1.はじめに
今日からアドベントに入りました。昨日は北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマスが行われました。玄関にはクリスマス・リースが飾られ、アドベント・クランツは一本目のロウソクに火がともされました。夜には電飾もともります。先週は、これらの飾りを作ったり飾り付けをするのに、何人もの方が教会に来られました。週報にありますように、アドベント祈祷会が始まりますし、土曜日には富山市民クリスマスが三年ぶりに行われます。刑務所のクリスマスは今年もコロナ禍のために中止となりましたが、市民クリスマスの第一部の礼拝を録画して刑務所で放映することになっています。そして、1階の会議室にはクリスマス・リースを作る材料がたくさん用意されましたので、ぜひ作っていただきたいと思います。
今朝、アドベント第一の主の日に与えられました御言葉は、サムエル記上8章です。毎月、その月の最後の主の日は、旧約から御言葉を受けています。今日の御言葉には、イスラエルの民が自分たちにも王様が欲しいと求めたことが記されています。この求めを神様は受け入れます。そして、最初の王様としてサウル王が、2代目の王としてダビデ王が立てられることになります。そのダビデの子孫からイエス様が「まことの王」として生まれました。それがクリスマスの出来事です。そして、イエス様は再び来られます。「まことの王」としてすべてを新しくされ、まことの平和で世界を満たされます。その日を待ち望む信仰を整えるアドベントに相応しい御言葉が与えられたと思います。
2.イスラエルの民が王を求める:普通の民になりたい
さて、何故イスラエルは王を求めたのでしょうか。イスラエルの全長老がサムエルの所に来てこう告げました。5節「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
最初に告げられているのは、「サムエルが年老いた」ということです。サムエルが若くて元気ならばこんなことは言わなかったでしょう。サムエルは、イスラエルのために裁きを行う者として自分の二人の息子を任命していました。この二人の息子がよくなかった。本当によくなかった。具体的には、3節「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」と告げられています。サムエルの師匠に当たる祭司エリの息子たちもそうでした。エリと同じ過ちをサムエルも犯してしまった、子育ては難しい。そのように受け止める方もおられるでしょう。サムエルの息子も祭司エリの息子も、父親のように立派にはなりませんでした。それは事実としてありますけれど、ここにはそれ以上のことが示されていると思います。それは、神の民を導く者、指導者は、血のつながり或いは世襲というあり方で受け継がれていくものではないということを示しているのでしょう。神の民の指導者は、ただ神様の選びによって立てられていくべきものなのです。
イスラエルの長老たちが王を立てて欲しいと言い出したきっかけは、サムエルが高齢になった、そして二人の息子はどう見てもサムエルのように歩むことは出来ない、これからどうするのか、ということでした。しかし、本当の理由は次に告げられています。「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」です。ポイントは「ほかのすべての国々のように」ということです。イスラエルは神の民です。イスラエルの王は神様です。神様の御心を告げ、神の民を導く者は、モーセ以来、神様によって立てられ、イスラエルはその指導のもとに歩んで来ました。モーセ、ヨシュア、その後に続く士師たちは、自分がイスラエルの王であるなどとは微塵も思いませんでした。イスラエルの王は神様ただ独り。それが、イスラエルが他の民と違って、神の民という特別な民とされているということでした。しかしこの時、民の長老たちは「ほかのすべての国々のように」王を立てて欲しいとサムエルに願い出たのです。もっとはっきり言えば、これは神の民を辞めたいということでした。多分、イスラエルの人々はそこまでは思っていなかったでしょう。しかし、事柄としてはそういうことでした。
3.神様の支配を退ける
サムエルはこの長老たちの言い分に対して、「違う。間違っている。」すぐにそう思いました。これは神の民のあり方ではない。この民の願いを受け入れれば、イスラエルは他の普通の民と同じになってしまう。そう思ったのでしょう。それで、彼は神様に祈り、問うたのです。それに対する神様の答えは意外なものでした。神様は、7節「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。」と言われるではありませんか。更に続けて、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。」と告げられました。
神様はイスラエルの本心を見抜いておられました。神様は「イスラエルは、王を立てることによって、サムエルよ、年老いたお前を退けようとしているように見えるかもしれないが、そうではない。彼らが退けようとしているのは、わたしだ。わたしがイスラエルの上に王として君臨することを退けようとしているのだ。エジプトから導き上って以来、イスラエルはいつもそうだった。わたしを捨てて、他の神々に何度仕えたことか。今回もそうなのだ。」神様はイスラエルの本音を見透かしておられました。目に見えない神様ではなくて、目に見え、声も聞こえ、戦うとなったらいつでも戦ってくれる、「自分たちの王」を求めているのだと見抜いていました。
にもかかわらず、神様がサムエルに告げたのは「王を立ててはならない」ではありませんでした。そうではなく「彼らの声に従いなさい」、つまり「彼らが求めるように王を立ててやりなさい。」ということでした。不思議な答えです。神様はイスラエルの求めの背後に、神様を退けようとする罪があるのを分かっているのに、「王を立てたい」という民の要求を受け入れました。どうしてでしょうか。
4.喜んで従うのでなければ
それは、とても単純な理由ではないかと思います。神様は、イスラエルという神の民の上に「王」として臨まれます。しかし、それは「まことの王」として臨まれるのであって、その御支配は、愛と憐れみと真実をもって為されます。そして、その御支配は「神様とイスラエルの愛の交わりの中で」ということでなければ意味がありません。これが「この世の王」と「まことの王」の決定的な違いです。「この世の王」は、力をもって人々の上に臨みます。その力は物理的な力であり、権力という力です。人々が嫌がろうと、そんなことはお構いなしです。しかし、神様の御支配はそうではありません。神様の御支配は、愛による御支配ですから、喜んで、感謝をもって、自ら進んで、ということでなければ意味がありません。嫌々では意味がないのです。神様はイスラエルの本音を知っておられたので、ここで民の「王を立てたい」という要求を退けることなく、それを受け入れ、「この世の王」の支配のもとに生きるということがどういうことなのか、それをイスラエルの民に学ばせるしかないと思われたのではないでしょうか。神様は、無理矢理、御自分の計画を押しつけるようなお方ではなく、私共が御心を求め、それを悟り、神様との愛の交わり中に生きたいと思うまで、忍耐強く待たれるお方だからです。
5.この世の王の姿
しかし神様は、王を求めるイスラエルに、ただ王を立てることを認めただけではありませんでした。その前に、「この世の王」というものがどういう者なのか、教えなさいとサムエルに告げます。そして、サムエルはイスラエルの長老たちに、王を立てるということはこういう目に遭うということなのだ、それが分かっているのか、それを覚悟の上で王を求めているのか、と告げました。それが11節以下に記されています。7つあります。
①息子が兵士として徴用される。戦場に駆り出され、また王のための畑を耕させられ、武器を造らされる。
②娘が徴用される。香料を作らされ、料理を作らされ、パン焼き女にされる。
③畑・ぶどう畑・オリーブ畑が没収され、家臣に分け与えられる。
④穀物とぶどうの10分の1が徴収され、家臣に分け与えられる。
⑤奴隷・女奴隷・若者で優れた者が王のために働かされる。
⑥羊の10分の1が徴収される。
⑦こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
その結果、あなたたちはあなたたちが選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになる。しかしその日、神様は答えてはくださらない。つまり、あなたたちは、それらを承知の上でその道を選んだのだから、その結果を受け止めなければならない、と告げたわけです。
サムエルは、王を立てればこういうことが起きる、と具体的に告げました。簡単に言いますと、王を持つということは常備軍を持つということになります。そして、王の支配のための組織を持つということになります。そのために、イスラエルの人は今まで負ってこなかった経済的・人的負担を負わなければならなくなるわけです。それを覚悟しているのか。サムエルはそう告げたわけです。
6.どうしても必要なのです
サムエルは、これだけ言えばイスラエルは王を立てることを諦めるかもしれないと思ったかもしれません。しかし、民は王を立てることを諦めるどころか、さらに強くサムエルにこう言い張ったのです。19~20節「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」
もう何を言っても無駄でした。彼らは、目に見える王という存在によって、自分たちがもっときちんと戦えるし、強くなれる。そう思い込んでしまっていました。これは思い込みです。自分たちの周りの国々は王を持っていて、いつ攻めてくるか分からない。その度に神様にお伺いを立てて、士師を立て、軍勢を寄せ集めていたのでは間に合わない。周りの国々と同じように、王を持ち、常備軍を持ち、いつでも戦える状態にしていなければ、周りの国に攻め込まれて滅んでしまう。彼らは本気でそう思っていたのです。ここでも「他のすべての国民と同じように」と言われています。彼らは、自らが「神の民」であることを忘れ、それ故に特別な存在であり、特別な使命があり、特別な神様の守りの御手の中にあるということが見えなくなってしまっていたのです。彼らが考えている戦いは「我々の戦い」です。しかし、神の民の戦いは「主の戦い」でした。自分たちの戦いではありませんでした。ここで戦いの質が変わってしまっている。こうなってしまえば、まさに他の国々と同じように、普通の国として、王を持ち、剣と槍と弓で自らを守り、周りの国々と戦っていくしかありません。しかし、それは本来の神の民のあり方ではありませんでした。しかし、それが分からなくなってしまっていたのです。この時イスラエルは、もう何を言っても仕方がない、そういう状況になってしまっていたのです。
サムエルは神様にすべてを報告します。そして、神様は22節「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」とサムエルに告げました。
7.神様が王を立てる
これが神の民の姿なのかと、暗澹たる思いがしますけれど、しかしここで何とかかろうじて「神の民」としての一線が守られました。それは、長老たちが勝手に自分たちの王を立てることはしなかったということです。この世の王は、通常は自分の力でその地位をつかみとるものです。仲間を集め、戦いを挑み、相手をやっつけて、自分の支配地域を広げ、兵隊を増やし、そして、王を名乗る。周りもその人が王だと認める。そうやって王になっていくわけです。どの国でも、少なくとも初代の王はそういうものです。しかし、神の民イスラエルにおいては、そうではありませんでした。神の民だからです。王を立てようとも、人々が他のすべての国民と同じようになろうとしても、神様はイスラエルをそのようには扱われません。彼らは神の民です。神様は、このように御自分から離れようとしている民であったとしても、神の民として扱われます。それは私共も同じです。神の民らしからぬ、この世と少しも変わらないではないかというようなことがあったとしても、私共は神の民です。神様がそのように見続け、扱い続けてくださるからです。この時、神様はサムエルに王を立てることを命じられました。そして、イスラエルの王は神様によって選ばれ、立てられることになりました。神様の御心に従って、最後の士師であるサムエルを通して王が選ばれ、立てられました。それが9章に記されているイスラエルの初代の王、サウルです。
8.イスラエルのその後
サウル王の後にはダビデ王が立てられます。その次がソロモン王です。しかし、ソロモン王の後、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。そして、もっと強力で強大な、世界史に出てくる大帝国によって攻められ、滅ぼされ、支配され続けていきます。具体的にはアッシリア帝国、その後はバビロニア帝国、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王によるマケドニア王国、それが分裂したセレウコス朝シリア、そして最後にローマ帝国です。このように、イスラエルはずっと他の国に支配され続けていくことになりました。ダビデが王として立てられたのが紀元前1000年。しかし、それが何とか機能したのは100年程度で、その後900年間は、イエス様の時代までイスラエルは巨大な世界帝国に支配され続けたのです。最初の王を立てようとしていた時の目の前の敵はペリシテ人でした。これに対しては、イスラエルの王様という制度は機能したかのように見えました。しかし、それはダビデ、ソロモンの時までです。おおよそ100年程度です。その後はひどいものでした。北イスラエル王国はクーデターに次ぐクーデターで王様が代わっていきます。王となったのは、神の民であることなど全く忘れているような者たちでした。南のユダ王国は、かろうじてダビデの家系から王が出ますけれど、これとて世襲というあり方ですから、神様の御心に適った者が選ばれて立てられ続けたわけではありませんでした。ただダビデ王朝が続いたというだけのことです。そして、歴代の王たちは、自らが「神の民の王」であることを忘れ、他の神々を求めるような王が次々に出てきました。その結果がバビロン捕囚でした。その後も、世界帝国に支配され続けた神の民でした。そのような中で、神の民は神様によって遣わされる「まことの王」、メシアを求めるようになっていったのです。
この時イスラエルが王を立てることを求めず、士師という神様に選ばれたリーダーのもとで歩み続け、そして「ただ神様によって立つ」という民であり続けたのならば、巨大な世界帝国に飲み込まれることはなかったと言えるか。そう問われますならば、歴史に「もしも」はありませんので、答えようがないところがありますけれど、少なくともバビロン捕囚に至るイスラエルの歴史は変わっていただろうと思います。しかし、イスラエルは自ら王を求めた。そして「普通の国」になり、「他の国と同じように」、目に見える力によってすべてが決まってしまう世界、神なき世界に身を投じてしまったということです。「神の民」であることを止めてしまった。しかし神様は、神の民が神の民であることを止めさせることはありませんでした。巨大帝国に支配されるという事態の中で、神様は預言者を送り、神様の御心を示し、「悔い改めて我がもとに帰れ」と招き続けられました。そして、「まことの王」としてのメシア、キリスト・イエスの誕生へと繋がっていくわけです。
9.まことの王の到来
マタイによる福音書27章11節以下をお読みしました。ここはイエス様がローマの総督ピラトから尋問を受けた場面です。ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しました。ピラトは「そんなはずはない」と思っています。ピラトは、「王」と言えば「この世の王」しか知りません。その「この世の王」の基準から見れば、イエス様は王であるはずがない。そんなことは分かりきっていました。イエス様はこの時、明確に「そうだ」とも「違う」とも言われず、「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。それは、「この世の王」という意味では「違う」と答えなければなりませんし、神の民の王、まことの神、「まことの王」という意味ならば「そのとおり」と答えるべきだったからでしょう。
私共はイエス様を「まことの王」として迎えます。「この世の王」ではありません。この世の王は力の王です。自分の欲、自分のビジョンのために民を苦しめても平気な王です。しかし、イエス様は愛の王、憐れみの王、平和の王です。そのイエス様が再び来られます。その時、世界は新しくされ、闇の中を歩む者が光に照らされ、神の平和が世界に満ちます。その再臨のイエス様はまだ来られていません。しかし、私共はその光を受け、光の中を既に歩み始めています。確かに、心痛める嘆きの現実があります。この世の王たちが、その力で世界を支配出来るかのように思い違いしているからです。しかし、「この世の王」は「まことの王」でありませんし、平和の王でもありません。アドベントの日々、私共は主イエス・キリストという「まことの王」「平和の王」を私の王として心に迎え、このお方が来られる日を待ち望みつつ、歩んでまいりたいと願います。
お祈りいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
今日、アドベントに入りました。イエス様が再び来られることを信じて待ち望む信仰を、新たに整えられる時です。この世の王たちは、今も自分の力で支配出来るかのように思い違いをし、目に見える武器や富や権力で人々の上に君臨します。しかし、そのような支配が長く続くことはありません。この世界のまことの王はただ独り、あなた様だけだからです。私共はあなた様の民、神の民として、あなた様の全能の力と愛と憐れみの御心を信頼して、あなた様と共に歩んでまいりとうございます。どうか、私共に聖霊を与え、この一週間もあなた様の御前に健やかに歩んで行くことが出来ますよう、導いてください。
この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2022年11月27日]