1.はじめに
前回の13節までで本論は終わりまして、今朝与えられております14節からは結びの部分に入っていきます。この手紙は、パウロにはローマの教会にイスパニア(今のスペイン)伝道を支援して欲しいという願いがあって、それでローマの教会に伝道者としての自分を紹介するという目的をもって書かれたと考えられています。ですから、パウロはまだローマの教会には行ったことがありません。確かにローマの教会には、16章に記されているように多くの知人や友人がおりました。その人たちから、ローマの教会について色々聞いていたとは思います。しかし、まだ行ったことはありません。それにしては、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との対立についてなど、随分突っ込んだ言い方をしていました。それは、当時、ローマの教会だけではなくて、ほとんどすべてのキリストの教会においてこの問題が起きており、パウロはこの問題については日頃からよくよく考えていた。そして、どのようにしていかなければいけないのか、ローマの教会に対してはっきりと告げることが必要だと考えたからでしょう。ローマには行ったことがありませんので、逆に人間的なしがらみはありません。それで、福音の筋道、教会の筋道において、パウロははっきり告げることが出来た。そうとも言えると思います。
ここでパウロは、この手紙を終えるに当たって、改めてこの手紙の本来の目的に戻り、自分はどういう者なのかということを告げています。ここでパウロは、自分を以下のように紹介します。第一に、自分は異邦人の救いのために仕えている者だ。第二に、神のために働くことを誇りとしている者だ。第三に、キリストの名が知られていない所で福音を告げ知らせてきた者だ。
2.キリストにあって信頼している故に
ところで、当時の手紙は口述筆記です。16章22節に「この手紙を筆記したわたしテルティオが」とありますように、パウロが話すことを、弟子でしょうか、同労者でしょうか、テルティオという人が筆記しました。これだけ長い手紙ですから、パウロが一気に語り、テルティオがどんどんそれを書いていって出来上がった。そういうことではなかったでしょう。ある程度のまとまりを語って書き取ったなら、パウロはテルティオにそこを読み上げてもらって、それから次に進む。そんな感じで書き継がれていったのでしょう。ですから、書き上げるのに何日もかかったと思います。そうすると、13節で本論が終わった所で、パウロはテルティオに今までの所を読んでもらってから、この手紙を終えるに当たっての今日の所を語り始めたと考えるのが自然です。
そして、パウロは15節で「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。」と告げているわけです。それはパウロ自身、ちょっとはっきり書き過ぎたかなと思った所があったのでしょう。でも、書き直すことはしませんでした。「かなり思い切ったこと」を記したかもしれないけれど、間違ったことではないし、この言葉をきちんと受け取ってもらって、ローマの教会の人々には御心に適う歩みをしてもらわなければならない、そしてローマの教会が御心に適う教会になっていってもらわなければならない。そうパウロは思っていたのでしょう。
ですから、パウロは14節で「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」と書き始めました。この手紙を読むローマの教会の人たちが、「善意に満ち」「あらゆる知識で満たされ」「互いに戒め合うことができる」、そういう人たちだと「わたしは確信している」と記します。しかし、本当にローマの教会の人たちは、そんな人間の出来た、良い人たちばかりだったのでしょうか。そうであるなら、どうしてユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、どうにもならないほどに対立してしまったのか。本当に「善意に満ち」「あらゆる知識(=救いに関する、イエス様・神様に関する)で満たされ」「互いに戒め合うことができる」人たちばかりならば、こんなことにはならなかったのではないでしょうか。パウロがそう告げることが出来たのは、ここにはある言葉が隠れていて、それがあるからこう言えたのだと思っています。それは「キリストにあって」という言葉です。ローマの教会の人たちは、当然、キリスト者です。イエス様の救いに与った人たちです。ですから、「キリストにあって」相手を受け入れることが出来るし、イエス様の救いの恵みの素晴らしさという知識を与えられて、互いに戒め合うことが出来る人たちだ、パウロはそう確信していました。この「キリストにあって」ということでなければ、こんなことはとても言えなかったでしょう。特に、「互いに戒め合う」というのは本当に難しいことです。「互いに戒め合う」のは、「互いに非難し合う」ということとは全く違います。イエス様の御言葉に従っていない言動に対して「それは違う。」と言い、言われた人は「そうだね。」と受け入れることが出来るということです。これは、共にイエス様の御前に立つということ抜きには、決して出来ないことです。誰だって、自分の過ちを指摘されるのは面白くありません。でも、イエス様が指摘されるならのならば、聞くことが出来ます。誤りを認めて、悔い改めることも出来ます。これがキリストにあって形作られる、キリストの体である教会という交わりです。パウロは、そのような出来事が起きることを信頼しているのです。確かに、言い方一つで傷ついたり、腹を立てたり、仲違いしてしまうのが人間であり、罪人というものなのではないかと言われれば、そのとおりです。しかし、それでもなお、キリストの教会はそれを乗り越えていくことが出来る交わりなのです。
その鍵は礼拝にあります。そして、そこに生きて働いてくださる神様です。神様が御言葉と出来事をもって、キリストの教会という交わりを導いてくださいます。教会に聖霊なる神様がおられるからです。パウロは、それを信じている。ですから「かなり思い切ったこと」も記すことが出来た。私共もそのような交わりとして、ここに建てられています。イエス様の御臨在を証しする交わりとして建てられている。そのことを、私共は信じて良いのです。
3.異邦人の救いのために仕えている者
さてパウロは、この手紙の最初の目的に戻って、自分が何者であるかを告げます。第一にパウロは、自分は異邦人の救いのために仕える者であると告げます。15~16節「わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者とな」ったとパウロは告げます。パウロがイエス様に仕えるのは、異邦人のためです。
神様は、一人一人に召命を与えられて、このような神様の御業に仕えなさいと導いてくださいます。牧師も長老も執事も奏楽者も教会学校の教師も婦人会・壮年会の役員も、みんなそうです。召命を受けて奉仕しているわけです。私共の教会では掃除の当番も、それぞれが自分でこの場所をしますと申し出ます。それは、この掃除に私は神様から召されているということを受け止めてしているわけです。平日に誰も居ない教会に来て、掃除をして行く。私はその姿を見て、この人は神様からの召命を受けて、これをされているのだということが分かります。その姿を見ればはっきり分かります。奏楽者もそうです。みんなそうなんです。
それは教会の奉仕に留まりません。今、自分が置かれている状況・立場もそうです。仕事であったり、母であったり、父であったり、妻であったりするわけですけれど、私共はそれもみんな神様によって召されて、そこにいる。神様がここに自分を召してくださった、そのように神様の御前で受け取る。これはとても大切なことです。神様の召しとして受け取ることが出来るならば、どのような状況に置かれようと、私共は大丈夫です。神様が道を開き、守り、支えてくださるからです。勿論、神様の召しとして受け取るということは、そのように思い込むということではありません。「無理だ」と思ったなら、それでも無理する必要などどこにもありません。神様の召しは、無理を無理じゃないと思わせることではありません。無理は無理で良いのです。大切なことは、神様の御前で受け止めるということなのです。
パウロの場合、異邦人の救いのためにイエス様に召し出され、パウロもそのことを自覚的に受け止めました。使徒言行録7章にステファノの殉教の場面が記されておりますが、その時、パウロはステファノを石打の刑にすることに賛成した人でした。ところが、9章においてパウロの回心の場面が記されています。異邦人が救われるなんて全く考えられなかったパウロです。しかし、イエス様に出会って回心しました。パウロは変えられました。そして、救われるはずがないと考えていた異邦人のためにもっぱら伝道する者として働いたのです。彼は神様に召されて生まれ変わりました。そして、彼の伝道によって異邦人が救われ、その神様の御業は二千年かけてこの富山の地にまで届いた。そして、私共は今朝、このように集って礼拝を捧げているわけです。ありがたいことです。
4.異邦人のための祭司として
更に、パウロはここで珍しい表現で自分を言い表しています。それが16節「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」という表現です。祭司というのは、罪人と神様の間に立って神様に執り成しをする務めの人です。この罪人と神様の間に立って執り成しをしてくださったのはイエス様です。イエス様がいけにえとなって、私共の罪を贖ってくださいました。ですから、ヘブライ人への手紙ではイエス様のことを「偉大な大祭司」と呼んでいます(ヘブライ人への手紙4章14節)。勿論、パウロは、自分はイエス様の代わりだと言っているわけではありません。そんなことを言うのは、キリスト教系のカルト宗教だけです。キリスト教と名乗って、その教祖をイエス様の生まれ変わりだの再臨したイエス様だのと言うのは、もう既にキリスト教ではありません。自分たちがキリスト教を名乗っているだけで、世界中のキリスト教会は絶対にそれをキリスト教とは認めません。
パウロが「異邦人のための祭司」と言っているのは、異邦人をイエス様の御前に招き、イエス様の執り成しに与らせる務め、働きをしているからです。ですから、その務めはどこまでも「キリスト・イエスに仕える」というあり方でしかありません。こう言っても良いでしょう。キリストの教会は、伝道というあり方において、また主の日の礼拝に人々を招くことにおいて、この務めを継承している。ですから、私共もまた「祭司」としての務めを帯びた者なのです。この務めを与えられているのは、牧師だけではありません。「万人祭司」です。「キリスト者はすべて祭司として召されている」と宗教改革者たちが告げたことを忘れてはなりません。
この異邦人に対しての祭司としての務めは、伝道するということなのですけれど、パウロは16節で「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」と告げます。自分は神様への供え物なのか、と嫌な感じを持たれる人もいるかもしれませんけれど、この「神に喜ばれる供え物となる」というのは、ローマの信徒への手紙12章1節の有名な御言葉「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と重ねて読むならば、礼拝者となることが神様への供え物となるということになりましょう。まことの神様を知らず、それ故に自分の思いや損得に縛られて生きることしか知らなかった異邦人でる私共が、まことの神様である父・子・聖霊なる神様を礼拝する者となりました。ありがたいことです。
5.神のために働くことを誇りとする者
第二にパウロは、自分は神のために働くことを誇りとしている者だと告げます。17節「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」とあります。人は、何を誇りとするか、それによってどのように生きるのかが決まると言って良いでしょう。自分のする仕事に誇りを持つ。それはとても大切なことです。そして、美しいことです。『プロフェッショナル 仕事の流儀』というNHKの番組を観ている方もおられると思います。私も好きで見ていますけれど、あそこで取り上げられる人たちは皆自分の仕事に誇りを持ち、その仕事を極めている人たちです。それを観ながら、凄い人だなといつも感心するのです。そして、同時に思うことは、自分もまた「誇りを持っている」ということです。それはキリスト者としての誇りです。それは神様に召された者としての誇りです。ただ神様に召されて、為すべきことを与えられているという誇りです。神様の御前に立つ者の誇りです。キリスト者だからそんなことはしない。キリスト者だからこれをする。そのようなことが決まっているわけではありませんし、具体的な状況によって、そのようなことは一律に決められるものでもありません。しかし、自分は神様の御前に立って、どうするのかということを決めるし、為していく。それがキリスト者としての矜持というものでしょう。パウロは誇り高きキリスト者でしたが、私共もそうでありたいと思うのです。この誇りは、パウロ自身、「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙二10章17節)と言っているように、自分にはこんな才能や能力があるとか、自分はこんなことを成し遂げた、そんなことを誇るのではありません。「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」と言っているように、神様に召された者として、神様のために働ける、そのことを誇りとする。そういうものです。
6.キリストの名が知られていない所で福音を告げ知らせる者
第三にパウロは、自分はキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせてきたと言います。パウロは19節で「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」と告げます。皆さん頭の中で地図を思い描いて頂くと良いのですが、イリリコン州というのは、ギリシアの北マケドニアから北イタリアにかけての地域のことです。ですから、「エルサレムからイリリコン州まで」というのは、当時のローマ帝国の東の部分のほとんどすべてを指しています。距離にすると2000km以上です。日本に当てはめるならば、北海道から沖縄までの距離になります。パウロが三回の伝道旅行をしたことは使徒言行録に記されています。そこに記されているだけでも大変なものですけれど、そこに記されていることがすべてではないでしょう。パウロの生涯は伝道の旅でした。そして、それは当時のローマ帝国の東の半分を伝道して回ったと言えるものでした。本当に凄いです。しかし、パウロはそのことを自慢したいわけではありません。18節で「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」と言っているとおり、そのような伝道の歩みをさせてくださったのはキリスト御自身です。キリストがわたしを用いて、働いてくださった。パウロはそう証ししています。パウロはキリストの御業に仕えただけなのです。
神様は一人一人に、為すべきことを与えてくださいます。パウロは、自分に与えられた使命は、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせ」ることだと自覚し、それに邁進しました。しかし、パウロが伝道した後にはキリストに救われた者の群れが誕生するわけです。それを放っておくわけにはいきません。その人たちを霊的に養い、導く伝道者も必要です。パウロは伝道者集団を作って伝道していました。その中には立ち上がった教会を牧会するために遣わされる人もいました。それは、その人に与えられた召命に応える務めです。しかしパウロ自身は、自分に与えられた使命は「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせ」ることだと自覚し、それをこれからも為していかなければならないと考えていました。だから、この手紙を書いたのです。彼が伝道したのはローマ帝国の東の半分です。ということは、まだ西の半分があるわけです。だから、自分はそちらも伝道するので、ぜひローマの教会に支援して欲しい。そのためにこの手紙をパウロは書いたのです。
パウロの伝道を支えたのは、最初はアンティオキアの教会でした。その後、自分が伝道した教会からの支えも受けました。パウロ自身、天幕作りという仕事をしながら伝道することもありました。けれど、伝道はパウロ一人の力だけでは出来ません。神様によって伝道するのだから人に頼るな、召されたなら一人でやれ、と言う人もいます。私はそのようには考えません。伝道が神様の御業であるということは、伝道はキリストの体である教会の業であるということです。教会は伝道することによって教会であり続けるのであり、キリスト者もまた伝道することによってキリスト者であり続けると言えるのではないでしょうか。私共が置かれているのは99%の人がキリスト者ではないという伝道の最前線です。「キリストの名をまだ知らない人」ばかりがいる土地です。伝道には色んなあり方があります。その方法について今お話しすることは出来ませんけれど、大切なことは、その人だけが持つ「言葉と業とその存在をもって」神様の真実を、神様の愛を、イエス様を伝えていく。それが私共に与えられた誇り高き務めなのです。その人には、その人にしか言えない言葉があり、その人にしか出来ない業があり、その人の存在のあり方によってしか示せないことがあります。そのすべてを神様は用いてくださいます。神様がそのように私共を用いてくださることが、「神に喜ばれる供え物」とされるということなのです。
お祈りいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
あなた様は取るに足りない私共を愛してくださり、イエス様の救いに与らせるために召し出してくださり、あなた様の御業に仕える者としてくださいました。私共のすべてはあなた様のものです。どうぞ、私共の言葉と業と存在そのものを、あなた様が存分に用いてくださいますように。そして、私共があなた様の御前に立って、一日一日為すべきことを誠実に為していくことが出来ますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年1月15日]