1.はじめに
今日から受難週に入ります。今日は伝統的には「棕櫚の主日」と呼ばれます。人々が棕櫚の枝を持ってイエス様を歓迎し、イエス様がエルサレムに入城された日です。イエス様はこの日から5日後の金曜日に十字架にお架かりになりました。今日の棕櫚の主日から始まる一週間は受難週と呼ばれます。週報にありますように、今週は火・水・木に、昼と夜2回づつ受難週祈祷会が守られます。信徒の方々の奨励もあります。今回は家からでもリモートで参加出来るようにしますので、ぜひご参加ください。次の主の日にはイースター記念礼拝を捧げます。今日はイースターの前の主の日ということで、ヨハネによる福音書におけるイエス様の十字架の場面から御言葉を受けてまいります。
先週は、総督ピラトがイエス様を十字架に架けることを決めた場面から御言葉を受けました。そこでイエス様の十字架に関わった人々に、私共は自分自身の姿が重なっていることを知らされました。イエス様を十字架に架けたのは特別に悪い人間たちというわけではなく、どこにでもいる普通の人たちでした。兵士たちもピラトも群衆も祭司長たちも、私共がもし同じ立場に立たされたのならば、私共も同じことをするかもしれない、そんな人たちでした。だから、彼らの罪は軽いと言いたいのではありません。逆です。私共の罪は、イエス様を十字架に架けてしまうような恐ろしいものなのだということです。自らの罪の恐ろしさを、私共はきちんと受け止めなければなりません。
しかし、その上でなお、本当にイエス様を十字架にお架けになったのは、父なる神様御自身であったということも知らされました。もし、神様がイエス様の十字架による死を計画し、そしてそれを神様の御心であるとイエス様が受け入れることがなかったならば、イエス様が十字架の上でこのようなあり方で死ぬことはなかったでしょう。イエス様が神の御子としての力を用いたならば、おとなしく十字架の上で殺されることなどあり得なかった。しかし、イエス様は粛々と十字架に架かられ、死なれました。それは、父なる神様と子なるキリストであるイエス様が、この点において全く同意しておられたからです。父なる神様とイエス様の心は一つでした。人間の目から見れば、イエス様は祭司長たちの策略によって十字架に架けられたということなのですけれど、それは聖書が本当に告げたいことではありません。それは、この十字架の場面においてもはっきり現れています。
2.神様の御心としての十字架(1)預言の成就
イエス様の十字架が神様の御心による出来事であるとは、まずイエス様が十字架に架けられて死んでいかれる姿が、旧約において既に預言されていたことだったということに示されています。
たとえば、イエス様が十字架に架けられたとき、その下では兵士たちがイエス様の服をくじ引きにして分け合っていました。イエス様は十字架の上で苦しまれているのは自分たちのためなのに、そんなことは全くお構いなしに、自分の目の前の損得、イエス様の服のどの部分を自分ものにすることが出来るかということに躍起になっている。これも人間のあさましさを示していますけれど、この出来事そのものが旧約で預言されています。詩編22編18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とある通りです。
また、ヨハネによる福音書にはあまり記されておりませんが、他の福音書では十字架に架けられたイエス様を人々が口々に罵ったことが記されています。これも詩編22編8~9節で預言されています。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」とあるとおりです。これは十字架に架けられたイエス様に浴びせられた罵りの言葉そのものです。
そして、今朝の御言葉の19章28節において、イエス様は十字架の上で「渇く」と言われたと記されています。これも詩編22編16節に「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」と記されています。イエス様は十字架に架けられ、釘を打たれた手と足から血が流れ出して、体から水分が流れ出ていくわけですから、渇くのは当然です。しかし、それだけではなく、イエス様はこの時「神様に捨てられる」「罪人として裁かれる」ということを味わっておられました。天地が造られる前から一つであられた父なる神様と子なるキリストが引き裂かれる。この時のイエス様の父なる神様に対しての渇き、霊的な渇きはいかほどであったことでしょう。
このように、詩編22編においてイエス様の十字架の出来事は預言されており、イエス様は詩編22編で預言されていたことをなぞるようにして、十字架にお架かりになりました。また、先ほどお読みしましたイザヤ書53章も、イエス様の十字架を預言している代表的なものです。この箇所の朗読を聞くだけで、これはイエス様の十字架の意味をはっきり示している、イエス様の十字架のあの場面のことだ、そう私共は受け止めたと思います。この時、イエス様の十字架が旧約の預言の成就であるなどとは、律法学者も祭司長たちも考えてもみなかったことでした。しかし、確かにイエス様の十字架は旧約に預言されており、これはイエス様の十字架が神様の御心による出来事であることの確かな証しなのです。
3.神様の御心としての十字架(2)ピラトの役割
第二に、イエス様の十字架が神様の御業であることの証拠は、総督ピラトの存在です。彼はそんなことは全く意識していなかったでしょうけれど、彼の為すこと、語ることがことごとく神様の御心に適う真実を示すことになっているということです。
先週も見たことですが、ピラトはイエス様には「何の罪も見いだせない。」と何度も明言しています。更に彼はイエス様を釈放しようとさえしました。当然のことですが、イエス様は十字架に架けられるような罪は何も犯しておりません。イエス様が無実の罪によって十字架に架けられることを、これほどはっきり示したのはピラトだけでした。ピラトはイエス様の十字架が、御自らの罪の故ではないということをはっきりと告げたのです。
そして、今日の御言葉において記されている、十字架のイエス様の頭の上に取り付けられた「罪状書き」です。これはピラトが付けさせたものです。ここにピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記させました。しかも、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で記させます。祭司長たちは、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書き換えてくれるようにピラトに申し出ましたけれど、ピラトは「書いたままにしておけ。」と言って、祭司長たちの言い分を放っておきました。ピラトにしてみれば、祭司長たちに対しての当てつけ、嫌がらせ、そんな思いがあったのかもしれません。自分は釈放したいと思っていた男を、無実と知っていながら十字架に架けるように祭司長たちに脅され、仕向けられたことへの腹いせという思いもあったでしょう。ピラトはイエス様が本当に政治的な意味でも、宗教的な意味でも、「ユダヤ人の王」だとは思っていなかったでしょう。しかし、祭司長たちがイエス様を訴えてきた罪状は、イエス様が「ユダヤ人の王」だと言っているということでした。それで、ピラトは「お前たちがそんなにこの男を殺したいなら、そうしてやろう。十字架に架けよう。お前たちは、自分たちの王、『ユダヤ人の王』を殺すんだ。わたしは知らない。お前たちがしたことだ。」そんな感じではなかったかと思います。しかし、この罪状書きこそ、十字架に架けられたイエス様が本当は誰であるかをはっきりと示すことになりました。イエス様はまことのユダヤ人の王、つまりまことの神であられるということです。その後、十字架のイエス様が描かれるときには、イエス様の頭の上にラテン語のイエス(Iesus)、ナザレ人(Nazarenus)、王(Rex)、ユダヤ人の(Iudeorum)、の頭文字をとった「INRI」という4文字が罪状書きとして記されるようになりました。この罪状書きは、この時ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれました。ヘブライ語というのは、エルサレムの人々、ユダヤ人が分かるようにということ。そして、ラテン語・ギリシャ語というのは、当時のローマ帝国を中心とした全世界の人たちに向かって、十字架につけられたイエス様こそユダヤ人の王、つまり「まことの神」であることを宣言したということになりました。
更に言えば、ピラトは死刑囚であったバラバを祭りの恩赦によって釈放しました。ピラトはイエス様を釈放したかったわけですけれども、群衆の反対でそれも出来ず、バラバを釈放しました。その結果、バラバの代わりにイエス様が十字架に架けられて死ぬことになったのです。
ピラトはそんなつもりは全くなかったでしょう。しかし、彼の言葉と行為とは、イエス様が誰であり、イエス様の十字架が何であるのか、そのことを指し示すことになってしまいました。イエス様の十字架が、神様の御心の中での出来事であったことがここに現れてると私には思えます。意図せずに神様に用いられたという点では、祭司長たちもそうだったでしょう。自分たちの目の上のたんこぶを亡き者にしようという策略を立て、実行したのは彼らでした。けれども、それが神様の救いの御業の完成に用いられてしまった。そんなことは夢にも思っていなかったでしょう。しかし、そうなりました。神様の御業は、神様の御心は、人間のどんな罪深い業によっても頓挫させられることなく、人間の思いを超えて、その罪深い業さえ用いて前進していきます。だから、私共は希望を失わない。神様の救いの御業は確実に前進していくからです。
このように申しますと、今のウクライナの状況に、神様のどんな御心があるのかと問われるかもしれません。それは私には分かりません。しかし、ウクライナの国歌はこう歌っています。「ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず。若き兄弟たちよ、我らに運命はいずれ微笑むだろう。我らが敵は日の前の露のごとく亡びるだろう。兄弟たちよ、我らは我らの地を治めよう。」このような歌詞が国歌として歌われるということは、この国には本当に厳しい歴史があったということをうかがわせます。しかし、「ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず」と歌う。それは決して希望を失わないということです。彼らは東方教会のキリスト者です。それ故、決して希望を失わない。ウクライナの人々も、神様に愛されている人たちだからです。
4.神様の御心としての十字架(3)成し遂げられた
もう一つ、イエス様の十字架が神様の御心によるものであることを示しているのは、イエス様が十字架の上で告げられた言葉です。今朝与えられている御言葉において、イエス様は息を引き取られる前に、十字架の上で「成し遂げられた。」と言われました。この言葉は直訳すれば「終わった」となります。しかし、この「終わった」という言葉には「目的が達成された」「完成した」というニュアンスがあります。「時間がないから、途中だけれどもこれでもう終わり」という「終わった」ではありません。ですから、新共同訳は「成し遂げられた」と訳しました。何が成し遂げられたのでしょうか。何が終わったのでしょうか。それは、イエス様が為すべき神様の救いの御業です。神の御子としての、キリストしての為すべきことです。そのすべてが、この十字架の死によって終わった、完成した、成し遂げられたということです。イエス様は、この十字架の死が神様の御心であることをはっきり自覚し、受け止められていた。ですから、この言葉を息を引き取る前に告げられたのです。
ここで、「神様の救いの御業は、十字架では終わらない。復活へと続くではないか。なのに、どうしてイエス様は十字架の死で『終わった』『成し遂げられた』と告げられたのか。まだ復活があるだろう。」そのように思う方もおられるかもしれません。確かに神様の救いの御業は十字架では終わりません。しかし復活は、父なる神様の御業であって、まことの人であるイエス様の御業ではありません。イエス様は、十字架の死をもって、御自分が果たすべきことはすべて成し遂げ、終わられたのです。この「我が愛する独り子」であるイエス様の十字架の死を、父なる神様はしっかり受け止められました。そして、イエス様を三日目に死人の中から復活させられたのです。
5.イエス様が成し遂げられたこと(1)三本の十字架・バラバ
それでは、イエス様が十字架において成し遂げられたことは、何だったのか。それはイエス様の十字架が三本の十字架の真ん中に立てられたことによって示されています。第一にそれは、イエス様は十字架に架けられるような重い罪を犯した者と一緒に裁かれ、死んだということです。つまり、どんな重い罪を犯した者であっても、イエス様は文字通り死ぬまで共におられ、同じ苦しみ、同じ痛みを味わわれたということです。イエス様が私共罪人と共におられるということは、ここまで徹底したものだということです。イエス様が共におられるということを、苦しみの中で、嘆きの中で、私共はしばしば忘れてしまいます。たとえそうであっても、イエス様はそのような時も私共と共におられ、共に苦しみ、嘆いておられます。その事実は、少しも揺らぐことはありません。
第二に、イエス様は十字架に架けられるような罪を何一つ犯していないのですから、この十字架の死は御自分のためではなく、本来十字架に架けられて裁かれ、死ぬべき者の身代わりであったということです。イエス様は、本来十字架に架けられて裁かれ、死ぬべき者のために、その者に代わって裁かれ、死なれた。そして、その本来、十字架に架けられて裁かれ、死ぬべき者とは、この私であるということです。イエス様はまことの神の御子であるが故に、すべての人の身代わりとなることがお出来になりました。ただの人間であったならば、すべての人の身代わりになることなど出来ません。
この時、イエス様が十字架に架けられなかったのならば、確実に十字架に架けられて死んだはずの者がいました。それがバラバです。バラバは釈放されました。そして、イエス様が十字架に架けられた。このバラバこそ、私共自身に他なりません。バラバは釈放されました。自由になった。彼は強盗の罪で捕らえられていた人でした。釈放された後、彼はまた強盗に戻ったのでしょうか。それとも悔い改めて新しくされたのでしょうか。それは分かりません。ただ、彼は自分が死刑になる直前に思いがけず釈放され、そして、その代わりにイエスという男が十字架に架けられて死んだということは、聞かされたことでしょう。それをどう受け止めて、どのように生きるのか。それはバラバの責任です。私共は、このバラバと同じ責任を神様の御前に負っているのです。
6.イエス様が成し遂げられたこと(2)イエス様の兄弟とされた者の群れ:教会
最後にヨハネによる福音書だけが語る、イエス様が十字架上で母と愛する弟子に向けて語られた言葉を見て終わりましょう。この場面は、他の福音書には記されておりません。他の福音書では、女性の弟子たちはイエス様の十字架から遠く離れたところで見ていましたし、使徒たちは逃げてしまってイエス様の十字架の場面では姿を見せませんでした。しかし、ヨハネによる福音書では、十字架の上から母と愛する弟子に向かって、イエス様が直接言葉をかけておられます。十字架のそんな近くに行くことが出来たのだろうかとも思います。けれど、他の福音書とこのヨハネによる福音書のどっちが本当なのかと詮索しても、あまり意味がありません。それよりも、ヨハネによる福音書はここで何を伝えようとしたか、そのことを受け止めることが大切でしょう。
26節でイエス様は母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と告げました。そして、弟子に対しては「見なさい。あなたの母です。」と告げました。この言葉をどう受け止めるかです。ローマ・カトリック教会は、この言葉によって、マリアはイエス様の弟子たちの母となったと理解します。ですから、「マリア様が大切だ」となるわけです。しかし、本当にそうでしょうか。ここで「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われた弟子は「愛する弟子」と記されています。これはヨハネによる福音書にだけ出てくる弟子です。この弟子が誰であったのか、昔から色々考えられてきました。一番伝統的で、また単純な理解は「使徒ヨハネ」であるというものです。しかし、最近ではこの「愛する弟子」を使徒ヨハネと特定する読み方が妥当であるとは考えられていません。そうではなくて、これは特定の個人を指すものではなく、ヨハネの影響を受けたキリスト者たち全体を指し、ヨハネによる福音書はこの「愛する弟子」を色々な所で登場させることによって、ヨハネの影響を受けたキリスト者の代表として描いているという理解です。そうすると、この母もマリアという個人を指している訳ではないのではないか。他の女性たちには「マリア」と名前を記していますけれど、イエス様の母に対してはマリアという名前を記さず、ただ「母」とだけ記しています。それはこの「母」という言葉が、すべてのキリスト者が持つようになる母、つまり「母なる教会」を指している。母なる教会に繋がるすべてのキリスト者は、イエス様と同じ母を持つ者、つまりイエス様の兄弟となる。そのことをしっかり受け止めなさい。そうイエス様は十字架の上で死なれる間際に言われた。御自身が死んだ後、弟子たちが形作っていくキリストの教会、母なる教会をしっかり形作っていくようにという遺言として、イエス様は弟子たちにお告げになったということなのではないでしょうか。私共もこのイエス様の言葉をしっかり受けとめて、イエス様に愛された弟子として、母なる教会に繋がり、共に仕えてまいりたいと願うのです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉によって私共に、イエス様の十字架が私のためであったことを教えてくださいました。愛する独り子を十字架にお架けになってまで、私共の罪を赦してくださり、あなた様を父と呼び、あなた様との親しい交わりに生きる者としてくださった幸いを、心から感謝いたします。どんな時でも、イエス様は私共と共にいてくださいます。ですから、私共から希望が失われることはありません。どうか、このイエス様の十字架を心に刻み、イエス様の御体である母なる教会に連なり、あなた様の救いの御業、愛の業に喜んで仕えていくことが出来ますよう、私共を守り、支え、導いてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年4月10日]