1.はじめに
2023年が始まりました。その最初の日に、皆さんと一緒に御言葉を受け、祈りを合わせ、心を一つにして賛美を捧げることの出来る幸いを嬉しく思います。
今年は1月1日が主の日ですが、何年かに一度、このような年の始まりとなります。世間では、クリスマスは12月25日には終わって、次の日からは正月の門松の飾りが飾られ始めたりしています。正月を迎えてもクリスマスのリースを飾っていると、仕舞い忘れたずぼらな家のように見られてしまうのかもしれません。しかし、キリスト教会の暦では、まだクリスマスのシーズンの中にあります。まだクリスマスの余韻の中にあると言っても良いでしょう。教会の暦を大切にする教会では、1月6日の後の主の日までをクリスマスの期間としています。西方教会では1月6日はエピファニー、顕現祭とか公現祭と呼ばれ、三人の博士たちがイエス様を拝みに来た時とされています。そして、その次の主の日がイエス様が洗礼を受けた日とされ、この日までクリスマスのシーズンとなっています。ですから、まだクリスマスリースを片付けなくても良いのです。もっとも、私共の教会は教会の暦を大切にする伝統の教会ではありませんので、仕舞っても問題はありません。
私共は先週、主の御降誕を喜び祝うクリスマス記念礼拝を捧げました。御子が私共の救いのために天より降り、私共と同じ人間としてお生まれになった。まことに恵みに満ちた、大いなる出来事です。この御子の尊い血潮によって赦され、救われ、清められ、新しくされ、神様と共に生きる者としていただいた私共です。この恵みの中、新しい2023年も健やかに歩んでまいりたいと願っています。
2.わたしたちのために開かれた道
そのような私共に向かって、今朝与えられました御言葉、ヘブライ人への手紙10章20節で「イエスは…新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」と告げます。私共の前にはイエス様が開いてくださった「新しい生きた道」が開かれているというのです。この道は、神様がおられる所とされる至聖所に至る道です。神様に至る道です。イエス様が来られるまで、この至聖所と人間の間は、厚い垂れ幕で仕切られていました。至聖所には、大祭司だけが年に一度だけ、すべての者の罪を執り成すために入ることが許されていました。しかしこの幕は、イエス様が十字架の上で死なれた時に、「真っ二つに裂けた」とマルコによる福音書は記しています。15章37~38節です。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」この幕によって、聖なる神様と人間の間は隔てられていました。しかし、イエス様の十字架によってこの幕が裂かれ、神様と私共との間にあった罪という隔ての中垣が取り除かれました。そのことによって私共の前に、神様へと至る道、神様との親しい交わりの中に生きる道が開かれました。19節「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。」と言われているとおりです。これが私共の信仰の確信です。イエス様の血によって、イエス様の十字架によって、一切の罪が赦されて、神様のおられる聖所に入れるようになった。神様との親しい交わりに生きることが出来るようになった。これが私共の信仰の確信です。救いの確信です。
その至聖所に至る道、それが「新しい生きた道」です。救いの完成に至る道です。この道はイエス様によって開かれたのですけれども、この道自体がイエス様だとも言えます。イエス様は御自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われています。神様の御許に行くには、イエス様の十字架によって開かれた道を通っていかなければなりません。そうでなければ、誰も神様の所に行くことは出来ません。それは、罪ある者がそのままで神様に近づこうとするならば、自らの罪の裁きを受けて、焼き滅ぼされるしかないからです。しかし、イエス様が私共の罪の裁きを十字架の上で、私共に代わって受けてくださいましたから、私共は神様の御前に出ることが出来、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者としていただきました。そのような私共が歩んで行く道、それが「新しい生きた道」です。この道が開かれるまで、誰も神様の御許に近づくことは出来ませんでした。しかし今や、その道が開かれれました。
3.新しい道
では、この道は、何が新しいのでしょうか。
第一に、この道を開いてくださった方が新しいお方です。「まことの神にしてまことの人」であるイエス様は、神の独り子にして人間という全く新しいお方として来られました。この方によって開かれた道は、この方の肉を通ることによってのみ、歩むことが出来ます。この方の肉を通るとは、この方の十字架を通るということです。イエス様は「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(ヨハネによる福音書10章9節)と言われました。イエス様という門を通るということは、この方の十字架によって赦されたことを信じることです。そのことによって、この道を開いてくださったイエス様のように、肉を持った私共が神の子とされます。そして、私共は神様に向かって「父よ」と呼びつつ、この新しい道を神様に向かって近づきつつ歩んでいきます。
第二に、この道は自分で頑張って頑張って、この道で良いのだろうかと悩み、迷いながら歩まなければならない道ではありません。この道が「生きた道」ということは、この道自体が私共を神様の御許に連れて行ってくれる道だということなのです。これは、びっくりするほど新しい道でしょう。大阪の梅田駅、東京駅などにある「動く歩道」、エスカレーターが水平に動いてるようなものですが、そんなイメージに近いかもしれません。勿論、何もしないで放っておいても自動的に運んでくれるというのでは、この道を歩くことさえなくなってしまいますので、「動く歩道」というのは言い過ぎかもしません。それよりも、一足一足、道の方が私共の足を滑らないように握ってくれて、掴んでくれて、捕らえてくれて、歩ませてくれると言っても良いでしょう。イエス様が御言葉をもって励まし、支え、導き、出来事を起こし、共に歩んでくださる、そういう道だということです。
第三に、この道を歩む者が新しくされていく、新しくされ続ける道だということです。どのように新しくされるのか申しますと、私共は神様の子としていただきましたので、神様に対して怖がることなく、畏れ敬う者とされました。これは大きな変化ですが、この変化が起き続けるのです。神様を愛し、信頼し、従う者とされ続けて歩む道だということです。22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、」とありますように、こんなことをしたら神様に叱られるのではないか、そのようにビクビクしながら歩むのではありません。「良心のとがめがない」というのは、神様を愛していますから、そして神様に愛されていることを確信していますから、まことに自由だということです。感謝と喜びの中で、自由に歩んで行きます。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)とヨハネが告げているとおりです。
4.清められた者
さて、今朝与えられました旧約の御言葉は、エゼキエル書です。このエゼキエル書というのは、イザヤ書・エレミヤ書と並んで三大預言書の一つです。預言者エゼキエルはバビロン捕囚によって、バビロンに連れて行かれた人であり、その捕囚の地で預言者として活動した人です。祖国から遠く1000㎞も離れたバビロンで、将来への希望も生きる力も失いかけていた同胞たちに、神様から託されて、バビロン捕囚からの解放、エルサレムの再建という希望を告げ、彼らを励まし、慰めた預言者でした。そして、その預言は、バビロン捕囚からの解放という出来事を突き抜けて、イエス様によって与えられる救い、更には救いの完成までも告げているものでした。
エゼキエルは25節で、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。」と告げました。この「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき」とは、私共の洗礼を指していると読むことが出来るでしょう。ヘブライ人への手紙10章22節に「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。」と言われていることと重なります。では、この「清められて」とは、どういうことなのでしょうか。「善いことをする。悪いことはしない。それが清められた者だ。」と言えなくはないかもしれません。しかし、何が善いことで、何が悪いことなのか、今一つはっきりしません。
私共は、洗礼によって清められました。このことをエゼキエルは26~27節で、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ」ると告げています。つまり、清められたというのは、第一に、新しい心、即ち「石の心ではない、肉の心」を与えられるということです。石の心というのは、頑なな心です。神様の言葉に対して、神様の招きに対して、神様の促しに対して、素直に従えない心です。この頑なな心が取り除かれて、肉の心、即ち、柔らかく、しなやかで、神様の言葉を素直に受け入れる心です。それが与えられたということです。第二に、神様の霊が与えられたということです。神様の霊である聖霊が与えられ、聖霊によって信仰が、希望が、愛が与えられました。聖霊によって、聖書の言葉を神様からの語りかけとして聞くことが出来るようになりました。それにより、神様の守りと導きの中に生きることが出来るようになりました。聖霊によって、神様の御心に適わないことを教えられました。そして、神様に従うことを何よりの喜びとする者となりました。
5.神に近づく
イエス様によって開かれた「新しい生きた道」を、清められた者として私共は歩んで行きます。その歩みは「神様に近づく」歩みです。ヘブライ人への手紙10章22節で、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と告げられているとおりです。この道は、神様に近づいていく道ですから、神の国に向かっての道です。私共はその道を、この新しい2023年も歩んでいくように、と御言葉を通して与えられました。
しかし、この道はもう一つ大切なイメージを持っています。それは、ここで聖所・垂れ幕・神の家・祭司・清い水という言葉が使われていることからも分かるように、この手紙を記した人は具体的な「聖所における礼拝」をイメージしているということです。つまり、この道を歩む者は、礼拝に集うことによって神様に近づき、礼拝に集い続けることによって神様に近づき続けると告げているわけです。この「神に近づく」という歩みは、はるか彼方で見えないような高みを目指す歩みではなくて、すぐそこにおられる神様に近づくというイメージです。勿論、罪という隔てがある以上、聖なる神様に近づくことは、人間にとって無限の距離を飛び越えていかなければならない、全く不可能なことでした。しかし、天からイエス様が降り、十字架にお架かりになって、その隔ての幕を真っ二つに上から下まで引き裂いてしまわれました。ですから、私共はこうして主の日の礼拝のたびごとに、神様に近づくことが許されるようになりました。ここに神様がおられる。ここに来れば、御声を聞き、御姿を仰ぐことが出来る。ここに来れば、御名を賛美することが出来る。御国への歩みは、単純です。少しも難しくありませんし、複雑でもありません。主の日の礼拝に集い、御言葉に与り、肉の心でそれを受け止め、神様に向かって「父よ」と祈り、共に神様を賛美し、聖餐に与る。ここに神様がおられるのですから、ここに集えば神様に近づけます。そして、それを続けていくことが、神様に近づき続けていく歩みなのです。
神様は見えません。しかし、信仰によって御声を聞き、御体と血潮に与ることが出来るように、神様は「聞く御言葉」と「見える御言葉」とを与えてくださいました。これに与ることによって、私共は神様に近づくのです。
6.励まし合う
ところが25節で、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」とヘブライ人への手紙は告げます。わざわざこのように言っているのは、この書が記された時に既に「集会を怠る」ということが起きていたということです。この時は「もうすぐイエス様が再び来られるのだから、集会なんてしている場合ではない。」と言う人たちがいたようです。集会を怠る理由には、色んなことがあるでしょう。その時代時代で、その国その国で、「集会を怠るように」と促す霊力が働いているからです。これは個人個人に働くこともありますし、文化やその時代の常識や時代精神のようなあり方で働くこともあります。そして厄介なのは、多くの場合、この悪しき霊力は、働いていることが悟られないような形で働くということです。ですから、これに立ち向かうのは中々難しいのです。いつの間にか悪しき霊力に取り込まれてしまい、そのことにも気付かないということになってしまうからです。聖書はこれに対して、一人で立ち向かうのではなくて、「励まし合って」立ち向かいなさいと勧めています。25節b「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」と告げられ、この「励まし合う」という言葉は2回繰り返されて告げられています。それほどまでに「励まし合う」ということは、この新しい生きた道を歩み続けるためには大切であり、必要なことだということです。それは、何時の時代でも同じです。
そして、励まし合うために必要なのが愛です。私共は神様を愛します。と同時に、私共は兄弟姉妹を愛します。神様は私共に信仰を与えてくださって、神様を愛する者としてくださいました。この信仰と愛は一つです。信仰が与えられたように、愛も神様が与えてくださいます。そしてこの愛は、神様だけを愛するのではなく、神様と共に兄弟姉妹を愛し、隣り人を愛するものです。この愛によって、兄弟姉妹は励まし合い、隣り人に対しては救いの言葉を伝えていきます。みんな一つの愛、神様の愛です。みんな一つの愛の業です。
7.希望と共に
最後に23節を見て終わります。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」と告げます。神様が私共を愛し、赦し、神の子として受け入れ、永遠の命を与えてくださると約束してくださったのは、イエス様です。イエス様がそのように約束してくださったのですから、私共は安んじて、その約束を信じて、希望をもって歩んでいきます。この希望は、信仰を告白し、洗礼を受けた時に「公に言い表した」ものです。使徒信条の終わりの所で、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」或は「罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白しています。これは信仰を言い表しているのですけれど、これは希望でもあります。私共の神様に近づき続ける歩みは、この希望と共にあります。この希望が、私共にそして世界に、勇気と力を与えます。この希望を打ち砕くことが出来るものは、この世界にはありません。
私共の2023年の歩みは、孤独な歩みではありません。兄弟姉妹と共なる歩みです。励まし合い、支え合い、祈り合い、一つの信仰、一つの希望、一つの愛によって結ばれた群れとなって歩んで行きます。信仰によって与えられた「新しい生きた道」を、共に健やかに歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
2023年の最初の主の日、あなた様の御前にこのように集い、あなた様に近づくことを許され、感謝します。愛する兄弟姉妹と共に御言葉を受け続け、この新しい年もまた、あなた様の子としていただいた恵みの中を、共々に励まし合って歩んでいくことが出来ますよう、心から祈り、願います。私共にいつも新しく信仰を与え、愛を与え、希望を与えてください。そして、健やかな交わりの中で一日一日を、御国に向かって導いていってください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年1月1日]