1.はじめに
私共はレント(受難節・四旬節)の時を歩んでいます。今年のイースターは4月17日です。来週は受難週、そしてその次の主の日はイースターとなります。これからしばらくの間、私共はヨハネによる福音書におけるイエス様の十字架そして復活の場面から御言葉を受けてまいります。
イエス様の十字架への歩みの中ではっきり示されているのは、人間の罪の姿です。ここには色々な人が出てきます。今朝与えられて御言葉においても総督ピラト、兵隊たち、祭司長たち、群衆が出てきます。みんなイエス様に対して罪を犯した人たちです。キリスト者は、このイエス様の十字架への歩みの中に出てくる人たちの中に自分の姿を見てきました。私共は映画を見るように、自分は柔らかな椅子に座って、ここに出てくる人たちに対して「これじゃダメだ。」と言って済ますわけにはいきません。この出来事の中に、私共は自分の姿を見る。それはイエス様に対して、神様に対して、恐れを知らず、平気で罪を犯す者の姿です。そして、そこにあるのはこの世界の現実です。自らの罪に気付かずに聖書を読んでも、それでは聖書を読んだことになりません。聖書に示されている私の罪をしっかり見据える覚悟をもって、御言葉を受けてまいりたいと思います。
今朝与えられている御言葉は、総督ピラトによってイエス様が十字架につけられることが決められた場面です。18章の後半からピラトによる裁判は始まっていますけれど、ピラトはイエス様に何の罪も見いだせず、過越の祭の時には誰か一人を釈放する習慣になっていましたので、ピラトはイエス様を釈放することを提案します。しかし、人々は「その男ではない。バラバを」と大声で言い返します。バラバは強盗でした。そこで、ピラトはイエス様をムチで打たせます。この鞭打ちは、細く長い皮に金属や石を埋め込んだ鞭で打つもので、皮膚は裂け、骨が見えるほどに肉までも裂けてしまうほどのものでした。これだけで命を落とす者もいたほどに、むごいものでした。
2.兵士たちの侮辱
ムチ打たれたイエス様は、立つことが出来ないほどに痛めつけられ、弱られたことでしょう。兵士たちはそのイエス様の頭にイバラで編んだ冠を載せます。そして、紫の服をまとわせます。紫の布は、「皇帝紫」と言われるほどに、皇帝などの位の高い者だけが身に着ける、大変高価なものでした。勿論、この時イエス様に着せられたのは本物の皇帝紫の服ではありません。多分、ローマの兵隊たちが着ていた外套だったと思います。イバラの冠といい、ローマ兵の外套といい、兵隊たちは、「ユダヤ人の王」なら冠も紫の衣もなければと、イエス様をみじめな王の姿に仕立て上げたのです。そして、「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手でイエス様を叩きました。兵士たちは鞭打たれて弱り果てたイエス様を笑いものにして、寄ってたかって侮辱したのです。それでもユダヤ人の王なのか。そう言って侮辱したのです。イエス様はそれに対して、何もなさいませんでした。ただ黙ってこの侮辱を受け止められました。「わたしを誰だと思っている。神の子、ユダヤ人の王だぞ。お前たちは呪われよ。滅びてしまえ。」などとは言われませんでしたし、奇跡を起こす力を用いることもありませんでした。ただ、じっと兵士たちによる侮辱を受け止められました。
兵士たちのこのイエス様を侮辱する姿は、自分より弱い者を寄ってたかっていじめる者の典型的なあり方です。学校や職場でも、このようなことが行われているのでしょう。様々な差別やヘイトスピーチも同じ構造があると思います。人には弱い者をいじめることに快感を感じるという黒い感性とでも呼ぶべきものがある。しかも、自分は正しいことをしていると思い込んでいる。ヨハネによる福音書8章に記されている、あの姦淫の女が責められた時もそうでした。姦淫を犯した女が人々の前に連れ出され、みんなから辱めを受けました。あの時、イエス様だけがこの女性を辱めることなく、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。
3.釈放したかったのに
さて、このピラトによる裁判の場面を読んで、とても印象深いことは、ピラトはイエス様を十字架にかけたくないと思っていたということです。ピラトはイエス様に十字架にかけられるような罪を見いだしていませんでした。18章38節、19章4節、19章6節と、ピラトは繰り返し、「わたしはこの男に罪を見いだせない。」と言っています。また、18章39節でも19章12節でも、ピラトはイエス様を釈放しようとしています。ローマから遣わされていた総督ピラトにとっての正義は、ローマの法律に基づいて裁判をすることです。そのローマの法律に照らして、有罪とする理由がない、罪状がない、とピラトは思っていた。ところが、この裁判の結果は、ピラトによってイエス様に対して十字架刑の判決が下され、イエス様は十字架につけられることになってしまった。理由は、イエス様を訴えてきた祭司長たちに脅されたからです。祭司長たちがピラトを脅したと聖書ははっきり記しているわけではありません。しかし、12節にあるように、イエス様を釈放しようとするピラトに対して、祭司長たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」と言うのです。つまり、イエス様は「ユダヤ人の王」と称しているが、これは国家反逆罪だ、と祭司長たちは言っているわけです。勿論、イエス様の国はこの世の国ではありません。18章36節で、イエス様は「わたしの国は、この世には属していない。」とはっきり告げています。ピラトはこの言葉を聞いて、「ユダヤ人の王」という言葉は宗教的な意味であることを理解しました。ローマは、支配している人々の宗教の中身に立ち入らないことが、うまく支配していく秘訣であることを知っていました。宗教的対立では、どちらの味方についても、ローマは敵を作ることになります。ですから、このような問題には関わらない。それがローマの知恵でした。ですから、ピラトはイエス様を釈放しようと考えた。ところが、祭司長たちは「ユダヤ人の王」という言葉を政治的な言葉として利用し、国家反逆罪を適用させようとしました。そして、ピラトに対して、「そうしなければローマの皇帝に言いますよ。」そのように言外に匂わせて、ピラトを脅したのです。ピラトはローマ帝国の官僚です。そんなことをローマに告げ口されたならば、自分の立場は危うくなります。更には、群衆がイエス様を「十字架につけろ。十字架につけろ。」(6節)、また「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」(15節)と叫ぶ。このままイエス様を釈放したら暴動になりかねない。ローマから遣わされている総督として、ピラトは暴動が一番困るわけです。それによって、総督としての統治能力がないとローマに評価されてしまうからです。
そうしてピラトは、総督でありながら自分の思うところを為すことが出来ず、したくもない決断をさせられた。ピラトは面白くなかったと思います。しかもその結果、二千年経っても、全世界中で主の日のたびごとに使徒信条は告白され、その中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ…」と何十億人という人々に言われ続けているわけです。私共が毎週の礼拝の中で告白している使徒信条において、個人名が出てくるのはイエス様とイエス様の母マリアとこのポンテオ・ピラトの三人だけです。ポンテオ・ピラトはイエス様を十字架に架けた張本人で、まるで罪人の代表のようにみんなに思われています。しかし、ヨハネによる福音書が記しているピラトは、イエス様を十字架に架けるために積極的に働いたことは全くありません。彼は脅されて、仕方なくそのような判決を出しただけです。ピラトは貧乏くじを引かされたとも言えるかもしれません。
では、ここに記されているピラトの罪は何なのでしょう。それは正しいことを貫けなかったという弱さです。もっと言えば、自分の立場を守るために、目の前の一つの命を見捨てたということです。この後、ピラトがこの裁判の責任を取らされて左遷されたということはありません。ですから、彼は総督としてうまくやったのです。しかし聖書は、それは罪だと明示しています。自己保身というのは、ほとんど本能のようなものなのかもしれません。日本では「長いものには巻かれろ」と言われます。しかし、神様の御前に立つということは、長いものに巻かれているだけではダメなのです。その弱さを乗り越えて、神様に力をいただいて、神様の御心に従って歩むということです。ただ、ここで注意しなければならないことは、私共の考える正しさはしばしば間違うことがあるということです。このことも忘れてはいけません。そして、間違っていたと知ったならば、赦しを求めてやり直したら良い。もっとも、このやり直すということは正しさを貫くことよりも大きな勇気と強さが必要なのでけれど。違いに気付いても、今まで同じように「正しい」と言い続けた方がずっと楽ですから。
4.群衆
ピラトはイエス様を裁判の席に着かせて、ユダヤ人たちを前に「見よ、あなたたちの王だ。」と告げます。すると人々は「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」と叫びました。「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」とは、とんでない言葉です。冷静に物事を判断することが出来る人間の叫ぶ言葉ではありません。これを叫んだ人たちは、この時まともな状態ではなかった。熱狂の渦に巻き込まれて、彼らは叫んだ。聖書には1回叫んだように記されていますけれど、実際にはこの言葉がシュプレヒコールのように、何度も何度も叫ばれたに違いないと思います。この時、マルコによる福音書によるならば、祭司長たちが群衆を扇動したと記されています(15章11節)。現代の言葉で言えば、情報統制、情報コントロールです。現実はいつも中々複雑です。対立が起きれば、どっちの言っていることが正しいのか、簡単に判断出来るものではありません。離婚訴訟など、その典型でしょう。両者の言うことは正反対です。しかし、一方の情報だけを知らされると、恐ろしいことですが、人は簡単に一方を悪者にし、一方を良い人にする。現在、ロシアがウクライナに攻め込むという、とんでもない事態が起きているわけですけれど、一方の情報だけを知らされれば、ロシアにしてもウクライナにしても、自分が正しいと思い込む。勿論、軍事侵攻をしたのはロシアですから、ロシアが悪いのは言うまでもありません。
では、この時のユダヤ人たちの罪は何なのでしょうか。騙されたことでしょうか。それもあるでしょう。彼らが、イエス様が為された奇跡の話や神殿で語られた言葉を全く知らなかったとは考えられないからです。でも、彼らは祭司長たちに煽動されてしまった。どうしてでしょう。私はこう考えています。彼らはローマに支配されているのが嫌だった。本当に嫌だった。だから、ローマから遣わされている総督ピラトの言うことなんて聞きたくなかった。だから、煽動に乗った。自分から進んで乗った。イエス様が本当は誰であるのか、そんなことは彼らにはどうでも良かった。心の底にある、ローマによって支配されている屈辱感、またそこから生み出される怒りや憎しみ。この負のエネルギーは、とても大きいものです。人間を動かすのは、善意よりも、この怒りや憎しみの方が大きいかもしれません。彼らはそれに支配されてしまったのです。
私は、この「集団的熱狂」というものを生理的に受け付けないと言いますか、嫌悪するところがあります。育った世代も関係しているのかもしれません。60年代から70年代にかけて、日本では大学紛争という熱狂が席巻していました。私はそれより少し後の世代です。その熱狂の行き着いた先は、凄惨な内ゲバであり、内部粛清でした。典型的な事件が浅間山荘事件です。私の世代は、それを見た世代です。あれは怒りや憎しみが正義の衣をまとった結果だと思っています。そこに愛はなかった。神様がいなかった。愛もなく、神様もおられないところに本当の正義は立ちません。愛の正義、まことの正義は十字架と共にあります。
5.祭司長たち
さて、イエス様の逮捕から十字架に至るまで、これを計画し、実行した人たち。それが祭司長たちでした。彼らの罪は明らかです。自分たちの、神殿を中心とした宗教的権威を守るために、それをないがしろにするイエス様を排除したかった。この根底にあるのは、ピラトと一緒です。自分の立場を守りたかった。彼らは当時のユダヤ社会の指導者であり、自分たちが築き上げた秩序を脅かす者は排除されなければならない。彼らにとって、それが正義でした。社会を指導し、支配する者がそう考えるのは、何時の時代でも同じです。
しかし、彼らには決定的な罪がありました。それは、神様を利用したという罪です。彼らは宗教者でした。ですから、彼らの言動は信仰によって貫かれていなければならないはずです。しかし、そうではありませんでした。その決定的な言葉が、15節にあります。「ビラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」この祭司長たちの言葉。これは神の民が決して言ってはならない言葉でした。勿論、この世の王としてローマ皇帝を認める。それは何の問題もありません。しかし、旧約以来、神の民であるイスラエルの本当の王は神様です。神の民の王は神様です。この時祭司長たちが「皇帝のほかに王はいない」と言ったということは、自分たちの王が神様であることをはっきり否定してしまったということです。イエス様がユダヤ人の王であるということは、イエス様が神様であることを示す言葉でした。そんなことは祭司長たちには分かりきったことです。だから、祭司長たちはイエス様を赦せなかった。排除しなければならないと考えた。しかし、イエス様がユダヤ人の王であるという言葉が宗教的言葉であるならば、イエス様をローマの法律で裁くことは出来ません。それで彼らは、そうではないと知っていたけれども、イエス様が反乱を計画しているユダヤ人の王と自称する者だとしてピラトに訴えたのです。その結果、信仰的、宗教的、まことの王としての神様を否定し、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」と宣言したのです。祭司長たちは、そんなつもりではなかったのかもしれません。しかし、神の民であるユダヤ人のまことの王である神様を利用し、そして神様との関係を否定してしまった。これこそ、神様を侮ること以外の何ものでもありませんでした。神様は人間に利用されるようなお方ではありませんし、そのようなことを神の民は決してしてはならない。けれど、してしまった。
6.神様によって
今、イエス様が十字架に架けられることになった時に関わった、兵士、ピラト、群衆、祭司長たちを見て来ました。彼らの中に、イエス様の十字架に対して自分は無関係であったと言える者はおりません。しかし、ここでもう一歩踏み込んで、どうしてイエス様は十字架にお架かりになったのか、イエス様を十字架に架けたのは本当は誰なのか、そのことを確認したいと思います。それは、イエス様の沈黙が物語っていることです。イエス様は兵士たちに侮辱されても、ピラトの前に引き出されても、群衆に「十字架につけろ。」と叫ばれても、祭司長たちの策略にはめられても、何の抗議もせず、それを受け入れ、十字架へと歩まれました。それはイエス様が、御自分を十字架に架けるのは神様であることを知っていたからです。ですから、周りの者たちがイエス様を十字架に架けようと躍起になって騒いでいるにもかかわらず、イエス様はそれに抗議するでもなく、ただ受け入れておられた。それは、自分を十字架に架けようと騒いでいる人たち、或いは自分の立場を守ろうと躍起になっている人たち、この人たちのために自分は十字架に架かる。この人たちの罪が赦され、神様との健やかな交わりに生きる者となるために、神の子・神の民としての新しい命に生きることが出来るようになるために、わたしは十字に架かる。そのために天から降ってきた。イエス様はこのことを、神様の御心として受け止めておられたのです。
7.すべての者が赦される
イエス様が十字架に架けられることになった時に関わった、兵士、ピラト、群衆、祭司長たち。彼らはイエス様が誰であるか知りませんでした。知らなかったから、こんなことをしたのでしょう。そして知らなかったから、イエス様に赦しを求めることもありませんでした。しかし、私共はイエス様が誰であるか知っています。そして、彼らの中に私共は自分の姿を見ます。兵士はひどい。ピラトは弱い。群衆は愚かだ。祭司長たちはそれでも神の民の指導者か。自分のことを棚に上げてそのように批判出来る者は、ここにはおりません。もし私があの時の兵士であったなら、どうしていただろうか。もし私があの時のピラトであったなら、どのような判決を下しただろうか。もし私があの時の群衆の一人であったなら、煽動されることはなかっただろうか。そしてあの時の祭司長たちであったならば、どうしたであろうか。私共はたいていの時、自分がそのような者であることを忘れて生きています。しかし、私共は神様を侮り、弱い者をいじめ、支配し、自分を守るためには嘘もつくような者であり、実際そのような歩みをしてきました。今、このように御言葉をもって示される時、私共はそのような者だと認めないわけにはいきません。そしてそれを認めるならば、私共はイエス様の御前に赦しを乞わなければなりません。イエス様は赦しを求める私共に、「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」と告げてくださいます。私の罪はイエス様の十字架によって、既に裁かれているからです。イエス様の義が私共に与えられたからです。
私共は今から聖餐に与ります。このイエス様の体と血潮に与る聖餐は、このイエス様の救いの恵みが確かに私共に与えられていることを確認し、受け取る時です。私共が自らの罪を知り、イエス様に赦しを求めるならば、誰であっても、どんな罪であっても赦されます。ですから、私共は大胆に自らの罪を認め、神様に赦しを求め、与えられた罪の赦しの中で、健やかに神様と人とを愛し、神と人とに仕える者として歩んでまいりたいと思います。それが、自らの罪を知った私共の新しい歩みだからです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉を通して、罪人としての私共の姿を示してくださいました。そして、悔い改めて、イエス様の赦しに与り、新しくここから歩み出していくようにと勧められました。どうかあなた様の憐れみの中で、私共をあなた様の子・僕として相応しい者にしてください。主なる神様、世界は怒りと嘆き、憎しみと悲しみに覆われています。どうか、主よ憐れんでください。誉め讃えられるべき方は、ただあなた様だけです。あなた様を誉め讃えるために、私共の口を開かせてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年4月3日]