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礼拝説教

「権威はどこから来るのか」
詩編 68編33~36節
ローマの信徒への手紙 13章1~7節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と聖書は告げます。この言葉は現代において、あまり評判が良い言葉ではないかもしれません。「権威」というものが、不当な力で人々を押さえつけるもの、自分の自由を脅かすものという印象を持つからでしょう。権威主義という言葉もあります。権威を盾に取って思想や行動を制限し、権威に対して盲目的に服従させたりすることです。あるいは、すべての権力をある一人の人や特定の政治組織が独占する政治体制のことです。こんなものはご免です。勿論、聖書がそのような権威のあり方を勧めているはずがありません。しかし、この御言葉はキリスト教の二千年の歴史において、とても重要な意味を持つ言葉であり続けました。
 12章で、キリスト者は偽りのない愛で愛し合うこと、迫害する者のために祝福を祈ること、復讐はしないということを告げており、これは、キリスト者が隣り人との関わりおいてどう生きるのかということを告げているわけです。しかし、この13章においては、個人同士の関わりというよりも、キリスト者は社会とどう関わり、向き合うのかということが告げられています。そして、その最初に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と告げられている。
 私共は社会生活を営む上で、「上に立つ権威」というものと必ず関わりを持つことになります。分かりやすいところで言えば、社会に生活する以上、税金を払わなければなりませんし、法律に反することをすれば刑罰を受けたりします。税金とか刑罰というものは、国家が定めた法に従って為されることです。秩序ある社会、安定した社会であるためには、この「国家の支配」というものは不可欠なものです。どんな社会にもルールがあります。これがなければ、その社会は無政府状態のようになってしまい、泥棒や犯罪が横行してもそれを取り締まることが出来ません。そして、力だけが支配する混沌とした状況の中で生きなければならないことになってしまいます。それは悲惨な社会です。当然、弱い者は捨てられ、福祉という考えそのものが存在しない社会になってしまうでしょう。社会において秩序ある営みが為されているところにおいてはどうしてもルールが必要であり、そのルールを実効性のあるものにするために権威というものがあるわけです。今朝与えられた御言葉において告げられている権威は、第一義的には国家の権威というものです。しかし、この「上に立つ権威」というものは、国家だけの問題ではありません。この世にある共同体における営みが安定的に秩序あるものであるためには、この「上に立つ権威」というものがどうしても必要です。キリスト者はその権威とどのように関わっていけば良いのか、今朝の御言葉はそのことを告げています。順に見てまいりましょう。

2.権威に従う
 まず1節で、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と告げられます。人は社会生活を営む上で、様々な権威の下に生活しています。国家が持つ権威もありましょうし、会社や学校、そして教会においてさえも、その営みを秩序づける権威というものがあります。それは法律という形をとったり、決まり事という形をとったり、権威ある者による指導という形をとったりします。もし、それを無視したり、それに逆らって従わない人がいれば、その共同体は混乱します。それ故、聖書は、まずそのような権威を尊重し、それに従いなさいと告げているわけです。権威による秩序というものを大事にする。それが基本です。権威による秩序が全くない社会を想像するならば、それがどんなに大切かはすぐに分かるでしょう。そこは、皆が自分の思いや欲に引きずられ、自分の正義を振りかざし、互いに相争う社会となってしまうでしょう。その結果、力のある者が弱い者を支配するということになる。そのような状態が良くないことは、すぐに分かります。
 2~4節では、「従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」と告げられています。悪を行う者に対して神様に造られた権威は剣をもって報いると言います。これは通常の国家が持つ「警察権」をイメージしていると考えられます。警察は必要です。
 しかし、このように言われて私共がすぐに思い浮かべるのは、その権威がいつでも本当に正しいのかということでしょう。そして、たとえ明らかに間違ったことをしていたとしても、私共はその権威には従わなければならないのかということです。これは本当に難しい問題です。権威ある者が、力をもって自分の間違った正しさを押しつけてくるような場合でも、人はそれに従わなければならないのか。もし、そうであるとするならば、中世を通じて権威を持っていたローマの教皇に反旗をひるがえした宗教改革は間違いであったということになるのでしょうか。あるいは、王様による支配を覆して、近代社会が生まれる過程で起きた市民革命は誤りであったということなのでしょうか。

3.神に立てられた権威
ここで私共は、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」という言葉に続いている言葉をきちんと聞かなければなりません。1節b「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と聖書は告げます。つまり、国家をはじめ、この地上の権威はすべて「神に由来する」のであって、権威は神様が造られ、神様によって立てられた。この世の権威の背後には、神様の御心がある。だから、神様に従う者として、キリスト者は権威にも従いなさいと告げられているわけです。
 ここで再び思わされることは、全く神様の御心に反する権威であっても、それも神様によって造られ、立てられたのだから、私共はその権威に従わなければならないのかということです。例えば、イエス様の福音を宣べ伝えることを禁じる、迫害する、そういう国が今までもありましたし、今もあります。それも神様による権威と言えるのか。その権威に私共は従わなければいけないのか。聖書には、「そうではない」と告げているところもあります。
 使徒言行録5章27~29節です。「彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。『あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。』 ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」この場面は、ペトロと他の使徒たちがユダヤの最高法院に立たされて、「イエス様の名によって教えてはならない」と大祭司に命じられた。ところが、彼らはそれに従わない。大祭司は再び捕らえ、最高法院に立たせて、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」どうしてイエスの名によって語り続けるのか、止めなさい、と言ったわけです。ところが、ペトロはこの時、「人間に従うよりも、神に従わなければならない。」と言い放ちました。使徒たちは大祭司に命じられようと、イエス様の御名によって伝道することを止めませんでした。この時ペトロは、ユダヤ教・最高法院・大祭司といった当時のユダヤの最高の権威によって語られたことを無視したわけです。ペトロの使徒としての権威とユダヤ教の大祭司の権威がぶつかり合いました。そして、この時、ペトロは大祭司の言葉ではなく、イエス様の御言葉に従いました。たとえ神様が立てた権威であったとしても、イエス様の御心に反するこの世の権威よりも、神様の言葉に従うことが優先されなければならない。使徒言行録はそう告げているわけです。実際、こういうことは起こり得ます。この世の権威というものは、必ず過ちを犯すものだからです。

4.眼差しは天に
 ただ、ここではっきりしておかなければならないことがあります。それは、この時ペトロたちは、ユダヤ教や大祭司の権威を完全に否定して対抗し、これと戦うことはしなかったということです。ペトロたちは、ユダヤ教や大祭司や最高法院の権威を完全に否定し、これに対抗して戦い、これを廃止するために立ち上がるということはしていません。ペトロやパウロが殉教した時も、「こんなことをするローマ帝国は滅ぼし、崩壊させよう。」そのようなことをキリストの教会はしませんでした。パウロはこの手紙を書いてしばらくして、ローマ帝国によって殉教させられました。しかし、キリストの教会は、ローマ帝国に抵抗し、これを滅ぼすための運動を展開しませんでした。更に言えば、イエス様は大祭司や律法学者、最高法院によって十字架に架けられたわけです。直接手を下したのはローマの総督ポンテオ・ピラトでした。しかし、イエス様もまた、ユダヤ教と戦い、ローマと戦うようにと弟子たちを導くことはしませんでした。イエス様は彼らの権威に従って、十字架に架けられました。なぜでしょうか。どうして、そのままにしておかれたのでしょうか。それは、神様の御支配、神様の裁きというものの前で、それらはやがて消え去っていくことを知っていたからです。先週の御言葉で聞いたように、「復讐せず、神の怒りにまかせる」ことを知っていたからです。「復讐するは我にあり」と告げる神様の御支配を信じていたからです。
 こう言っても良いでしょう。イエス様も、イエス様の弟子たちも、代々の聖徒たちも、この目の前の世界がすべてだとは思っていなかった。この世の権威は暫定的なもの。やがて神の国が来て、神様の御支配が完成する、その時までのものでしかない。そのことをはっきり弁えていたからです。しかし、私共が与る救いは、永遠のものです。そのことをはっきり見据えていました。私共もしっかりそこを見ていなければなりません。

5.十字架の権威
 ここで、権威というものが神様によって立てられた以上、神様の御心に適う権威のあり方がある、ということを考えなければなりません。神様に由来する権威、神様によって立てられた権威、それは主イエス・キリスト、しかも十字架に架けられたイエス様です。ここに御心に適う、権威の姿があります。このイエス様の十字架に従う。そこに神様によって立てられた権威のあるべき姿がある。このことをこの世の権威ある者は知りません。この世の権威ある者は、自分の力によってその権威を手に入れたと考えているからです。しかし、そうではありません。神様がお立てになったのです。そうである以上、神様によって権威ある者として立てられた者は、究極の権威である神様、イエス様に従う。神様の御心を為すためにその権威を用いる。自らの栄光ではなく、神様の栄光、イエス様の栄光のためにその権威を用いるということが、求められているということです。それは権威というものが、支配するためのものであるように見えて、実は仕えるためのものだということです。神様に仕え、イエス様に仕え、神様が造られた世界に仕えるために権威はあるということです。6節b「権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。」と告げられているとおりです。それを見失う時、権威は本来のあり方を忘れてしまい、神様のものである人間を、自分のものであるかのように勝手に扱い、その命さえ軽く扱うようになってしまいます。ですから、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」という言葉は、権威ある者が自分の権威を守るために語る言葉ではありません。この御言葉は、権威ある者が自分の権威を振りかざすためには決して用いてはならない言葉なのです。
 勿論、権威というものは支配のために用いられるわけですが、その支配とは「神の支配」「神の国」を目指すように神様が与えてくださったものです。神の支配・神の国を知らずに支配する者、「権威者は神に仕える者」であることを弁えない者は、結局、自らが主人となり、王となり、神になってしまうということになる。そして、そのような権威は、神様によって滅ぼされることになります。私共はそのことを知っています。地上の権威は、神様の御心に逆らうならば、神様の裁きによって滅んでいくことになるということです。

  6.父と母の権威
 この世界の権威というものが、神様によって立てられたものである以上、そのあるべき姿があると申しました。それは、国家の権威という問題だけではありません。家庭・家族の中の問題でもあります。家庭の中にも、神に立てられた権威があります。「父と母を敬え」という御言葉によって立てられている権威です。しかし、この「父と母とを敬え」という御言葉は、父と母が、子どもに対しては神様によって権威ある者として立てられていることを意味しています。一方、父と母にとってこの御言葉は、「子に敬われるべき父と母であれ」ということを命じています。子どもに敬われるべき父と母でないのに、子どもに「父と母を敬え」と言っても、ちっとも説得的ではありません。この十戒の御言葉を根拠に、父と母が子ども対して自らの権威を上から押しつけたところで、御心に適う家庭が形作られるわけでもないでしょう。そうではなくて、子どもに敬われるべき父と母となっていく。我が子を神様が与えてくださった我が宝として慈しみ、育み、神様を畏れ、敬い、神様の御言葉に従い、互いに愛し、仕え合い、支え合う父と母の姿を見ていく中で、子どもはそのような父と母を敬うように育っていくのでしょう。
 権威ある者には、その権威によって果たさなければならない責任があります。その責任を思い、その責任を果たしている人を重んじ、敬う。それがキリスト者が権威ある者に対する態度なのです。それが7節で告げられている、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」ということなのです。

7.教会と国家、抵抗権
 最後に、この聖書の箇所、特に1節の御言葉「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」という御言葉が、教会の長い歴史の中でとても大切な御言葉とされ、影響を与えてきたことについて二点だけ触れておきたいと思います。
 一つは、キリストの教会の歴史の中で、いつの時代でも重大な問題であり、世界史的な大きな事件の背景にあった問題は、「教会と国家」の問題です。教会も国家も権威を持っています。この二つの権威が真っ向からぶつかる。この問題は、旧くて新しい問題です。中世ヨーロッパにおいては、教会の司教や大司教といった高位聖職者を、誰が選ぶのか。現代の私共の常識で考えれば、当然、教会が選ぶのでしょう、となります。しかし、中々そうはいきませんでした。王様が選ぶという国も時代もありました。王様が強ければ王様が、王様が弱くてローマ教皇が強ければ教皇が、といった具合で、この問題はずっと揺れ続けました。これが叙任権闘争という、王様と教皇との間で何百年にもわたって続いた戦いです。現在は、「政教分離」と「信教の自由」という原則が立てられることによって一応の解決を見ています。けれど、この原則がいつ破られるかは分かりません。この原則は、人類が長い時間と多くの人の血が流してたどり着いた知恵です。この原則が軽んじられてはなりません。国家がこの原則を破る時、その国家は悪魔的なものになるでしょう。人々の自由は脅かされ、国家が神となり、国家のために財産も命も差し出すように命じるでしょう。逆もまた、とんでもない教会が誕生することになります。人々の上に君臨し、この世の栄華を求める教会です。どちらもあってはならないものです。
 もう一つは、抵抗権です。国家や政府などの公権力に抵抗する個人や集団の権利です。神に仕えるとはとても思えない国家に対して、人間には神様の御心に従って抵抗する権利があるという考えです。権威は権力を持ち、権力は必ず堕落します。それに対して、抵抗することが御心に適っているという理解です。様々な市民運動などの根拠がここにあります。先ほど見ました、ペトロが最高法院において告げた「人間に従うよりも、神に従わなければならない。」がその代表的な例です。市民革命や宗教改革なども、このように理解することが出来るでしょう。

8.恐れるべき方を恐れ、敬うべき人を敬いなさい
 今朝の御言葉の最後は、「恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」です。この箇所は、新改訳聖書は「恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」となっています。この訳の方がよく分かります。更に、「人」というところを「方」とすればもっと分かりやすくなります。神様の御前に生きる者は、本当に「恐るべき方」を知っています。それは神様です。そして、その神様の御支配のために立てられ、神様の御支配に仕えている者を敬う。それが、キリスト者の社会における有り様なのだと告げています。
 この日本において、社会にある権威を否定することが正義であるかのように叫ばれた時代がありました。50年、60年前のことです。「造反有理」が叫ばれた時代です。日本基督教団はその波を直接、激しく受けました。そして、長い混乱が続きました。まだ、その余波の中にいます。しかし、私共は神の国を目指して歩む中で、神様の御心を表す秩序ある社会を、教会を、建て上げていく、そのような使命があります。そのことをきちんと受け止めていきたいと思います。

 

 お祈りいたします。

 全能の父なる神様、あなた様は私共が平和に暮らすことが出来、健やかに御国を目指して歩めるように、この社会に秩序を与えてくださっています。その秩序のために権威ある者をも立ててくださっています。その責任を負っている者たちが、あなた様の御前において謙遜にあなた様に仕える者として、その権威と力とを用いていくことが出来ますよう、祈り願います。そして私共も、あなた様を畏れ、あなた様によって立てられた者を敬い、祈りをもって支えていくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年9月11日]