日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「イエス・キリストは今どこに」
士師記 13章19~25節
使徒言行録 1章6~11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 最初に、お手元にあります「ハイデルベルク信仰問答 問46~49」をお読みします。
『ハイデルベルク信仰問答』問46~49 吉田隆訳(新教新書252 新教出版社)

問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。 

答   キリストが弟子達の目の前で地上から天に上げられ、
      生きている者と死んだ者とを裁くために
      再び来られる時まで、
      わたしたちのためにそこにいてくださる、
      ということです。

問47 それでは、キリストは、約束なさったとおり、
    世の終わりまでわたしたちと共におられる、
    というわけではないのですか。

答 キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。
    この方は、その人間としての御性質においては、
      今は地上におられませんが、
      その神性、威厳、恩恵、霊においては、
      片時もわたしたちから離れてはおられないのです。

問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、
    というわけではないのならば、
    キリストの二つの性質は
    互いに分離しているのではありませんか。

答   決してそうではありません。
    なぜなら、神性は捉えることができず、
      どこにでも臨在するのですから、
      確かにそれが取った人間性の外にもあれば
      同時に人間性の内にもあって、
      絶えず人間性と人格的に結合しているのです。

問49 キリストの昇天は、
    わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答   第一に、この方が天において御父(おんちち)の面前で
      わたしたちの弁護者となっておられる、ということ。
第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、
      ということ。
      それは頭であるキリストが
      この方の一部であるわたしたちを
      御自身のもとにまで引き上げてくださる
      一つの確かな保証である、ということです。
第三に、この方がその保証のしるしとして
      御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。
      その御力(みちから)によってわたしたちは、
      地上のことではなく、
      キリストが神の右に座しておられる天上のことを
      求めるのです。

 今日は北陸連合長老会の交換講壇で、私は朝の礼拝では七尾教会に遣わされました。富山鹿島町教会には内灘教会の畑雅乃牧師が遣わされました。この交換講壇では、聖書箇所は牧師がそれぞれ選びますけれど、牧師たちは全員、ハイデルベルク信仰問答の同じ所に基づいて御言葉を説き明かすことになっています。そのことによって、私共の教会が同じ信仰の伝統に立っていることを証しする機会としています。
 私共に今日与えられました御言葉は使徒言行録1章6~11節です。ここにはイエス様が天に上げられたこと、昇天されたことが記されています。イエス様は十字架に架かり、三日目に復活され、40日にわたって弟子たちにその御姿を現され、神の国について話されました。そして天に上げられました。そしてそれから10日後に、弟子たちに聖霊が降るという、ペンテコステの出来事がありました。十字架・復活・昇天・聖霊降臨。これがイエス様による一つながりの救いの出来事です。私共はよく「十字架と復活」という言い方をします。「この二つが大切だ。この二つをいつも忘れてはならない。ここに私共の救いの根拠がある。」といった具合に、このことは耳にタコができるほど聞いてこられたでしょう。それはそのとおりなのです。しかし、イエス様の救いの出来事は、十字架と復活で終わったわけではありません。その後に、昇天・聖霊降臨と続いています。このことを忘れてはなりません。もし、イエス様の救いの御業が十字架と復活で終わってしまったとしたら、イエス様の救いの御業は私の所にまで届かなかったでしょう。十字架と復活で終わってしまっていたら、「昔々イエス様という方がいて、十字架に架かり三日目に復活したそうだ。」「へー、そうなんだ。」で終わってしまいます。あのイエス様の十字架と復活の出来事が、私の救いの出来事となる、そのためには昇天そして聖霊降臨の出来事がどうしても必要だったのです。
 また、今申し上げましたように、昇天の出来事は、十字架・復活・昇天・聖霊降臨という一連の救いの出来事の中にあります。ですから、昇天の出来事は他の三つの出来事との関係において受け止められる必要があります。昇天の出来事には、それ自体の意味がもちろんあります。しかし、昇天の出来事だけを見ても十分にその意義を受け止めることは出来ないという面があります。それは他の三つの出来事も同じです。そのことを踏まえて、イエス様の昇天の出来事の恵みについて思いを巡らし、御言葉を受けてまいりたいと思います。
 ところで、十字架・復活・昇天・ペンテコステの中で、私共はどうも昇天を忘れがちになってしまうというところがあるのではないかと思います。例えば、イエス様が昇天された記念日は、毎年ペンテコステの二週前の木曜日なのですが、木曜日ということもあり、気が付いたらもう過ぎていた。そんなことになっているのではないでしょうか。今宵はイエス様の昇天の出来事について、その意味と恵みをご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

2.天に昇られたイエス様(1)
さて、復活されたイエス様は40日にわたって、その復活の御姿を弟子たちに現され、神の国について話され、そして天に上げられました。この時イエス様は復活の体を持って天に昇られました。イエス様の復活が「体のよみがえり」であった以上、イエス様の昇天もその復活の体を持って天に昇られたということです。イエス様は霊だけの復活ではありませんでしたし、霊だけの昇天でもありませんでした。イエス様の十字架が、手と足に釘を打たれ、体を槍で刺し貫かれた以上、その復活の体には釘の跡と槍の跡がありました。イエス様はその復活の体を持って天に昇られました。聖書は、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(9節)と記しています。「彼らの目から見えなくなった。」この時から、イエス様の姿は誰の目にも見えなくなりました。イエス様の体は、今も天にあります。地上にはありません。ですから、この時以来、イエス様の体を見た者は一人もおりません。
 さて、イエス様が天に上げられるのを見た弟子たちは、もう体を持ったイエス様を見ることは出来なくなりました。それは寂しく、悲しく、不安なことでした。イエス様が十字架にお架かりになり、もうすべてが終わってしまったと思った弟子たちでしたけれど、復活のイエス様に出会って、何も終わっていない、イエス様は私と共にいてくださる、その喜びを味わいつつ歩んだ40日でした。ところが、そのイエス様が天に上げられてしまった。今度こそ、もうイエス様を見ることは出来ない。弟子たちは、イエス様が「あなたがたの上に聖霊が降ると力を受ける」と約束され、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と告げられた言葉を信じて、祈って待ちました。弟子たちは聖霊が降るのを祈って待つしかありませんでした。14節には「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。「熱心に」というのは、「ひたすらに」ということです。もうイエス様を見ることが出来なくなってしまって、弟子たちはこれからどうすれば良いのか、途方に暮れたことでしょう。この時、彼らは祈るしかありませんでした。だから熱心に、ひたすらに祈ったのです。そして、ペンテコステの出来事が起きました。

3.ただ祈るしかなかった弟子たち
 イエス様が天に上げられた時、弟子たちは祈るしかありませんでした。そして、ここからイエス様の弟子たちの新しい歩みが始まりました。このことをしっかり心に刻んでおきましょう。弟子たちは祈るしかなかった。他に何も出来なかった。しかし、そこからイエス様の弟子たちは新しくされ、キリストの教会が建っていきました。自分たちは何か出来る。自分たちには力がある。知恵がある。それらを結集してキリストの教会は新しくなるのではありません。何もない。力も知恵も富も将来の展望も、何もない。ただ祈りしかない。そこから教会は新しくされていくのです。
 コロナ禍そして高齢化という高波をかぶり、今、日本中の教会は弱り果てています。来週の9/27(火)~29(木)に、日本基督教団の総会が二年ぶりに開催されます。コロナ禍の中で総会を開けなかったのです。その間に課題は深刻さを増しています。それをどう乗り越えていくのか、妙案があるわけではありません。しかし、祈りがあります。もう私共には祈りしかない。私共が本当にそこに立つならば、神の御手の中にある新しい明日が私共の前に広がって行くでしょう。それは、ただ神様の御業による明日です。それは私のビジョンなどというものではありません。神様の御業による全く新しい明日です。そこにしか、私共の希望はありません。

4.聖霊が降るために
しかし、どうしてイエス様は天に昇ってしまわれたのでしょうか。ずっと弟子たちと一緒にいて、御業を行い、教え導いてくだされば良かったのに。そうは思いませんか。弟子たちだって、その方がずっと良いと思ったことでしょうし、そう期待していたでしょう。しかし、イエス様は天に上げられ、弟子たちと復活の体を持ったイエス様との交わりは、40日で終わってしまいました。神様はどうしてそのようにされたのでしょうか。
 理由ははっきりしています。イエス様が復活の体を持って地上におられる限り、イエス様は限られた者としか共にあることが出来なかったからです。体を持つということは、目に見える体の持つ限界の中に留まるということです。ここにいて同時にあそこにもいる。それは肉体を持つ者には出来ません。イエス様が「天より降り、おとめマリアより生まれた」とは、イエス様は人間の体を取ることによって、まことに小さな、限定された存在になられたということです。私共を愛し、私共を救うためです。イエス様の十字架は、二千年前にエルサレムのゴルゴタの丘に立てられました。エルサレムと同時にローマにもイエス様の十字架が立ったなどということはありません。あの時イエス様はエルサレムにしかおられませんでした。肉体を持っておられたのですから、当たり前のことです。しかし、イエス様は復活されて40日後に天に上げられることによって、この地上における肉体を持っての活動を終えられたのです。次の救いの御業を為されるためです。その御業とは、ペンテコステの出来事です。御自分の霊である聖霊をすべての者に注ぐ、そのことのためにイエス様は天に昇られたのです。このことによって、イエス様はインマヌエルの道、「神は我らと共におられる」という恵みの道を完成してくださいました。もし、イエス様が天に昇られなかったとすれば、イエス様は今も地球上のどこかにおられ、それ以外の所にはおられないということになっていたでしょう。つまり、私共と共にいつもいてくださるということにはならなかったということです。
 このことは、「イエス様は今、どこにおられるのか。」という問い、この問いは小学生でも抱く疑問ですが、これに対して答えるのはそれほど簡単ではありません。しかし、以上のことを弁えるならば、このような答えになります。「イエス様は今、復活の体を持って天におられます。そして、聖霊として私共一人一人と共にいてくださいます。」実に、ペンテコステの出来事へとつながっていくために、イエス様は天に昇られたということです。私共は「イエス様は私共といつも共にいてくださる」と言いますし、そのように讃美歌でも歌います。しかし、それが意味することは「イエス様は聖霊として、いつも私共と共にいてくださる」ということです。

5.天に昇られたイエス様(2)
 イエス様は「天」に上げられました。では、改めて「天」とはどこでしょうか。それは父なる神様がおられるところです。イエス様がそこに上げられたということは、父なる神様と共にこの世界のすべてを支配し、導いてくださっているということです。また、イエス様が私共のために父なる神様に執りなしてくださっているということです。更に言えば、「天」は人間の営みが為されているすべての「地」の上に広がっています。上に「天」が広がっていない「地」はどこにもありません。つまり、私共が何をしていても、どこにいても、どんな状況にあっても、上を見上げればそこには天があります。そして、そこには父なる神様とイエス様がおられます。私共が楽しい時も、悲しい時も、順風満帆の時も、苦しい時も、上を見上げればそこには天が広がっています。職場の上にも、学校の上にも、病室の上にも、施設の上にも、天は広がっています。どこからでも、どんな時でも、私共は天に向かって祈りを捧げることが出来る。父なる神様に向かって、イエス様に向かって、祈ることが出来る。そして、その祈りを父なる神様は聞いてくださり、イエス様もそれをちゃんと父なる神様に執りなしてくださっているということです。
 しかも、天に昇られたイエス様は、聖霊を私共に注いでくださり、聖霊として私共と共にいてくださいます。このことは、イエス様は私とだけ共におられるのではなく、私と共に、あなたと共に、そして彼らと共に、いてくださるということです。私と共に、あなたと共に、そして彼らと共にです。しかも、いつも、どんな時もです。私共が神様・イエス様のことを忘れてしまっている時にもです。これは重大なことです。イエス様は自分と共にいてくださるのと同じように、あの人この人とも共にいてくださる。この事実が、私共が自分のことだけではなくて、あの人この人のためにも祈ることが出来る根拠となります。私共は自分のためだけではなく、私共の近しい人のためだけでもなく、遠く離れた人のためにも祈る。イエス様がその人とも共にいてくださるからです。イエス様がその人を守り、支え、導いてくださっているからです。

6.イエス様の体としての教会、そして聖餐
復活の体をもったイエス様は、昇天されてから今に至るまで、天におられます。そして、聖霊として私共と共にいてくださいます。しかし、私共はまことに不信仰でありますので、見えないイエス様が共におられることが分からない、信じられない、何とも頼りない、そのような状態に陥ってしまうことがあります。そのためにイエス様は、復活された御自身の体そのものではありませんが、聖霊を御臨在させて「ここにわたしがいる」ということを私共にはっきり示してくださるものを与えてくださいました。それがキリストの体である教会、そして聖餐です。教会に連なり、聖餐に与り続けることによって、私共は見えないキリストの体と一つにされるという恵みを確信します。イエス様が私と共にここにおられる、その恵みの事実を受け取ります。キリストの体である教会に連なり、聖餐に与ることによって、私が既にイエス様と一つにされていること、天の国に生き始めていること、その恵みを感謝をもって受け取ります。
 私は神学校に行く前から、「教会」という言葉を口にする度に、「イエス様」と言っているのと同じ感覚を与えられていました。イエス様が好きというのと同じように、教会が好きでした。イエス様に仕えることは、教会に仕えることでした。神学校に行って、皆がこれと同じ感覚を持っているわけではないということを知った時、少々驚きました。私は、教会がキリストの体であるということを、神学的に学んで知ったわけではありません。礼拝を守り、奉仕をしていく中で、ここにイエス様がおられるということを素直に信じて受け入れていました。それは、今も変わりません。教会がそこにあるということは、イエス様がそこにおられるということだと思っています。だから、教会は大切です。イエス様を愛する人は、教会を愛します。
 そして、聖餐において、イエス様が聖霊としてここに臨み、御言葉によって信仰を与え、キリストの体としてパンに与り、キリストの血潮として杯に与ることを、ありがたく、感謝をもって受け取ってきました。イエス様が私共の中に入ってくださり、私共と一つになってくださる。イエス様が私と共にいてくださるということをはっきりと示される聖餐を、教会はとても大切にしてきました。今コロナ禍の中で、病院や施設に入っておられる方をお訪ねしても、共に聖餐に与れないことをとても辛く思っています。この聖餐は、「イエス様はどこにいるのか。」という問いに、はっきりと「ここにいる。」と告げます。そして、イエス様は私共と一つになってくださる。イエス様と一つにしていただいた私共は、この地上の命が閉じられても、イエス様の命と一つにされた恵みを失うことはありません。これが救われたということです。

7.再臨のイエス様
 イエス様が天に上げられた時、天使たちが弟子たちにこう告げました。11節「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」実に、イエス様の昇天の出来事は、イエス様の再臨を指し示す出来事でもあるのです。イエス様は、今は復活の体を持って天におられます。その天から、復活の体を持って再び来られます。その時、私共はイエス様と一つされた者として、共に復活の体に与り、キリストに似た者に変えられます。そして、共々に御前に立つことになります。既に先に天に召された、代々の聖徒たちと共にです。その時のことを思いますと、私は心が躍ります。今風に言えば「ちむどんどん」します。イエス様が再び来られる日のことを思うと「ちむどんどん」する。そして、その時私共の心に湧き上がる祈りは、イエス様が私共に与えてくださった祈り、「御国を来たらせ給え」であり「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え」でしょう。イエス様の昇天の出来事を思い起こす度ごとに、代々の聖徒たちの心に立ち上がってきた祈りと同じです。ですから、何よりもこの祈りと一つにされて、共に祈りを合わせつつ、この一週間、御国への道を健やかに歩んでまいりたいと心から願うのです。

   お祈りいたします。

 恵みの神、我らの主よ。今宵、あなた様は御言葉によって、イエス様が天に昇られた出来事によって示された、あなた様の救いの御業を改めて明らかにしてくださいました。ありがとうございます。私共がどんな時にも、イエス様は聖霊として共にいてくださいます。そして、私共の眼差しを天に向けさせてくださり、私のために、そしてあの人この人のために祈る者へと導いてくださいます。イエス様は再び来てくださいます。その日を待ち望みつつ、この一週間もあなた様と共なる歩みを健やかに為していくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年9月18日夕礼拝]