1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めております。9章からはイスラエルの救いについて論じられています。前回までは、神様の自由な選びの御計画によって人は救われる。神様の主権のもとで、救いは神様から与えられるもの。自分で獲得出来るなものではない。そうパウロは語ってきました。そして、神の民であるイスラエルが救いに至らず、救われるはずのない異邦人が救われるという事態が起きた。確かにそこには神様の救いの御計画というものがあるわけですけれど、ユダヤ人のすべてが救われないわけではなく、異邦人のすべてが救われるということでもありません。実際、パウロにしてもペトロにしてもヨハネにしても、みなユダヤ人です。また、この手紙はローマの教会に宛てて記されているわけですけれど、ローマの町に住む異邦人のすべてが救いに与っているわけでもありません。ユダヤ人だから救われる、あるいはユダヤ人だから救われない、そういうことではありません。また、異邦人だから救われない、あるいは異邦人だから救われるということでもありません。ユダヤ人であるか、異邦人であるか、それが救いに与れる基準ではなくなったわけです。
私共は、民族とか国家とか肌の色とか、そういう目に見える違いによって互いを区別します。その典型が、国と国との戦争、民族対立による争いということでしょう。しかし、神様にとっては、すべての民が御自分が造られた民なのであって、人間同士なら対立してしまう違いによって救いに与るかどうかが決まることはありません。これは、神様の救いというものが、目に見える様々な違いというものを越えているということです。神様に救われた者の群れとしての教会、キリストの体としての教会というものが、その本質においてインターナショナルである、グローバルなものであるということです。今、ロシアがウクライナに侵攻して10日が経ちました。戦争です。この時、私共はロシアにもウクライナにもキリストにあっての兄弟姉妹がいることを忘れることは出来ません。今日も砲弾の爆発する音が響く中、主の日の礼拝が防空壕の中で捧げられています。私共はこのことを忘れてはなりません。そして今朝、世界中の主の教会がこの戦争の終結を、平和を祈っています。彼の地にいる兄弟姉妹と共に、また世界中の兄弟姉妹と共に、主の平和が与えられるように祈りを合わせたいと思います。
2.義とは
さて、私共は「神様に救われる」と言いますけど、この神様に救われるということは別の言い方をしますと「神様に義とされる」ということです。この「義」という字は「よし」とも読みますので、「神様に義(よし)とされる」ということです。神様に義(よし)とされなければ、神様に裁かれることになります。神様に義(よし)とされれば、裁かれることなく救われるわけです。神様との親しい交わりに入れられ、神様を「父」と呼び、復活の命・永遠の命に与ることになる。
この神様に義とされるという時の「義」という漢字ですが、随分前にある宣教師が「『義』という字は、我の上に羊が乗っている。つまり、私が神の子羊であるイエス様を主と仰ぎ、イエス様の下に就くことによって神様に義とされる、そういう意味です。」と言ったのを聞いたことがあります。外国の人なのに漢字を使ってうまいことを言うなと思いました。でも本当かなとも思いました。キリスト教的に義ということを説明するにはこれでも良いのですけれど、漢字の「義」という文字の成り立ちはそうではありません。義の下の我という字は、「ギザギザののこぎり」を意味しています。つまり、羊をギザギザの刃ののこぎりで切って神様にいけにえとして捧げる。そういう意味だそうです。古代中国において「羊神判」(ようしんぱん)ということが行われていたようです。これは原告と被告の言っていることのどっちが本当か分からない時、羊を捧げて、神様の判断を仰ぐというものです。でも、詳細はあまり分かっていません。この羊神判で勝った方が、善となります。ちなみに、羊は「神の獣」、神獣であったと言われます。神獣である羊を犠牲として神様に捧げて義とされる。この「義」という漢字の成り立ちの説明は、何かあまりに聖書的なのでビックリですね。イエス様という神の子羊が神様に犠牲として捧げられ、私共が神様に義(よし)とされた。まさに、その通りです。
3.異邦人の「信仰による義」
今朝与えられた御言葉の冒頭で、「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」(30節)と告げられています。異邦人が神様に「義」とされたのは、「信仰による義」によります。「信仰による義」とはこういうものです。神の独り子であるイエス様が私のために、私に代わって十字架の上で神様に裁かれた。このイエス様を我が主、我が神として受け入れることによって、このイエス様の十字架が私の裁きとなる。それ故、神様に罪を赦されて義とされるということです。神様が義(よし)としてくださる、神様が義と認めてくださるということです。私が正しい人、義人となるわけではありません。神様に義と認めていただく。それ以外に、私共が罪の裁きから逃れる道はありません。イエス様はこの道を備えてくださるために、天から降り、人としてお生まれになりました。このイエス様によって拓かれた道こそ、神様の自由な選びの御計画によって与えられた、完全な救いの道でした。異邦人が救われたことを、パウロは「異邦人は義を求めなかった」と言っていますけれど、これはユダヤ人のように律法を守ることによって神様の前に義とされるという道を歩んでこなかったということです。異邦人は旧約聖書に記されていることを知りませんから、当たり前のことです。「異邦人が義を求めなかった」というのは、聖書の観点から言えばということです。
異邦人だって、異邦人なりに義を求めていたということはあると思います。30年ほど前ですけれど、「教会に来れば善い人になれますか。」と聞かれたことがあります。その人が真面目に、本気で善い人になりたいと思っていることが分かりましたので、私も真面目に答えました。「なれます。しかし、それは『私はこんなに善い人になった』と自分に満足出来るような者になるということではありません。」と答えました。勿論、もっと丁寧に時間をかけて答えました。でも、分かってはもらえませんでした。まだ若かったので、このような問いにも一生懸命、何とか分かってもらえるようにと答えたのです。でも、今なら、「なれます。ぜひ教会においでください。でも、1回だけではダメですよ。しばらく続けて来てください。そうしないと分かりませんから。」と答えるだろうと思います。と言いますのは、この手の質問にその場で答えて納得してもらうということは、ほとんど不可能なことだということを経験の中で知ったからからです。なぜなら、この問いには沢山の前提があります。そして、その前提自体が聖書を基にしていませんから、前提から変えていかなければ答えに到達しないのです。それは、とても時間がかかることです。それは、その人自身が変わらなければならないということだからです。そんなことは、1回話をして起きることではありません。そのためには、礼拝に集い続けるしかありません。少しずつ少しずつ分からせていただく。そして、変えられていく。
「善い人になりたい」というのは、とっても真面目で素敵な思いです。しかし、この「善い人」というものがどんな者なのかはっきりしません。まして、そこには「神様の御前で」ということは完全に抜けています。多分、この「善い人になりたい」ということのイメージは、いわゆる「私利私欲を捨てた完全な善人」ということなのかもしれません。もしそうであるとしたら、残念ながらこの願いは絶望的です。そんな人間は存在しません。しかし、「少しでも善い人になりたい」ということならば、それはイエス様と共に歩む信仰生活の中で必ず実現されていくでしょう。聖霊なる神様が私共を変え続けてくださるからです。しかし、その変化は決して「自分は善い人になった」と自覚し、自分で満足出来るような者になることではありません。なぜなら、私共の信仰が深く確かになればなるほど、「神様の御前における自分」ということが分かってきます。そうすると、「罪の自覚」というものがいよいよはっきりしてきます。そこでは、自分が善い人になったかどうかということは、ほとんど問題にならなくなります。そこでは、神様の憐れみ、神様の愛、神様の赦し、神様の真実をいよいよはっきりと、いよいよ深く味わい知っていくことになります。これが私共異邦人に与えられた「信仰による義」の道です。善い人になるかどうかではない道です。
4.ユダヤ人の「行いによる義」
一方、ユダヤ人が「義」とならなかったのは、律法を守ることによって「義」とされるという道をたどり、そこから変わることが出来なかったからです。イエス様を我が主、我が神として受け入れて神様に義と認めていただく、罪を赦していただく、その道に変わることが出来なかったということです。ユダヤ人たちは神様の御心を示した律法を与えられておりました。そして、彼らはこの律法を完全に守ることによって、神様の御前に義しい人となる。そして、神様によって義とされ、救われる。そう信じて、真面目に、一生懸命励み続けたのです。しかし、残念なことですが、その道では神様によって「義」とされるというところに至ることは出来なかった。しかし、それをユダヤ人たちは認めることが出来ず、変わることが出来ませんでした。イエス様という神の子羊の犠牲によって、一切の罪を赦していただくという道を受け入れることが出来ませんでした。
どうして、律法を守ることによって義に至ることは出来ないのでしょうか。それは、とても単純な理由によります。第一に、律法を守るということは、心の底から神様に従って律法に従っていくということなのですけれど、心は外からは見えませんから、彼らは外に現れる行為だけを問題にしました。それはそもそも律法を受け取り違いしています。そして、心において膨大な罪を犯しても関係ないということになってしまいました。第二に、律法を守れなかった時には、神様に犠牲を捧げて赦していただくのですけれど、私共が律法を守れなかった、罪を犯したと自覚出来ることなど、ほんの氷山の一角に過ぎません。ですから、完全に律法を守ることは誰も出来ず、律法によって義に至ることは出来なかったのです。
だったら、律法によって義とされるという道ではなくて、信仰によって義とされる道を行けば良かったのですが、彼らはそうはしなかった。どうしてでしょうか。それは、この信仰による義を認めてしまえば、自分たちは異邦人と同じになってしまい、特別な民ではなくなってしまうからです。自分たちは神の民であるという、ユダヤ人としてのプライドを手放すことになってしまうからです。自分は特別であるという思いを持つことが出来なくなってしまうからです。ユダヤ人たちは大変真面目に、真剣に、日々の生活の一挙手一投足に至るまで、律法に従って生活しようとしていました。ファリサイ派と呼ばれる人々は特にそうでした。ファリサイ派の人々ほどではないにしても、一般のユダヤ人はみんなそう思って、日々の生活習慣を守っていました。食事の前の手の洗い方、安息日の守り方、犠牲の献げ方、お祈りの仕方や回数まで決めていました。それによって、自分は神様の御前に義人として立てる、そう信じていました。そのようなことでは神様の御前に義とされる所には至らないということを、彼らは認めることが出来ませんでした。それを認めることは、それまでの自分の歩みを否定することになるからです。変わるということは、本当に難しいことです。私共は中々変わることが出来ません。しかし、神様は変えてくださいます。ここに私共の希望があります。
5.神様に変えていただく
このように見ていきますと、異邦人もユダヤ人も「変えられる」ということが必要だということが分かると思います。異邦人は信仰による義を得るのが易しく、ユダヤ人には難しい。そういうことではないと思います。異邦人は異邦人なりの正しさというものを持ち、自分は正しい者だというプライドもあり、聖なる神様の御前に立つということを知りませんから、そこから変えられていかなければなりません。この変えられていくということは、難しいものです。また、変えられたつもりでも、自らの正しさに立とうとする心が尻尾のように付いてきます。正しいのは神様だけ。神様の御前においては、私はただの罪人。だから、誇る所など何一つない。ただイエス様だけ。そこに立ちきることです。私共の信仰は、ここに立ち続けることです。ところが、そのようにして始まった信仰の歩みが、いつの間にか、立派なキリスト者であろうとする思いに変わってくる。「立派なキリスト者」とは、このただ神様の憐れみを受けるしかない者という所に立ち続ける人のことです。ところが、ユダヤ人が自らの律法に従っていることを誇ったように、自らのキリスト者としてのありようを誇り始めるということが起きる。熱心で真面目なキリスト者ほど、この誘惑に陥りやすいものです。何度も申し上げますが、私共は神様の御前におけるただの罪人。ただ神様、イエス様の憐れみだけ。正しいのはただ神様、イエス様だけ。自分の中に誇るべき所など何一つない。そこに立ち尽くす。それだけです。
ユダヤ人も異邦人も、自分を誇るという誘惑は一緒です。どうしてかと言えば、どちらも罪人だからです。罪とは、神様の御前にへりくだらず、神様の御前に自らの正しさを誇り、自らの栄光を求めることだからです。だから、ユダヤ人も異邦人も変えられなければならないのです。ただ神様にのみ栄光があるようにと求める者へと変えられていかなければなりません。そして、この変化が私共を根本から造り変えることになります。それが神様によって為される再創造の業です。ただ神様の正しさに生きる。ただ神様の憐れみに生きる。そして、罪赦された罪人として生きる。自らの罪を知り、傲慢にならず、そして罪赦された者としての喜びと感謝をもって明るく生きる。御国に向かって生きる。それがキリスト者です。
そこでの大切な指標は、裁かない、見下さない、偉そうにしない、ということです。謙遜ということですね。イエス様は神の子でありましたけれど、人間の姿を取り、しかも十字架という罪人としての裁きを御身に受けられられました。ここに謙遜の極みがあります。私共はこの方に救われ、この方に導かれ、この方の後に従って行く。それが御国に向かって歩むということです。
6.つまずきの石=主イエス・キリスト=救いの岩
さて聖書は、ユダヤ人がイエス様を受け入れず、信仰による義に与ろうとしないのは、彼らが「つまずきの石につまずいた」からだと言います。そして、先ほどお読みいたしましたイザヤ書28章16節を引用します。33節「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」この「つまずきの石」「妨げの岩」はイエス様を指し示している。イエス様を預言している。そうパウロは受け止めたわけです。
教会では「信仰につまずく」という言葉が使われます。洗礼を受けた人が、最後まで健やかな信仰の歩みをするわけではありません。長い信仰生活の中では、色々なことがあります。ですから、つまずきの原因は多岐にわたります。しかし、その中で多いのは、教会の中での人間関係において傷ついて、つまずくということです。教会は罪人の集まりですから、人間関係において難しいことが起こるのは、不思議でも何でもありません。そして、傷つく。傷ついた人は、「あれでもキリスト者か。」と非難します。その思いは良く分かります。でも、私共は自分が傷つくことには敏感ですけれど、自分が傷つけてしまうことには大変うといものです。自分が傷ついたと思う時、自分が傷つけることは棚上げします。でも、「正しいのは神様だけ、イエス様だけ」です。勿論、そんなことは分かっているのです。「でも、この場合は違う。あの人が悪い。」そう思ってしまう。しかし、何も違いません。私共の正しさなど、本当に当てになりません。ですから、自分の正しさに固執せず、神様の御業が成ることを信じて、イエス様に倣って、神様に委ねて歩んで行きましょう。
ユダヤ人たちは、正しいのは神様だけ、イエス様だけ、という所に立てなかった。勿論、神様が正しいという所には立っているのです。でも、「私だって正しい」ということが捨てられなかった。そして、「私だって正しい」という所に立ち続けてしまった。その結果、つまずいてしまったわけです。イエス様は、すべての人にとって「つまずきの石、妨げの岩」です。この方に対して、「あなたこそ私の主、私の神。」と言えるかどうか。「あなただけが正しいお方です。」と言えるかどうか。これが言えなければ、つまずくしかありません。しかし、これが言えたならば、すべての人は「信仰よる義」を与えられ、救いに与ります。人が救いに与るかどうか、それはイエス様をどう受け止めるのか、この一点にかかっています。それは、今も昔も変わりません。この「つまずきの石」にユダヤ人はつまずいたけれど、異邦人はつまずかない。そんなことは全く言えません。すべての人にとって、イエス様はつまずきの石です。しかし、イエス様を我が主、我が神と受け入れる者にとって、この「つまずきの石、妨げの岩」は「救いの岩」となります。「これを信じる者は、失望することがない。」と告げられているとおりです。私共を救ってくださるイエス様を心から誉め讃えたいと思います。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、正しいのはただ神様、イエス様だけであることを教えてくださいました。私共はしばしば自分の正しさに固執してしまう、愚かで小さな者です。どうか、まことの謙遜を示してくださいましたイエス様に倣う者として歩んで行くことが出来ますように。自らを誇ることなく、ただあなた様の栄光を求めていく者としてください。イエス様の御足の跡に従って、御国へと歩み続けさせてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年3月6日]