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礼拝説教

「信仰・希望・愛」
申命記 7章6~8節
コリントの信徒への手紙一 12章31節b~13章13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 皆さんは、「自分にとって大切なものを三つ挙げてください。」と言われたら、どのようにお答えになるでしょうか。三つに限定されますと、ちょっと考えてしまうのではないでしょうか。私は毎年、ある大学の一泊のセミナーに招かれてお話しをしています。ここ2年ほどはコロナ禍のために泊まることが出来ず、リモートで一日で行ったりしましたが、今年は来月、一泊で行うことになっています。何年か前にこのセミナーに招かれました時に、参加する学生の方たちから事前にアンケートをとっていただきました。そのアンケートというのが「あなたが大切だと思っているものを三つ挙げてください。」というものでした。その結果は、驚くほど皆同じものを挙げていたのです。集計の結果は、それぞれ順番は違うのですけれど、①家族、②友人、③お金(仕事)、④健康、で9割でした。3年くらい続けたのですが、毎年同じ結果なので、最近はこの事前アンケートはとらないことにしました。どうでしょうか。皆さんが心に描いた大切な三つと重なったでしょうか。ちなみに、このアンケート対象の学生さんたちは20歳。それででしょう、健康は第四位です。皆さんですと、三位のお金の代わりに健康が入るのかもしれません。

2.信仰・希望・愛
 それでは、聖書は何と言っているでしょうか。今朝与えられておりますコリントの信徒への手紙一の13章13節に、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」とあります。聖書では、大切なものとして「信仰・希望・愛」というものがセットで記されています。ここは、その代表的な所です。家族も友人も健康もお金も大事ではないのか、と思われる方もいるでしょう。確かに家族も友人も健康もお金も大事です。そんなものに意味はない、そんなものは大切ではない、そんなことを聖書は言いません。でも、家族も友人も健康もお金も見えるものですけれど、聖書は、その大切な見えるものを本当に大切にし、私共の幸いに繋がっていくためには、この目には見えない「信仰・希望・愛」が必要なのだと教えてくれているわけです。
 これは、少し考えてみればすぐに分かることです。私共にとって「家族」は大切です。でも、その大切な家族を大切にするとはどういうことなのか、それはみんなが分かりきっているわけではありません。また、大切に出来ているわけでもありません。私は毎月刑務所に行って、受刑者の方とお話しする時を持っています。教誨師と言うのですけれど、8畳くらいの畳の部屋で、座卓を挟んで受刑者の方と二人きりになります。刑務官の方は同席しません。受刑者の方がキリスト者であるわけではないのですが、キリスト教の話を聞きたいという受刑者の申し出によって、お話しする機会が与えられます。その部屋で、色々な話を聞きます。どうして刑務所に入ることになってしまったのか、子どもはいるのか、奥さんはどうしている、両親はどうしているといった家族のこと、また自分の生い立ち、或いは出所したらどうしていくつもりなのかといったこれからのこと。色々なことを話してくれます。1時間くらいの時間のうち、半分はお話を聞いて、半分は聖書の話をします。ほとんど話を聞いて終わる時もあります。そこで、よく聞かされることは、小さい時から自分は両親にうとまれてきた、ということです。そんなことって本当にあるの?と思うような、壮絶な経験をしてきた人も少なくありません。家族は大切ですけれど、その家族が良好な関係を持っているとは限りません。それは、本当に辛いことです。友人に騙されたという人も多いです。話を聞いていると、とても友人とは言えない、ただ利用されていただけではないか、と思わされることも多いです。でも本人は、少ない大切な友人だと思っている。家族も友人も、いれば良いというものではないことは明らかです。
 聖書が「信仰・希望・愛」が大切だと言っているのは、家族や友人とどのように関係を結んでいけば良いのか、それを示しているわけです。それを弁えなければ、大切にしたい家族や友人との関係だって、中々難しくなってしまう。まことの幸いというものには結びつかない。そう言っているわけです。

3.結婚式で読まれる聖書箇所
 今朝与えられている聖書の箇所は、よく結婚式で読まれる箇所です。私も、結婚式の司式をする時にはこの箇所を読みますし、結婚の準備会でも必ずこの箇所を学びます。結婚は、今まで別々の環境で育ってきた二人が夫婦となって、新しい家族となっていく出発の時です。その時にここが読まれるのは、理由があります。大切な家族となっていくために、どうしても必要なことが記されているからです。そして、それが愛です。結婚するにあたって愛が大切だと告げられる。それは当然だと思われるでしょう。みんなそう思います。ところが、結婚される二人とここを読んでいきますと、どうも勝手が違う。自分が思っていた愛とは何か違う。そんな面持ちになってきます。
 4~7節を読んで見ましょう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」これが、聖書が告げる愛です。あなたたちは、これから夫婦となってこの愛に生きる者として歩んで行くのです。そう私は牧師として申します。そして、「愛」というところに、自分の名前を入れて読んでいただきます。新郎になる方にも、新婦になる方にも読んでもらいます。大抵、新郎になる方が読んでいる時には、新婦になる方が苦笑いします。新婦になる方が読んでいる時には、新郎になる方が苦笑いします。私も同じことをすれば、きっと私の奥さんは最初の「小堀康彦は忍耐強い」のところで笑ってしまうでしょう。皆さんはどうでしょうか。ぜひ、一度声に出してやってみてください。これは無理だと思われるでしょう。
結婚しようとしてる二人は、自分たちは愛し合っていると思っているわけです。「この人が好きだ。一緒にいたい。」と思っている。この思いはとても大切です。しかし、その思いが「愛」と言えるかと言いますと、聖書が告げている愛とは少し違います。「好きだ」という思いは、感情と言いますか、気持ちの話ですね。しかし、聖書が告げる「愛」は、この人を愛していくぞという意思によって形作られていく、そんな違いがあると思います。結婚というのは、まさに「この人と生涯歩んで行こう」という意思、決断をもって為されるものです。「好きだ」という思いは大切ですけれど、結婚して数年すればその人と一緒にいて「心がときめく」なんてことはそうそうなくなります。一緒に生活をしていくわけですから、当然のことです。そこで「愛がなくなった」と勘違いしてしまいますと、結婚生活は続きません。結婚は、神様の御前で約束した、その約束を守って歩んで行こうする意思によって貫かれ、保持されいきます。今、結婚式での誓約の一部を読んでみます。教会で結婚式を挙げた人は思い出してください。「あなたは、神の教えに従い、夫として(妻として)の道を尽くし、常にこれを愛し、敬い、慰め、助け、その健やかな時も病む時も、死が二人を分かつまで、堅く節操を守ることを主なる神に誓いますか。」というものです。この誓約を為した者として二人で歩む。それが夫婦というものであり、家族の始まりです。結婚すれば夫婦になり、家族なるわけです。しかし、この誓約に従って歩み続けることによって、夫婦になり続ける、家族になり続ける。そういう面もあります。ですから「釣った魚には餌をやらない」というのは、愛ではありません。

4.イエス様の愛(1)
先ほど、この「愛」のところに誰の名前を入れても無理があると申しましたけれど、この愛のところに名前を入れても、ちっともおかしくないどころか、ぴったりの方がいます。それが「主イエス・キリスト」というお方です。実際に読んで見ましょう。「イエス・キリストは忍耐強い。イエス・キリストは情け深い。ねたまない。イエス・キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」どうでしょうか。ぴったりでしょう。実は、この「愛」はイエス・キリストの愛、神様の愛なのです。ですから、人間である誰の名前を入れても無理があるのは当たり前なのですね。
 ここに告げられているイエス様の愛を一つ一つ丁寧に見ていけば良いのですが、今、その時間はありません。この中の二つのことについて、お話ししたいと思います。
 第一に、この愛は「忍耐強い」ということです。これは4節の最初に「愛は忍耐強い。」と告げられています。そして、7節のところで「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と告げられています。「すべてを忍び」と「すべてに耐える」に挟まれて「すべてを信じ」と「すべてを望み」があります。「すべてを信じ」というのは「信仰」でしょう。そして、「すべてを望み」というのは「希望」です。そして、この二つを挟んでいる「すべてを忍び」と「すべてに耐える」があります。「忍ぶ」と「耐える」は続けて言えば「忍耐」です。これは4節の最初の「愛は忍耐強い」と重なります。愛は忍耐なのです。そして、ここでも信仰・希望・愛がセットになっているのがわかります。しかし、結局のところ愛は忍耐なのかと言われると、いささかため息が出てしまうかもしれません。でも、この愛は、私共がそのような愛に生きる前に、神様がイエス様がそのような愛で私共を愛してくださった、愛してくださっている。そのことを告げています。忍耐強いというのは、中々怒らない、切れちゃわないという意味ですけれど、ここではっきり意識されているのは、イエス様の十字架です。神様は天と地とその中にあるすべてを造られ、私共も造られました。必要のすべても備えてくださいました。でも私共は、そんなことには全く関心がなく、自分の家族・友人が健康で、お金があれば最高、そんな風に考えて生きてました。そのような私共を、神様は見捨てることなく、ずっと忍耐して、御自分のもとに帰ってくるのを待ってくださいました。今も待ってくださっています。そして、最後には、御自分の独り子イエス様を十字架にお架けになって、私共の身代わりとされ、私共の一切の罪を赦してくださいました。あのイエス様の十字架に、神様の愛の忍耐強さが示されています。神様の愛は、徹底的に忍耐強いのです。ですから、私共は神様に愛され、赦され、生かされている。
 先ほど、受刑者の方の話をしました。母の愛、親の愛と言っても、分からない、経験がない、そういう人がいます。しかし、私はそのような人にも、「あなたは愛されています。信頼されています。期待されています。だから、あなたはダメな人ではありません。要らない人なんかではありません。なぜなら、天地を造られた神様があなたを愛し、すべてを赦し、『わたしと共に生きよう。』そのように招いておられるからです。だから、大丈夫です。」そのようにお話しします。これは、本当のことだからです。このコリントの信徒への手紙を書いたパウロというイエス様の弟子は、とんでもない人でした。どのようとんでもなかったかと言いますと、彼はイエス様を信じる人たちを迫害していた人だったのです。イエス様を信じる人がいると聞けば出向いていって、お縄にして捕らえてくる。そういう人だった。イエス様から見れば、全くの敵でしょう。イエス様を十字架に架けた側の人だった。ところが、イエス様が十字架に架けられて死んで、三日目に復活し、天に昇られた後、イエス様の弟子たちを捕らえようとしていたパウロに、イエス様は声を掛けます。イエス様が本当に生きて働かれる神様だということを示したのです。そして、彼をイエス様の福音を伝える伝道者として召し出し、正反対の歩みを始めさせたのです。パウロは、神様がイエス様がどんなに忍耐強く、情け深いか、我がこととして知っていました。自分のような者は、神様に裁かれ、捨てられ、滅ぼされても仕方がない者だった。しかし、神様はそれでも私を愛し、赦し、神様の御業に仕える者として立ててくださった。何とありがたいことか。だから、パウロはここで愛を語るに際して、まず最初に「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」と記したのです。

 

5.イエス様の愛(2)
 もう一つ、ここで告げられている神様の愛の特徴を申し上げます。それは「押しつけがましくない」ということです。ここに告げられていることは、みんな「〇〇しない」という言い方です。私共は、愛といえば「親切にする」とか、「困っている人を助ける」ということをイメージするでしょう。勿論、それも愛の業として大切なことです。聖書の他の箇所では「良きサマリア人のたとえ話」のように、困窮した人を身銭を切って介抱する積極的な愛の話があります。それも大切なことです。でもここでパウロが告げているのは「ねたまない。愛は自慢しない、高ぶらない。礼を失せず(失礼なことをしない)、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない。 不義を喜ばない、真実を喜ぶ。」というように「〇〇しない」という言葉を続けています。何か、消極的な感じがするかもしれません。愛というのは、もっと積極的なものではないかと思われる方もいるでしょう。そういう面も確かにあります。でも、愛というものは自分の中で完結するものではありません。必ず相手がいるわけです。その相手との関わりにおいて大切なことは、「押しつけがましくない」ということです。相手のことを思って「やってあげている」時、この「やってあげる」と思っている時点で自慢し、高ぶっているのですけれど、中々自分の思い通りに事が運ばないといら立ったり、何で感謝されないのか思ったりします。更に、「あなたのためだ」と言いつつ、相手の心や思いを無視して自分の考えを押しつけて、「あなたはこうすべきだ」みたいなことを言ってしまう。そういうことがあると思います。自分は親切のつもりでも、相手にとっては「大きなお世話」ということが少なくありません。ここで聖書は、愛はそうではありませんと言っているわけです。
 これは神様の愛の最も大きな特徴の一つではないかと、私は思っています。私共がこの地上に命を受けた時、お父さんとお母さんがいました。気が付けば兄弟がいました。そして、毎日、必要な食事をすることが出来ました。勉強をしたいと思えば、出来ました。働くことも出来ました。でも、私共はそれを「当たり前のこと」と思ってきたでしょう。でも、よく考えるならば、みんな不思議なことです。心臓に動けなんて思ったこともないのに、心臓は動き続けています。この体は、ご飯を食べれば消化してくれて、エネルギーに変換してくれます。その仕組みを全く分からないのに、大きな故障もなく、何となく動き続けてくれています。どんな仕組みなのか分からないのですから、この体は自分で作ったものであるはずがありません。それなのに私共は、この体は自分のものだと思って疑いません。でも、本当は神様のものです。神様が私共に命を与えてくださり、この体を与えてくださり、これを維持・成長させるために必要な食べ物も与え続けてくださっています。でも、多くの人はそれに気付きません。どうしてでしょう。それは私共が「鈍い」ということもあるでしょう。しかし、それだけではありません。神様の愛が少しも押しつけがましくないからです。当たり前だと感じてしまうほどに、押しつけがましくない。ですから、私共の愛も、相手が分からなくても良いのです。そっと、当たり前のように、やれることを為していけば良いのです。愛は自慢しない、高ぶらない、失礼なことをしない、自分の利益を求めない、いら立たない、のです。親は子どもに「あなたのために、私はこれだけのことをしてきてやった。」なんてことは言わないでしょう。夫婦だって同じことです。当たり前のことです。愛しているからです。でも、時々夫婦でも、親子でも「礼を失する」ことがあります。夫が妻に、妻が夫に、また親が子に対して、そして子も親に対して、「礼を失する」ような言葉を投げつけてしまうこともありましょう。それが私共の姿です。愛がないのです。

6.神様の愛を受けている
 しかし、そのような私共ですけれど、今朝、「神様の愛に生きなさい」と勧められています。愛の始めにあるのは、私共の気持ちではありません。まず神様の愛があります。その愛を私共は例外なく、受け取っています。「私は受けていません」なんて人はおりません。みんな受けています。まずはそのことに気づくことです。私共は、あれがない、これが足りない、と不足ばかりに目が向くかもしれません。しかし、私共は数えられないほどたくさんの神様の愛を受け、まことに豊かな神様の愛を注がれています。私共が今、こうして生かされているという事実。そこに、既に神様の愛が溢れています。そのことに気付いたら、「ありがたいことだ」と感謝が湧いてくるでしょう。神様の愛は既に与えられ、注がれています。ですから、まずそのことに気づく。そして、それに感謝する。その感謝の中で、私もこの神様の愛に応える者として歩んでいこう。そのようにして一歩を踏み出していく。結婚式で誓うということは、まさにそのことなのです。この神様の愛に生かされ、生きる。そのとき、私共は家族や友人との関わも健やかになっていくでしょう。
 そして、そのような愛の交わりに生きる群れとして、キリストの教会はあります。幼児から老人まで、仕事も趣味も生い立ちも社会的な立場も全く違う人たちが、ただ「神の愛に生きよう」と、ここに集っています。この神の愛に生きる歩みは、孤独ではありません。仲間がいます。共に励まし合い、祈り合って歩んでいきます。それがキリスト者であり、キリストの教会です。
 今朝、初めてキリスト教会の礼拝に来られた方がおられましたなら、ぜひ、「神様の愛に生きる歩み」を御一緒していただければと思います。教会はいつでも、どなたでも歓迎します。神様が歓迎されるからです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝あなた様は、聖書の言葉を通して、あなた様の愛に生きるようにと招いてくださいました。ありがとうございます。どうか、私共があなた様のお招きに応えて、感謝と喜びをもって、あなた様との愛の交わりを形作っていくことが出来ますように、聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年10月16日]