日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「信仰は聞くことから始まる」
イザヤ書 52章7~10節
ローマの信徒への手紙 10章14~21節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めてまいりましたが、イースターの前からはヨハネによる福音書のイエス様の受難の記事から御言葉を受け、イースターの後は同じくヨハネによる福音書の復活されたイエス様の記事から御言葉を受けました。そして、先週は使徒言行録2章のペンテコステの出来事が記されている所から御言葉を受けました。ですから、ローマの信徒への手紙から御言葉を受けるのは3月20日以来となります。3ヶ月近く前ですから、少し振り返っておきましょう。
 9章からパウロは、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(9章2~3節)とありますように、イエス様の福音をユダヤ人たちが受け入れないという現実に対して心を痛めながら、何としても同胞のユダヤ人たちも救いに与って欲しいと願い、語ってきました。ユダヤ人たちは、自分たちこそ神の民であると信じて疑いません。事実、彼らはアブラハム以来の神の民です。なのに、どうしてまことの救い主、イエス・キリストが来られたにもかかわらず、それを受け入れようとしないのか。パウロは、ユダヤ人の心に浮かぶであろう問いや反論を想定しながら、それに応えるようにして論を進めます。今朝与えられている御言葉もそうです。先週のペンテコステ記念礼拝で、ペトロの説教から御言葉を受けた時にも申しましたけれど、旧約聖書の言葉を引用して議論し説得しようとするのは、相手がユダヤ人だからです。旧約聖書の言葉など全く知らない人に向かって、旧約聖書の言葉を引用して語りかけても話は通じません。今日の所も同じです。カギ括弧で括られている言葉はみな旧約からの引用です。この短い箇所で、パウロは6箇所も旧約聖書の言葉を引用して議論しています。この議論の相手がユダヤ人だったからです。
 神の民であるユダヤ人たちが救いに与らず、救われるはずのない異邦人が救いに与っている。それはユダヤ人たちが「律法を守るという自分の善い行いによって救いに達することが出来る」と考えていたからです。しかし、イエス様がもたらした救いの筋道、救いの恵みはそうではありませんでした。「ただ信仰によって義とされる(救われる)」というものでした。ただ信じるだけで、一切の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命に与る。これが福音です。喜びの知らせです。パウロは、この救いに与るためには、今日の御言葉の直前の13節に「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とありますように、ただ主の名を呼び求めるだけで良いのです。

2.ユダヤ人との対話
 今朝の御言葉は、このように論じてきたパウロが、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と告げられたユダヤ人の心に起きるであろう反論を想定して論を進めている所です。この反論は大きく括れば3つあります。
 第一の反論は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言われても、どうやってその主の名を知ることが出来るのか、という反論です。第二の反論は、主の名を聞く機会がなかったならどうなのだ、そして第三の反論は、聞いても理解出来なかったのならどうなのだ、というものです。この3つの反論は、パウロはここでは確かにユダヤ人を想定していますけれど、内容から言えばもっと普遍的です。どの時代の、どの国の人々にも当てはまるものです。イエス様の福音に出会った時に人々の心に浮かぶ反論、と言っても良いでしょう。 パウロはそれに答えていくのですけれど、その結論は何かと言いますと、21節にイザヤ書65章2節を引用して、「『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています。」と告げます。つまり、どんなに反論し、イエス様の救いを受け入れないユダヤ人に対しても、神様は手を差し伸ばし続けておられる。今までもそうだったし、今もそうだし、これからもそうです。神様は見捨てない。これがパウロの議論を支えている確信です。私には、このように語るパウロの心が、神様の御心と一つにされていると思えます。なぜパウロの書いた手紙が聖書とされているのか。それは、この決して見捨てない神様の御心と一つにされた者が記したものだからです。神様はパウロを選び、立て、用いられました。そして、私共もこの神様によって選ばれ、救われ、生かされています。ですからパウロの、自分の同胞が救いに与っていないことを憂う心の痛みに、私共も共感する。私共は愛する者たちの救いを願い、そのために祈っています。これは少しも当たり前のことではありません。私共にも神様の御心が与えられたからです。神様の心と一つにされるという驚くべき出来事が、私共の上に起きたからです。先週のペンテコステ記念礼拝において讃美歌346番を歌いました。その中に「主イエスのこころを こころとなして」という歌詞がありました。実に、これが聖霊なる神様によって救われ、生かされるということです。何とありがたいことでしょう。
 順に3つの反論を見ていきましょう。

3.反論(1)どうして主の名を信じることが出来るのか
 第一の反論は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言われても、どうやって呼び求めるべきお方、まことの神、まことの救い主を知ることが出来るのか、という反論です。これをパウロは、厳密にと言いますか、順序立てて、こう言います。14~15節「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」と言います。信じなければ、呼び求めることはない。聞いたことがなければ、信じることはない。宣べ伝える者がいなければ、聞くことはない。遣わされなければ、宣べ伝えることはない。神様に遣わされて宣べ伝える者がいて、その人から福音を聞いて、信仰を起こされ、主を呼び求めるということが起きる。そうパウロは言います。それはそのとおりでしょう。私共もそうでした。山に籠もって独りで考えに考え抜いて、遂にイエス様が救い主であることが分かった。そんな人はいません。イエス様が為してくださったこと、お語りくださったことを私共は聞いた。この「聞く」ということには、書物を通して知ったということも含まれます。ですから、17節「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とパウロは告げるのです。
 キリスト教の信仰は聞くことから、何よりもキリストの言葉を聞くことから始まる。キリストの言葉、それはイエス様によって与えられた救いを告げるすべての言葉、即ち福音を指していると考えて良いでしょう。福音を聞く。キリストの言葉として聞く。これは聖霊なる神様によって起こされる出来事です。牧師、説教者が語る言葉は、人間の言葉です。しかし、聖霊なる神様が働いてくださって、そこからキリストの言葉、「イエス様の語りかけ」を聞くということが起きる。それは、キリストの言葉に心を打たれると言っても良い出来事です。それがイエス様と出会うということです。キリストの言葉を聞く度に、私共はイエス様と出会い、信仰を新しくされます。私共の信仰は、生ものです。缶詰や干物ではありません。キリストの言葉を聞く度に新しくされ続けます。それが私共に起きている救いの出来事です。

4.良い知らせを告げる者の足の美しさ
 パウロは、あなたたちは聞いたはずだ、と言うのです。わたしから、そして他の弟子たちから聞いたはずだ。そのことを、イザヤ書52章7節を引用して、15節b「『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」と言うのです。この御言葉はとても有名です。ヘンデルのメサイアの中でも歌われています。アドベントの時などによく読まれる聖書の箇所の一つです。イザヤ書が書かれた時代の文脈においては、この「良い知らせ」とは、バビロン捕囚からの解放という出来事と理解出来ますけれど、このイザヤの預言はそれを突き抜けています。この「良き知らせ」は、イエス様によって与えられる救いの知らせ、福音と理解して良い。そして、それを伝える者の足は美しいと告げている。イザヤの告げた「良き知らせを告げる者」はサンダル履きですから、ホコリだらけ、泥だらけだったはずです。しかし、美しいと言うのです。美脚ということではありません。この「美しさ」は、十字架の美しさです。それは、良き知らせを伝える者が、その足が、良き知らせそのものが持っている美しさと一つとされるからです。
 私共は多くの伝道者を知っています。皆さんに洗礼を授けた牧師を思い起こしてくださっても良い。その牧師たちは美しくなかったですか。日本に福音を伝えた宣教師たち。北陸の地では、北陸で最初のキリスト教会である金沢教会を設立し、この富山の地に初めて福音を伝えたトマス・ウィン宣教師。また、富山の地に教育宣教師として遣わされ、アームストロング青葉幼稚園を建てたアームストロング宣教師。また、この教会の最初の定住伝道者だった長尾巻。彼は富山鹿島町教会、金沢元町教会、小松教会の最初に伝道した人です。みんな苦労に苦労を重ねた伝道者です。しかし、その歩みは美しかった。それは、イエス様の十字架の美しさに他なりません。神様の救いの御心と一つにされた者の美しさです。この地に住む人々にイエス様の救いを伝えるために立てられ、遣わされ、生きた。イエス様の福音を告げる者は、イエス様の福音に生きます。そして、その歩みはイエス様の十字架の美しさを持つこととなります。この美しさは、世の人々がみんな美しいと認めるような美しさではありません。イエス様の十字架は、死刑にされた者の姿ですから、それだけを見れば美しいはずもなく、目をそむけたくなるような、酷く残酷なものでしかありません。しかし、イエス様の救いに与った者には、そして何より神様がご覧になれば、最も御心に適った、世界で最も美しく、栄光に輝くものです。良き知らせを伝える者も同じです。その美しさは、地上のどんなものとも比べることが出来ないほどに美しい。私共はそのような美しく生きる者へと招かれている。何とありがたいことでしょう。

5.反論(2)聞いたことがなければ
 第二の反論。では、聞いたことがなければどうなのか。パウロは、そんなことはあり得ないと告げます。詩編19編5節を引用して、「『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」(18節c)と告げる。この詩編は、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」で始まる、神学用語で言えば自然啓示あるいは一般啓示と呼ばれることを告げているものです。自然啓示・一般啓示というのは、神様の創造の御業は全世界に満ちていて、それを見れば神様の偉大さ、全能性が分かる。自然は神様を啓示しているというものです。確かに、人間の体にしても、星の運行にしても、人間がいくら探求してもまだよく分からないことがたくさんあります。人間には分からないことが多すぎて、とても人間が自然を造ることなど出来ません。しかし、分からなくても私共は存在している。私共は自分というものを自覚する前に存在している。これは、パウロが使徒言行録の17章においてアテネで伝道した時、「知られざる神」というものを手がかりにして全能の神様を告げたことと同じです。日本人も、自分を超えた「神なる存在」には薄々気づいているのでしょう。でも、薄々にしか分かりませんから、占いが流行る。はっきり分かれば、占いなんてやりませんから。確かに、大いなる神らしき存在を知ることは出来ます。しかし、それがイエス様の父なる神様であることまでは、自然を見ていても分かることはありません。

6.反論(3)聞いても分からなければ
 ですから、第3の反論、分からなかったらどうするのだ、ということに繋がっていきます。イエス様が分からない。聞いても分からない。そういうことだって起きるわけです。日本にはたくさんのキリスト教の学校があります。幼稚園・保育園から大学まで、プロテスタントだけでも全部で350校、生徒数は34万人います。カトリック系のものも同じくらいあるでしょう。すべての学校で伝道者たちが毎日イエス様のことを伝えています。この生徒たちがみんなイエス様が誰であるか分かったならば、キリスト者の数は飛躍的に増えるはずですが、そうはなりません。それは、パウロが16節bでイザヤ書53章1節を引用して「イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」と告げているとおりです。聞いても分からないということがあるわけです。
 ここで引用されているイザヤ書53章は、イエス様の十字架の歩みを預言した所として旧約の中で最も有名な所です。イザヤ書はこう預言しました。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」もっと続きますけれど、皆さんはこれを聞いて、イエス様の十字架が預言されていると聞こえたでしょう。それ以外には聞こえません。しかし、ユダヤ人たちはこのイザヤの言葉を知っていましたけれど、これがイエス様の十字架を預言している言葉だとは思いもしませんでした。分からなかった。そして、現代の日本人の多くも、イエス様の十字架の話を聞いても、自分の罪をイエス様が担ってくださったのだとは思わない。イエス様の十字架を美しいと思うのは、信仰が与えられた者だけです。そのこともイザヤは、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」と預言していました。
 そして、パウロは19節、20節でこのように論を進めるのです。「モーセが、『わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。イザヤも大胆に、『わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。」と告げます。19節の「わたしの民でない者」「愚かな民」とは異邦人のことであり、20節の「わたしを探さなかった者たち」「わたしを尋ねなかった者たち」というのも異邦人です。これは何を言っているかと申しますと、神様は、神の民のユダヤ人が信じないので、異邦人に信じさせて、異邦人が救われるのを見せて、ねたみを起こさせて、自分たちも信じるように仕向けようとしておられるのだと言うのです。それが、今ユダヤ人たちがイエス様を信じないでいる状態なのだと言うのです。ちょっと分かりにくい論理展開ですけれど、自分たちが神の民であると自認していたユダヤ人たちは、異邦人が救われるとか、ただイエス様を信じるだけで救われるとか告げる福音を聞いて、腹立たしく、ねたましく思ったことは間違いありません。

7.現代の日本の文脈において
 ここで大切なことは、パウロが21節で告げていることです。最初にも申し上げましたけれど、21節でパウロは、イザヤ書65章2節を引用して「『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています。」と告げます。つまり、どんなに反論し、イエス様の救いを受け入れない者に対しても、神様は手を差し伸ばし続けておられるということです。イエス様のことを伝えても受け入れてくれない、信じてもらえない、そういうことがある。自分の家族にだって「あなたがキリスト教を信じるのはあなたの勝手だけど、私は違う。だから放っておいて。」なんて言われてしまうことがあるわけです。こんな風に言われたら、へこんでしまいます。パウロはずっとそう言われ続けた。でも、諦めませんでした。それは、パウロが「すべての者を救うために十字架にお架かりになったイエス様の心」と一つにされていたからです。私共もそうです。
 どうして私共は伝道するのでしょうか。イエス様がそうするようにと命じられたから。それも大切な理由です。でも、それだけならば、イエス様に命令されたから嫌でもしょうがないからやるということになりかねません。しかし、伝道とは、そんなものではありません。もしそうならば、伝道者や牧師は全く不幸な、嬉しくない人生を生きている者ということになりかねません。しかし、私も私の友人の牧師たちも、伝道が嫌いな者は一人もいません。「主の日の礼拝の準備が大変で、もう嫌だ。講壇に立ちたくない。」と言う人は一人もいません。ある牧師は、「自分は講壇の上においてこそ、本当の自分でいられる。」と言いました。語りたいのです。どうしても伝えたいのです。イエス様のことを知って欲しいのです。パウロもそうだったはずです。どうしてか。それはイエス様の心と一つにされたからです。私共もそうです。私共は「神様が差し伸べる手」です。勿論、「手を差し伸べてあげる」などという上から目線の話ではありません。パウロが「私は、その罪人の頭です。」(テモテへの手紙一1章15節・聖書協会共同訳)と言っていたように、私共は「私のような者が救っていただいたのだから、私のような者でさえ神様に愛していただいたのだから、神様がこの人を愛し、救ってくださらないはずない。」そう信じて、イエス様の愛を伝えていく。そこに、イエス様に救われて、神の子としていただいた私共の歩みがあります。そして、それは美しいのです。世の人から美しいと言われなくても、神様が美しいと見てくださいます。この本当の美しさに生きるようにと、私共は召されている。まことにありがたいことです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 私共はまことに愚かで、罪に満ち、あなた様に感謝することさえ知らなかった者でありました。しかし、そのような者のために、あなた様は尊い独り子を与えてくださり、その十字架の血潮をもって、私共を一切の罪から贖い出してくださり、あなた様の子として新しく生きる者としてくださいました。まことにありがたく感謝いたします。どうか、私共をあなた様が差し伸べる手として用いてください。私共の愛する者たちに、あなた様の愛と恵みと真実を、言葉と行いと存在をもって伝えていくことが出来ますように。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年6月12日]