1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めておりますが、9章からは、イスラエルの民がイエス様の福音を受け入れない、イエス様を救い主・メシアとして信じない、これはどういうことなのかということを論じています。イスラエルがアブラハム以来の神の民であることは言うまでもありません。そうであるならば、真っ先にイエス様の福音を受け入れて、救いに与るはずではないか。ところが、そうなっていないわけです。この現実は、パウロにとってまことに心を痛める問題でした。何としても、愛する同胞がイエス様の救いに与って欲しい。それがパウロの切なる願いでした。それは、私共にもよく分かる思いでしょう。この日本において、キリスト者は圧倒的な少数者です。家族の中で、自分一人だけが礼拝に集っているという人は少なくありません。私も結婚するまで、家族どころか、親族も含めて、私の周りにキリスト者は一人もいませんでした。幸いなことに私の母は、最後に私共と同居し、この教会の牧師館に住むようになって、毎週礼拝に集い、救いに与ることが許されました。これも神様が、母を介護するということを通して道を備えてくださった、神様の憐れみの御計画の中でそのような道が備えられたのだ、と感謝しています。勿論、まだ皆が救いに与ったわけではありません。しかし、私共は少しも諦める必要はありません。神様は私共の愛する者たちを愛してくださっていて、救いに与らせようとしてくださっている。それは確かなことなのですから、そのことを信じて、祈っていけば良いのです。
パウロは、イスラエルの民がイエス様の福音に与れないのは、ただ恵みによって、ただ信仰によって救われるという、イエス様によって備えられた救いの筋道を受け入れないからだと告げています。しかし、だから「イスラエルの民はもうダメだ。同胞イスラエルの救いはない。」などとは少しも考えません。「信仰は聞くことにより、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10章17節)が、まだ聞いていない、聞いても分かっていない、つまり信じるに至っていないからだと理解しています。イスラエルの同胞が、イエス様の言葉を聞くことが出来、聞いて本当にそうだと納得する、そのような日を神様が備えてくださることを信じて、パウロは語り続けました。私共が置かれている状況は、このパウロの状況とよく似ています。そのように言いますと、「パウロは偉い伝道者だったけれど、自分はそんな偉いキリスト者じゃないからそんな風には出来ない。」といった心の声が湧いてきそうです。しかし、そう思う前に、まずパウロの言葉を聞いてみましょう。
2.神様の約束(=愛)は揺るがない
11章の1節は「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」と始まります。イスラエルの民がイエス様の救いを受け入れない。この現実を前にして、パウロは「神様は御自分の民を退けられたのだろうか。」と問います。イスラエルはアブラハム以来の神の民です。神様と契約を結んだ民です。神様が特別に愛し続けてこられた民です。神様はその約束を、愛を、反故にされたのだろうか。つまり、神様は気が変わったのだろうか。パウロは「決してそうではない。」と言います。これは、とても強い言い方です。口語訳では「断じてそうではない。」、新改訳では「絶対にそんなことはありません。」と訳しています。そんなことは絶対にあり得ない。そうパウロは告げるのです。もし、神の民イスラエルが神様に退けられ、捨てられるということであるならば、神様の約束とはいったい何なのでしょう。人間の約束と少しも違わないことになってしまいます。人の心は変わります。ですから、しばしば約束は破られ、反故にされます。しかし、神様の約束、神様の愛、神様の真実は変わりません。そうでなければ、どうして神様を心から愛し、信頼し、従うことが出来ましょう。神様の変わらぬ愛と真実、それが形となったのが神様との契約です。それが反故にされることは決してありません。これがパウロの揺るがぬ確信であり、救いの確かさの根拠です。神様は気が変わったりはしない。もし、そんな神様であったならば、私共は自らの救いに確信を持つことなど決して出来ないでしょう。私共の救いの確信の根拠は、私共の中にはありません。私共の信仰の歩みが熱心であったり、よく奉仕をしたり、人に優しくしたりということが、私共の救いの確信の根拠にはなりません。私共の心は移ろうものだからです。しかし、神様は変わりません。その御方が、その全能の御力と全き愛をもって、間違いなく私共を救いの完成へと導いてくださる。ここに、私共が救いの確信を得るただ一つの道があります。
3.神様の変わらぬ御心の根拠(1)=自分自身
パウロは、この変わらぬ神様の御心の根拠、証拠として、まず自分自身を挙げます。1節c「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」とあります。パウロはベニヤミン族出身の生粋のイスラエル人です。ベニヤミン族出身ということは、イスラエルには元々12部族ありました。けれど、ソロモン王の後にイスラエル王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してします。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。この北イスラエル王国を構成していたのが、南ユダ王国のユダ族とベニヤミン族以外の10部族でした。この北の10部族はアッシリアによって滅ぼされた後、雑婚が進み、イエス様の時代にはサマリア人と呼ばれ、ユダヤの人々が最も忌み嫌う人々になっていました。一方、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、バビロン捕囚という悲惨な目に遭いますけれど、再びエルサレムに戻ってきてユダの国を再建しました。それがイエス様の時代のユダヤ人です。ですから、当時のユダヤ人はユダ族とベニヤミン族しかいませんでした。
パウロは、「自分は生粋のイスラエル人であるベニヤミン族出身の者だけれども、こうして、イエス様を信じて救われた。だから、神様はイスラエルを捨てたなどとは言えない。もしそうであるならば、どうしてわたしが救われるなどということがあるか。」と言います。神様の約束が真実であることの証人として、パウロは「自分を見よ」と言っているわけです。
これは私共にも言えます。キリスト者である日本人は少ない。伝道しても中々増えない。そういう現実があるわけですけれど、だったら、「日本人は神様から捨てられている。神様は日本人を愛していない。」などと言えるのか。決して言えません。それは、私共が救われているからです。私は生粋の日本人です。私の親族にキリスト者は一人もいませんでした。ミッションスクールに行ったわけでもないですし、18歳で教会の門をくぐるまで、教会に入ったことさえありませんでした。しかし、私は救われました。そうであるならば、どうして「日本人は救われない。神様は日本人を愛していない。」などと言えるでしょうか。皆さんもそうでしょう。この圧倒的にキリスト教的環境がない富山において、イエス様に出会って救われた。どうしてか。それは、神様が愛してくださり、救うことをお決めになったからです。ただ、神様の恵みによって選ばれたからです。そうであるならば、私共の愛するあの人この人に対して、神様の恵みの選びがないなどとどうして言えるでしょうか。誰にも言えません。私共がイエス様の救いに与ったのは、間違っても、私共が神様の御心に適う善き者であったからではありません。神様の選びの基準が、神様の御心に適う善き者であるかどうかということであったならば、ここにいる人は誰一人救いに与ることはなかったでしょう。私共の周りには、もっと謙遜で、優しくて、愛に満ち、信心深い人はたくさんいます。しかし、選ばれたのは、傲慢で、欠けの多い、私共でした。神様の恵みによる選び、福音が明らかになるためでした。ですから、日本人は救われない、日本人に福音は分からない、そんなことは誰にも言えません。
4.神様の変わらぬ御心の根拠(2)=エリヤの7千人
変わらぬ神様の御心の根拠として、もう一つ、パウロは先ほどお読みしました旧約の列王記上19章の出来事を告げています。この話はその前の18章から続いています。エリヤは450人のバアルの預言者たち、400人のアシェラの預言者たちとカルメル山において戦うことになりました。戦いといっても祈りの戦いです。偶像の神の預言者850人対エリヤ1人の戦いです。これは、雄牛を薪の上に載せ、火をつけずに、神様の名を呼び求めるだけで焼き尽くすことが出来れば、それが本当の神だと分かる。そういう戦いでした。まず、朝から昼まで、バアルとアシェラの預言者850人が狂ったように神様を呼び求めました。しかし、何も起きませんでした。その後に、エリヤが「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、あなたが神であられること、わたしが僕であること、これらのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。」と祈りました。すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物を焼き尽くしたのです。文句なしにエリヤの勝ちでした。これで、エリヤの神がまことの生ける神であることが明らかになりました。
この時の北イスラエル王国の王はアハブ、そして妻はイゼベルでした。北イスラエル王国の歴代の王様は、「神の目に悪とされることを行う」王ばかりだったのですが、その中でもアハブ王は最悪でした。これに先立つこと、イゼベルは主の預言者たちを殺します。アハブ王と王妃イゼベルは、イスラエルを異教の神を祀る国にしようとしていました。そのような中で、エリヤはたった一人で戦うことになったのです。エリヤはこの戦いに勝ったのですが、これでアハブ王と王妃イゼベルは悔い改めて、偶像を捨て、主なる神様のもとに立ち帰ったかというと、そうはなりませんでした。イゼベルはこの戦いの結果を聞くと、エリヤを明日までに殺すと宣言します。それを伝え聞いたエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは自分には万軍の主がついているのだから、イゼベルを恐れることなく、これと戦ったでしょうか。いいえ、エリヤはこの時、逃げたのです。恐ろしかったのです。エリヤはホレブの山、モーセが十戒をいただいた山、シナイ山ですね、そこまで逃げました。逃げる途中、エリヤは「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(19章4節)と泣き言を神様に言います。わたしはもう十分戦ったではありませんか。もう十分でしょう。もう嫌です。そう言ったわけですね。エリヤは神様が用意した焼き菓子を食べ、水を飲み、力づけられて、40日40夜歩き続けて、ホレブの山に着きました。
そこでの神様とエリヤとのやり取りが、先ほど読んだ19章8節以下です。この神様とのやり取りはとても興味深いところです。神様は、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」(9節)と告げます。エリヤは戦いに疲れて、逃げてきたわけです。もうやる気も出ません。命も狙われています。敵は北イスラエル王国の王であり、その妻です。軍隊が出てくるのです。もうダメです。嫌です。そう思って、エリヤは逃げてきたんです。そのエリヤに神様が告げたのは、「ここで何をしているのか。」でした。これは冷たいですね。「良くやった」とねぎらってくれるわけでもなく、「ここで何をしている」です。これは「お前がいるべき所はここではない。さっさと、いるべき所に戻って、戦え。」そう告げているようです。エリヤは神様に言います。10節「エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』」エリヤは、「自分は主の預言者として戦ってきましたけれど、残ったのは自分一人です。仲間は皆殺されました。わたしも命を狙われています。もう、どうしようもないではありませんか。」と言ったのです。エリヤの気持ちは分かります。この神様とのやり取りが二回繰り返されます。そして、このエリヤの言葉に対して神様が告げられた言葉が、15節です。「行け、あなたの来た道を引き返せ」でした。エリヤは逃げてきたんです。そのエリヤに対する神様の言葉は「行け」です。自分が逃げてきた道を引き返せと言うのです。そして、次に為すべきことを告げました。今日は、そのことには触れません。そして、神様はエリヤに一つの約束を告げました。 18節です。「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」この時、エリヤは自分は一人だと思っていたわけです。しかし神様は、7千人の同志を残すと告げられました。エリヤはそんな人たちがいるとは思ってもいませんでした。北イスラエル王国のアハブ王と王妃イザベルによって支配されたイスラエルの民は、みんな神様を裏切り、バアルの神・アシェラの神に走った、そうエリヤは思っていました。しかし神様は、そうではないと告げるのです。7千人の同志がいる、わたしがそれを残しておいた、と告げたのです。この言葉を受けて、エリヤはホレブの山を後にしました。
5.残りの者
どうしてパウロは、ここでエリヤの7千人の話を持ち出したのでしょうか。それは、アハブ王と王妃イザベラの時、北イスラエル王国は神の民であることを止め、神様の救いの御計画は終わったかのように見えた。しかし、神様はエリヤに7千人の同志を残し、神の民が滅びることを許さなかった。それと同じように、今、イエス様の救いに与ろうとしないユダヤ人たちは、このままでは神様から捨てられてしまうかのように見える。しかし、このユダヤの人々の中に、「恵みによって選ばれた者」が残っている。その数が7千人かどうかは問題ではありません。エリヤの時は7千人でした。それは、アハブとイザベラに対して戦って勝利するに十分な数ということです。この7千人は、神の民イスラエルを神様は捨てられないということを示す人数でした。パウロは、あのエリヤに残された7千人のように、イエス様の救いに与る者が今のユダヤ人の中にも残されている。自分はその一人だ。自分はあの7千人の一人として選ばれ、救われ、立てられている。だから、神の民が捨てられるなどということはあり得ないのだ、とパウロは告げているわけです。
この時、パウロの目に、神様が残された7千人の全容が見えているわけではありません。パウロに見えているのは、自分を含め、使徒たちやユダヤ人キリスト者という、その中のほんの一部が見えているだけです。しかし、パウロは神様の御手の中にある大いなる7千人を信じていました。ユダヤ人たちがイエス様の救いに与り、共にイエス様を誉め讃える日が備えられている。そのことを信じたのです。神様の真実は揺るぎないことを信じていたからです。私共もそうです。日本にはこの7千人どころか、7百万、7千万の者たちが備えられている。そのことを信じてよいのです。私共は既にその一部とされています。ですから、この神様の救いの御業は、必ず成就することになっており、神様の救いの御業は前進し続けているんです。142年前、この富山の地には一つのキリスト教会もなく、一人のキリスト者もおりませんでした。神様の救いの御業は、確実に前進しています。
6.恵みが恵みであるために
神様の救いに与るということは、まことに不思議な出来事です。ユダヤ人たちは自分たちこそが神の民であるという自負を持ち、律法を守り、救われることを求めていました。しかし、神様は異邦人が救われるという道を開かれました。それは、自らの行いによってではなく、ただ恵みによって、ただ神様の選びによって救われるという、福音の筋道、神様の御心が現れるためでした。私のような者が救われた。それが福音です。イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5章31~32節)イエス様の、罪人を救わんとする憐れみが私共の上に注がれたのです。そして、私共は天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼ぶことが許され、御国に向かって歩む者としていただきました。ありがたいことです。私共は罪人であるにもかかわらず、救われました。否、罪人であるが故に、救われたのです。神様の憐れみが現れるためです。私共は愚かで、傲慢で、いつも自分が正しいと思ってしまうような者です。欠けたる器です。しかし、救われました。私共が目を注ぐのは、その自らの欠けに対してではありません。そのような私共を愛してやまない神様、イエス様に対してです。周りの人に対してもそうです。私共はその人の欠けや嫌な所にばかり目が向きがちですけれど、私共が今朝気付かせていただいたことは、その人を愛してやまない神様がおられるということです。そして、その神様の愛を伝える者として、私共は先に救いに与らせていただいたということです。神様の憐れみの中で、自分自身に対しての、そして周りの人々に対しての、私共の眼差しが変えられていく。神様はあなたを、あなたの愛する者を、決して見捨てることなく愛してくださっています。これが神様の愛です。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉を通して、私共が残りの者とされ、神様の恵みの選びによる救いの証人とされていることを知らされました。ありがとうございます。どうか、私共が自らを誇る傲慢な愚かさから自由にされ、ただあなた様の憐れみを指し示す者として立っていくことが出来ますように、心から祈り願います。私共の唇を、あなた様への感謝と、賛美と、祈りと、隣り人への愛の言葉で満たしていってください。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年7月3日]