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礼拝説教

「今はどんな時か」
イザヤ書 21章11~12節
ローマの信徒への手紙 13章11~14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
今という時代はどんな時代なのか。皆さんはどう思っているでしょうか。経済の面から、長いデフレが続いている時代、コロナ禍で景気が悪い時代、少子高齢化の時代、と思う人もいるでしょう。目を世界に向ければ、温暖化による気候変動が激しくなった時代、民主主義国家と専制主義国家の対立が激しくなった時代、食料危機が深刻になっている時代、また誰もがインターネットで情報を知ることが出来るIT革命の時代等々、その人の関心のある所から見ることによって、色々な時代に見えることと思います。そして、それらは時代の特徴、或いは課題をよく言い表していると思います。
 今朝与えられた御言葉は、この「時代」ということについて「夜は更け、日は近づいた。」と告げます。このローマの信徒への手紙が書かれたのは、今から二千年近く前のことですから、今の時代とは全く違っています。生活環境も習慣も、想像出来ないほどに違っています。車も電気も電話もありません。では、パウロが「夜は更け、日は近づいた。」と告げた時代理解はもう古いのでしょうか。今はこんな時代ではないと言えるでしょうか。もし、そうであるならば、聖書は神の言葉とは言えません。聖書が神の言葉であるということは、時代や場所を超えた本当のことを告げているのです。

2.夜は更け、日は近づいた
では、「夜は更け、日は近づいた」とはどういうことなのでしょうか。まずはっきりしておかなければならないことは、この時代理解は、神の国に照らし合わせての理解の仕方であるということです。この世の様々な制度や風潮や次々に起きる出来事を見て、この時代はこういう時代だと言っているのではありません。イエス様が来られて、我々は救われた。そして、再びイエス様が来られて神の国が完成する。しかし、まだその時は来ていない。今はその時に向かって進んでいる時代だということです。その意味では、今もまだイエス様が再び来てはおられない、神の国は完成していないわけですから、今もこの時代理解は有効です。この世は、いつの時代でも、どこの国であっても、「夜は更け、日は近づいた」ということです。2022年の現代もまた、「夜は更け、日は近づいた」時代なのです。戦争があるから、飢饉があるから、難民がいるからではありません。確かに、そのようなことが起きるのは、まだ世界が暗闇に覆われていることの「しるし」ではあります。けれど、「夜は更け、日は近づいた」というのは、神の国の完成という輝かしい時、再び来られるイエス様という朝陽に照らされた輝かしい時を、まだ迎えていないということです。
 「夜は更け、日は近づいた」という言葉がイメージしているのは、暗い夜です。「夜は更け」ています。東の方が少し明るくなってきている朝方の夜ではありません。午前零時、一時、二時といった時刻、漆黒の闇が覆う夜です。しかし、この夜は必ず夜明けを迎える。私共はそのことを知っています。夜は更けていますけれど、しかしこの夜が明ける時は必ず来る。それはイエス様が再び来られる時です。その時が来ることを私共は知っています。その時、神の国は完成し、御心が天になるごとく地にもなります。聖書は、その時は近づいた、と告げています。どのくらい近づいているのか。それは、11節cで「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」と告げています。50年前に信仰を与えられた人にとっては、その時よりも50年分だけ確実にその時に近づいたということです。この手紙が書かれたのが約二千年前ですから、この世界はその時よりも二千年分はイエス様が来られる時に近づいたということになります。勿論、イエス様が言われているように、イエス様が再び来られるのが何時なのか、それをご存じなのは父なる神様だけです(マタイによる福音書24章36節)。でも、確実にその時に近づいている。私共が一日生きれば、一日分その日に近づいているということです。ここに私共の希望があります。世界を見れば、御心に反するようなことばかり起きているように見えます。しかし、世界はその日に向かって進んでいます。
 もし、夜が明けることを知らずに夜を過ごすとしたら、私共はその闇に飲み込まれ、生きる力と希望を持つことは出来ないかもしれません。或いは、世界とはこういうものだ、人間とはこういうものだ、と思って諦めるしかありません。しかし、私共は夜が明けることを知っています。そして、その朝陽に輝く世界がどんなに素晴らしいかも知っています。不思議なことですけれど、私共は神の国の完成を見たことはありませんけれど、知っています。おぼろげではありますけれど知っており、その神の国に憧れ、その日が来ることを心から待ち望んでいます。その神の国の光が、天からの光が、既に私共の心に差し込んできています。確かに、私共の置かれている状況は、悪しき力が我が物顔に闊歩しているかもしれません。しかし私共は、やがてその闇を引き裂いて、天からイエス様が再び来られ、全き神の国が到来することを知っています。そこにおいては、すべての者の唇が主を誉め讃えています。そこにおいては、誰もがイエス様のように神様を愛し、神様を信頼し、神様に仕えています。そこにおいては、誰もが隣り人を自分のように愛しています。私共はそのような世界が来ることを知っています。

3.神の子として相応しく
 私共はその日を目指して、世界がそのようになることを願い求めて歩んでいます。それがこの地上を歩む私共キリスト者のありようです。それは「神の子として相応しく歩む」と言っても良いでしょう。或いは、「キリスト者らしく歩む」と言っても良いでしょう。それが13節で「品位をもって歩もう」と言われていることです。品位とは、「その人に備わっている気高さや上品さのこと」です。つまり、神の子として相応しく、キリスト者として相応しく歩むということは、その人の行動や言葉によって表れてくる人となりが、罪を赦されて神の子とされた者に相応しい姿・形となっているということでしょう。
 しかしそう言われると、自分は神の子として相応しい歩みをしているだろうか、キリスト者らしく歩んでいるだろうか、そのように思ってしまう人がいるでしょう。私自身、この「キリスト者らしく」とか「神の子に相応しく」という言葉に、何とも言えない辛さを覚えた時期が長くありました。私は初代のキリスト者ですので、キリスト者の手本を身近に見て育った者ではありません。ですから、キリスト者のありようというものがよく分からない、身に付いていない、そんな風に思っていました。牧師になっても、「牧師らしく」「牧師に相応しく」ということにとらわれていた時期がありました。こんな自分で良いのだろうかという迷いのようなものがありました。どこかで、「やっぱり牧師の子どもで牧師になった人は違うな。」なんて思っている自分がいました。しかし、今はそのようなことに対してのこだわりはなくなりました。私は神の子とされたのです。神の子なのです。皆さんもそうです。今のありようがキリスト者らしいか、神の子として相応しいかどうか、それを決めるのは神様です。「らしさ」にこだわっていた時、私は神様にどう見られるかではなく、人にどう見られているかということを気にしていたのではないか。少しずつそのことに気付いていきました。私は神の子とされており、そのことを心から喜んでおり、誇りに思っています。皆さんもそうでしょう。それで良い。それで十分。神様が私共を神の子と見てくださっている。それなのに、何を自分でつまらない尺度を持ち出して、ああでもない、こうでもないと思っているのか。それは実につまらないことです。私共は神様に愛されており、神の子とされている。それは動かしようのない、恵みの事実です。もし、神の子として相応しく、キリスト者として相応しくということがあるとするならば、それは「私というキリスト者の相応しさ」であり、「私という神の子とされた者の相応しさ」です。この相応しさは一人一人違います。極めて個性的なのです。イエス様という模範・モデルはありますけれど、この地上において私共はそれを目指して歩むだけです。私という神様の救いに与った者は、神様に与えられた極めて個性的な能力や性格のままで、与えられた場所で、御国を求めて歩んで行くしかありません。その姿は一人一人全く違います。そして、その違ったままの姿でキリスト者として相応しい、神の子として相応しいということなのです。

4.光の武具を身に着けよう
 しかし、「だったら何をしても良い」「どんな歩み方でも良い」となるわけではありません。先週の説教において、十戒の前半と後半、つまり「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」は分けることは出来ないと申しました。「私は十戒の前半だけで良いです。」「私は十戒の後半だけ守ります。」そんなことはあり得ません。十戒は、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」、その二つを全部ひっくるめて、自分と神様との約束・契約として受け止める以外ありません。その歩みを具体的に為していく上で、神様が私共に与えてくださったのが「光の武具」なのです。12節b「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」とあります。武具というのは、兵士が戦場において戦うために身に着けるものです。パウロは、エフェソの信徒への手紙の6章で「神の武具を身に着けなさい。」と言います。「光の武具」と「神の武具」は同じと考えて良いでしょう。「神の武具」について詳しく記されているエフェソの信徒への手紙の6章11節以下をお読みします。11~18節「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉(これは人間のことです)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
 神の武具・光の武具は、悪魔の策略に対抗するためのものです。夜は更けています。闇は濃く、深いのです。悪しき力、悪しき霊がいつでも私共の信仰の歩みを阻もうとします。様々な誘惑があり、私共の内なる罪とも戦わなければなりません。その戦いのために神様が与えてくださったのが、神の武具であり光の武具です。それは真理の帯、正義の胸当て、福音を告げる準備の履き物、信仰の盾、救いの兜、神の言葉の剣、そして祈りです。この祈りは、自分のためではなく、愛する兄弟姉妹のための祈りです。この武具は、すべて神様が備えてくださったものです。この神の武具を身にまとい、その扱いに習熟して、キリストの兵士として悪しき力と戦っていく。それがキリスト者の歩みです。

5.闇の行いを捨て
 この光の武具を身に着ける時、捨て去るべき闇の行いがあります。「闇の行い」とは、昼間、人が見ているような時には行えない、人が見ていないところでしか出来ない行いです。それは悪魔の誘惑にそそのかされてしまった行いであり、自分の罪に引きずられてしまった行いです。それが13節bに告げられています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。これを「捨てよ」と聖書は告げます。ここで同じような言葉が2回繰り返されていますけれど、要するに「酒・性(sex)・争い」です。分かりやすい例です。勿論、これだけではありませんけれど、ここに現れたのは「自分の欲望を満足させよう」として、その欲に引きずられて道を踏み外してしまう具体的な例として挙げられているわけです。そうならないように、それを「捨てよ」と聖書は告げます。
 この「捨てる」ということを、だから一切酒を飲んではならない、性的関係を全く結んではならない、と受け取らなくても良いのです。聖書においては禁酒が命じられているわけでもありませんし、性については結婚以外の性的関係が禁じられているということです。酒については、酒に飲まれるということがあるわけです。お酒を飲んでいない時には言わないようなことやしないようなことを、酒に飲まれて言ったり、したりしてしまう。酒がキリスト者としての正気を失わせてしまう。キリスト者であることを忘れさせてしまう。それはダメだと言うのです。その意味では、覚醒剤のような薬物使用も当然いけません。
 また結婚以外の性的関係については、当時のローマの社会においてはとても緩かったのです。良いことだと考えられてはいませんでしたけれど、それが本当に悪いことだと真剣に受け止められてはいませんでした。緩かった。これに対して、キリストの教会はこの問題を厳しく受け止めました。ここにキリスト教の特徴が現れていると言われるほどに、当時のローマにおいてそのような生き方は珍しく、しかし好意を持って受け止められたことでした。
 問題は「争い・ねたみ」です。これは戦争のように大きなものから、人と人とのトラブルまで幅広い問題で、これを捨てるのは本当に難しい。戦争のなかった時代がないように、キリストの教会の歴史において、このパウロの時代から今に至るまで、この「争い」というものが教会の中になかった時代はありません。また、人とのトラブルを抱えていないキリスト者もいないでしょう。この争いというものは、互いに正義を掲げてなされるもので、本当に厄介です。この世界にあっては、正義の反対は正義なんです。人と人が、国と国が、グループとグループが対立する場合、お互いに自分には正義があり、相手は間違っていると主張します。正義と正義がぶつかるわけです。ですから、お互いに引けないところまで行ってしまう。そうなってしまっては、言葉は通じません。そんなつもりで言っていないことも、エッと思うような受け止められ方をしてしまう。それはお互いにですね。そうなると、もうどうすれば良いのか困り果ててしまいます。先日、コロナのために4年ぶりに開かれた日本基督教団の総会に行ってきましたけれど、まさに会議の間中そんな状況がずっと続きました。そこに身を置いているだけでホトホト疲れ果てました。全く話がかみ合わないのです。本当に難しいと思いました。しかし、希望がないとは思いません。私共の知恵で乗り越えることは、ほとんど出来ないかもしれません。しかし、神様が事を起こしてくださる。そこに私共の確かな希望があります。

6.主イエス・キリストを身にまとう
パウロはここで14節「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と告げます。いつも申し上げていることですけれど、「私の正義」などというものは本当につまらないものです。私がどんなに正義だと思っても、絶対に正しいなどということは決してありません。正しいのは神様だけです。神様の御前に立てば、本当に過ちに満ちているのが私共です。そのような私共が、神様の御前に立つことが出来るのは、ただイエス様が私共の罪の裁きを受けてくださった、その憐れみの故です。そのことをきちんと受け止めて、ただ罪人として神様の御前に立つ。その時、私共はキリストを身にまといます。何か良いことをすることによって、キリストを身にまとうのではありません。「キリストを身にまとう」とここでは言われておりますが、同じような言葉で「キリストを着る」という言葉があります。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節でこう告げます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」洗礼を受けてキリストに結ばれ、罪人である私が神様に愛され、神様の子としていただいている。それが「キリストを着ている」ということです。キリストを着ることなく神様の御前に立てば、私共はただ罪人として裁かれ、滅びるしかありません。しかし、キリストと結ばれることによって、神様が私共をキリストを着た者として見てくださり、受け入れてくださる。だから、私共は神様の御前に立つことが出来るのです。この「キリストを着る」「キリストを身にまとう」というのは、コートのようなものを頭からかぶって全身を覆われる。そしてそのコートにはキリストと書いてある。神様はそのキリスト印のコートを見て、私共を我が子として受け入れてくださるわけです。この神様の憐れみの中に生かされている者として、隣り人と交わり、出会っていくのです。
 主イエス・キリストの救いに与り、キリストと一つにされた者は、神様によって変えられました。心の底から変えられました。新しい命に生きる者となりました。自分の思いを満たすことが一番ではなく、神様の栄光を現すことを一番とする者に変えられました。だから闇の行いと決別するのです。神様がお喜びになることが、何よりも嬉しいからです。神様を悲しませたくないからです。それはイエス様の心でもありました。イエス様が十字架の道を歩まれたのは、神様の御心を満たすためでした。神様を第一とし、神様に与えられた持ち場で精一杯、神様に喜ばれることを為していく。それが、キリストを身にまとった者として一番嬉しいことです。

  7.今がどんな時か知っている者として
 今という時代は、まだイエス様が再び来られていない時代です。ですから、私共はまだ完成された救いに生きているわけではありません。欠けもあるし、誤解もするし、神様の御心だと思ってやったけれども自分の思いを通すだけだったということだってあります。しかし、私共は神の国が完成される日が来ることを知っているし、それに憧れ、そこに向かって歩んでいます。だから、「もうダメだ」と諦めることはしません。間違ったのならば、悔い改めれば良いのです。それがキリストを身にまとった者に与えられている、希望の道です。神様がそのように導いてくださいます。パウロは、自分の歩みが欠けに満ちていることを知っていました。そして、日々悪しき力との戦いの中に身を置いていました。困難の連続でした。でも、諦めませんでした。イエス様の再び来る日が、一日生きる度に一日近くなっていることを知っていたからです。私共も知っています。ですから、夜が更けている時代の中でも、闇の力が闊歩しているような時代であっても、キリストを身にまとった者として、天からの光を受けて、光の子として、光の中を歩んで行く。既にキリストは闇に勝利されたからです。復活されたからです。私共はそのキリストと一つにされたのです。闇はもはや私共を支配することは出来ません。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉によって、イエス様が再び来られる日を待ち望みつつ、闇の業を捨て、光の武具を身に付けて、キリスト者として歩んでいくようにと勧めてくださいました。その御言葉に従って、ここから始まる新しい一週間、あなた様の子・僕とされた者として歩んでいくことが出来るよう、聖霊なる神様が私共を導いてくださいますように。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年10月9日]