日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「心で信じ、口で言い表す」
詩編 116編1~19節
ローマの信徒への手紙 10章5~13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週与えられました御言葉の最後は、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(4節)でした。主イエス・キリストによって、ただ信じるだけで義とされるという「信仰の義」「神の義」が与えられたわけですが、それは律法が目指していたものに他ならないと告げているわけです。神様は、モーセを通して「律法」をお与えになった時には律法を守ることによって義とする「律法による義」を考えていたけれど、途中で気が変わって「信仰の義」にすることにした、ということではないということです。律法は初めからキリストを目指していた。律法の目標は、それを守ることによって正しい者になって義とされるということではなかった。そのことは、律法の大本である十戒が与えられた時のことをよく考えれば分かることです。十戒の最初はこう始まります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」それから「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。…」と続いていきます。神様はイスラエルをエジプトの地から、奴隷の地から導き出した後で、シナイ山においてモーセを通してこの十戒を与えられました。十戒をまず与えて、これをきちんと実行したならばエジプトの地、奴隷の家から導き出してあげよう、と言われたのではありません。神様は十戒を与える前にイスラエルを愛してくださり、エジプトから救い出してくださいました。救い出した上で、これからはこのように生きて行きなさい、と言って十戒を与えられたのです。「この律法を守ったなら救ってあげよう。」なんて神様は言っていません。それなのに、ユダヤ人たちはそのように律法を受け取ってしまったわけです。律法を自分が救われるための条件にしてしまったわけです。条件にしてしまったものですから、律法を神様の愛の言葉としてではなく、自分に裁きをもたらす冷たい言葉として受け取り、どうすればここから1ミリも出ないで生きていけるか、そんな風に考えてしまったわけです。前回も申し上げましたけれど、律法は神様の御心を示したものですから善いものです。そして、それは何よりも神様の愛を示しています。律法は神様の愛の言葉です。詩編の詩人も、律法をそのように受け止めていました。ですから「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に密よりも甘いことでしょう。」(詩編119編103節)と歌いました。そしてこの神様の愛は、主イエス・キリストというお方によって完全に顕われました。イエス様によって律法は完全に実行され、実現され、成就されました。イエス様以外に律法を完全に行うことの出来た者は一人もおりませんでした。イエス様だけが初めて、完全に律法を実践することが出来ました。そして、イエス様というお方の存在、その言葉、その御業によって、律法は成就され、完成されました。律法が目指していたことが成し遂げられたのです。その律法が目指していたところとは、「信じる者すべてに義をもたらす」ということです。信じるすべての者に「神の義」が与えられ、神様との交わりが回復され、神様との親しい交わりに生きる者となる。罪の支配から解き放たれ、神様の御支配のもとに生きる者となる。罪の価である死によって終わるのではない、神様との永遠の交わり、永遠の命に生きる者にされるということです。
 私はキリスト者になっても、この律法の意味がよく分かりませんでした。ですから、「〇〇してはならない」と告げる律法が、正直なところ、好きになれませんでした。しかし、イエス様が律法の目標であり、愛の言葉であることが分かってから、私は律法が大好きになりました。「ありがたい言葉だ。」と受け止め、好きになりました。律法の言葉が大好きですから、私は喜んでこれに従いたいと思っています。嫌だけれども仕方がないという思いはありません。私にとって律法は、幼い時に父親がいつも家を出る時に言っていた「自動車に気をつけろよ。」という言葉に似ています。言われていた頃は、「言われなくても、気をつけるよ。」と思ったり、「毎日同じことをうるさいな。」と思ったりしていたものですけれど、今は「ありがたい言葉だった。」と思っています。もう、その父の言葉を聞くことは出来ませんけれど。愛の言葉なのです。そもそも、律法と福音は対立するものではありません。どちらも、私共を救いたいと思う神様の愛によって与えられたものだからです。

  2.御言葉はあなたの近くにある
さて、今朝与えられている御言葉は、5~8節の旧約聖書が引用されている、何を言おうとしているのかあまりよく分からないところと、9~13節の有名な箇所からなっています。私の気持ちとしては、すぐに9節以下に行きたいところですけれど、まず8節までをきちんと見ておきましょう。
 まず5節の「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」ですけれど、ここで引用されているのはレビ記18章の5節です。レビ記においてこの言葉の後に記されているのは、姦淫についての禁止事例です。具体的な近親相姦の場合がこれでもかというほどに次々と記されます。他にも色々なケースが記されます。ここを読みますと、こんなに細かく記さなくてもいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいますし、これを守るのは当たり前だろうと思ってしまいます。ここまで言われなくても、「姦淫してはならない」で十分だと私などは思うのです。逆にここまで細かく記されていると、これに記されていない場合ならいいのではと思ってしまうことも起きたりしたのだろうとも思います。いずれにせよ、「自分の義」に立とうとする人は、このレビ記18章5節のこの言葉を根拠とするでしょう。そうパウロは言っているわけです。
 一方、「信仰による義」については、申命記30章11~14節からの引用です。これはモーセが後継者ヨシュアを指名し、ネボ山に登って最後の時を迎える。その直前に全イスラエルに向けてモーセが語ったところの一部です。少し長いですがお読みします。お聞きください。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」ここでモーセは、「神様が与える律法は『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』とか、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』なんて言うには及ばない。」と言ってます。そして、「御言葉はあなたの近くにある。」と言っています。パウロは、この戒め・律法はイエス様を指しているのだと言うのです。だれかが天に昇らないとこの律法の本当の意味は分からないし、どのように適用したらよいのか分からないなんて言うな。イエス様が天から降って来られたし、イエス様は復活して後、天に昇られた。だから、イエス様に聞けば良い。申命記では「海のかなたに渡り」となっていましたが、パウロはそれを「だれが底なしの淵に下るか」、つまり、死んだ者が行く陰府に下るのかと言うな、と言い変えています。これは当然、イエス様の陰府下りを念頭に置いているわけです。既にイエス様が陰府にまで下り、復活されたではないか。だから、イエス様に聞けば良い。イエス様が近くにいてくださる。イエス様があなたの口、あなたの心にある。イエス様が律法の目標・完成なのだから、イエス様を依り頼み、イエス様に信頼すれば、律法を全うすることになる。それが信仰による義ということだ。そして、これこそが自分たちが宣べ伝えている神の言葉なのだ、とパウロは言うのです。  律法は難しい。手に入れることも、解釈することも、適応することも、実行することも難しい。天に昇らなければ、海のかなたまで行って持ってこなければならないほどだ。しかし、そんなことが誰に出来ようかと言う人もいるでしょう。いいや。誰も天に昇らなくても良い。誰も海のかなたに行かなくても良い。誰も底なしの淵に、陰府に下らなくても良い。イエス様が天から降り、天に昇られた。イエス様が陰府に下り、復活された。まことの神様の御心である神の言葉は、まことの律法は、イエス様御自身だ。だから、この方を信じ、主と受け入れ、愛し、従って行けば良い。それだけで救われる。それが、パウロたちが伝え、私共が受け継ぎ、宣べ伝えている福音です。「律法の義」に立とうとする人にとっても、掟の中の掟、律法の中の律法、律法の目標はイエス様なのだから、この方によって生きれば良い。そうパウロは言うわけです。

3.信じるのが先か、告白するのが先か
そして、大変有名な9節、10節に入って行きます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」この御言葉は大変有名です。ここで、注意深い人は「口で言い表すこと」「心で信じること」の順番が、9節と10節では逆になっていることに気付かれたでしょう。9節では、口で言い表すことが先で、心で信じるのが後になっています。しかし、10節では心で信じるのが先で、口で言い表すことが後になっています。
 これは何を意味しているかと言いますと、どちらが先で、どちらが後であるかということは、救いには関係ないということです。更に申しますならば、心で信じることと口で言い表すことは一体のことだということです。心で信じることなく口で言い表すことも意味がありませんし、口で言い表すことなく心で信じるということもないということです。いやいや、実際に心で信じていても口で言い表すことが出来ないという場合だってあるではないか。そのように思う方もおられるでしょう。その人の置かれている状況によっては、そういうことだってあるでしょう。確かに、実際の場面においては、色々な場合があると思います。しかし、心で信じるということと口で告白することは、別のことではない。そうパウロは理解しているのです。なぜなら、それを為さしめるのは聖霊なる神様だからです。聖霊なる神様が私共の心に信仰を与え、聖霊なる神様が口で言い表させるからです。このことを横に置いて、どっちが先だとか、信じるだけでは救われないのかとか、口先だけで告白するような場合はどうなのかといった議論は、意味がないということなのではないでしょうか。大切なことは、聖霊が信仰を与え、聖霊が口で告白させるということです。そして、私共がここでしっかり聞き取らなければならないことは、聖霊なる神様は何を信じさせるのか、何を告白させるのかということです。

4.心で信じて義とされ、
 まず、何を信じるのかということですが、それは「神がイエスを死者の中から復活させられた」ことです。勿論、私共がキリスト者として信じている内容は、これだけではありません。神様が天地を造られ、御支配されていること。神様は父・子・聖霊の三位一体であられること。ただ信仰によって救われるということ。イエス様の十字架の贖い。等々、いくらでも数え上げることは出来るでしょう。しかし、パウロがここで告げているのは、ただ一点です。神様がイエス様を死者の中から復活させられたということ。イエス様の復活ということです。イエス様の復活という出来事は、もっともこの世の常識と対立する、私共が受け入れがたいことでありましょう。しかし、これがキリスト教のもっとも大切な、けっして揺るがすことの出来ない、信仰の核心だということです。
 イエス様の復活というものをどう証明するのか。そう問われたならば、リンゴを落として万有引力を証明するように、すべての人が納得するようなあり方で証明することは出来ません。そう答えるしかありません。このことについて、随分若い時ですけれど、あるキリスト者である物理学者がこのように答えたことを思い出します。私はこの物理学者のこの答えに、いたく納得したのです。ある物理学者が、「あなたは物理学者なのに、どうしてイエス・キリストの復活を信じているのですか。」とジャーナリストに聞かれました。多分、その人が言いたかったのは、イエス・キリストの復活は科学的にはとても考えられないことであって、そのようなことを信じることは物理学者であるあなたの中で矛盾しないのですか、ということだったのでしょう。その時その物理学者の答えは、「n=1は科学の対象ではありません。」というものでした。n=1というのは、その現象やサンプルの数が1という意味ですが、彼が言おうとしたことは、イエス・キリストの復活というのは1回だけのことなので科学の対象にはなりません、ということだったのでしょう。科学というのは、同じ条件であれば誰が何回行っても同じ結果になる、そういう事象を観察し解明する学問です。「イエス様の復活はイエス様というお方において1回だけ起きたことですから、科学の対象にはならない。科学の対象にならないものを、科学的に矛盾していると考えることは科学的ではないですね。わたしの中では、科学者であるということとイエス様の復活を信じることは、全く矛盾しません。」そういうことだったのでしょう。若い私は、この答えに全く納得させられてしまいました。
 確かに、イエス様の復活ということは常識で考えられないことです。これを信じるということは、復活させられたイエス様も、イエス様を復活させた神様も、私の常識の外におられる方ですということを認めることです。そして、更に大切なことは、「イエス様が神様によって復活させられた」ということです。聖書は、イエス様が復活したとは記しません。翻訳の都合上「復活した」と訳されているところもありますけれど、聖書は一貫して「復活させられた」と受け身形で記します。このことは、「私も復活させていただける」ということを意味しています。イエス様は神の御子だから御自分の力で復活したということならば、私共は復活出来ません。私共は神の独り子であるイエス様とは全く違うからです。しかし、神様が復活させられたのならば、その神様の全能の御力によって、私共もまた復活させていただくことが出来る。そう信じて良いのです。

5.口で告白すれば救われる
では「口で告白する」とは、何を告白するのでしょうか。それは「イエスは主である」ということです。イエス様が私の主人ということです。私共はイエス様という主人の僕であるということです。主人なんて要らない。僕なんて嫌だ。自分の人生の主人は自分だ。多くの現代人はそう思っているのでしょう。確かに、自分に圧力をかけて自分のやりたいことも出来ない、自由にものが言えなかったり行動したりすることが出来ない、そんな主人なら嫌に決まっていますし、要りません。自由は大切です。この自由を手に入れるために、人類は長い戦いをしてきたと言っても良いほどです。そして、今もこの自由を行使出来ない人々が大勢いることも、私共は知っています。いわゆる独裁政治という政治形態の中で生活している人々は、現在、世界の人口の7割に及ぶと言われています。どこの国とは言いませんが、本当にひどいことだと思います。確かに、私共の自由を抑圧するような主人は要りません。しかし、イエス様が私の主人であるということは、私を自分の罪から解放してくださる方、私を愛し、神様が造ってくれた本来の自分の姿を取り戻してくださるお方だということです。このお方を知るまで、私共は何のために生きるのか、生きていく上で本当に大切なことが何なのか、よく分かりませんでした。しかし、この方によって私共は愛を知り、希望を知りました。損得勘定だけで生きるものではないということ知りました。イエス様の復活を信じ、イエス様を復活させられた神様を「父」と呼ぶ者としていただき、新しい命に生きる者となる。そこで「イエスは主なり」と告白することは、当たり前のことでしょう。
 新共同訳はここで「口で公に言い表す」と訳しております。しかし、口語訳・新改訳では「口で告白する」と訳されています。新共同訳が「公に」という言葉を付けたのは、「告白する」という言葉が元々、「一つ」という言葉と「言う」という言葉を繋いで出来た言葉で、「一緒に同じことを言う」ということを意味しているからだと思います。私共は毎週、礼拝の中で信仰告白をしていますけれど、その時私共は、それぞれ勝手に「自分の信仰はこういうものです。」とバラバラなことを言うわけではありません。みんなで同じ言葉を告白します。信仰を告白するということはそのように元々、みんなで一つになって告白するという意味があります。その「みんなで一つになって」ということを強調して、新共同訳では「公に」という言葉を加えて訳したのでしょう。この「公に」を加えることによって、洗礼・信仰告白を想起させるということにもなっていると思います。キリスト教信仰というものは、教会共同体を前提としています。聖書が一貫して告げているのは、「個人の救い」ということ以上に、「神の民の救い」です。心で信じるだけで口で言い表さなければ、この共同体の一員に加わらないということです。それはあり得ません。
 イエス様のことは心に秘めて信じているけれど、口で言い表すことははばかられる。日本というキリスト者が圧倒的少数者の社会においては、そういうことも起きるでしょう。しかし、それは聖霊なる神様によって力を与えられて突破していかなければならないことです。キリスト教の信仰というものは、決して「心の中」で閉じ込めておくことなど出来ないものです。例えば、この主の日の礼拝にしても、公にみんなで捧げるものです。そして、信仰の歩みというものは、みんなで歩んで行くものです。祈り合い、支え合って歩んで行くものです。御国への旅路は、孤独な歩みなどではありません。

6.主を信じる者は、だれも失望することがない
イエス様の復活を信じ、イエス様を我が主と告白する者には、「ユダヤ人とギリシア人の区別」はありません。神様の御前にあっては、その他あらゆる民族、国籍、肌の色、言葉の違いなどの区別は意味を持ちません。ですから教会は全世界に建っています。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)のです。そして、「主を信じる者は、だれも失望することがない」(11節)。これが聖書を通して与えられている神様の約束です。私共はこの約束を信頼して良いのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、救われる」との御言葉を与えてくださいました。また、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」との御言葉も与えてくださいました。私共は、心を一つにして、今、イエス様を我が主と告白し、あなた様の御名を呼び求めるものです。どうか、あなた様の救いの御手の中に私共を置いてくださり、御国に至るイエス様と共なる歩みを与えてください。あなた様の救いに与っている喜びと感謝と確信をもって歩ませてください。心で信じておりながら、まだ口で告白出来ずにいる者がおりましたなら、どうか聖霊なる神様が勇気と力を与えてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

                                                                            

[2022年3月20日]