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礼拝説教

「確信をもって歩む」
詩編 34編2~11節
ローマの信徒への手紙 14章18~23節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を共々に読み進めて、14章に入って4回目の御言葉を受けます。14章は、ローマの教会で起きていた食事をめぐる対立、それを何とか鎮めたいと願って記された所です。先週与えられた御言葉では、17節「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と告げられておりました。教会の中の話をしながら、パウロはいきなり「神の国は」と語ります。それは、教会というものが「神の国」を指し示し、神の国がここに始まっていることを明らかにする存在だからです。やがて来る神の国においては、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」が満ちているかもしれないけれど、この地上の教会においてはそうはいかない。色々問題もあるし、実際、食べ物のことで教会が分裂してしまうかもしれないような危機を迎えているではないか。パウロはそのようには全く考えません。パウロは、「神の国は飲み食いではない。聖霊によって与えられる義と平和と喜びです。」と告げ、だから平和を求めよう、もう裁き合わないようにしよう、互いの向上に役立つことを求めよう、そう勧めます。それは、教会というものが、この地上にありながら神の国、神様の御支配がここに始まっていることを証しする、そういう存在だからです。
 こう言っても良いでしょう。イエス様は、御自分の許に来た人々に向かって、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と言われました(マタイによる福音書5章13~14節)。地の塩・世の光とは、この世界にとってなくてはならない存在だということです。まことの神様を知り、その御支配の中に生き始めている者。また、神様を指し示し、神様の御支配を証しする者。それが「地の塩」であり、「世の光」であると言われました。それは、世はまことの神様を知らず、その御支配がどのようなものであるのか知らないけれど、あなたがたは知っている。知っているだけではなくて、その御支配の恵みの中に生きている。それこそ、この世界が求めて止まないものだからです。イエス様は「地の塩になれ」「世の光になれ」と言われたのではありません。「地の塩である」「世の光である」と告げられました。世は塩を求め、光を求めている。その世に対して、キリスト者は「それはここにある」ということを示す。そのような者として召され、生かされている。私共が自分に対してどのような評価を下そうと、そんなことは全く関係ありません。神様がそのような者として私共を見ておられ、そのような役割を与えてくださっているということです。それがキリスト者というものであり、教会というものなのです。

2.神に喜ばれる
18節「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。」とパウロは告げます。神様の救いの恵みに生きるキリスト者、神の国に生き始めているキリスト者。それは、神様に喜ばれる存在だと言うのです。神様は私共を喜んでくださる。これは素晴らしいことではないでしょうか。私共はしばしば、「私は神様を悲しませている、罪深い者です。」と祈ります。イエス様の十字架によって罪を赦され、新しく神の子とされていながら、神様の御心に反するようなことを言ったり、行ったりしてしまうからです。確かに、私共は罪赦されましたけれども、罪を犯さない者になったわけではありません。罪も犯します。しかし、私共はキリストの救いの恵みの中に生かされています。ですから、主の日の度ごとにここに集い、父・子・聖霊なる神様を拝み、賛美し、礼拝しています。そのような私共を神様は喜んでくださっている。これは、自らの罪を知ると同時に、私共がはっきり知っておかなければならないことです。神様は私共をお嫌いになったりするどころか、喜んでおられる。だから、私共も神様の御前に出て、喜ぶのです。神様が喜んでくださらなかったら、どうして私共が喜べましょう。これは誰にでも分かることです。眉間にシワを寄せ、しかめっ面をしている人の前に来て、喜べますか? 喜べないでしょう。それと同じです。私共の喜びの礼拝の一番のベースにあるのは、この神様の喜びです。神様が喜んでおられるから、神様の御前に出て私共は喜ぶことが出来ます。この神様の喜びに支えられて、喜びの礼拝が成立しています。

3.人に信頼される
 更にパウロは「人々に信頼される」と告げます。「自分は、そんなに人に信頼されているかな?」と思う方もおられるでしょう。確かに、この富山においてキリストの教会やキリスト者が、そんなに人々から信頼されているようには思えないということがあるかもしれません。信頼よりも、何も知らないので「得体の知れない者」と見られている、そういうことがあるかもしれません。しかし、それは「知らない」からであって、知れば話は違ってくるでしょう。人は皆、その深い所で、神様の救いを、神様との交わりを求めているものだからです。神様はそのような者として人間を造られたからです。ですから、神様の救いに与った私共を知るならば、それは「地の塩」「世の光」として憧れ、信頼されるに違いない。しかし、この「知る」、或いは「知られる」ということには時間がかかります。個人が知るということにおいても時間がかかりますが、その文化・社会において一般的に知られるようになるまでには、相当な時間がかかります。
 この手紙が書かれた頃、ローマは既に大都市でしたけれど、そのローマの町にキリスト者はどれほどいたでしょう。小さな群れだったに違いありません。しかし、パウロはこの時既に「キリスト者もキリストの教会も必ず人々に信頼される」という、揺るぎない自信・確信を持っていました。それはキリスト者・キリストの教会は「地の塩」であり「世の光」なのですから、人々がこれを求めないはずがないからです。神様の御支配がここに始まっていることを知るならば、自分もそこで生きたい、そう思うに違いない。それは本当のことです。そして、それを知らせる務めを与えられているのが、私共なのです。
 先日、M・Y姉がチューリップテレビのニュース番組で取り上げられていました。3分40秒ほどのものでしたが、まだチューリップテレビのホームページで見ることが出来ます。私共の教会の礼拝堂とオルガンも映っていました。現在入院されている病院のロビーで、Yさんと病院のスタッフが一緒にピアノを弾く姿が映され、Yさんの声と姿を久しぶりに見ることが出来ました。Yさんのことですから、キリスト者であることもはっきり証しされていました。キリスト教に今まで触れたことのない病院のスタッフたちは、Yさんの姿を通じて、キリスト教を知るということになった。そして、その人たちは決してキリスト教を悪いものだとは思っていないでしょう。このように、キリスト教は私共の存在やありようを通して、人々に信頼されていくということになっていくのでしょう。いつでも、どこでも、キリスト者もキリストの教会もそのような役割を担っています。「私を見ないでください。私を見たらつまずきます。私じゃなくて、イエス様・神様を見てください。」と言いたくなるかもしれません。けれど、人々はやっぱり目の前のキリスト者を見て、神様というお方を見るのでしょう。
 一昨日・昨日と北陸学院大学のバイブル・セミナーに行ってきました。2回の講演と夕拝の御用をしてきました。どこまで届いたか心許ないところがありますけれど、富山県から通っている一人の学生が、自分の家のある町を私に告げて「キリスト教会があるかな?」と言ってきました。教会があることを教えると「行ってみる」と言いました。嬉しかったです。本当に嬉しかった。私の今回の働き以上に、北陸学院における日々の教育という業を通して、神様・イエス様を紹介し伝える良い働きが、このような形で現れたのだと思わされました。

4.「だから」「それなのに」
 19節「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」とパウロは告げます。キリストに仕えるキリスト者は、神様に喜ばれ、人々に信頼される者であり、その存在をもって神様の愛・憐れみ・真実を証ししていく。だから、互いに平和を求めよう、互いに向上していくようにしよう、とパウロは告げます。そうでなければ、神様の御支配がここに来ているということを証し出来ないではないか、ということです。「平和」が神の国の証しになることは分かります。神の国が平和であることは当然でしょう。だから、これを求めていきましょうというのは至極もっともなことです。逆に、互いに争っていたのでは、ここに神様の御支配が始まっていることを証し出来ない。これも自明なことでしょう。
 もう一つの「互いの向上」というのは、中々訳すのが難しい言葉です。口語訳では「互の徳を高めること」、新改訳では「お互いの霊的成長」と訳されています。新しい聖書協会共同訳では「互いを築き上げる」と訳されまた。直訳すると「建物を追う」となって、よく分かりません。それで日本語に訳す時に意味を補って訳しているわけです。「互いの向上」、「互の徳を高めること」、「お互いの霊的成長」というのは、キリスト者が互いに信仰において、霊的に向上していくということをイメージしているわけです。しかし、ここには「建て物」という言葉が使われているわけで、それを考えますと「教会を建て上げていく」というイメージも大切ではないかと思います。いずれにしても、神の国・神様の御支配がここに始まっていることを証ししていくことを弁えて、平和を求め、教会がキリストの体として建て上げられていくように、互いに霊的に、信仰的に向上していくことを追い求めていこう。そうパウロは告げているわけです。
 それなのに、ローマの教会の状況はどうかと言いますと、食べ物のことで互いに対立し、相手を軽んじ、裁いている。これで、どうして神様の御支配を証し出来ますか、と言っているわけです。20節の「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。」とは、そういうことです。食べ物のことで相争って、神様が与えてくださった平和を壊している。それで、どうして神様の救いの恵みを証しすることが出来ますか、神様の和解の働きを無駄にしていることになりませんか、と言っているわけです。イエス様の十字架の救いによって、ユダヤ人も異邦人も共に神様の救いに与りました。そのことによって、お互いの敵意という壁を取り壊し、神様は平和を実現してくださった。その神様の和解の働きを無駄にしてしまっているのではないですか?それで良いのですか? 良いはずがありません。

5.罪へと誘惑しない
 だったら、どうしたら良いのでしょうか。食べ物のことで、これは食べてはいけない、あれも食べてはダメだ、そうすることが神様の御心に適い、正しいことだと信じている人がいる。一方で、何を食べようと神様の救いには一切関係ないと信じ、食べる物に対して特に注意を払わない人がいる。キリストの福音によって救われたということは、食べ物によって神様の救いが左右されるなどということは、決してありません。それは正しいのです。でも、そこに立ちきることの出来ない人たちがいる。彼らは、多分、ユダヤ人キリスト者です。生まれた時から、汚れている物と定められたものを口にしたことなく育ってきた。その人が、急に何を食べてもかまわないと言われても、体がついていかない。そんなものを口にしたら、気分が悪くなってしまう。そういうことがあったのではないかと思います。また、「これを食べたら汚れるのではないか。」と思いながらも、食べ物によって救いが左右されることはないのだと言われると、つい食べてしまう。そういう人もいたでしょう。
 そこでパウロは21節で、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」と告げるのです。これと同じことをパウロは、コリントの信徒への手紙一の8章13節でも告げています。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」これはパウロの一貫した態度です。何を食べるか、食べないか、そんなことでイエス様の十字架によって与えられた救いが反故になるなんてことはあり得ない。そのことはパウロにとって明確でした。しかし、そのことにこだわって兄弟をつまずかせるくらいならば、自分は肉も食べなければ、酒も口にしないと言うのです。パウロにとって大切なことは、イエス様の救いに与った人が健やかに信仰の歩みをしていくこと、信仰において、愛において、成長していくこと。教会がキリストの体として、互いに争うことなく、健やかに建っていくことでした。食べることが、兄弟の心を痛ませるというのであれば、私は食べない。これは「愛の問題」です。人の嫌がることを、わざわざその人の前ですることはないのです。しかも、「これが正しい」と言って、食べられない人を軽んじたり、裁くというようなことでは、私のために十字架にお架かりになったイエス様の愛と結ばれているとは言えないでしょう。イエス様は、自分を十字架につけた者のためにも、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と祈られました。イエス様は、「わたしは悪いことはしていない。わたしを十字架につけた者は永遠に呪われよ。」とは言われませんでした。このイエス様の祈りによって執り成していただいたのが私共です。とするならば、私共は、このイエス様の執り成しの心を自分の心とするように、と招かれているのでしょう。私共は愛において豊かにされ、愛において知恵を、愛において謙遜を学んでいかなければならないのでしょう。

6.確信 = 確かな信仰
このように見てまいりますと、今朝の説教題は「確信をもって歩む」としたのですけれど、これは誤解させてしまう題になっていたのではないかと、反省しています。これは23節の「確信に基づいて行動する」という所から取ったわけですけれど、この「確信」と訳されている言葉は口語訳も新改訳も聖書協会共同訳もみんな「信仰」と訳しています。どちらにも訳せる言葉ではあるのですけれど、「確信をもって歩む」と言いますと、自分が確信していることに従って歩むということになるでしょう。自分が確信しているかとどうかが大切であり、そこが問題だということになるでしょう。私としてはこの「確信」という言葉は、「確かな信仰」と受け止めなければならないと思っています。この「確かな信仰」の中身は、神様・イエス様の御前に立って、罪赦されたという確かな信仰です。22節で「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。」というのは、まさに「神様の御前において持つ確かな信仰」のことです。神様の御前に立てば、誰も自分の正しさを主張することなんて出来ません。ただ、罪の赦しを受け取る者として立つしかありません。この「罪赦されたという確かな信仰」に基づかないならば、私共は何をしても罪の縄目から解き放たれることはありません。それは、何を食べるか、食べないか、そのことに限りません。何をしようとも、「罪赦されたという確かな信仰」と共にあるならば、その人は神様の御前に健やかに歩んで行くことが出来ます。そして、まことに自由になります。しかし、このことがはっきりしていないならば、つまり、「罪赦されたという確かな信仰」がぼやけて、揺らいでしまうならば、結局、自分の善き業によって神様の御前に立とうとしてしまいます。それでは、少しも自由になれませんし、その自分の正しさと同じ所に立たない者を裁くということになってしまいます。それでは、罪の縄目から解き放たれることなく、自分のやることが正しいとか、正しくないとか、そんな所をウロウロすることになります。パウロがここで告げているのは、あれを食べるとか、食べないとか、或いはそんなことは気にするなとか、それもこれも結局の所、自分のことや相手のことばかり見ているけれど、私共が見る所はそこではない。十字架のイエス様であり、復活のイエス様ではないか。そこにしっかり目を向けて、この方の御前に立って「罪赦されたという確かな信仰」に立つならば、お互いに裁き合うことがどんなに愚かなことであるか分かるだろう。私共は「罪赦された罪人」でしかありません。どこまで行ってもそうです。その私が、どうして他の人を裁くことが出来ましょう。私共の信仰の歩みは、神様の御前に立って一度罪を赦されたならば、その後は罪赦された者として善き業を為していく、義人として生きていくというのではありません。私共はどこまでも、神様の御前で赦され続けなければなりません。そして、「罪赦されたという確かな信仰」を与えられ続けていく。そこに本当の自由があり、喜びがあります。
 私共が「地の塩・世の光」とされたのは、イエス様の御許に来たからです。イエス様は私共を憐れみ、十字架の血潮をもって一切の罪を赦してくださいました。そして、私共に「罪赦されたという確かな信仰」が与えられました。この世界はこれを願い求めています。神様との平和、神様との親しい交わりを求めています。神の国に生きたいと願い求めています。ですから、この確かな信仰こそ、この世に対しての塩であり、光なのです。私共はこれを与えられ、神様に喜ばれる者となりました。神様との間に平和を与えられ、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者にしていただきました。この神様との平和に生きる者は、平和を作り出す者として神様に招かれ、一歩を歩み出します。ですから、私共は、「ここに神様の御支配が始まっている」という証しを立てる群れとして、ここから一歩を踏み出していきたい。そう心から祈り願うのです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝あなた様は御言葉によって、私共があなた様に喜ばれる者とされていることを知らされました。ありがとうございます。どうか、このあなた様との親しい交わりの中で、あなた様の御前に立ち、罪の赦しを与えられ、共々に御名を誉め讃えていくことが出来ますように。自らの正しさを誇る愚かさから私共を解き放ってください。「ここにあなた様の御支配がある」ということを証ししていくことが出来ますように、どうか私共をきよめて用いてください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年11月13日]