1.はじめに
ローマの信徒への手紙を共々に読み進めてきて、先週から12章に入りました。12章からは具体的な信仰生活について記されています。キリスト者としてどのように歩み、日々の生活を為していくのか、そのことが記されています。その大前提は、11章までに記されてきた福音です。イエス様の十字架・復活・昇天という出来事によって、神様の永遠の御計画の中で、ただ信仰によって、ただ恵みによって救われたということです。12章からはキリスト者の生活について記されるわけですけれど、11章までに記されてきた、ただ信仰によって救われるという福音を無視して、そこに記されている具体的な生活のあり方を全うすれば救われるという話では全くありません。ただ信仰によって、ただ恵みによって救われたのです。この救いに与った者はどのように生きるのか、そのことが記されているのです。つまり、福音によって生きるということです。それは、救ってくださった神様への感謝と喜びの生活となります。キリスト者の生活は、この感謝と喜びに貫かれています。勿論、辛いこと、大変なことだってあります。それでも、眼差しをイエス様に向けるならば、自分が神様の愛の御手の中にあることを思い起こし、必ず道は開かれていくと確信し、祈りを捧げることが出来ます。そして、それはやがて感謝と喜びの祈りへと変えられていくのです。
先週私共は、12章の1~2節から御言葉を受けました。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」これは、イエス様の救いの御業に感謝して捧げられる礼拝において、私共の信仰が整えられ、新しい心が形づくられ、そこからイエス様に対しての感謝の歩みが始まっていく。その歩みこそが、私共が捧げる礼拝なのだということです。今、主の日の礼拝を私共は捧げていますけど、この礼拝が終われば後は勝手に自分の思いのままに6日間を生きればよいということではありません。この礼拝によって私共の生活は基礎付けられ、信仰を整えられ、神様に喜ばれる歩みへと歩み出していく。そこに、「献身」というキリスト者の生活の根本が形づくられていくわけです。そして、日々の生活全体が神様に感謝し、神様を賛美し、神様に仕え、神様に献げる生活となっていく。礼拝抜きには、私共の心も生活も変わっていきません。この主の日の礼拝を捧げ続けていく中で、信仰も心も生活も変えられていく。では、どのように変えられていくのか。そのことが3節以下に具体的に語られていきます。
2.自分を過大に評価してはなりません
まずパウロが最初に告げていることは、「自分を過大に評価してはなりません」ということです。キリスト者としての新しい生活において、第一に告げられることは何かもっと大変なことかと思った、拍子抜けしたという人もいるかもしれません。確かに、自分を適切に評価するということは、とても難しいものです。周りの人の評価と自分の評価が同じになるということは、ほとんどないかもしれません。しかし、この「自分を過大に評価しない」ということが、それほどに大切で重大なことなのでしょうか。
ここで、私共は自分や周りの人を評価する場合、この世の基準で評価しているということに気付かなければなりません。2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と告げられていました。私共の評価の基準は、この世とは違うのです。それがキリスト者です。イエス様に救われたということは、神の子としていただき、心を新たに変えていただいたということです。善い悪いの基準も、何が大切なことなのかということも、神様が喜ばれることとは何なのかということも、その基準を変えていただいた。確かに先週、その変化は一度に完全に変わるということではなくて、変わり続けていくと申しました。それは本当のことです。しかし、イエス様の救いに与る前と後で、何も変わらないということはありません。
パウロは、「自分を過大に評価してはなりません。」と告げてすぐに「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と告げます。この評価は「信仰の度合いに従って」なされるものだと言うのです。「信仰の度合いに従って」というのは、少し分かりにくい言い方です。これは、たくさんの信仰があればとても慎み深くなり、信仰が少なければ慎み深さも浅くなる。そういうことではありません。これは、私共に与えられている「信仰に照らし合わせて」、あるいは「信仰の基準に従って」、「信仰の尺度、信仰の物差しによって」と言い換えた方が分かりやすいでしょう。イエス様に救われたということは、ただ恵みによって、ただ憐れみによって救われたということですから、私共に自ら誇ることなど何一つありません。それが、私共の信仰によってなされる自己評価です。もっと言えば、私共の評価の基準はイエス様ですから、イエス様の御前に出れば、イエス様に照らし合わせれば、自分は中々大した者だなどと言える人は一人もいないということです。これがはっきりしていれば、自分を過大に評価するということもないわけです。なぜなら、私共はどこまで行っても「罪赦された罪人」だからです。私共は罪人でなくなったわけではありません。ですから、自分が完全に正しい者であるかのように思うのは間違いです。しかし、同時に私共は既に罪の支配から救い出され、神様の御支配の元に生きる者になりました。ですから、自らの罪と戦うことを知っていますし、その戦いの最中に私共は今も生きています。そのことをよく弁えておきなさいとパウロは告げているのです。
イエス様によって救われた者という一点から自分を見る、自分を評価する。このことによって、私共は自分を過大に評価することがなくなると同時に、他の人と比べるということからも自由になります。私共は、人と比べれば必ず、優越感を覚えたり劣等感を覚えたりします。うらやましがったり、馬鹿にしたりする。「この世の基準」で自分や周りの人を評価している限り、私共は中々健やかになれません。しかし、神様が与えてくださった信仰から見れば、私共は「罪赦された罪人」であり、これこそ自分が何者であるかということの根本認識となります。ここで、私共は本当の自分の姿に気付かされるわけです。何が出来るとか出来ないとか、そんなことは問題ではありません。そして、このことがはっきり分かれば、他人が自分をどう評価するかということなど、大したことではないということが分かります。これによって私共は思い上がる過ちから自由になります。これは神様が与えてくださった自由です。実にありがたいものです。
3.キリストに結ばれた者の群れ
そしてこの信仰に基づく評価は、自分に対しての評価だけでは終わりません。他の人に対しての評価もこれと同じです。この世においては、何が出来るとか出来ないとか、何を持っているとか持っていないとか、そういうことによって評価するのでしょう。しかし、私共は信仰によって生きる者です。信仰によるならば、その評価は、ただ「キリストに結ばれている」という一点において為されます。キリストに結ばれているのならば、その人は神の子であり、一切の罪を赦していただいた者です。そこにだけ、私共の本当の価値があります。この価値は、永遠の命に至るほどの価値、絶大な価値です。そして、その価値を互いに認め合っている交わりがキリストの体なる教会なのです。ここでパウロは、「自分を過大に評価してはなりません。」と私共一人一人の心のあり方を告げるとすぐに、キリストの体である教会について語っています。それは、私共の信仰生活というものが、一人一人が全く違った場所で生かされ、全くバラバラな日常生活をしているように見えて、実は繋がっている。キリストの体である教会の交わりの中に生きているということです。こう言ってもよいでしょう。私共の信仰生活は、キリストの体である教会、そこにつながる交わりがなければ成立しません。教会はあってもなくてもよいものではなく、また信じる者が集まった方が都合がよいから教会を作ったわけでもありません。教会がなければキリスト者の生活は成立しない、そういうものなのです。これがキリスト教信仰の大きな特徴です。一人で神様・イエス様を信じていればよい。そのような信仰のあり方は、聖書が告げるものではありません。
さて、教会には色々な人がいます。性格も、能力も、趣味も、社会的立場も、経済的状況も、年齢も、性別も、国籍も、民族も、信仰を与えられてからの年数も、みんな違います。それらものは、この世の共同体においては意味があり、価値のあることでしょう。趣味が同じだから、社会的な立場が同じだから、集まって団体を作る。しかし、キリストの教会においては、それらの違いは単にお互いの違いを意味するだけです。そこに優劣はありませんし、価値が高いも低いもありません。その人が「キリストに結ばれている」のであれば、皆、キリストの体である教会の大切な一部分だからです。ここに健やかな交わり、健やかな人と人との関係が形づくられる道があります。どっちが偉いのでもなく、どっちが優れているのでもない。お互いが自分との違いを認めて、お互いを「キリストに結ばれている者」「罪赦された神の子」「神様に愛されている者」として尊重する交わりです。この関係性は、教会においてしか学ぶことが出来ません。この世の交わり、この世の共同体においては、その人の能力や立場によって、上下の関係が生じてしまうからです。そして、それがなければ秩序が保てないという面もあります。しかし、そのような上下の関係、あるいは強弱の関係というものは、神様に造られた人間同士の間では、本来存在しないはずです。どうしてそう言えるか。それは神様が私共を造り、愛しておられるからです。この神様の愛によって選ばれ、召され、救われたのが私共だからです。しかし、そうであるにもかかわらず、すぐに上だ下だと言い出す。それがこの世にある社会、罪人の共同体なのです。国と国同士でも同じことです。
しかし、そのような社会のただ中にあって、キリストの体である教会は新しい共同体を提示します。それが神の国を指し示す共同体です。勿論、キリストの教会も地上にある共同体であって神の国そのものではありませんし、「罪赦された罪人」の集まりですから、様々な問題も起きます。しかし、ただ「キリストに結ばれている」という一点において価値を認め合うという共同体は、この世にあっては他に類を見ない、実にユニークな存在なのです。皆さん、神の国に上下の関係や階級といったものが存在すると思いますか。あるはずがありません。それを示す教会の言葉として、「兄弟姉妹」というものがあります。キリストの教会の中では、男性は「兄弟」、女性は「姉妹」と言われます。週報などに名前が記される場合、「〇〇兄」「〇〇姉」と言います。自分より年が若くても兄・姉です。それは、神様が父となり、イエス様が長子となった神の家族だからです。神様とイエス様のもとに集うキリスト者の間に、上下の関係は一切ありません。兄弟姉妹だからです。牧師や長老・執事が偉いなどということも全くありません。それぞれ、神様の御業に仕えるために選ばれ、召し出されただけのことです、
4.キリストの体の一部
パウロは4~5節で、「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」と告げます。私共はキリストの体である教会に繋がる、各部分です。その各部分は、互いに組み合わされ、神様の御業に仕えます。「キリストの体」というのは教会を言い表している、聖書における中心的・代表的な言葉です。体というものはとても不思議です。骨・臓器・筋肉・皮膚、またそれによって構成される足や手や口や耳など、どれも同じ部分はなく、同じ動きをするわけでもなく、それでいて全体として統一の取れた動きをし、目的を果たしていきます。それに、何よりもそれぞの部分は同じ命に生きています。手も足も同じ命に生きています。最近の言葉で言えば、同じDNAを持っているわけです。
キリストの体のそれぞれの部分は全く違っています。全く違った形をしているし、全く違った動きをしますし、全く違った働きをします。違っていることが大切です。違っているということは、それぞれの働きを同じ尺度で測ることは出来ないということです。例えば、目は見る働きをしますし、手は物を掴んだりつまんだりします。目はよく物を見るためですから、物を持ち上げることは出来ませんし、その必要もありません。手は物を掴みますけれど、それがどこにあり、どのくらいの大きさなのか、目が見てくれなければ何も出来ません。耳も口も足も心臓も肝臓も血管も骨も、それぞの役割があって、代わることは出来ません。違っているのですから、それらを比べること自体に意味がありません。当然、比べる尺度もありません。大切なことは、それらが有機的に繋がり、連動して、物を運んだり、歩いたり、走ったりすることが出来るということです。それぞれが違っていなければ、そしてそれぞれが固有の働きを果たさなければ、体は行動することが出来ません。
5.恵みの賜物
キリストの体においてそれぞれが違った働きをするのは、神様から与えられている賜物が違うからです。6節で「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と告げます。私共は、神様が与えてくださった賜物が違うのですから、違った働きをするだけのことです。この賜物というのは、その人の能力というように理解しない方がよいと思います。能力と受け止めますと、必ず人はそれを比べるという過ちを犯すからです。この賜物は、神様が恵みとして与えてくださったものです。それは、その人が与えられている個性と理解した方がよいと思います。出来ることも出来ないことも全部含めた個性です。パウロがここで告げているように、賜物には色々あります。預言の賜物、奉仕の賜物、教える賜物、勧める賜物、施しをする賜物、指導する賜物、慈善を行う賜物、色々ある。勿論これだけではなくて、挙げればきりがありません。祈りの賜物、歌う賜物、人を和ます賜物、正確な事務処理を行う賜物、IT機器を扱う賜物、訪問する賜物、子どもと接する賜物、話を聞く賜物、時間を守る賜物、色々あります。笑顔や大きな声という賜物もありましょう。大切なことは、その賜物は神様が恵みとして与えてくださったものだということです。恵みとして与えられたものなのですから、それは元々神様のものです。私のものではありません。そして、神様のものなのですから、神様の御業のために喜んで献げて用いるということです。確かに神様が与えてくれた賜物だろうけれど、それを努力して磨いたのは自分だ。そう言いたい人もいるでしょう。しかしそれも、神様が努力出来る環境と力を与えてくださればこそです。ですから私共は、神様がこの賜物を与えてくださったことを感謝して、喜んで献げていけばよいのです。それが御心に適うことです。
このように申しますと、「しかし、私にはそんな人に言えるような賜物はない。」と思う人もいるでしょう。教会は色々な人が賜物を献げて動いているわけですけれど、そこには目立つ人も目立たない人もいます。牧師などは目立つ方ですね。また、奏楽者や司式者、週報を作る人、会計を担当している人、教会学校の教師、掃除をする人などは、すぐに思い浮かびます。でも、礼拝を捧げるということが教会で一番大切なことであるとするならば、何よりもこの礼拝に集っている一人一人が一番の奉仕をしている人なのです。礼拝する人がいなかったら、礼拝になりません。また、この礼拝に集うことが出来なくて、祈りをもってこの礼拝を支えている人がいます。それも大切な奉仕者です。
6.組み合わされる
さて、それぞれに与えられている賜物が献げられ、キリストの体である教会は歩んで行くのですけれど、この賜物が献げられるに際して大切なことがあります。それは組み合わされる、協調する、助け合うということです。それは愛と言ってもよいでしょう。神様を愛し、隣り人を愛し、教会を愛する。この愛に結ばれて、それぞれが賜物を献げていくことです。一人一人が勝手に自分の賜物を献げるのではありません。互いに愛し合い、互いに尊重し合い、献げていく。このことがありませんと、賜物を献げるというとても善いこと、美しいことが、単なる自己主張という最も神様が喜ばれないものになってしまう。「自分を過大に評価する」ということが頭をもたげてきてしまいます。これは、本当に気をつけなければなりません。神様から恵みとして与えられた賜物を、あたかも自分で手に入れたものであるように思い違いをして、自分を誇るということが起きてしまう。それほどまでに、自分は大した者だと思いたいのが私共だからです。これが罪というものです。私共は罪赦された者ですけれど罪人ですから、神様を誉め讃える以上に、すぐに自分が誉め讃えられたくなってしまう。この罪と私共は戦わなければなりません。パウロが最初に「自分を過大に評価してはなりません」と告げたのは、そういう意味です。「ただ神にのみ栄光あれ」です。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝私共に、ただ恵みによって救われたのだから自分を過大評価しないように、と御言葉を与えてくださいました。ありがとうございます。どうか、私共がキリストに結ばれた者として、恵みによって与えられた賜物を喜んであなた様に献げつつ、キリストの体なる教会を形づくり、互いに愛をもってあなた様の御業に仕えていくことが出来ますように。あなた様がここにおられることを証しする群れとならせてください。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年8月14日]