1.はじめに。異邦人である私共
聖書を読んでおりますと「異邦人」という言葉が出てきます。私共は、「異邦人」という言葉を日常生活において使うことはほとんどないでしょう。でも、聖書では大変重要な言葉です。今朝与えられております御言葉を含む箇所の小見出しも「異邦人の救い」となっています。私共日本人が異邦人と言ったら、日本人ではない人という意味でしょう。しかし、この言葉が聖書で用いられる場合、それは神の民以外の人、ユダヤ人以外の人という意味です。イエス様の時代、ユダヤ人たちは自分たちのことを、神様に選ばれた特別な民、神の民であって、神様に特別に愛され、神様の救いに与る者と考えていました。しかし、自分たち以外の者、即ち異邦人は神様に愛されず、捨てられ、救われることはないと考えていました。ところがイエス様が来てくださって、すべての民の罪の裁きを十字架の上で受けてくださり、その尊い血潮によってすべての者の罪を赦し、ただイエス様を「我が主、我が神」と信じ、受け入れるだけで、救いの恵みに与るという道を開いてくださいました。ユダヤ人たちは、自分たちだけが特別な民であり、神様との契約の印である割礼も受けているし、律法も守っている、だから自分たちは救われるけれども、異邦人が救われることは決してないと考えていました。異邦人が救われる唯一の道は、割礼を受けて、ユダヤ教徒となり、ユダヤ人と同じ律法を守ること。それ以外に救われる道はない。そう考えておりました。しかし、イエス様によって「ただ信仰によって救われる」という道が開かれました。ユダヤ人たちはそれを受け入れることが出来ませんでした。一方異邦人たちは、元々律法を知りませんので、「ただ信仰によって救われる」という福音を受け入れました。私共も、イエス様の福音によって救われた異邦人です。天地を造られたただ独りの神様がおられることも知らず、十戒も知らず、自分が得をするならばどんな神様であろうとかまわない。自分が拝み祈っている神がどんな神であるかも知らず、雄山神社の神様だろうと、護国神社の神様だろうと、日枝神社の神様だろうと、はたまたご先祖様だろうとお構いなしでした。まさに私共は、聖書が告げる異邦人そのものでした。しかし今や、私共はイエス様を知り、神様を知りました。神様の子、神様の僕としていただき、神様と共に生きる者としていただきました。まことにありがたいことです。私共は新しい神の民の一員とされました。
異邦人と神の民の違い。それは、天地を造られた唯独りの神様、そしてその独り子イエス様を、自分の人生の主人として、この方を愛し、この方を信頼し、この方に仕えるかどうかです。私共は既に神の民の一員としていただきました。まことにありがたいことです。
2.異邦人キリスト者への警句:「思い上がるな」
さて、今朝与えられている御言葉のすぐ前のところ、13節において「では、あなたがた異邦人に言います。」とパウロは告げます。この手紙はローマにあるキリストの教会に宛てて記されたわけですけれど、ローマの教会には、ユダヤ人キリスト者もいれば、異邦人キリスト者もいました。多分、異邦人キリスト者の方が多かったのではないかと思います。その異邦人キリスト者に向かって、「思い上がってはなりません。」(20節c)と告げます。異邦人キリスト者は、神の民、神の子、神の僕とされたわけで、これはまことにありがたいことであり、光栄なことです。しかし、ここで「思い上がる」という過ちを犯しかねない。パウロはこの「思い上がり」というものが、どんなに私共の信仰の歩みを歪めたものにしてしまうか、はっきり弁えていました。そして、その過ちに陥らないようにと、「思い上がってはなりません。」と記したのです。
ユダヤ人たちがイエス様の福音を受け入れなかったのは、この「思い上がり」のためでした。自分たちは神の民という特別な存在だ。だから、イエス様の十字架による身代わりの犠牲など必要ない、自分たちは正しい者なのだから赦していただく必要もない。そのように思い上がっていたからです。その結果ユダヤ人たちは、異邦人を神様に愛されていない者、神様に救われない者として軽んじ、馬鹿にしていた。そして、異邦人キリスト者も同じ過ちを犯しかねない。パウロはそう思ったのです。自分たちが神の民である、特別な者であると考えた途端に、思い上がりの罪が口を開いて私共を飲み込もうとする。確かに、私共は神の民とされ、神の子とされ、救いに与りました。特別な存在となりました。しかし、それは私共が優れていたからでもなければ、私共が善い人であったからでもありません。私共は神様を知らず、神様から遠く離れた異邦人でした。しかし、神様はそのような私共を選び、召し出し、イエス様の救いに与らせ、新しい者としてくださいました。とすれば、私共が思い上がることが出来る理由なんて何一つありません。私共の中に、救いの恵みに与るに相応しい所など何一つないからです。何一つないにもかかわらず、救っていただいた。これは恵み以外の何ものでもありません。この恵みに対して、私共は感謝するしかありません。私共はただ神様に感謝する者として生きるようにと、新しくされたのです。キリスト者を貫いているのは、この感謝です。思い上がりではありません。
3.接ぎ木
パウロは、ユダヤ人と異邦人キリスト者の関係を、折り取られたオリーブの枝とそれに接ぎ木された野生のオリーブにたとえました。野生のオリーブは異邦人です。折り取られた枝はイエス様を受け入れないユダヤ人です。野生のオリーブは、選定もされず、手入れもされないので良い実を付けません。役に立たない小さな実を付けるだけです。しかし、栽培されているオリーブは、選定され、肥料をもらい、大きく立派な良い実を付けます。イスラエルは、神様によって手塩にかけられたオリーブの木でした。良い実がなることを期待されていました。しかし、自らの「思い上がり」によって、高慢によって、イエス様の救いを受け入れることが出来ませんでした。そして、枝は折られた。そこに野生のオリーブが接ぎ木されたと言うのです。そのようにして、異邦人キリスト者は生まれました。パウロがこのたとえを語るのは、異邦人キリスト者が思い上がり、高慢になって、自らを誇ることがないようにするためでした。17~18節「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」と告げられます。異邦人キリスト者たちが自らを誇り、私が救われるためにユダヤ人が捨てられた、そんな風に考え始める。そしてユダヤ人を軽んじる。これでは、異邦人を軽んじていたユダヤ人と同じです。異邦人が救われたのは、ただ神様の憐れみによってなのですから、神様に感謝するばかりであるはずです。ところが、自らが大した者であるかのように思い上がり、ユダヤ人を軽んじる。そういうことが、生まれたばかりのキリストの教会において既に起きていたのでしょう。
確かに、ユダヤ人がイエス様を受け入れなかったから、福音が異邦人にまで広がったわけです。しかし、それは異邦人キリスト者の手柄でも何でもありません。ただ、神様の憐れみによってです。20節で「そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」とパウロは告げます。信仰によって神の民として立てられている。それは、ただ憐れみによって救われ、神の民として立てられているということであって、自ら誇ることなんて何もないはずです。だから、思い上がってはいけません、高慢になってはいけません、「むしろ恐れなさい。」とパウロは告げます。神様の御前に立つならば、神様を畏れ敬うしかありません。神様に感謝するしかありません。この「神様の御前に」ということを忘れると、人は他の人と自分とを比べ始めます。そして、思い上がったり、或いは落ち込んだりする。「ただ神様の恵みによって」救われたということは、自らを誇らず、思い上がらず、高慢にならず、神様を畏れ敬いつつ、ただ感謝の中を歩む者になるということです。ここに「誇りと謙遜」が同居する、キリスト者という新しい人格が誕生します。
4.誇りと謙遜,BR>
人は、目に見える何かを持っていると誇れば、それを持たない人を侮蔑し、軽んじる。逆に、謙遜であろうとすると、自分に自信が持てずに、人と比べて卑屈になる。「誇りと謙遜」というものは中々同居出来ない、相反するものであるように思う方もおられるでしょう。しかし、「何であることに」誇りを持つのか、「何に対して」謙遜であるのか、そのことをはっきりさせませんと、いつまで経っても誇りと謙遜は私共の中で同居出来ないということになってしまいます。これをはっきりさせましょう。
まず「誇り」ですが、これは神の民とされた、神の子とされた、つまりキリスト者であることを誇ります。この誇りは、イエス様の十字架というとてつもない神様の愛によって与えられたものです。「私はキリスト者である」という誇りによって、私共はキリスト者として道を踏み外さないように歩むことが出来ます。何があっても神様第一、イエス様第一です。決して神様を裏切らない。そのような歩みを為し続けていくために、この誇りはとても大切です。私共は実に「誇り高きキリスト者」です。そしてこの誇りは、神様の御前に立つことによって、神様への感謝となり、賛美となります。しかし、神様の御前に立つことを忘れたならば、自分がキリスト者である、神の民・神の子であるということは、そうでない者に対しての優越感に変わってしまいます。神様の御前に立つことなく手に入れた誇りというものは、どんなものであれ、大抵この嫌な臭いを放つものです。思い上がり、高慢が放つ嫌な臭いです。人間の誇りは、自らを誇るという高慢とすぐに結びついてしまいます。それが罪というものです。
しかし、神の御前において与えられる誇りは、謙遜と結びつきます。なぜなら、私共に与えられたキリスト者であるという誇りの根拠は、すべて神様が与えてくださったものだからです。自分の中にはその恵みを受けるに価するものなど何一つないことを知らされるからです。この「神様の御前で」ということを忘れてしまえば、私共は謙遜な者になど到底なれないでしょう。
神様の御前に立たない限り、私共は自分は大した者だと自惚れるか、何と自分は小さく愚かな者かと卑屈になるかしかありません。人と比べるからです。しかし、神様の御前に立つ時、私共は他の人と比べるということから自由になります。というよりも、神様の御前に立たない限り、私共は人と比べるということから自由になれないのではないでしょうか。その結果、優越感と劣等感の間を激しく揺れ動き続ける。しかし、イエス様は私共をそのような所から救い出してくださいました。神様の御前に生きるという、新しい生き場所を与えてくださり、私共を造り変えてくださったのです。
5.ユダヤ人問題
異邦人キリスト者のユダヤ人に対する侮蔑的な感情は、その後長く続くユダヤ人迫害という問題の根っこにあるものではないかと私は思っています。日本人は、このユダヤ人問題についてあまりピンと来ないかもしれません。友人にユダヤ人がいる人などほとんどいないからです。しかし、あのナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺に至るまで、国家を持たないユダヤ人たちは二千年にわたって差別され、迫害され続けました。このユダヤ人問題は、第二次世界大戦後のヨーロッパの人々にとって、決して忘れてはならない、自分たちの罪として受け止められています。今、この問題について論じる暇はありませんけれど、「イエス様を殺したのはユダヤ人だった」ということを理由にユダヤ人を迫害し続けた人々、国家、そしてキリスト教会は、神様の御前に言い逃れすることは出来ません。18節b「誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」と言われていますように、ユダヤ人がいたから異邦人にも救いがもたらされたからです。まことの神にしてまことの人であられたイエス様は、まことの人としてはユダヤ人でした。パウロもペトロもヨハネも、みんなユダヤ人でした。ユダヤ人問題は、そのことを忘れて、異邦人であるにもかかわらず救われたということへの感謝を忘れ、思い上がった人間によってもたらされた悲惨な出来事です。聖書は、そのようになってしまう人間の罪を知っていて、思い上がってはならない、神を畏れよと告げているのです。
6.恵みに留まる
では、異邦人であるのに救いに与った者たちに求められているのは何でしょう。それは、ただ信仰によって救われた、ただ憐れみによって救われたという、神様の慈しみに留まり続けることです。22節「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」とパウロは告げています。神様は、異邦人であっても、イエス様の十字架によって示された神様の慈しみを感謝をもって受け入れる者には、罪の赦し・体の甦り・永遠の命を与えてくださいます。私共はその恵みの中に生きる者とされました。それを、まるで自分が大した者であるから救われたのだというように勘違いしてしまえば、私共はその恵みから自ら出て行ってしまうことになってしまいます。ですから、私共に求められていることは、ただこの神様の恵みの中に留まり続けることです。
私共は、信仰が深くなれば善人になって、神様の御心に適う、救われるに価する者になると考えるかもしれません。勿論、聖霊なる神様の導きの中で、そのような変化が私共に起きてくるということはあります。私共は、洗礼を受けた何十年前よりも、神様の憐れみをよりはっきり知り、いよいよ神様の御心に従って生きていこうとする者に変えられていることでしょう。しかし、自分の意識としては、そんなに変わっていないなというのが正直な思いではないでしょうか。それは、信仰がいよいよはっきりしてくる中で、私共は神様の御前に立つということがいよいよ分かってくるからです。そして、神様の御前に立てば、自分がどんなに愚かで、罪深く、神様の栄光ではなく自分の栄光を求めている者であるかを知らされます。神様の光に照らされる時、私共は本当の自分の姿を見ることになるからです。ですから、自分は中々大した者になったなどとは、決して思いません。もし、そのように思うことがあるのならば、私共はこの「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」との御言葉を思い起こさなければならないでしょう。
7.ユダヤ人の救い
23~24節「彼ら(ユダヤ人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」と告げます。つまり、ユダヤ人も、イエス様を救い主と信じて、自分の善き業によって救われようというところから離れ、ただ憐れみによって救われるということを受け入れるならば、折り取られたように見える枝であっても、接ぎ木される。救いに与ることになる。そうパウロは告げます。彼はユダヤ人の救いを信じています。それは神様が真実な方だからです。憐れみに満ちたお方だからです。私共に対して憐れみに満ちた方であるということは、ユダヤ人にも憐れみに満ちた方であるということです。神様は私共異邦人に対してだけ憐れみ深く、ユダヤ人にはそうではない。そんなことがあるはずがありません。もし、ユダヤ人に対して神様が憐れみ深いお方でなかったとするならば、イエス様が来る前に、旧約の時代に、ユダヤ人たちはとっくに滅ぼされていたでしょう。バビロン捕囚の時に、ユダヤ人たちは歴史から消えていたでしょう。しかし、そうはなりませんでした。神様はイエス様の時代までユダヤ人を残されました。そして、紀元後70年にエルサレムが陥落し、自分たちの国を持たない民とされても、なおユダヤの民は残り続けました。どんなに差別され、迫害されても、消えてしまうことはありませんでした。そして、イスラエルという国を建国して現在に至っています。これはまたパレスチナ問題という別の問題を引き起こしましたが、今はそのことには触れません。いずれにせよ、まことに不思議な民です。それは、ユダヤ人が神の民として、まだ神様の御計画の中で役割があるということなのではないかと、私には思われます。
8.キリスト者でない者に対して
異邦人キリスト者に向かって、パウロは「思い上がってはなりません。」と告げました。そして、それはユダヤ人に対して思い上がってはならないということでした。日本人キリスト者はまさに異邦人キリスト者ですから、この言葉は私共にも向けられています。では、誰に対して思い上がってはならないと、聖書は今朝、私共に告げているのでしょうか。それは、私共の周りいる、まだイエス様を知らない人たちに対してです。その人たちに対して、私共は決して思い上がった心で相対してはならないということです。「この人は神様を知らない。自分の罪を知らない。目に見えるものばかり求めている。自分に幸を与えてくれるならば、どんな神でも良いと思っている。」それはそのとおりでしょう。異邦人とはそういうもです。しかし、それはイエス様と出会う前の、私共自身の姿です。そのような私が救われたのです。だったら、その人が救われないなんて、誰も言えません。そんな私をも神様は愛してくださっているのですから、イエス様を知らない一人一人をも愛してくださっている、それは確かなことです。ですから、私共は決して思い上がることなく、ただ神様の愛を伝えていく道具としていただきたいのです。思い上がった者に、神様の愛を伝えることは出来ませんし、神様の愛が伝わることはありません。なぜなら、神様の愛は、天から人として降られるといういう謙遜の極みによって示された愛だからです。罪人のために自らが十字架の裁きを受けるという、徹底的に仕える者の姿をもって示された愛だからです。この愛を伝えようとすれば、私共は思い上がりを徹底的に砕かれなければなりません。そこにしかイエス様の愛が顕れることはないからです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様は私共に「思い上がってはならない」との御言葉を与えてくださいました。私共はただあなた様の憐れみよって救いに与った者です。ありがとうございます。それなのに、あなた様の御前にあることを忘れ、いつの間にか、神の子とされている幸いを当たり前のように受け止め、思い上がった者になってしまいます。どうか、私共の思い上がりを打ち砕き、ただ感謝と喜びの中で、あなた様の愛の道具として、隣り人に仕えていくことが出来ますように、聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年7月17日]