があっても安んじて、神様の愛を信頼して、御国への歩みを為してまいりたいと願うのです。

 お祈りいたします。

 恵みと憐れみに富み給う全能の父なる神様。
今朝あなた様は御言葉を通して、あなた様の愛、赦し、忍耐によって、滅ぶべき私共が救いへと導かれたことを教えてくださいました。感謝します。あなた様の自由な選びによって救われる者が誰であるのかは、私共には分かりませんけれど、あなた様の愛は驚くばかりに大きく豊かですから、まだ信仰を与えられていない人々の中に、信仰を与えられて救われる者が、この富山にも大勢いることを信じます。どうか、その一人一人と出会わせていただき、あなた様の救いの御業に私共を用いてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年2月20日]