1.はじめに
今日は、先に天の父なる神様の御許に召された、敬愛する信仰の先達たちを覚えて礼拝を捧げています。お手元に召天者名簿があるかと思いますが、この名簿を印刷した後で一人の兄弟が天に召されました。O・M兄弟です。10月18日に天に召されました。85歳でした。ここで葬式をしてから、まだ10日しか経っていません。
この名簿にある一人一人は、天に召された時の状態や、その時までの経緯は皆違います。きっと、今朝ここに集われている御遺族の方々は、自分の愛する者が元気だった姿やこの地上での生涯を閉じて天に召された時のことを思い起こされているのではないかと思います。この名簿に記されているのは、当然、高齢になって召された方が多いのですけれど、若くして召された方もおられます。私がこの教会に遣わされて最初に行った葬式も、若い方でした。私共がいつ神様の御許に召されるのか、それは私共には分かりません。神様の御手の中での出来事です。私共は、自分でこの時に生まれようとしてこの地上での生涯が始まったのではないのと同じように、この地上の生涯を閉じられるのもまた、私共の思いを超えた、神様の御手の中でのことです。始めも終わりも神様の御手の中でのことです。ということは、私共が日々生きているのもまた、神様の御手の中でのことだということでしょう。私共は、自分の力や思いだけで生きているかのように思い違いをしているところがあります。しかし、私共は夜に寝て朝に目を覚ますわけですが、私共は自分で目を覚まそうとして目覚めるわけではなく、目が覚めてしまうわけです。それは、「今日を生きよ」との私共に対する御心の中で、神様が私共に目を覚まさせてくださっているということなのでしょう。
2.あなたはわたしのもの
今朝与えられました旧約の御言葉は、イザヤ書43章に記されている、神様が神の民であるイスラエルに対して告げられた言葉です。神様は預言者イザヤを通して、こう告げられました。1節「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」神様はイスラエルに対して「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と告げます。この時、イスラエルは小さな民族であり、弱小国家でした。東にはバビロンという大帝国があり、西にはエジプトがありました。巨大な国の狭間で、イスラエルは小舟のように揺れていました。そのイスラエルに対して、天地を造られた神様は「恐れるな」と告げたのです。何をどうしたって、イスラエルは巨大な軍事力の前に為す術もなく、飲み込まれていくしかないと思っていました。しかし、神様は「恐れるな」と告げるのです。なぜか。それは、イスラエルが「神様のもの」だからです。神様は御自分のものであるイスラエルを見捨てはしない。だから、「恐れるな」なのです。そして、神様は「あなたの名を呼ぶ」と言われます。名というのは、固有のものです。神様はイスラエルという名を呼んだ。そして、イスラエルはこの神様の呼びかけを聞きました。自分の名が神様に呼ばれている。それは、神様がわたしに目をとめ、顧みてくださり、その御手の中に置いてくださっているという証拠でした。イスラエルはこの神様の声を聞きました。神の民とは、この神様の呼びかけを聞いた者のことです。
私共の敬愛する信仰の先達たちは皆、この自分の名を呼ぶ神様の声を聞いた。そして、洗礼を受け、キリスト者となりました。この神様の声は、音声として耳で聞いたわけではないかもしれません。聖書を読んでいて、祈っていて、礼拝の中で、神様が私を愛しておられ、私に神様と共に生きる新しい人生を備えてくださっていること、神様が私の名を呼んで招いていることを知らされた。そして、私はこの方と共に生きていく。この方を愛し、この方に愛され、この方を信頼し、この方の御心を伺い、それに従っていこう。そう心に定めて洗礼を受けた。そして、キリスト者として生きた。そのキリスト者として歩んだ期間は、長い方もいれば、短い方もいます。しかし、そんな時間の長さなど全く関係ありません。この「あなたはわたしのものだ。」と言われる神様との交わりを与えられた。それが決定的に大切なのです。
3.わたしはあなたと共にいる
神様は、神の民に対して、「あなたはもう困難な目に遭うこともなければ、苦しいこともない。」と約束されたのではありません。続けて神様はこう告げられました。2節「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」「水の中を通る」ときがあるのです。しかも「大河の中」です。この大河という言葉でイメージされているのは、神通川や常願寺川のような川ではありません。ナイル川やチグリス川、ユーフラテス川といった川でしょう。向こう岸まで何kmもあるような大河です。そのような川を渡らなければならない時がある。押し流されて溺れてしまうような目に遭うかもしれない。しかし、押し流されない。火の中を歩かなければならない時がある。ここでイメージされているのは大火事、或いは戦争で村が焼かれるといった状況でしょう。死と隣りあわせの所を歩まなければならないことがある。しかし、焼かれもしないし、炎が燃えつくこともないと言われる。それは「わたしがあなたと共にいる」からだと言われるのです。
キリスト者になれば困難な目に遭いません、病気にも事故にも遭いません、平安でいられます。そんな約束を神様はしません。キリスト者だって癌にもなれば、事故に遭うことだってあります。そのような時、神様は私共を見放されたのでしょうか。いいえ、そのような時も、神様は私共と共にいてくださっています。そのことに、苦しいただ中にいる時には中々気付きません。しかし、後から振り返ってみると、あの大変な時も神様に守られていたんだ、ということが分かります。今にして思えば、神様が共にいてくださったから、すべてを投げ出すこともなかったし、自暴自棄にならずに済んだ。色々あったし、大変なこともあったけれど、守られていたな。神様が共にいてくださったんだなと思う。私共の信仰の先達たちは、そのように自分の人生を受け止めていたのだと思います。
4.キリスト者に与えられた変化
旧約において、イスラエルに対して「恐れるな」「あなたはわたしのもの」「わたしはあなたと共にいる」と告げられた神様は、その御心を主イエス・キリストというお方、御自身の独り子を世にお与えになることによって示されました。
天と地を造られたただ独りの神様、その神様の独り子であるキリストは、父なる神様と共に天におられましたが、神様の御心によって一人の人間としてマリアから生まれました。そして、すべての人間の罪の裁きを一身に受けて、十字架に架けられました。生け贄となって、私共をサタンと罪との奴隷の状態から解き放ち、神様の支配のもとに生きる者としてくださいました。このことによってキリスト者の上に起きた変化は、色々挙げることが出来ますけれど、今は三つ挙げてみます。
第一に、目に見える富や社会的地位を得ることが一番大切なことではなくなった。それは、もっと大切なことがあることを、はっきり知らされたからです。神様と共にある命、肉体の死では終わらない命があることを知らされたからです。
第二に、神様を愛し、神様に仕え、人を愛し、人に仕えることが何より大切なことになりました。それは、自分の人生の主人が自分ではなくなった、神様が主人となったからです。そして、神様が与えてくださった人生を精一杯生きる。それで良い、それが良いということを知りました。
第三に、謙遜になった。それは神様の大きさを知り、同時に自分の小ささを知ったからです。それまでは自分が一番だと思い、自分は大した者だと自惚れていました。しかし、神様の御前に立って、自分の小ささを知りました。自分のことしか考えていない、考えることが出来ない、何と弱く、小さく、卑しく、罪に満ちた者であるかを知ったからです。
このようなことは、いくらでも挙げることが出来ます。しかし、このようなことを挙げていきますと、敬愛する信仰の先達たちの具体的な顔を思い浮かべて、「あの人は本当にそうだったな。」と思ったり、或いは「あの人はそんな人じゃなかった。」などと思われる方もいるでしょう。この地上にあっては、今挙げました三つのことだけでも十分に得心して、そのように完全に変えられるということはないかもしれません。そのように完全に変えられるのは、終末の時です。しかし、たとえこの三つのことだけでも、しかもたとえほんの少しでも分かったなら、そして変えられたのなら、それは大変なことです。それは神様が与えてくださった知恵であり、神様が与えてくださった変化だからです。そして、この変化が与えられた者がキリスト者なのです。
この変化について、今朝与えられました新約聖書のローマの信徒への手紙14章ではこう告げています。
5.主と愛の絆で結ばれて
7~8節を見て見ましょう。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と告げています。これは大変有名な御言葉なのですけれど、少し誤解されやすい御言葉ですので説明します。ここで「自分のために生きる」人とか「自分のために死ぬ」人というのは、自分のことしか考えない、自分勝手な利己主義者といった意味ではありません。これは翻訳するのが大変難しいのですけれど、「自分のために生きる」と訳されている言葉は、「自分に相対して、自分と向き合って生きる」ということです。これは、全く単独で、自分だけで生きる、自分一人の世界に生きるということです。しかし、そんな命はない。私共の命というものは単独で存在しているのではなく、誰かと相対して、誰かと向き合って生きている。別の言い方をすれば、誰かとの交わりの中に私共の命はあるということです。この交わりを愛と言っても良いでしょう。この私共の命を命たらしめている交わり、それが神様との交わりなのです。このお方と向き合い、このお方と出会い、私共は自分の小ささと共に、命のありがたさを教えていただいた。そして、この方が私共に、隣り人との健やかな愛の交わりを与えくださった。私共はこの隣り人との交わり、そしてその交わりを与えてくださった神様との交わりによって、本当に生きる者になった。ですから、8節で「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と言われているのは、「私たちが生きるとすれば、主と相対して、主との交わりに生きている。そして、死ぬとしても、私たちは主と相対して、主との交わりの中で死ぬ」ということなのです。
キリスト者になったら、何をしていても神様のため、イエス様のため、そのことをいつも思って、毎日生活するということではありません。いちいちそんなことを考えて生きているキリスト者なんていません。「主のために生き、主のために死ぬ」というのは、神様・イエス様と結ばれた絆、愛の交わりの中で生きるし、たとえ死んでもその交わり、その絆と共にあるということです。キリスト者は、何をしていてもキリスト者です。キリスト者らしい温泉の入り方やうどんの食べ方なんてありません。キリスト者はゴルフをしない、盆栽をやらない、テレビゲームをしない、漫画を読まない。そんなことは全くありません。何を食べ、何をしても良いのです。勿論、十戒に反するような、他人の権利を奪うようなことをしてはいけないのは当たり前です。しかし、食べたい物を食べ、飲みたい物を飲み、やりたいこと、好きなことをやったら良いのです。そして、何をやっていても、キリスト者はキリスト者です。お祈りしている時だけ、教会にいる時だけキリスト者なのではありません。いつでもキリスト者です。それは、いつでも、どこにいても、何をしていても、神様との交わりの中にあり、キリストと愛の絆で結ばれているということです。そして、少しでも御心に適った歩みをしたいという素朴な思いがあるということです。私共の敬愛する、先に天に召された方々は、この神様・イエス様との交わりの中に生きた。そして、その交わりの中で、私共との交わりも与えられたということです。キリスト者にとって、妻が与えられ、夫が与えられ、我が子が与えられた、そして友が与えられたということは、まさに、文字通り神様によって与えられたのです。神様との愛の交わりの中で、具体的な隣り人との交わりが与えられた。その交わりの中で生かされ、この地上の生涯を歩んだ。それが、敬愛する先に天に召された方々の人生だったのです。
6.イエス様は生きている者にも死んだ者にも主となられた
9節を見ましょう。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」とあります。イエス様はマリアから生まれて、人として生き、神様の御心をはっきりと示す様々な教えを語り、神の御子である力と権威を示す様々な奇跡をなさいました。そして、私共の罪の裁きの身代わりとして十字架の上で死なれました。しかし、それで終わりませんでした。三日目に復活され、弟子たちにその御姿を現され、そして天に昇られました。このことによって、イエス様は、肉体の死では終わらない命を示されました。そして、イエス様は、御自分を「わが主・我が神」と信じる者を、その信仰によって御自身と強い絆で結び、一つとされ、イエス様の復活の命をもお与えになりました。実にイエス様は、私共がこの地上で生きている時の主人であられるだけでなく、死んで後も、肉体の死を超えて主人となってくださいました。イエス様がその名を呼んで、「わたしに従って来なさい。」と告げた者、その御声を聞いてイエス様を信じた者と、イエス様は決して断ち切られることのない絆・愛の交わりで結ばれました。この絆は、肉体の死によっても断ち切られることなく、ずっと繋がっています。この絆によって、地上の生涯を閉じたキリスト者は、父なる神様とイエス様がおられる天の御国へと招かれるのです。
7.わたしたちは主のもの
8節の後半の御言葉を見て終わります。「従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と聖書は告げます。私たちは主のものです。それは主イエス・キリストが私共の主人であり、私共をすべての悪しき力から守ってくださるお方であるということです。私共が主のものであるということを、聖書では「羊飼いと羊」のイメージで語ります。代表的な御言葉を幾つか見てみます。
詩編23編1~4節「主は羊飼い、(羊である)わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
詩編100編3節「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」
ヨハネによる福音書10章14~15節。イエス様の言葉です。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
羊飼いは羊を餌のある所や水場に連れて行きます。羊を狙う狼などの獣からも守ります。私共が主のものであるということは、良き羊飼いに守られた羊のように、実に安心であり、すべてを備えられて生きることが出来るということです。そして、そのイエス様の守りと導きは、肉体の死が持つ、すべてを滅ぼすと思われる力からさえも、私共を守ってくださるということです。イエス様は復活によって死を打ち破られたお方だからです。まして、死以外の力など、イエス様の守りの御手の中では、全く無力です。私共も、先に天にされた方々も、共に「イエス様のものとされている幸い」を与えられました。このことを心に刻んで、共に祈りを合わせ、御名を誉め讃えたいと思います。
お祈りいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
今あなた様は、聖書の言葉を通して、私共が主のものとされており、主と共に、主の守りの中に生かされていることを示してくださいました。ありがとうございます。私共は、目に見えるものだけが真実であるかのように思い違いをしてしまうものです。しかし、今朝私共は、目に見ることの出来ない、あなた様との愛の交わり、肉体の死さえも断ち切ることの出来ないあなた様との絆で、結ばれていることを知らされました。感謝します。どうか、私共がどのような状況の中にあっても、この壊されることのないあなた様との愛の交わりの中に生かされていることを覚え、健やかに御国に向かって歩んで行くことが出来ますように。そして、先にあなた様の御許に召された、敬愛する兄弟姉妹の御遺族の方々もまた、この恵みの中に生かされていくことが出来ますよう、導いてください。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年10月30日]