日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「キリスト者の生活指針」
レビ記 19章18節
ローマの信徒への手紙 12章9~13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を一緒に読み進めて来まして、8月から12章に入りました。12章からはキリスト者の具体的な生活についての勧めが記されています。少し思い起こしてみましょう。まず1節では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と告げられました。これは、私共の生活全体が礼拝によって形づくられていく。礼拝の心をもって生活する。神様に感謝し、神様を賛美し、神様に祈り、神様との交わりの中で生きる。それがキリスト者の生活なのだと告げているわけです。そして、2節において、それは「この世に倣う」ものではなくて、キリストに倣う新しい心なのだと告げられました。3~8節においては、「自分を過大に評価してはなりません。」と告げられ、ただ神様の憐れみによって救われた者であること、つまり「罪赦された罪人」という自己認識を忘れてはならないと言われました。私共の違いは、ただ神様からいただいてる恵みの賜物が違っているだけですから、互いに比べて優劣を付けるような愚かさから自由にされているはずです。この与えられている恵みの賜物を互いに重んじて、それぞれが組み合わされて、キリストの体として機能していく、それが教会なのだと告げられました。
 さて、今朝与えられている御言葉は、「キリスト教的生活の規範」となっています。ここに記されていることは、この直前に記されておりました「キリストの体なる教会」に連続しています。ですから、単にキリスト者個人がどう生きるか、生活するかということではなくて、キリスト者の生活というものはキリストの体である教会を形作ることになる。そこで大切なこと、しっかり心に刻んでおかなければならないことは何なのか、そのことが記されています。先週も申し上げましたけれど、キリスト者の生活というものは、教会とのつながり、つまり教会生活というもの無しには成立しません。これがキリスト教信仰の大きな特徴です。教会的信仰と言っても良いでしょう。教会無しに、独りで聖書を読んで祈っていれば十分。そういうものではありません。教会生活は煩わしいし、面倒くさい。確かに、そういうこともありましょう。しかし、だからといって礼拝から離れてしまえば、教会から離れてしまえば、その信仰のあり方は極めて我が儘な、自分勝手なものになってしまいます。神様中心ではなくて、自分中心になってしまいます。勿論、病気や介護や家の事情や高齢故に、礼拝に集えなくなる時もあります。しかし、それは教会とのつながりを失ったわけではありません。教会はその人たちのことを覚えて祈っていますし、その人たちも教会を思って祈っている。目には見えませんけれど、その人は教会の祈りの交わりの中に身を置いているのです。今朝もリモートで礼拝に参加している方がいます。私共はその方たちの姿を見ることは出来ませんけれど、確かにつながっています。同じ賛美を捧げ、同じ祈りにアーメンと唱え、同じ御言葉に与っている。一つの礼拝につながり、一つの命に与り、一つのキリストの体につながっています。

2.私の愛? キリストの愛?
 教会的信仰生活において最も大切なもの、それは愛です。今朝与えられた御言葉の冒頭で、「愛には偽りがあってはなりません。」と告げられています。これは直訳すれば、「愛に偽りはない」です。今朝与えられております御言葉9~13節は、翻訳の都合上幾つもの文章に分けられていますけれど、原文では一つながりの文章です。中々訳しづらいのですけれど、「偽りがない愛」とはどのようなものなのか、それは「悪を憎み、善から離れ」ないものです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」うものです。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え」るものです。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなす」ものです。新共同訳では、この愛には「偽りがあってはなりません。」とか、「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」というように、すべて命令形で訳していますけれど原文はそうなっていません。命令文ではなくて、最初にある「愛」を修飾している、こういうものだと説明している、そのような文章です。ですから、「愛には偽りがあってはなりません。」以下の所に、いちいち「愛は」と加えて訳すことも出来ます。「愛は悪を憎み、善から離れず」「愛は兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い」「愛は、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え」「愛は希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈」る、とも訳せるわけです。
 このように訳しますと、皆さんはきっと他の聖書の箇所を思い起こすでしょう。それはコリントの信徒への手紙一の13章です。「愛の賛歌」と呼ばれるところです。今、そのすべてを読む暇はありませんけれど、13章4節以下を少しお読みします。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。似ていると思いませんか。このコリントの信徒への手紙一の13章は、私が結婚の準備会を行う時、必ず学ぶところの一つです。その時、新郎になる人、新婦になる人、それぞれに「愛」という所に自分の名前を入れて読んでもらいます。例えば、「小堀康彦は忍耐深い。小堀康彦は情け深い。ねたまない。小堀康彦は自慢せず、高ぶらない。」といった具合です。大抵、それを聞いてる相手は笑います。そこで、この「愛」は私共の愛ではなく、イエス様の愛・神様の愛を告げているのです、と話すわけです。
 今朝与えられております9~13節の「愛」も、そのように受け止めて良いと思います。この愛は、何よりも神の愛、イエス様の愛です。この愛はイエス様によって示された愛、偽りなき愛です。

3.キリストの愛を受けて
しかし、結婚の準備会において、コリントの信徒への手紙一の13章の「愛」は神様の愛、イエス様の愛です、と説明して終わることはありません。それでは結婚の準備になりません。結婚を控えた二人に、「今、私共の中にこの愛があるとは言えないでしょう。しかし、イエス様はこの真の愛を私共に与えてくださいますから、この愛が与えられ続けるように祈り求めていきましょう。そして、この愛が満ちた家庭を形づくっていきましょう。そのためにあなたたちは結婚するのです。」そのように結婚される二人に勧めるわけです。今朝与えられている御言葉が命令形で訳されているのは、それと同じことです。偽りのない愛、それはイエス様の愛、神様の愛です。イエス様の十字架において証しされた愛です。そこに偽りはありません。この愛によって私共は救われました。ですから、この愛に倣って生きる。この愛が与えられることを願い求めて歩んで行く。そこに、キリスト者としての歩みがあり、キリストの体としての教会の交わりが形作られていきます。
 ここで「偽り」と訳されている言葉は「偽善」という意味です。愛しているフリをするということです。この愛するフリをしないということが、次の「悪を憎み、善から離れず」ということに繋がっていきます。「愛するフリをする」ということが悪です。この「悪を憎む」のです。これは、自分以外の人の中に悪を見出して、愛の偽善を見つけて、これを憎むということが第一にあるのではありません。勿論、そういうこともありましょう。しかし、それは二番目です。第一にあるのは、私の中にある「愛するフリをする」という悪です。この悪を憎むということです。この順番は、決定的に大切です。私共は「悪を憎め」と言われれば、大抵、自分のことは横に置いて、他の人の言葉や行動に悪・偽善を見つけ、それを憎み、糾弾することだと思ってしまいます。しかし、そのような振る舞いで明らかになるのは、実は私の罪、私の悪、私の偽善なのです。自分は正しい、自分は知っている、この人は何も分かっていない、この思い上がりです。10節で「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と告げられていますが、これは3節で「自分を過大に評価してはなりません。」と告げられたこととも重なります。この愛はイエス様の愛ですから、どこまでも謙遜で、どこまでもへりくだっていきます。フィリピの信徒への手紙2章6~8節に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と告げられているとおりです。「善から離れず」とは、このキリストから離れず、このキリストとの交わりの中でということです。このキリストと離れずに、自らの偽善・罪・悪と戦うということです。
 確かに、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の悪を指摘し、戦われました。しかし、イエス様は神様であり神の御子ですから、すべてを御存知の上でそうされたわけです。そして、何よりもイエス様は律法学者やファリサイ派の人々のためにも十字架にお架かりになりました。律法学者やファリサイ派の人々を徹底的に愛し通されました。偽りのない愛をもってそうされました。しかし、私共はイエス様と違ってほんの一部分しか知りませんし、明日を見通すことも出来ません。ですから、このイエス様の姿と自分を重ねるのはとても危険だと私は思います。私共は人間に過ぎず、赦されたといえども罪人に過ぎないからです。私共は、まず自分の中に偽りがあり、悪があることを知り、これと戦わなければなりません。そして、そのような私共に神様は真の愛を注いでくださることを信じる。神様は私共に真の愛を与えてくださり、自らの罪と戦い、イエス様の後に従っていく者へと造り変え続けてくださいます。私共はそれを信じて良いのです。やがて、私共は偽りのない愛に生きる者となります。それは神の国が完成される時です。キリストに似た者に変えられる時です。その時まで、私共のこの戦いは続きます。

4.主に仕える 
次に11節。この愛は、主に仕える愛です。イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に仕える愛です。そして、その愛はイエス様に仕えることにおいて「怠らず励」みます。しかも「霊に燃えて」励みます。嫌々、仕方なく、励むのではありません。喜びと感謝をもって、全力を注いで主の御業に仕える。それは無理して励むことではありません。
 これは教会の奉仕に限ったことではありませんけれど、嫌々やる、仕方ないからやる、というのは健やかではありません。私共の教会の各部の奉仕は、それぞれが自分で選んで、それに当たります。誰も「あなたはこの奉仕をしなさい。」とは言いません。勿論、牧師や長老に相談すれば、これが良いでしょうとアドバイスはします。しかし、大切なことは、本人が喜んで、感謝をもってそれに励むということです。しばしば私共は、「これはこうするものだ」と思ってしまって、これで良いのかなと思っても、そのやり方を変えられないというところがあります。教会での奉仕の仕方もそうです。でも、時代が代わり、メンバーも替わっていくのですから、やり方も、やることも変えていったら良いのです。この「霊に燃えて」というのは、個人の心に限ったことではありません。それより大切なことは、この愛に結ばれた交わりが霊に燃えるということです。最初は一人から始まるのかもしれませんけれど、霊に燃えるということは、野火のように燃え広がり、その交わり全体が霊に燃えるということになっていきます。勿論、その燃え方は、ぼうぼう燃えるということもあれば、チロチロと静かに燃えるということもありましょう。燃え方は色々あります。そこには豊かな多様性があります。霊に燃えるというのは、聖霊によって燃やされるということです。聖霊は自由なお方ですから、実に自由にその人に賜物を与えて用いられます。そのようにして、私共は主に仕えさせていただきます。そして、それは一時のものではなくて、「怠らず励む」と言われているように、継続的なものだということです。
 前任地にN長老という方がおられました。50年以上教会学校の教師、校長をされていた方です。以前にも、この方のことは何度かお話ししたことがあったと思います。この方は毎週、誰よりも早く教会に来て、教会学校の子どもたちを迎え続けた人です。牧師が変わろうと、無牧になろうと、誰よりも早く教会に来て、教会の玄関を明け、教会の玄関で子どもたちを迎え続けました。しかし、私が赴任した時に聞いたのは、この人の目の前で洗礼を受けた教会学校の生徒は、一人しかいないということでした。しかし、その「一人」と言う時の顔には、少しも暗かったり、残念そうな所はありませんでした。本当に嬉しそうでした。幼稚園がありましたから、教会学校の小学生は結構集まっていました。でも、中学生になるとクラブ活動をやるようになって、みんな教会学校には来なくなってしまうのです。この方は終戦後、南方戦線から引き上げてきて以来、ずっと何十年と教会学校の教師をし続けました。高齢になって施設に入っても、主の日には車椅子で教会学校から参加していました。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」という御言葉を読むと、いつも私はこの長老の姿を想い出します。この長老の姿を見て育った教会学校の教師たちは皆、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕える者とされていきました。こんなこともありました。ピアノが弾ける小学生の女の子がいました。中学生になるとその子も教会学校に来なくなりました。でもこの長老は、その子が中学生になる時に、「将来、教会の奏楽者になりなさい。」と言って奏楽者用の讃美歌をプレゼントしました。それから30年後、その人は、自分の子どもたちが教会学校に通うようになり、それから洗礼を受け、今は奏楽者になっています。神様の御業とは、そういうものなのかと思わされます。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え」る者を、神様は必ず祝福して用いてくださいます。

5.希望・喜び・忍耐・祈り
そして、この「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え」るということは、次の12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈」ることに繋がります。私共が霊に燃えて主に仕える業が、いつでも目に見える形で上手く行く、成果が上がるとは限りません。しかし、それで「もう止めた。」とはならない。それでも「喜び」をもってやり続ける。その「喜び」を支えるのは「希望」です。その「希望」によって、私共は喜びをもって主の業に励み続けることが出来ます。そして、苦難さえも「忍耐」することが出来ます。この「希望」こそ、イエス様の救いに与った者に与えられている、終末の希望、神の国の完成の希望、永遠の命の希望です。そして、この希望に生きる者はこの愛を求め、この愛に生きる者は、たゆまず祈り続けます。
 この愛が、私の中から湧いてくるものではなく、神様から与えられるものであることを知っているからです。真の愛を、あなたの愛を、与えてくださいと神様に祈るしかない。おごり高ぶることなく、相手を優れた者とすることが出来るように祈るしかない。霊に燃えて、主の業に仕え続けることが出来るように祈るしかない。希望をもって喜び、苦難にも耐えることが出来るようにと祈るしかないのです。この愛に生きる人は、具体的な困難に出遭わないなどということはありません。そして、人間的に欠けがないということもありません。それどころか、誰よりも自らの欠けを知らされ、愛のない自分を知らされる者です。しかし、それでも主に仕えたい。だから、祈らないではいられないのです。自分だけのことではありません。この愛に生きる人は、あの人のこと、この人のことを思う。だから、祈らないではいられないのです。

6.貧しい者を助ける
 そして、この愛に生きる人は、貧しい人を助け、旅人をもてなします。これはその後、修道院などを中心に、そして近代に入ってからはキリスト教諸施設がその業を担いました。このローマの信徒への手紙が書かれた頃、社会福祉のシステムがあったわけではありません。そういう中で、貧しい者を助けるという業は教会全体の慈善事業となり、キリスト教社会の文化となりました。また、この当時は、どの町にも旅館があるという時代ではありません。追いはぎもいます。当時の旅行は、文字通り命懸けでした。そのような中で旅人をもてなすことは、すべてのキリスト者にとって当たり前のことになっていき、一つの文化になっていきました。これが今でもはっきりした形で残っているのは、巡礼の道で巡礼者をもてなすという習慣でしょう。
 神様の愛は長い年月をかけて文化を形成していく。これはとても大切な点です。神様の愛は一人一人の人間を変えると共に、教会を形作り、そして文化を形成していく。私共はそのような神様の愛を注がれ、その愛に生かされているのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は私共のために御子を与えてくださいました。その愛に偽りはありません。あなた様はその愛を私共に与え、その愛に生きる者としてくださいます。あなた様が私共を救ってくださるまで、私共はあなた様の愛を知りませんでした。自分の力を頼り、自分だけで生きているかのような思い違いをしていました。しかし今や、私共はあなた様の愛を知らされました。その愛に生き切りたいと願います。どうか私共に愛を与えてくださり、自らの罪と戦い、思い上がることなく、希望をもって喜びの中、祈りつつ、あなた様の御業に仕える者としてください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年8月21日]