日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「聖霊を受けなさい」
創世記 2章4~8節
ヨハネによる福音書 20章19~23節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今年は4月17日(日)に、私共はイエス様の御復活を覚えてイースター記念礼拝を捧げました。その少し前から、私共はヨハネによる福音書のイエス様の十字架の場面から御言葉を受けてまいりました。これからペンテコステまでの間、ヨハネによる福音書が記している、復活されたイエス様のことを記しているところから御言葉を受けていきたいと思っています。
 ヨハネによる福音書は、四つある福音書の中でも他の三つの福音書、マタイ・マルコ・ルカとはかなり趣が異なります。それはヨハネによる福音書と他の福音書を読み比べてみればすぐに分かります。ヨハネによる福音書には、イエス様がなさった奇跡は少ししか記されていません。けれども、イエス様の言葉は長い説教としてたくさん記されています。しかも、そこにはヨハネによる福音書の独特な表現がたくさんあります。ヨハネ以外の三つの福音書は、基本的には時系列的にイエス様のなさったこと、お語りになったことを記しています。この三つの福音書はそれぞれ微妙な書き方の違いはあるにしても、イエス様のなさったこと、言われたことを順番に記そうとしている点では共通しています。記されていることも、重なっているもの、共通しているものが大半です。それで、昔からこの三つの福音書は共通の「共」という字と、美術品を観賞するという場合に使う「観る」という字を使って、「共観福音書」と言われます。しかし、ヨハネによる福音書は、他の三つの福音書とは全くと言って良いほどに書き方が違います。それはこういう理由からだろうと思われます。ヨハネによる福音書は、他の福音書よりも10年~20年、学者によっては30年くらい後に記されたと考えられています。ですから、ヨハネによる福音書を記した人は、他の三つの福音書を知っています。ということは、同じようにイエス様のなさったこと、言われたことを順番に記すというだけならば、新しく福音書を記す必要はありませんでした。ヨハネによる福音書は、他の三つ福音書とは違う書き方をすることによって、もっとはっきりと、イエス様とは誰なのか、イエス様のなさったことはどういう意味があるのか、イエス様に救われるとはどういうことなのかといったことを、示そうとした。そして、イエス様に救われた者の集いであるキリストの教会とは何なのか、そこに生きるキリスト者とはどのような恵みに与っているのか、そのことをイエス様の言葉、なさったことを用いてはっきり示そうとしているのだと思います。

2.復活の体
 今朝与えられたヨハネによる福音書20章19節以下は、イエス様が復活された日の夕方、復活されたイエス様が弟子たちが集まっている所に現れた時の出来事が記されています。この日の朝、復活されたイエス様は、空になったイエス様の墓の前で泣いていたマグダラのマリアに声を掛け、その御姿を現されました。そして、その日の夕方です。弟子たちは集まっていました。ヨハネはそのことをはっきりとこう記しています。19節「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」マグダラのマリアから、イエス様の墓が空であったこと、復活されたイエス様と出会ったことの報告は受けていたはずです。しかし、弟子たちがマグダラのマリアの言葉を聞いて、イエス様の復活をこの時信じていたかといえば、そうは言えないでしょう。この時、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」いました。イエス様が十字架に架けられて殺された。次はイエス様の弟子である自分たちも捕まるのではないか。そして、自分たちも十字架に架けられてしまうのではないか。弟子たちはユダヤ人を恐れていた。それで「家の戸に鍵をかけていた」のです。
 ところが、復活のイエス様は鍵などものともせずに、家の中に入ってこられました。これはどういうことでしょう。イエス様は鍵を開ける名人だったという話ではないでしょう。復活されたイエス様の体は、タンパク質で出来た私共の今のこの体と同じではなかったということではないでしょうか。どういう体だったのか、それは分かりません。それは「復活の体」とでも言うべきものです。私共は「復活」というと、死んだ者が同じその体で生き返るということを考えがちですけれど、そうではないのだと思います。タンパク質で出来たこの体は「朽ちる体」であって、これでは永遠の命に対応することは出来ません。永遠の命、復活の命に対応する体、それは「復活の体」と言うべき体であり、その体をもって私共は復活する。私共の復活は、このイエス様の御復活の体と同じものを与えられて復活するということです。イエス様が復活されたように、私共も復活する。私共の復活は、このイエス様の御復活と重ね合わせて受け止められなければなりません。イエス様の御復活と無関係に自分の復活を考えることは無理がありますし、聖書が告げていることではありません。  こう考えますと、イエス様の墓に蓋をしてあった岩が横に取りのけてあったというのも、復活されたイエス様が墓から出るのに邪魔だったから取りのけたというのではなくて、墓が空であることを弟子たちに見せるためであったと考えるベきなのでしょう。復活されたイエス様にとって、墓から出るためにその岩は少しも邪魔にはならなかったはずだからです。

3.平和があるように
 復活されたイエス様は集まっていた弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように。」と告げられました。この言葉は重要です。復活されたイエス様を目の当たりにした弟子たちは、すぐに喜べたかと言いますと、そうではなかったと思います。と言いますのは、ペトロはイエス様を三度知らないと言ってしまいましたし、他の弟子たちもイエス様を見捨てて、みんな逃げてしまったからです。それは現在の日にちの数え方では木曜日の夜のこと、一日が日没から始まる当時の一日の数え方では金曜日の夜です。イエス様を裏切った弟子たちは、復活されたイエス様に出会ったらそのことを責められるのではないか、裁かれるのではないか。そんな不安が真っ先に彼らの頭をよぎったのではないかと思うのです。しかし、目の前に現れた復活されたイエス様の顔には、弟子たちを責めたり、怨んだり、憎んだり、怒ったりする様子は微塵もなかった。底抜けに明るい顔で「あなたがたに平和があるように。」と言われた。そして、「手とわき腹とをお見せになった」。これは、勿論、十字架に架けられたときの釘の跡、そして槍で貫かれた跡を見せたということです。もし、少しでも責めるような表情があって、手とわき腹を見せられたら、ゾッとするほど恐ろしい場面となります。しかしそうではありませんでした。もしイエス様がこの時、怒りに満ちた顔だったら、復活のイエス様に出会っても弟子たちは卒倒するほど恐ろしかったでしょう。聖書にはこの時のイエス様の表情は記されていませんけれど、この時イエス様の表情は満面の笑みであったに違いありません。その表情は「あなたがたに平和があるように」という言葉と一つになって、「あなたがたはわたしを裏切った。わたしは十字架に架けられて、確かに死んだ。しかし、それがどうしたというのだ。わたしはこのように復活した。だから、何も心配しなくてもよい。わたしはキリスト、神の御子。わたしはあなたを赦す。わたしはあなたを愛している。だから、何も心配することはない。」そういうメッセージとなって、弟子たちに伝わったのです。だから、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」のです。

4.派遣
 そして、復活されたイエス様は弟子たちを派遣します。21節「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」とイエス様は言われました。復活されたイエス様は、弟子たちを遣わされました。マタイによる福音書には、復活のイエス様がガリラヤにおいて11人の弟子たちに出会い、伝道を命じられたことが記されていますが、それと同じことです。マタイによる福音書では、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイによる福音書28章18~20節)と言われました。このイエス様の御命令と同じことを、ヨハネによる福音書は告げているのでしょう。そして、この復活のイエス様に派遣されることによって、弟子たちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えました。そして、それは今も続いています。これは、代々の聖徒たちはこのイエス様の「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」という言葉を、自分に告げられた言葉として聞き続けてきたということです。イエス様に遣わされて福音を宣べ伝えるということは、復活のイエス様に直接会ったこの11人の弟子たちだけに起きたことではなくて、復活のイエス様に出会ったすべての弟子たちに起き続けてきたし、今も起き続けているということです。それは実に、イエス様が聖霊なる神様として、代々の聖徒に語りかけ、そして私共に語りかけ続けておられるということです。復活のイエス様を信じる者にされたということは、このイエス様の派遣命令を、自分に告げられた言葉として聞き取る者にされたということです。
 イエス様は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。イエス様が神様に遣わされたことと、イエス様が弟子たちを遣わされたこととが重ね合わされています。これは重大なことです。遣わされた者は、遣わした方の御心に従って行きます。イエス様の福音を宣べ伝えて行く、愛の業に励むということは、自分がやりたいとか、やりたくないとか、そういうことではないということです。それを命じ、私共を派遣されたイエス様の御心と結ばれて、その業に仕えていくということです。それは、イエス様に倣っていく、イエス様の御足の跡をたどるような歩みだということです。勿論、私共はイエス様のように完全な愛の人になれるわけではありませんし、イエス様のように完全に神様の御心を心得ているわけでもありませんし、イエス様のような奇跡を行うことが出来るわけでもありません。しかし、それでもイエス様に倣っていく。愚かで、欠けがあり、罪に満ちた私共ですけれども、イエス様に遣わされたという事実をしっかり受け止めて、そこに喜びと誇りをもって、御業に仕えていきたいと思うのです。
 イエス様はこの時、「あなたがたに平和があるように。」と再び告げられました。マタイによる福音書においては、あの伝道命令に続いて「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました。このことは重なります。つまり、イエス様に遣わされた者には、イエス様が共におられ、平安が与えられるということです。イエス様が約束された平和は、イエス様が共にいてくださる故に与えられる平和だからです。イエス様の派遣の御命令は、「平和があるように」或いは「いつもあなたがたと共にいる」という約束とセットになっています。聖霊なる神様としてイエス様は弟子たちと共におられ、平和を与えてくださるということです。イエス様の御命令に従い、イエス様の福音を伝える、イエス様の愛を身をもって示す、その歩みを為していく者には平和が与えられます。このイエス様が与えてくださる平和の中で、私共はイエス様と共に、神様の御業にお仕えしていくのです。

5.聖霊を受けよ
 さて、この時もう一つ重大なことをイエス様はなさいました。22節です。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」イエス様はこの時、聖霊を弟子たちに与えられたのです。弟子たちが聖霊を受けたのは、イエス様の御復活の時ではなくて、イエス様が40日間復活の御姿を弟子たちに見せた後に昇天され、更に10日の後のこと、「七週の祭り」であるペンテコステの日ではなかったかと思われる方もいるでしょう。それは、ルカによる福音書とその続きである使徒言行録が告げていることです。きっと、時系列的に言えばそういうことなのでしょう。しかし、ヨハネによる福音書は、イエス様が復活されたときに、弟子たちはイエス様から聖霊を与えられたと告げています。ヨハネによる福音書は、時系列的に復活の出来事と弟子たちに聖霊が注がれたということを記そうとはしていません。そうではなくて、復活のイエス様に出会うということはどういうことなのか。イエス様を信じるとは、イエス様に派遣されるとはどういうことなのか。それは、聖霊を受けることによるのだということを伝えたいのです。キリスト者とは、復活のイエス様に出会った者、イエス様の復活を信じた者であり、イエス様に派遣される者であり、その者には聖霊が与えられている。この聖霊と共にキリスト者は生き、キリストの教会も生きている。ここには、ヨハネによる福音書を記した者が生きている教会の現実、キリスト者の現実が語られています。
 復活のイエス様への信仰が与えられた者には洗礼が施されます。その時、聖霊は注がれ、その人はキリスト者として生きることになる。聖霊が注がれるということと、復活のイエス様を信じるという信仰が与えられることは分けられない。また、イエス様によって証人として派遣されるということと、聖霊が注がれるということも分けられない。そして、イエス様と共に生き、イエス様の平和の中を生きるということと、聖霊が注がれるということも分けられない。それは全部同時に起きているではないか。それがキリスト者の現実であり、教会の現実です。ヨハネによる福音書は、イエス様の復活を単に昔に起きたこととして告げるのではなくて、今、自分たちの上に起きている出来事として告げています。
 イエス様は「聖霊を受けなさい。」と言われるとき、御自分の息を弟子たちに吹きかけられました。この「息を吹きかける」という所作は私共に、先ほどお読み致しました創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」との御言葉を思い起こさせます。ヨハネによる福音書は当然、ここを読む人が創世記2章の記事を思い起こすことを想定しています。そのことによって、復活のイエス様に出会い、これを信じる者とされるということは、新しい人間の誕生なのだと言いたいのです。聖霊を注がれることによって、神の子としての新しい人間が誕生する。神様との親しい交わりを与えられ、神の子とされ、イエス様と共に生きる新しい人間の誕生です。イエス様を信じるとは、単に気持ちの問題ではなくて、聖霊を与えられてそこに新しい命に生きる人間、復活の命・永遠の命に生きる新しい人間が誕生するということです。それは私共にも起きました。何とありがたいことかと思います。

6.罪の赦し
さて、イエス様はこの時、弟子たちに最後にこのように告げました。23節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と。ここには、イエス様の弟子たちによって建て上げられていくキリストの教会の権能と役割が告げられています。弟子たちはイエス様に遣わされて福音を宣べ伝えていくわけですが、そこで何が起きるかといえば、主イエス・キリストを我が主・我が神と信じる者の群れ、キリストの体なる教会が建てられていきます。勿論、この教会というのは建物ではありません。聖霊なる神様が御臨在されるイエス様の復活を信じる者たちの群れ、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けた者たちの群れとしての教会です。この福音書が記された時代、キリストの教会は小さな群れでした。その町その地方の人たちの多くがイエス様を信じている、そんな状態ではありませんでした。今の私共が置かれている状況と、あまり変わらなかったと思います。この世的な意味では力も権力も富も、何もありませんでした。しかし、キリストの教会にはキリストの教会だけが持つ権能、権威と力とが与えられていました。それが、ここで言われている「罪の赦しの権能」です。どんなに小なりと言えども、罪の赦しの権能、神様と罪人との関係を和解へと導く権能、端的に言えば洗礼を授けることが出来る権能です。この世のどんな大きな組織にも、団体にも、巨大な国家にさえもそれは出来ません。それはキリストの教会にしか与えられていない。ここにキリストの体である教会の、本当の存在価値があります。そして、それは聖霊が注がれて初めて行うことが出来るものです。聖餐も同じです。洗礼は一回だけですけれど、聖餐は繰り返し与っていきます。しかし、この二つの聖礼典に盛られている恵みは同じです。罪の赦しであり、イエス様と一つとされることであり、神の子とされることであり、復活の希望であり、真実な愛に生かされることです。
 ただ今から、聖餐に与ります。聖霊なる神様として臨まれる復活のイエス様と出会い、この方を我が主・我が神として信じ、この方と共に生きる幸いを新たに心に刻み、御国に向かっての歩みを、ここから新しく健やかに為してまいりたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、イエス様の復活の恵みを、御言葉をもって私共に新たに覚えさせてくださいました。ありがとうございます。イエス様が復活されたことにより、罪の赦しに与り、あなた様の子とされ、永遠の命に生きる希望を与えてくださいました。どうか、私共に聖霊を与えて、あなた様の救いに与った者として、いよいよあなた様の救いの御業にお仕えしていくことが出来ますように。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年5月1日]