1.はじめに
共々にローマの信徒への手紙を読み進めてまいりまして、今日の御言葉で11章が終わります。9章から11章はユダヤ人の救いについて記されておりました。今日の御言葉はその結論が記されています。
9章以降の御言葉を受け続ける中で何度も申し上げてきましたけれど、ユダヤ人の救いということならば、日本人である自分には関係ないと思う方がおられるかもしれませんが、そんなことはありません。ユダヤ人の救いが問題になっているのは、ユダヤ人がアブラハム以来の神の民だからです。神の民であるユダヤ人が、イエス様を救い主として認めず、イエス様の救いに与ろうとしない。だったら、ユダヤ人は救われないのか。そうであるならば、神様の選びは変わってしまったのか。神様の約束は反故にされたのか。パウロは9章から11章においてこの問題を扱っているわけです。神様の選びが変わってしまうのならば、神様が約束を反故にするということがあるのであれば、私共の救いもまた当てにならないということになってしまいます。私共も神様に選ばれ、洗礼という神様との契約を結んだ者だからです。ですから、このユダヤ人の救いの問題は、私共の「救いの確かさ」というものと直結している問題なのです。結論を言えば、ユダヤ人もイエス様の救いにやがて与ることになる。神様の選びも神様の約束も、反故にされることはない。神様は真実な方だからです。
しかし、その筋道は少し込み入っています。元々の神の民であるユダヤ人がイエス様の救いを拒絶することによって、イエス様の救いは異邦人に広がりました。そして、異邦人が救われることよって、ユダヤ人がそれを「ねたみ」、やがてイエス様のもとにやって来る。そうして、異邦人もユダヤ人も皆、イエス様の救いに与ることになる。これがパウロが告げている神様の御心です。聖書の言葉で言えば「秘められた計画」です。パウロが目にしている現実は、ユダヤ人の中からはほんのわずかな者たちだけがイエス様の救いを受け入れ、大多数の者たちは受け入れていない。それが現実です。しかしパウロは、その現実の背後にある神様の御心というものを知らされ、それをここに記しているわけです。
2.神様の「秘められた計画」の中で
これがとても大切です。私共は現在のことしか分かりません。正確には、現在のことだって、ほんの一部分、自分の周りのことしか知りません。それだって、どれだけ正しく知っているかと言われれば、まことに心許ないものです。しかし、神様は御存知ですし、その神様の御心から見れば、現在、ユダヤ人たちがイエス様の救いを受け入れないのは、ちっとも最終的なことではないと言うのです。神様の「秘められた計画」があるからです。この「秘められた計画」と訳されている言葉は、口語訳・新改訳では「奥義」と訳されていました。新しい聖書協会共同訳では「秘義」と訳しています。元のギリシャ語は「ミステリオン」と言います。英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。中々訳すのに苦労している言葉ですが、とても大切な言葉です。人間には分からない、神様の御計画・御心を意味している言葉です。私共の見ている目の前の現実の背後には神のミステリオンがある。それを知らなければ、目の前の現実の本当の意味は分からない。それを知りなさいとパウロは告げるのです。25節途中~26節a「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」つまり、神様のミステリオンとは、最終的には「異邦人全体が救われ、全イスラエルが救われる」というものです。勿論、異邦人全体と言っても、信仰があってもなくても、とにかくすべての異邦人が救われるということではありません。神様の御計画の中で、選ばれた異邦人すべてが救われるということです。全イスラエルというのも同じです。神様が選んだユダヤ人と信仰によって新しい神の民とされた異邦人キリスト者からなる全イスラエルが救われる。そこに向かって、今、目の前の出来事は起きていると言うのです。
人間の目から見れば、イエス様を受け入れないユダヤ人は滅び、イエス様を受け入れた異邦人が救われる。もう、ユダヤ人は神の民ではなくなった。キリスト者が新しいイスラエルなのだということになりましょう。しかしパウロは、そうではないと言うのです。それは、人間の目で見えるところだけを見て判断しているのであって、それは神様の御心ではない。神様は真実な方だから、ユダヤ人を捨てるなどということはあり得ない。神様のミステリオンを知り、そこから判断しなさいと言うのです。
このパウロの指摘は、私共に日本伝道、世界伝道の明日、将来の姿へと目を向けさせます。この足かけ三年になるコロナ禍の中で、世界のキリストの教会は弱っています。主の日に集って礼拝することもままならず、聖餐に与れない教会、キリスト者は何億人といます。伝道もままならない。人と会うことが難しくなれば、伝道が難しくなるのも当然です。困ったことは、数えていけばきりがありません。高齢化も進んでいます。人というものは、上手くいっている時は自然と明るい将来を考えます。しかし今は、そういう中で明るい将来を見通すことが出来なくなっている現状があります。色々良くないことが起きますと、暗い将来しか考えられなくなって不安になります。聖書は、神様の「秘められた計画」によるならば、神様の御心によって選ばれたすべての者が救いに与ることになっていると告げます。イエス様は弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)と言われました。まだ、地の果てまで福音は伝えられていません。この富山の地においてさえ、福音に触れたことのない人がたくさんいます。先週はM・Y姉の御主人の葬式がここで行われました。M・Y姉は教会のすぐ近くに家がありますので、教会の近くの町内会の人たちが大勢来られました。その人たちが、「教会があるのは知っていたけれど、入るのは初めてだ。」「キリスト教の葬式というものは随分違うものだな。」と言っておられました。M・Y姉の御主人の葬式が教会で出来て良かったと思いました。この富山の地において、私共キリストの教会が為すべきことは山とあります。この人たちに福音を伝えていかなければならない。ですから、神様の「秘められた計画」から見れば、このまま衰退していくなんてことはあり得ないことなのです。今までもそうであったように、イエス様が来られるまでには、山もあれば谷もあるでしょう。しかし、必ず実現される神様の「秘められた計画」があるのです。それは神様の救いが完成されるまでの計画なのであって、その中で私共は生かされているのです。
3.ヨブの悔い改め
この神様の全知全能の御力について告げている旧約聖書の一つに、ヨブ記があります。ヨブ記をそのような書として受けとめている方は少ないかもしれません。皆さんも御承知のように、ヨブは無垢で正しい人でした。家族にも恵まれ、財産も豊かでした。ところが、ある日突然、家族も財産も失ってしまいます。ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1章21節)と言います。これはヨブ記の1章に記されていることです。次に、ヨブは全身ひどい皮膚病を患います。そして、自分が生まれた日を呪い、生きることを厭います。ヨブは神様に対して、どうしてこんな目に遭わねばならないのかと、激しく問うのです。途中、友人たちが現れてヨブと論争もします。しかし、ヨブは納得しません。そして38章から、遂に神様御自身がヨブに語るのです。38章1節から少し読みますと「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」このような、ヨブに対する神様の「お前はこれを知っているか」「何を知っているというのか」「お前に何が出来るというのか」と問い詰める言葉が41章まで延々と続きます。そして、42章でヨブ記は終わるのですが、最後にヨブは神様にこう答えるのです。先ほどお読みしましたところです。「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
ヨブの出遭った、最早これまでと思うほどの悲惨な出来事。神様に「どうして」と問うヨブの気持ちは誰でも分かります。ヨブの言うことはもっともです。「神も仏もあるものか」と言っても良さそうですが、ヨブは言いません。あくまで神様に対峙し、神様に問い続けるのです。その結果、ヨブは神様から直接言葉をかけられ、論争を挑まれ、神様の御支配・御業を告げられます。そして、自分は何も知らなかったと悔い改めるのです。だから「私共もヨブのように納得しなけばならない」と言いたいわけではありません。私共は自分の周りのこと、自分の身に起きたこと、そこからしか何も見えない、そういう者だということです。それが人間です。そこで「どうして」と問わざるを得ない。ヨブは神様に対して、徹底的に「なぜ」「どうして」と問い続けました。そして、神様と出会うのです。5節「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」と告白します。神様のこと、神様について、ヨブは知っていました。さんざん聞かされてきました。しかし、神様と本当に出会うということがなかった。しかし、神様の語りかけを聞き、神様と出会い、神様がおられるということを本当に知った。神様には神様のお考えがあるということを知りました。それは、ヨブにとって自らの小ささを知るということでもありました。
パウロもそうでした。神の民であるユダヤ人がどうしてイエス様を受け入れないのか、分かりませんでした。パウロも問い続けたと思います。そして、神様が秘められた計画を明らかにしてくださいました。その計画とは、罪の中にいるユダヤ人も異邦人も救う。そして、その救いの御業を完全に成し遂げるということでした。パウロはこの大いなる神様の救いの御計画を知り、自らが救いに与ったことを感謝し、異邦人伝道という、神様に与えられた使命にいよいよ励んだのです。この秘められた計画を知らされ、まだ救いに与っていない者もやがて救いに与ることを信じて、イエス様によって与えられた救いの恵みを証しし、伝えていく。それが先に救われたキリスト者の為すべきことなのです。
4.自分を賢い者と自惚れないように
パウロは25節で、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように」と告げます。先週の御言葉において、「思い上がってはなりません」(11章20節)との言葉を受けましたが、今朝与えられている御言葉においても、同じことが告げられています。神様の「秘められた計画」を知らないで、自分の判断や見通しを正しいことだと勘違いしてはならないと言っているわけです。私共はすぐに勘違いしてしまう者だからです。28~29節「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」イスラエル人は、今は神様に敵対しているように見える。しかし、神様はイスラエルの先祖たち、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセと結んだ約束・契約を忘れず、イスラエルを愛し続けておられる。「神の賜物と招きとは取り消されない」からです。これこそ、私共の救いの確信の根拠です。救いの確信は、自分を見ていても、周りを見ていても与えられません。救いの確信は、ただ私共を憐れみをもって救ってくださるという神様の御心にのみあります。
私は、この「救いの確信」というものが中々分かりませんでした。罪を犯せば、「こんな私でも救われるのだろうか。」と思ったり、都合の悪いことが起きれば、「自分は本当に神様に愛されているのだろうか。」と思ったり、中々「確信」というところに至りませんでした。自分を見ていたからです。自分を見ていても、救いの確信は与えられません。揺れるばかりです。
私はキリスト者になって46年、伝道者になって36年になります。私よりもキリスト者になってからの年数が多い方が、ここにはたくさんおられます。でも、本当に不思議だと思いませんか。私の周りには、私より真面目で、素直で、優しくて、賢くて、人の話をよく聞いて、謙遜な人はいくらでもいました。しかし、イエス様の救いに与ったのは私でした。どうして自分なのか。本当に、よく分かりません。それは勿論、神様が私を選んでくださったからなのですけれど、どうして自分が選ばれたのか、その理由はさっぱり分かりません。ここにその理由が分かる人がいるでしょうか。誰も分からないでしょう。分からなくていいのです。「分かる」という人がいれば、それは「自惚れている」のです。私共が神様に選ばれ、救われた理由は、ただ神様しか知らないことです。神様の「秘められた計画」の中でのことだからです。やがて、神様が御計画なさったすべての者たちが救いに与ることになります。その神様による大いなる救いの歴史の中で、私共は先に救われたということです。
5.ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか
パウロは、その神様の「救いの御計画」を知らされ、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」と告げます。パウロは、神様の御業を極めたり、理解し尽くすことが出来ないことを、「ああ」と言って嘆いているのではありません。この「ああ」は感嘆し、神様を誉め讃えている言葉です。神様というお方は、そして神様の御業は、理解すべきであること以上に、誉め讃えられるべきものです。私共は「主を賛美するために創造された」(詩編102編19節)からです。私共は神様に造られたのですから、神様を理解し尽くすことなど出来るはずがありません。理解し尽くすことは出来ませんけれど、神様が私共を愛してくださり、世界を愛してくださっていることは知っています。イエス様が来られて十字架にお架かりになったからです。その救いの恵みの中で、神様の救いの完成を待ち望みつつ、主を誉め讃えながら、為すべきことを為していく。それがキリスト者です。
34~35節はどちらもヨブ記からの引用です。神様がすべてを御存知であること、神様がすべてのことを始められたことを告げています。私共はこの方の御手の中で命を受け、生かされ、御国への歩みを為しています。最初に自分があるのではなく、まず神様がおられる。神様が計画し、事を始め、すべてを導き、支配されています。その中で私共は救われました。私共が何かをしたからではありません。いったい私共が如何ほどの者だというのでしょう。ただ、神様の憐れみによってです。
6.すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている
そのことをパウロは36節で、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」と告げています。これは凄い言葉ですね。私共は日常の生活においては、私が考え、私が決め、私が行動し、私が生きていると考え、感じているでしょう。しかし聖書は、そうではないと告げます。
「すべてのものは、神から出」ました。神様の御心がなければ、宇宙も、地球も、国家も、社会も、私共自身も、私共の家族も存在していないのです。私共は神様によって存在する者となりました。私共が神様を知る前から、神様は私共を知り、命を与えてくださいました。私共は両親から生まれました。両親はそのまた両親から生まれました。本人の意識とは全く関係なく、神様の「秘められた計画」の中で私共は生きる者となりました。
そして、すべては「神様によって保たれ」ています。この世界は何も問題のない世界ではありません。問題だらけです。罪に満ちています。しかし、それでも世界は滅んでいません。それは、神様の愛の御手の中で保たれているからです。そして、神様の秘められた計画における終わりの日、裁きの日が来るまで、変わることなく保たれ続けます。
そして、「すべてのものは、神に向かっています。」自分のことしか考えていない者にとって、自分の人生が神様に向かっていることなど、考えたこともないでしょう。しかし、神様によって造られたこの世界は、神様に向かって存在し、神様の御心を実現していくために用いられていきます。本人が意識しようとしまいと、そういうことになっています。このことは、神様を我が主と知った者にとっては明らかなことです。私共の日々の歩みは、御国に向かっての一日一日だということです。
7.栄光は神に
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」ことを知らされた者は、神様を誉め讃える者となります。そして、神様を見上げるたびに、主を誉め讃えるようになります。36節「栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」とパウロが告げたのは、それが習い性だったからです。この手紙はパウロの口述筆記です。パウロが語ったことを、書記が書き留めるという形で記されました。パウロは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」と言った途端に、神様を誉め讃えないではいられなかったのです。これが、主の日の礼拝によって培われたキリスト者なのです。キリスト者にとって、神様に栄光を帰すことが、生活の根底にある態度です。そして、神様の栄光のために為すことによって、自分の存在意味が与えられ、人生の目的がはっきりします。何かを手に入れることが大切なのではなく、ただ神様に栄光を帰す、それが何より大切になった者。それがキリスト者です。
主を誉め讃えつつ、遣わされている場において、健やかに御国に向かって歩んでまいりましょう。どこで生かされ、何をして生かされていようとも、そこが私共にとって「神様の御前」だからです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様はすべてを知り、すべてを支配し、すべてを導いておられます。私共の一日一日もそのあなた様の御手の中にあります。そして、私共はあなた様の「秘められた計画」の中で救いに与りました。イエス様の十字架・復活の御業により、あなた様の憐れみの中で救われた私共です。ありがとうございます。私共が自惚れることなく、あなた様の御前に歩む者として、今週の私共のすべての歩みを祝福し、顧みてください。ただあなた様だけが誉め讃えられますように。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年7月24日]