1.はじめに
8月最後の主の日を迎えています。毎月、最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。今はサムエル記上から順に御言葉を受けています。前回、7月最後の主の日にはサムエル記上の4章から御言葉を受けました。少し思い起こしてみましょう。
イスラエル軍は、ペリシテ軍を相手に初戦で敗北します。そこでイスラエル軍は、シロの聖所から「契約の箱」を戦場に運んできました。これで万軍の主の力によって大勝利になるとイスラエルの人々は考えました。ところが、イスラエル軍はペリシテ軍に勝利するどころか、3万人もの歩兵が倒れるという大敗北を喫してしまったのです。しかも、「契約の箱」はペリシテ人の手に渡ってしまいました。祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死んでしまいます。そして、その報告を受けると祭司エリは、席から仰向けに落ちて首の骨を折って死んでしまいました。「契約の箱」はペリシテ人の手に渡ってしまい、イスラエルに神様の御臨在はなくなり、神様の栄光もなくなった。神の民としてのイスラエルの命運はここに尽きた。もう終わった。人々はそう思った。これからはペリシテ人の支配のもとで生きていくしかない、ペリシテ人の奴隷として生きていくしかない。イスラエルを絶望が覆いました。
このイスラエルとペリシテとの戦いの時、奇跡は起きず、神様は何もしてくださいませんてした。それは、祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスに対しての神様の裁きという意味もありましたが、それだけではありませんでした。「契約の箱」を戦場に運んでくれば勝てるはずだ、神様が奇跡を起こしてペリシテ人をやっつけてくれるだろう、というイスラエルの人々の信仰に対して、神様は否と告げたということです。「契約の箱」は、神様の御臨在を保証するものではなかったからです。もし、「契約の箱」がそのような、神様の御臨在を保証するものであったとするならば、「契約の箱」は偶像になってしまいます。神様がそのようなことを良しとされるはずがありません。また、イスラエル軍はペリシテとの戦いに勝利するために「契約の箱」を戦場に運んで来たわけですが、これは自分の目的のために神様を利用するということでした。神様がそんなことを良しとされるはずがありません。神様は人間に幸をもたらす道具になることは決してありません。神様はすべてを造り、すべてを支配される主であられるからです。
2.ダゴンの神殿にて
奪われた「契約の箱」はペリシテ軍の大事な戦利品として、「ペリシテの五つ星」と呼ばれるの都市国家の一つであるアシュドドに運ばれました。そして、彼らの神であるダゴンの神殿へと運ばれて行きました。当時の戦争は民族や部族で戦うわけですが、その戦いはそれぞれの神の戦いという理解がありました。戦いに勝ったのは、その民族や部族の神が相手の神に勝ったからだと考えられていました。ですから、ペリシテがイスラエルに勝ったということは、ペリシテの神ダゴンがイスラエルの神に勝ったということであり、「契約の箱」はそれを示す大事な戦利品だったわけです。「契約の箱」はダゴンの神に戦利品として献げられました。それは、イスラエルの神がダゴンの神に敗北した、ダゴンの神の軍門に降ったということを意味しました。ペリシテの人々はそう考えて、「契約の箱」をダゴンの神の神殿に運び入れたわけです。
このダゴンという神ですが、この名前から、この神については二つのことが考えられています。一つは、魚を意味する言葉に由来していると考えて、多分、上半身は人間で下半身は魚という半人半魚の像ではなかったかと考えられています。ペリシテ人は元々海洋民族であったことから、そのように考える人がいます。もう一つは、このダゴンという名が穀物を意味する言葉が由来となっているという説で、この神は豊穣・豊作を与える神、そして後のバアルの神の父とも言われます。
このダゴンの神の神殿で何が起きたかと申しますと、5章3節「翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。」とあります。「主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた」というのは、「契約の箱」を拝むような格好になってダゴンの神の像が倒れていたということです。神様は、自らが生ける神であることをこれによって示したのですけれど、人々はそんなことは考えず、「ダゴンを持ち上げ、元の場所に据え」ました。ダゴンの神の像が倒れたので、人々は持ち上げて元の場所に戻した。これは当たり前のことですね。しかし、これはダゴンの神とは何なのかということを、はっきり示しています。ダゴンの神の像は、自分で元あった場所に移動することは出来ない。人々に持ち上げられて、そして、元の場所に据えられるしかなかった。これは、旧約において偶像について語る場合の典型的な語り方です。イザヤ書や詩編などに何ヶ所も出てきます。例えば詩編115編4節以下を読んでみますと、「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」とあります。要するに何も出来ない、人間が造った像に過ぎない。どうしてこんなものを頼りにするのかということです。更に次の日には、ダゴンの神の像は、頭と両手が切り落とされ、胴体は「契約の箱」の前に倒れていたのです。勿論、「契約の箱」に力があったということではありません。生ける神、万軍の主が、御自身が業をなさるに際して、御自身の臨在を指し示す道具として「契約の箱」を用いられたということです。そしてこの出来事は、ダゴンの神の像がただの木や石で彫った像、偶像に過ぎず、何の力もなく、天地を造られた神様、イスラエルの神様によって破壊されたことを示しています。
3.聖書の神は疫病神?
ダゴンの神はペリシテの神です。その神様の像が、こんなにも簡単にイスラエルの神の前に倒れ、ひれ伏し、破壊されたとなりますと、あのイスラエルに対しての勝利は何だったのか。ペリシテ人もダゴンの神の祭司たちも、理解不能だったでしょう。しかも、事はこれでは終わりませんでした。大変な災いがもたらされたのです。アシュドドとその周辺の人々に「腫れ物」が生じました。この腫れ物が何だったのか、正確なところは分かりませんけれど、ペスト菌が進入した箇所から一番近いリンパ節に腫れ物が発生する「腺ペスト」ではないかと言う人もおります。もしそうだとすれば、致死率50%を超える大変な疫病です。この出来事は、出エジプトの時にエジプト人たちに下された6番目の災いである「腫れ物」を思い起こさせます。エジプト人を打たれたように、神様はペリシテ人を打たれたのです。
こうなっては、ペリシテの人々も「契約の箱」をこのままにしておくことは出来ません。ペリシテの5つの都市国家の領主たちが集まって善後策を協議しました。その結果、「契約の箱」をガトの町へ移すことになりました。アシュドドの人たちは、「契約の箱」を自分たちの所に置いておくことは出来ないと主張したでしょう。他の町では、まだ腫れ物の災いは降っていなかったのでしょう。それで、ガトの町が自分の町に運んでも良いということになったのでしょう。しかし、「契約の箱」を運び入れると、ガトでも同じことが起きました。ガトの住民の「小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。」のです。「主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こし」ました。ガトの人たちもまた、このまま「契約の箱」を自分の町に置いておくことは出来ないと、次の町エクロンに送ったのです。送られたエクロンも困ります。10節に「彼ら(ガトの人たち)は神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んだ。『イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか。』」もうパニック状態ですね。
日本語では疫病をもたらす神のことを「疫病神」と言いますが、まさにペリシテの人々にとって「契約の箱」は文字通りの疫病神になったわけです。この疫病神をどうすれば良いのか。ペリシテの領主たちが再び集まり、もう一度善後策を協議しました。その結果、11節b「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」ということになりました。
4.なぜ疫病か?
それにしても、どうしてアシュドドやガトの町で腫れ物が出来る疫病が流行ったのでしょうか。ペリシテとイスラエルが戦った時は、何も起きませんでした。しかし、ペリシテに「契約の箱」が奪われて、ダゴンの神の戦利品としての扱いを受けてから、事は次々に起きました。どうしてでしょう。これについては、先ほどお読みしましたガラテヤの信徒への手紙6章7節が手がかりになると思います。こういう御言葉です。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」
「神は、人から侮られることはありません。」と聖書ははっきり告げています。神様は天地を造られたお方ですから、人間の思い通りになるような方ではありません。また、自分のために利用しようとしても出来ません。御心に反することを行っても何にもされずただ見ているだけのお方でもありません。イスラエルは自分の勝利のために神様を利用しようとしましたけれど、神様は何もされませんでした。そして、神様をないがしろにしていたホフニとピネハスをそのままにはされず、ペリシテとの戦いの中で裁かれました。そして、ダゴンの神の像の前に「契約の箱」が戦利品として献げられると、御自身が何の力もない偶像の軍門に降ったと思われ、扱われることに対しては激しく怒り、自らの力をお示しになったのです。神様を神様とする。神様を畏れ敬う。それがまことの神様、天地を造られた唯一の神様、生きて働かれる神様に対して、人間の取るべき正しい態度なのだということです。神様に対して畏れ敬うことを忘れること、神様を侮ること、それが神様に対して最も大きな罪を犯すということです。私共がイエス様を知らなかった時、私共は皆この最も大きな罪を犯していました。神様を畏れ敬うことも、感謝することも、誉め讃えることも、信頼して祈ることもありませんでした。
「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」と聖書は告げます。それは、神様を侮る者は自らに神様の裁きを招くということです。神様は確かに愛のお方です。しかし、聖なるお方です。聖なるお方は、一点の罪さえも見逃さず、裁かないわけにはいきません。このお方を侮るなら、私共には滅びしかありません。しかし、神様は御子を私共に与えてくださいました。この御子の尊い血潮をもって、私共の一切の罪を洗い流し、罪なき者と見なしてくださり、「アバ、父よ」と呼ぶことを許してくださいました。それ故に、私共は今朝も聖なる神様の御前に、誰はばかることなく進み出て、このように礼拝を捧げることが許されているわけです。まことにありがたいことです。
5.神の箱はイスラエルへ
さて、「契約の箱」はイスラエルに返されることになったのですけれど、ペリシテ人たちはその方法について、ダゴンの神の祭司たちと占い師たちに尋ねました。何気なく記されていますけれど、ここで祭司と占い師が同じように用いられています。これが偶像礼拝の特徴です。偶像礼拝の本質は「自分の役に立つ」ということですから、どうすれば上手くいくのか、得をするのか、幸を手に入れることが出来るのか、これを占いによって知ることは偶像礼拝においては全く自然なことです。神社におみくじは付き物でしょう。それと同じです。そもそも、どうしてダゴンの神に腫れ物の病気を鎮めてくれるように祈らなかったのでしょう。祈ったけれども、どうにもならなかったということでしょうか。結局どうすれば良いのか、彼らが示した手順は三つです。
第一に、手ぶらで帰してはいけない。町の数に合わせて、金の腫れ物と金のネズミを5つずつ造って、イスラエルの神に対する賠償の献げ物とする。ここでネズミと腫れ物が関係あるとされているところから、腺ペストではないかと考える人がいるわけです。もっとも、ペストがこの時代にあったのか、ネズミとペストの関係をこの時代の人たちが知っていたのか、それはよく分かりません。
第二に、乳を飲ませている雌の牛2頭に「契約の箱」と献げ物を載せた車を引かせ、牛の行くままにさせる。子牛は小屋に閉じ込める。
第三に、もし、牛がベト・シェメシュ(これはペリシテとの国境にあるイスラエルの村です)に行くならば、この大きな災いをもたらしたのはイスラエルの神だ。しかし、そちらの方向に行かなければ、今回の災いとイスラエルの神は関係ない。ただ偶然が重なっただけだと分かる、というものでした。
子牛と引き離された母の雌牛は、子牛が入れられた小屋から離れないだろう。だから、ベト・シェメシュにはきっと上らない。そのように祭司や占い師たちは思ったのでしょう。だからわざわざ、乳を飲ませている雌牛を使ったわけです。そして、牛がベト・シェメシュに向かって行かなければ、疫病が流行ったのは偶然であって、イスラエルの神とは関係ないということになります。その方が、祭司たちには都合が良いわけです。この災いがイスラエルの神によるものだということになれば、ダゴンの神は何も出来ず、イスラエルの神による疫病を鎮められない神ということになります。それではダゴンの神の権威は失墜してしまいます。それでは祭司も占い師も困るのです。しかし結果は、この2頭の雌牛に引かれた「契約の箱」を載せた車は、右にも左にもそれることなくベト・シェメシュへ向かって行きました。
こうして、「契約の箱」はイスラエルへと戻って来ました。イスラエルが「契約の箱」を取り戻したのではありません。イスラエルは何もしていません。しかし、「契約の箱」は戻って来ました。神様がその御力をもって出来事を起こし、「契約の箱」がイスラエルに戻って来るようにされたからです。「契約の箱」は偶然たまたまイスラエルに戻って来たのではありません。神様がそうなさった。それは、神様がイスラエルとの関係を破棄されなかった、神の民を見捨てなかったからです。
6.神様は神の民を見捨てない
「契約の箱」がペリシテ人に奪われた時、イスラエルの人々は「神様はイスラエルを離れた。見捨てられた。神様の栄光を見ることはもうない。」そう思いました。しかし、「契約の箱」はイスラエルに戻って来ました。神様がダゴンの神の像を壊し、疫病を蔓延させ、ペリシテ人たちが疫病神を厄介払いするように仕向けて、「契約の箱」はイスラエルに戻って来ました。それは、神様はこの時も神の民を見捨てることはなさらなかったということを示しています。今日与えられた御言葉においては「神の箱」「主の箱」と記されていますが、今日の説教において私は敢えて「契約の箱」と言ってきました。この箱の中にあるのは十戒を記した2枚の石の板です。モーセがシナイ山において神様からいただいた石の板です。ただの石の板です。そして、「契約の箱」とはそれを入れている箱です。ただの箱です。大切なのは、この石の板でも、それを入れている箱でもありません。神様がイスラエルを選んで、これと契約を結んだという出来事です。この契約によって、イスラエルは神の民となりました。イスラエルはこの石の板とそれを入れる箱を持っているから神の民なのではありません。大切なのは神様との契約です。この契約によって神の民は神の民であり続け、神様は神の民の神であり続けられるのです。神様はこの時、この契約を破棄されませんでした。神様がイスラエルの民と結んだ契約を破棄しても良さそうなこと、破棄しても当然と思われることが何度もあったことが旧約には記されています。この時もそうでした。しかし、神様はそうはされませんでした。契約というのは、どちらか一方がその契約に反することをすれば、その契約は無効になる。そういうものでしょう。ところが、神様はイスラエルが何度も何度も神様を裏切り、神様との契約に反することをしても、神様はイスラエルとの契約を破棄されませんでした。偶像礼拝に走り、他の神を拝み、十戒に違反することを繰り返しても、神様は契約を破棄されませんでした。この時もそうでした。この時、この「契約の箱」をただの箱としてペリシテの神の前に捨てておいても良かった。しかし、神様はそうはされませんでした。どうしてでしょう。それは、私共の神様とはそういうお方だからとしか言いようがありません。それが神様の真実であり、神様の愛なのです。
この神様の真実、神様の愛が決定的な形で示されたのが、イエス様の十字架・復活・昇天・ペンテコステの出来事です。イエス様は聖なる神様の御前で、滅ぼされるしかなかった私共の一切の裁きをその身に受けてくださり、十字架にお架かりになりました。そして、復活の命に与る者として私共を招いてくださいました。私共が新しく神の子とされた者として健やかに歩んで行くことが出来るように、聖霊を注ぎ、導いてくださっています。その神様の憐れみの中で、神の国への歩みを為している私共なのです。まことにありがたいことです。このことを感謝して、共に祈りを合わせましょう。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
ペリシテに奪われた契約の箱は、再びイスラエルに戻って来ました。あなた様がイスラエルを見捨てることなく、神の民であり続けることを求められたからです。そのあなた様の恵みと真実、愛と憐れみは変わることなく、私共の上にも注がれています。感謝します。どうか、私共があなた様の子・僕として、神の民として、あなた様を愛し、信頼し、従う者として歩み続けることが出来ますよう、心から祈り、願います。どうか、私共を信仰において強めてください。右にも左にもそれることなく、御国に向かってまっすぐに歩んで行くことが出来ますように。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年8月28日]