日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「わたしを愛しているか」
申命記 6章4~9節
ヨハネによる福音書 21章15~19節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先日、ある若いキリスト者からこんな話を聞きました。その人の友人がマルチ商法にはまってしまい、自分に色んなものを勧めてくる。マルチ商法というのは、商品やサービスを契約して販売組織に加入した上で、次は自分が友人等を勧誘して新たに加入させると、紹介料やマージン等の利益を得ることが出来、これが連鎖的に拡大していくしくみです。この人の友人は「あなたもこれでたくさんお金が入るよ。」と言って盛んに勧めてくるのだそうです。その若いキリスト者は、そのような仕方でびた一文儲けたいとは思わないのだけれども、中々「あなたは騙されているんだよ。」とまでは言えない。そしてその人の友人は、「これでたくさんお金が入ってくる。私は信じている。」と若いキリスト者に言う。それを聞いて、自分はイエス様を信じているけれど、この人は「マルチ商法を信じている」と言う。全然違うとは思うのだけれど、同じ「信じている」という言葉を使われると、何と言って良いのか分からなくなる。そんなことを言われました。これと同じではないにしても、皆さんもこの「信じる」という言葉を巡って、周りの人とどうもピントが合わない、そんなことを感じたことはないでしょうか。日本語の「信じる」という言葉は、色んな意味で用いられ、必ずしも聖書が告げている「信仰」を意味しているとは限らないからです。
 キリスト教において「イエス様を信じる」ということは、「イエス様を愛する」ことです。自分たちが信じていることを言葉に言い表したもの、これが信仰告白というものですけれど、キリスト教の信仰とはそれを信じることだと思っている人もいるかもしれません。勿論、そのような面も確かにあります。たとえば、三位一体の神様を信じるとか、神様がすべてを造られ、すべてを支配しておられることを信じる。或いは、イエス様の十字架による罪の赦しを信じる。これらはキリスト教の教理の中心にあるものです。これをどうでも良いと言ってしまえば、キリスト教の信仰は成立しません。このような教理、信仰の筋道というものはとても大切です。しかし、このような教理というものは、私共が頭の中で理屈として理解し、納得するということとは少し違います。それは、その教理を信じると言った場合、私共には信じる相手がいるからです。理屈を信じるわけではありません。私共が信じるお方は父なる神様であり、イエス様であり、聖霊なる神様です。信じるということは、信頼するということでしょう。神様と私共はこの信頼関係で結ばれるわけです。これが信仰です。私の信じる気持ちではありません。この神様と私共との信頼関係というものは、神様との親しい交わりの中に私共が身を置くこと、この交わりの中に生きるということです。そして、この交わりを愛と言います。神様に愛され、神様を愛する。イエス様に愛され、イエス様を愛する。この愛し、愛される交わりの中に身を置く者が、キリスト者なのです。この交わりの中で生きることを、私共は信仰と言っているわけです。マルチ商法と愛の交わりは持てません。マルチ商法には人格がありませんから。
 神様を信じるということが、神様との交わり、愛の交わりの中に生きることだということを、今朝与えられた御言葉ははっきり示しています。

2.この人たち以上にわたしを愛しているか
復活のイエス様はガリラヤ湖のほとりで弟子たちと出会い、朝の食事をされました。そして、その食事が終わった後で、復活のイエス様はシモン・ぺトロにこう言われました。15節「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」この時イエス様は、ペトロに「あなたはわたしを信じるか」と言われたのではなくて、「わたしを愛しているか」と問われました。これは大切なことではないかと思います。「イエス様を信じる」と言った場合、神の子と信じるとか、救い主と信じるとか、私の罪を赦してくださる方と信じるとか、どのようなお方として信じるのかということが続くでしょう。しかし、「わたしを愛しているか」という問いは、イエス様との関係をもっと直接的に言い表しています。
 この言葉は、私共人間同士の関係においては、穏やかな言葉ではありません。この言葉を口にするとしても、「わたしを愛しているか」なんて言い方はきっとしません。「あなた、わたしを愛しているの。」とか「君は僕を愛しているのか。」といった、相手を詰問するような言い方になるでしょう。そして、この言葉が告げられる時は、相手の愛が信じられなくなっている、愛の交わりが壊れそうになってる、そういう時でしょう。ですから、この言葉はそうそう口にすることが出来る言葉ではありません。これを口にするには、相当な覚悟が必要です。そして、この問いに答える方も、覚悟をもって答えなければならない。そういう問いであり、答えだと思います。しかし、イエス様はここでペトロの愛を疑い、これを問いただすつもりで、このように問われたのでしょうか。私はそうではないと思います。
 ここで注目すべきは、イエス様が「この人たち以上にわたしを愛しているか。」と問われたことです。この「この人たち以上に」というのは、この時他の弟子たちが周りにいたわけですから、この他の弟子たち以上にということでしょう。しかし、愛とは、あの人より愛しているとか、愛していないとか、比べるようなものなのでしょうか。イエス様は私共の愛を、そのように他の人と比べるようなお方なのでしょうか。何か違う気がします。しかし、これがとても大事な点なのです。なぜなら、イエス様が十字架にお架かりになる前、ペトロはイエス様を知らないと三回言いました。しかし、そのことをイエス様に予告された時、ペトロは、イエス様に「あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネによる福音書13章37節)と言い、また「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(マタイによる福音書26章33節)と言ったのです。つまり、ペトロは「この人たち以上にわたしはあなたを愛していますし、命を捨てることになってもついて行きます。」そう言ったのです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。ペトロは、三回もイエス様を知らないと言い、イエス様との関係を否定したのです。イエス様は、そのことをペトロにはっきりと思い起こさせるために、このような言い方をされたに違いありません。ペトロもそれが分かったと思います。ですからペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」としか答えられなかったのです。「はい、主よ、わたしはこの人たちよりもあなたを愛しています。」とは答えられなかった。以前のペトロなら、自信満々にそう答えていたでしょう。しかし、三度イエス様を知らないと言ってしまったペトロにとって、以前のように答えることは出来ませんでした。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」そう答えるのが、精一杯でした。

3.三度
イエス様はこの問いを三回繰り返されました。それは、イエス様を三度知らないと言ってしまったあの出来事を、はっきりとペトロに思い起こさせるためでした。ペトロはこの時辛かったと思います。17節「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」とあります。三回も「わたしを愛しているか」と言われたら、自分の言葉は信用されていない、そう感じるのが普通です。そのように、この時のペトロの心の動きを見ることも出来るでしょう。しかし、それだけではなかったはずです。三度イエス様への愛を問われることによって、イエス様が明らかに自分が三度知らないと言ったことを思い起こして、わたしの愛を問うている。そのことをはっきりペトロは知らされたはずです。ですから、この時ペトロは「イエス様、わたしはあなたを愛しています。でも、決してイエス様を知らないなんて言わない、決してイエス様から離れない、そんな風に言えるような者ではありません。そのことは、あなたがよくご存じのはずです。でも、わたしはあなたを愛しています。」そういう思いだったのではないでしょうか。ここにあるのは、言い逃れ出来ないあり方で自らの罪を知らされて、イエス様の御前に立たされた者の悲しみです。ペトロは自らの罪を悲しんでいる。この悲しみは悔い改めの悲しみです。自らの裏切りと挫折の事実を突きつけられ、それでもなおイエス様を愛している。それがこの時のペトロの思いでした。
 ここでイエス様が三回ペトロに問われたのは、ペトロが三回イエス様を知らないと言ったからです。しかし同時に、この三という数字は完全数ですから、ペトロが三回イエス様を知らないと言ったのが、完全に、否定出来ないあり方で、という意味を持ったのと同じように、ペトロがここで三回「あなたを愛している」と言ったのも、否定出来ないほどに、完全に、徹底的に、そうイエス様に告げた、告白したということです。イエス様は、そのようにペトロが三回答えるように導かれたのです。イエス様は、ペトロの言うことを信用しないから、三回「わたしを愛しているか」と問われたのではありません。そうではなくて、ペトロの三度の否認を打ち消すために、あの裏切りからペトロを立ち上がらせるために、再びイエス様の弟子として新しく歩み出すことが出来るように、イエス様は三度この問いを繰り返されたのです。

4.再召命
 その証拠に、イエス様は「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えるペトロに対して、イエス様は三度「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。このイエス様の御命令も三度ですから、聞き違いとか、あの時はそう言ったけれど、というようなことではなくて、イエス様は完全に、徹底的に、このようにペトロに命じられたということです。ここでの三回のイエス様の言葉は微妙に違っています。一回目「わたしの小羊を飼いなさい。」、二回目「わたしの羊の世話をしなさい。」、三回目「わたしの羊を飼いなさい。」です。「小羊」なのか「羊」なのか、また「飼う」のか「世話をする」なのか。これは気にする必要はありません。イエス様はペトロに、イエス様の羊を養うという大切な務めを与えられたということです。信用していないのでしたら、こんな大切な務めを委ねるはずがありません。イエス様は、三度知らないと言ってしまったペトロに悔い改めを与え、そして新しく弟子として召し出してくださり、大切な務めを与えてくださった。これはペトロの再召命の場面なのです。
 ペトロ、もっと言えばペトロに代表されるイエス様の弟子たちは、復活のイエス様と出会って悔い改めへと導かれ、そして弟子としての再召命を与えられたということです。これはとても大切なことです。私共は、ペトロのようにつまずくからです。しかし、それでもイエス様は「わたしを愛しているか」と語りかけてくださり、その度ごとに私共は悔い改め、再び召命を与えられて、新しく歩み出していくのです。キリスト教の出発は、この弟子たちのやり直しから始まりました。自分に対するわけの分からない自信も善人としての誇りも、すべて打ち砕かれたところで、ただイエス様の愛と赦しによって新しくされた。それがキリスト者です。私共は愚かで、喉元過ぎれば熱さ忘れるような者ですから、何度も同じようなことをしてしまう者です。しかし、何度でもやり直す。
 確かに「やり直す」というのは簡単ではありません。私は毎月、刑務所に行って教誨師の奉仕をしています。また、私共の教会は、毎週木曜日には富山ダルクの人たちに一階の集会室を提供しています。どちらも具体的にやり直したいと思っている人たちです。でも、世の人々はこのやり直そうとする人たちに決して優しくないという現実があることも知らされています。それは、「自分は大丈夫。間違いなんか犯さない。あの人たちとは違う。あの人たちははダメな人たちだ。」そう思っている人が多いからです。でも、キリスト者は、自分はやり直すことを赦されて、今生かされている、そのことを知っている者です。だから、あなたもやり直せる。イエス様がやり直させてくださる。そう信じて、やり直そうとする人たちを励まし、支える者でありたいと思う。それが教会という所です。

5.わたしの羊を飼いなさい
さて、そのようにやり直させてくれるのが、御言葉です。イエス様はペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」と言われましたけれど、これはペトロ個人だけに告げられた言葉ではありません。ペトロに代表される、イエス様の弟子たちすべてに、つまりキリストの教会全体に告げられた言葉です。キリストの教会は、このイエス様の言葉を自分に告げられた言葉として聞き、イエス様の羊を養うことを何よりも大切な務めとしてきました。
 それは具体的にはどういうことかと申しますと、第一に御言葉をもってキリスト者を養うということです。聖書の言葉の説き明かしと聖餐をもって、霊の養い、永遠の命の養いをする。御言葉をもって慰め、励まし、御国への道を共に歩んでいく。それが牧会という業です。しかし、イエス様がここで命じられたのはそれだけではありません。もう一つあります。それは、御言葉をもってイエス様の福音を伝えるということ、伝道するということです。と言いますのは、イエス様の羊は、既に洗礼を受けたキリスト者だけではないからです。勿論、洗礼を受けて神様の子・僕とされた者はイエス様の羊であるに違いありません。しかし、イエス様は「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。」(ヨハネによる福音書10章16節)と言われました。教会という囲いの中に入っていないイエス様の羊がいるのです。その羊に対しても教会は責任がある。その羊にも御言葉を届けていかなければなりません。これが伝道です。この二つがイエス様によって教会に与えられた一番大切な務め、牧会と伝道という務めです。ですから、キリストの教会はこのイエス様の御命令に従って、聖書の言葉の説き明かしと聖餐をもって牧会し伝道し続けてきました。何度失敗しても、何度でもやり直し、歩み直し、御国への歩みを為し続けてきました。
 失敗するのは、一人一人のキリスト者だけではありません。キリストの教会も、時代の思想や考え方や常識に囚われて、間違ってしまうこともあります。或いは、時代が変わっていく中で、初めて教会の具体的な課題として見えてくることもあります。その度に、「あなたはわたしを愛しているか」との御声を聞いて、「はい、愛しています。私共は愚かで、今まで分かりませんでした。どうして、この人たちの痛みや嘆きの声が聞こえなかったのでしょう。あなたの羊を十分に養うことが出来ませんでした。赦してください。あなたを愛します。あなたの御業に用いてください。」そう言って、やり直し続けてきました。コロナ禍の中で礼拝をライブ配信したり、説教原稿を送付するようになったのも、先週の教会修養会で学びました訪問聖餐をするようになったのも、そういうことです。このイエス様の「わたしを愛しているか」という御言葉と「わたしの羊を飼いなさい」という御言葉を聞き続け、これに応え続けるために、キリストの教会は変わり続けてきました。今も変わっていますし、これからも変わり続けます。それが「絶えず御言葉によって、改革され続ける教会」ということです。

6.わたしに従いなさい
 この時ペトロはイエス様からもう一つの御言葉、もう一つの御命令を受けました。それが「わたしに従いなさい」(19節)でした。これは、ペトロとの一連の会話の中で告げられたのですから、直前の、イエス様を愛するということ、イエス様の羊を飼うということと無関係なはずがありません。深く繋がっています。それは、イエス様を愛するということ、イエス様の羊を飼うということ、これはイエス様に従うというあり方によってしか為し得ないことです。逆もあると思います。イエス様に従っていくということは、「わたしを愛しているか」という問いに応え、イエス様を愛する者として生きること、そしてイエス様の羊を養っていくことなのだということです。
 この時イエス様はペトロに、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(18節)と告げられました。そして聖書は、この言葉は「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(19節)と説明しています。確かに、イエス様のこの言葉は、ペトロがやがて捕らえられ、殉教することを予告していると受け取って良いでしょう。しかし、ペトロに告げられた言葉が、ペトロ個人だけに告げられた言葉ではなく、すべてのイエス様の弟子、すべてのキリスト者に向けられていると受け取りますと、この御言葉は何を私共に告げているのでしょうか。
 それは、キリスト者は「行きたくないところへ連れて行かれる」ということです。しかし、それは「神の栄光を現す」ためです。「行きたくないところ」というのは、場所だけを意味しているのではありません。自分のおかれる状況、為すべき仕事。それは自分が求めていたこととは違うことがある。しかし、それは神の栄光を現すために備えられた状況であり、為すべきことだということです。私共は自分がやりたいことだけをやって生きていくわけではありません。嫌なこともある。しかしそれを、嫌だ嫌だと思ってみても仕方がない。そこでこそ神の栄光を現すために出来ることがあるはずだということです。どんな状況の中でも、イエス様を愛し、イエス様の言葉に従って行くならば、そこに神様の栄光が現れる。介護にしても、自分の老いや病との付き合いも、自分で求めた状況ではないでしょうけれど、そこにおいてやれること、やるべきことがある。そして、神の栄光を現すことが出来る。それが私共に与えられたイエス様の約束なのです。
 私も年をとりまして、何でもやることは遅くなり、名前が出てこなくなり、「あ~あ」とため息が出ることばかりです。こんなはずじゃなかったとも思います。しかし、イエス様を愛しています。そして、少しでもイエス様の羊を養うためにやれることをやりたいと思っています。イエス様の御業に少しでも仕えていきたいと願っています。神様の栄光を汚すことなく、歩んでまいりたいと願っています。皆さんもそうでしょう。ここで何より大切なことは、イエス様を愛するということです。イエス様との愛の交わりの中に生きるということです。イエス様の語りかけを聞き、それに応えていくということです。そこに御国に至るまで続く、私共の信仰の歩みがあります。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝もあなた様は、御言葉を通して私共に語りかけてくださいました。「わたしを愛しているか」とあなた様は問われます。私共は自らの欠けと罪を知っておりますけれど、その上で「はい、愛しています」と答えます。その答えに誠実に歩んでまいりとうございます。どうか、あなた様が与えてくださっているそれぞれの場所において、あなた様に遣わされた者として御業に仕えていくことが出来ますよう、導いてください。私共は、それぞれ課題があります。しかし、その課題もあなた様の栄光を現すためのものとして受け止め、誠実に事に当たらせてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年5月22日]