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礼拝説教

「初めての王、サウル」
サムエル記上 9章14~21節、10章1節、20~24節
コリントの信徒への手紙一 1章1~3節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 1月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。今朝与えられている御言葉は、サムエルによってサウルがイスラエル最初の王として立てられた所です。モーセに率いられてエジプトを脱出し、ヨシュアによって神様が約束してくださったカナンの地に入ったイスラエル。彼らはその後、多くの士師たちによって導かれて歩んで来ました。士師というのは、神様に立てられたリーダーと考えて良いでしょう。王様ではありません。イスラエルの十二部族は、この士師によってまとめられて、外敵と戦いました。サムエルは最後の士師です。ただ、彼は軍事的なリーダーというよりも、神様の言葉を伝えてイスラエルが神様の御心に従って歩むようにと導くリーダーでした。今朝与えられている所では、サムエルは「先見者」とも呼ばれていますが、これは預言者と同じです。彼は神様の御心を示され、これから起きることを告げ、神様の御心に従ってイスラエルを導く働きをした霊的指導者でした。

2.8章を振り返って
 前回見ましたサムエル記上8章は、11月最後の主の日のことでしたので、もう2ヶ月前になります。少し振り返っておきましょう。
 サムエルも高齢になりまして、その二人の息子はどう見ても、サムエルのように神様の御心に従い、イスラエルを導いていく者にはなりそうにない。何しろ、不正な利益を求め、賄賂をもらって裁きを曲げてしまうような者だったからです。そこで、イスラエルの人々は自分たちにも王を立ててくれるようサムエルに求めました。イスラエルの周りの国々は既に王を戴いていました。しかし、イスラエルには王はおりませんでした。理由ははっきりしています。神の民イスラエルの王は、神様御自身だったからです。しかし、イスラエルは、王様を持って「普通の国と同じ」になりたい、そうサムエルに願いました。サムエルは「これは悪だ、御心に適わない」とすぐに分かりました。イスラエルのこのような要求は、自分たちの上に王として臨む神を退けたいからだと、神様も分かっていました。しかし、神様はイスラエルの民の声に従うようにとサムエルに告げます。神様は喜んでそうしようとされたのではなく、「仕方がない」ということでした。目に見えない神様を王とするよりも、目に見える人間の王を求める。これは不信仰そのものなのですけれど、人間とはそういうものであることを神様は御存知でした。イスラエルは自ら望んで「普通の国」になっていきます。つまり、目に見える富や軍事力といったものを競い、争い、強い者が勝つ。弱い者は支配される。そういう世界に身を投じていくことになったのです。サムエルは、王を持つということはこのような大変なことになるけれど、それでよいのだなと、王を持つことによってもたらされる具体的な不都合を挙げて説明しました。この具体的な不都合な点というのは、王を持つということは、要するに常備軍を持ち、統治機構を持つことです。その結果、自分の子を兵士として出すことになるし、統治機構を維持するために経済的な負担も強いられるわけです。自分たちは王に支配される者になる。サムエルは、それでもよいか、覚悟はあるのかと言います。それに対して、イスラエルの民は「我々にはどうしても王が必要なのです。王が裁き、王と共に戦うのです。」と言います。もう何を言っても無駄でした。サムエルは神様が選ばれる者を王として立てることになりました。それが今朝与えられた所です。9章・10章と、サウルがイスラエルの最初の王して立てられた時の経緯が記されています。

3.サウルが選ばれる
 最初の王として立てられたサウル。このサウルという人は9章1~2節を見ますと、「ベニヤミン族」の人で、「若く」「美しく」「背が高かった」ようです。若くて、イケメンで、背が高い。まるでアイドルかスターのようです。特に背が高いというのは、「民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」というのですから、みんなより30cmくらい高かったということでしょう。現代の日本で考えれば2mくらいになるでしょうか。バスケットボールの八村塁選手は私より丁度30cm背が高いので、八村選手をイメージしていただいても良いだろうと思います。
 サウルとサムエルが出会います。その経緯は、サウルはお父さんのろばがいなくなったので、ろばを捜しに出かけます。しかし、ろばは見つかりません。相当遠くまで来て、近くに「先見者」であるサムエルがいることを知り、彼に聞けば何か教えてくれるのではないかということで、サウルはいなくなったろばのことをサムエルに尋ねに行きます。サムエルはサウルと出会う前日に、神様からお告げを受けていました。それが9章16節「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。」というものでした。神様は「一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす」と言われます。サウルにしてみれば、ただろばを捜しに来ただけなのですけれど、それは神様によって導かれてのことだったということです。そして、サムエルがサウルに出会うと、神様はサムエルに「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。」と告げました。サウルはそんなことは全く知りません。サムエルに自分のろばがどこに行ったのかを聞きたいだけです。ところが、サウルが何も言う前に、サムエルはサウルに対して、20節「三日前に姿を消したろばのことは、一切、心にかける必要はありません。もう見つかっています。」と告げます。サウルは驚いたでしょうし、「さすが先見者だ」と思ったでしょう。そして、サムエルは続けて、「全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。」とサウルに告げたのです。サウルは、サムエルが何を言っているのかピンと来なかったと思います。そして、こう言いました。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」これはもっともなことです。

4.神の選び:小さな者・力なき者から選ぶ
 当時のイスラエルは、ヤコブの子孫であり、同じ一人の神様を信じるという信仰で結ばれた、十二部族の連合というあり方でした。今、部族連合というあり方から、一人の王を戴く一つの国として歩み始めようとしているわけです。部族社会から一つの国へ。これは大変な転換でした。部族制社会というのは、それぞれの部族にそれぞれの秩序があり、自分の部族の者は自分たちが守る。もし同じ部族の者が害を受ければ、その部族の者が全員でその敵に立ち向かうというものです。そのような12もの部族が一人の王の下で一つになるというのは、簡単ではありません。こういう時、人間的に考えるならば、一番大きくて強い部族から王が選ばれるのが普通であり、そうしなければ部族間の対立が起きてしまうでしょう。では、この当時の十二部族の力はどのようなものであったか。民数記の1章を見ますと、各部族の20歳以上の男子の数が記してあります。20歳以上の男子ということは兵士になれる人数ということです。もちろん、民数記に記されている人数は、サウルの時代の人数と同じではありませんけれど、それでもイスラエルの十二部族の大きさ・強さの傾向は分かるでしょう。圧倒的に多いのはユダ族の74,600人と、エフライムとマナセを合わせた72,700人です。エフライムとマナセを合わせたのは、この二人はヨセフの息子だからです。他の部族はヤコブの息子を出発とする部族ですが、ヨセフがエジプトの宰相となり、ヤコブの一族が飢饉で飢え死にするのを助けたことによって、ヨセフの部族はその二人の息子エフライムとマナセの二部族とされたからです。一方、ベニヤミン族は35,400人です。ユダやエフライムとマナセの半分です。他の部族は4万人台~5万人台です。ベニヤミン族は本当に一番小さな部族でした。後に、イスラエル王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいますけれど、北イスラエル王国はエフライムと呼ばれ、南はまさにユダ王国でした。北はエフライム族を中心とした10部族、南はユダ族とベニヤミン族からなっていました。自分の力によって立とうとすれば、こうなってしまうんですね。そして、北王国の末裔がイエス様時代のサマリア人であり、南のユダ王国の末裔がユダヤ人です。ちなみに使徒パウロはベニヤミン族です。
 サウルが、「どうして一番小さなベニヤミン族のわたしが選ばれるのですか。」と問うのももっともです。しかし、サムエルにこのように尋ねても、サムエルは答えることは出来ません。何故なら、サウルを選んだのは神様であって、サムエルではないからです。確かに、サウルが選ばれた理由は分かりません。しかし、神様は、しばしばこのように小さな者を選ばれます。それは、神様に選ばれ立てられた者が、自らを誇ることがないためです。神様はどんな小さな者からでも必要な者を立てることがお出来になります。小さな者、弱い者が選ばれる。それは、神の力、神の偉大さ、神の御業、神の憐れみが表れるためです。
 先ほどコリントの信徒への手紙の冒頭をお読みしました。パウロは自分のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言います。またコリントの教会の人々を「召されて聖なる者とされた人々」と呼びます。パウロもコリントの教会の人々も、神様に召された者でした。そして、彼らが選ばれて召し出された理由は、彼らに「神様に選ばれるのに相応しい何か」があったわけではありません。コリントの教会の人たちに対してパウロは、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(コリントの信徒への手紙一1章26~27節)と言っています。はっきり言えば、「あなたたちは知恵もなく、能力もなく、家柄も良くなく、力もない者だった。」と言っているわけです。また、パウロ自身、自分のことを「月足らずで生まれたようなわたし」(コリントの信徒への手紙一15章8節)と呼び、「神の教会を迫害したのですから…使徒と呼ばれる値打ちのない者」(コリントの信徒への手紙一15章9節)、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(テモテへの手紙一1章15節)と言っています。神様に選ばれるのに相応しい良きところなど何もない。私共が選ばれ、召されたのも同じです。私共に良きところがあったから選ばれ、召されたのではありません。私共には何もありません。ただ、神様が憐れんでくださり、選び、召しだしてくださいました。これが福音です。まことにありがたいことです。

5.「油注ぎ」と「くじ引き」
 さて、神様によって選ばれ、イスラエルの王とされるサウロに対して、サムエルは彼の頭に油を注ぎます。10章1節「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。『主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。』」ここに、神様がサウルをイスラエルの王として立てたことが明らかにされました。しかし、明らかにされたのはサウルに対してであって、全イスラエルに対してではありませんでした。サウルについてきた従者も、先に行くようにサムエルに促されており、この油注ぎはサムエルとサウル、二人だけで行われました。
 ちなみに、「油注がれた者」という意味のヘブル語が「メシア」でり、そのギリシャ語が「キリスト」です。ここから、キリストの三職という理解が生まれました。油注がれたのは、王だけではなく、大祭司、預言者もそうでしたから、イエス様はまことの王、まことの大祭司、まことの預言者という三つの職務があると言われます。
 神様によってサウルが選ばれ、イスラエル王として立てられるためには、この神様の選びが人々の前で明らかにされなければなりません。それが「くじ引き」でした。サムエルは全イスラエルを呼び集めました。そして、神様が誰を王として選ばれたのか、くじ引きによって明らかにすると告げます。最初に部族の代表がくじを引きます。するとベニヤミン族が当たります。次に、ベニヤミン族の中の氏族ごとにくじを引きます。すると、マトリが当たり。次にマトリの氏族の者がくじを引くとサウルが選ばれました。そして、サムエルはイスラエルの全会衆に向かって、「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」と告げ、民は「王様万歳。」と喜び叫びました。こうして、サウルがイスラエルの初代の王として即位したのです。
 「くじ引きなんて運じゃないか。」と思われる方もいるでしょう。確かに、サイコロを投げてどの目が出るのかというのは、数学の確率の問題です。この場合の確率の計算には神様は入ってきません。神様はいないものとして計算します。数学はそれで良いのです。しかし、神様は「御心を明らかに示すためには、くじ引きさえも用いられる」お方です。天地を造られた全能の神様にとって、御自分の御心を示すためにくじ引きを用いるのは造作もないことです。旧約にはそのような場面が幾つも出て来ます。代表的なのは民数記とヨシュア記にあります、カナンの地に入ったイスラエルがどの土地を誰のものとするか、それはくじ引きで決められました。部族ごとに、その後は氏族ごとに、くじを引いて決めました(民数記26章55~56節、ヨシュア記14章2節)。イスラエルはその土地を神様から与えられた土地として、代々大切にしていきました。イスラエルにおいては、土地の売買は原則禁止です。神様が与えてくれた土地だからです。また、新約聖書で有名な箇所は、使徒言行録の1章にあります、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの代わりに使徒を補充するというときに用いられたのもくじでした。二人の者が選ばれて、最後はその二人がくじを引いてマティアが選ばれました。
 ここで、サウルがまず油を注がれ、それからくじ引きで選ばれたという順序は大切です。逆ですと、くじで当たった人なら誰でも良いから油を注ぐということになってしまいます。まず油が注がれて神様の選びが明らかにされ、くじ引きはその人に当ったわけです。くじ引きは神様の選びの確かさを証ししているわけです。

6.どうして自分が
 この時、サウルはどこにいたかと申しますと、荷物の間に隠れていました。サウルは既にサムエルによって油を注がれておりましたから、このくじの結果が自分になるということは分かっていました。しかし、荷物の間に隠れていた。それは、彼は王になんてなりたくなかったからでしょう。サウルはろばを捜していたら、いきなりサムエルからイスラエルの王となるのだと言われ、油を注がれ、ついに全部族の前でくじ引きによってイスラエルの王として選ばれた。彼の中に「どうして私が?」という思いがあったに違いありません。
 これは、神様によって選び立てられた多くの者が思うことです。牧師が召命を受けた時、「どうして私が?」と思う。それは普通のことであり、健全なことです。「私は牧師になるのに相応しい。」と言う人はいただけません。神様によって選ばれた者に与えられる務めは、ただ神様の支えや守りそして導きによってのみ遂行されるものだからです。この時、「どうして私が?」と思ったサウルでした。彼は神様に頼るしかありません。彼は今まで、全イスラエルの軍勢を指揮したこともありません。全イスラエルどころか、ベニヤミン族を指揮したこともありません。彼は戦術に優れていたわけでもなければ、数々の武功を挙げてきたわけでもありません。そのような者が初めての全イスラエルの王として立てられた。これはもう、神様の守りと支えと導きを願い求めていくしかないではありませんか。そして、それこそが神の民を導く者の最も相応しいあり方なのです。
 サウル王が王として立てられた時、このような人であったということは意外な感じを持つ人もいるでしょう。サウル王は、後に「自分が王であること」を当然なこととし、自分の地位を脅かすダビデを殺そうと、執拗に狙い続けるようになってしまいました。変わってしまったのです。そして、神様の選びもサウルからダビデへと移っていきました。

7.サウルを支持する者と支持しない者
さて、このようにしてイスラエル最初の王として立てられたサウルでありましたけれど、イスラエルのすべての人々がサウルを自分たちの王として認めたかといいますと、そうではありませんでした。何しろ、実績も何もない、ただの若者です。見方を変えれば、「くじに当たっただけではないか」とも言えるわけです。27節には「ならず者は、『こんな男に我々が救えるか』と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。」とあります。確かに最大の数を誇っていたエフライムやユダの人たちは面白くなかったでしょう。そしてサウルにしても、「どうして自分を王として認めないのか。」と言えるほどの自信もありませんでした。本人が「どうして自分が?」と思っていたほどです。自分を認めない人がいても、「それはそうでしょう。」と認めるしかありませんでした。そして、次の11章において、サウル王としての初陣と言ってもよい戦いが記されています。ギレアドのヤベシュの人々を守るために、サウルは全イスラエルに檄を飛ばします。そして、33万人の大軍でアンモン人と戦い、大勝利します。そして、ギルガルという町で王国を立てるという運びになるわけです。
 神様はサウルをイスラエルの王として選んだけれど後は知らんぷり。私共の神様はそんなお方ではありません。神様はサウルと共にいて、イスラエルを守るという出来事をもって、御自身の選びが真実であることを証ししてくださいます。ですから、神様に選ばれ、召され、立てられた者は、安心して事に当たっていけば良いのです。神様が導き、道を開き、自らの力と愛と真実を証しされます。ですから、ただ主の御栄光が現れることを求めて、為すべきことを安んじて為してまいりましょう。神様が事を起こしてくださいます。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉を通して、自らが生きて働き、出来事を起こされるお方であることを告げられました。私共が信仰を与えられ、あなた様の子とされ、このようにあなた様を父よと呼んで礼拝を守ることが出来ますのは、ただあなた様が憐れみをもって私共を選び、召してくださったからです。ありがとうございます。私共の明日は、あなた様の御心の中にあります。ですから、安心して、ここから始まる新しい一週も、あなた様の子・僕として、御国に向かって健やかに歩む者であらしめてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年1月29日]