日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「善には聡く、悪には疎く」
箴言 12章12~20節
ローマの信徒への手紙 16章17~20節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
救い主であるイエス様は既に来られました。終わりの時が始まっています。しかし、未だ再臨のイエス様は来ていません。ですから、終わりの時は完成していません。私共はそういう時を生きています。キリストの教会は、その生まれた時から今に至るまで、そのような時を歩み続けています。その時のことを、中間の時と書いて「中間時(ちゅうかんじ)」と言います。私共はイエス様に救われました。しかし、完全に御心に適った者、全く罪を犯さない者になったわけではなく、なお罪を犯してしまう者として歩んでいます。私共は「罪赦された罪人」です。罪赦されて罪を犯さない義人となったのではありませんし、罪を赦されていない罪人でもありません。罪赦された罪人です。私共は、罪を赦されて神様の子とされ、神の国の新しい命に生き、その完成に向かって歩んでいます。そのような者たちが集っているのがキリストの教会です。教会は神の国そのものではありません。しかし、ただの人間の集まりでもありません。この世界に神の国を指し示す交わりとして建てられています。しかし、神の国そのものではありませんから、色々な問題や課題を持っています。何の問題も課題もない教会、完成された教会、そんなものはこの世にはありません。それはイエス様が再び来られる、神の国の完成の時を待たなければなりません。しかし、キリストの教会はそこに向かって前進しています。神の国の完成の時に向かって、いつも前進しています。たとえ時には停滞しているかのように、或いは後退してるかのように見えたとしても、それでも前進しています。私共は、先週の主の日から今日まで、それぞれ遣わされた所で歩んで来て、今朝またここに集ってきました。その一週間分だけ、神の国の完成の時に私共は近づきました。それは確かなことです。人の目には停滞しているように見えても、キリストの教会は神の国の完成に向けて前進し続けています。

2.中間時を生きる教会
 そのような教会の歩みにおいては、問題や課題は決してなくなりません。いつの時代でも、どの国の教会であってもです。教会の歴史を語る人の中には、「使徒たちの時代の教会、初代教会は良かった。しかし現代の教会は堕落した。」と言う人や、「宗教改革の時代の教会は良かった。しかし現代の教会はダメになった。」と言う人が時々います。或いは「昔の教会、つまり自分たちが若かった時の教会は良かった。今はダメだ。」と言う人もいます。そのように言いたい気持ちも分からなくはありません。けれども、それはノスタルジーでしかありません。この歴史の中で「理想の教会」が生まれたことはありません。一度もありません。いつの時代のどの地域の教会も、問題と課題を抱えながら御国に向かっての歩みを続けてきました。それが深刻な状態の時もあれば、あまりそれに気づかないような時もありましょうが、いつも問題と課題を抱えています。今もそうです。このことをしっかり弁えておきませんと、教会が何らかの問題や課題に直面すると、教会もこの世の人間の集まりや組織と同じではないかと失望したり、信仰につまずいたりということが起きかねません。確かに、教会の中で、この世と同じではないかと思うようなことが起きることもあります。「何でこんなことが。」と言いたいことも起きます。しかし、そのようなことが起きても、キリストの教会はキリストの体であり続けます。キリストの教会は、キリストの体であることをやめるわけではありません。神の国を指し示す交わりであることをやめるわけではありません。神様の救いの御業が現れる所であることをやめるわけではありません。今朝はこのことを御言葉からしっかり受け止めてまいりたいと思います。

3.教会を惑わす者
 先週、私共はローマの信徒への手紙16章1~16節から御言葉を受けました。そこにはたくさんの人たちの名前が記してありました。それは皆、パウロの知っているローマの教会の人たちであり、パウロと共に伝道した人や主のために労苦した人たちでした。つまり、ローマの教会を代表するようなそうそうたる人たちだったでしょう。しかし、教会はそのような人たちだけが集っていたわけではありません。今朝与えられている御言葉では、16節までに記されていた人たちとは正反対の人たちのことが記されています。17~18節「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」とあります。ローマの教会の人たちが学んだ健全な教え、使徒たちが伝えた教え、これに反対して、教会に不和やつまずきを起こす人がいた。具体的にそれがどのような人だったのかは分かりません。しかし、このような人たちが、出来たばかりのキリストの教会に現れては教会を混乱させる、そういうことがあったことは間違いありません。それは、パウロの他の手紙の中にもたくさんの事例が記されています。そのような人たちのことを、ペトロの手紙二の中では「偽教師」(ペトロの手紙二2章1節)と呼んでいます。もし信徒ならば、それほどの影響を与えることはないでしょう。しかし、まがりなりにも人々を教える立場の人である「偽教師」の責任は重大です。パウロはエフェソの教会の長老たちに対して、使徒言行録20章の涙の別れの場面でこう告げました。29~31節「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロは、生まれたばかりの教会を健全な教えから逸らそうとする「残忍な狼ども」がやって来ることを予告し、「目を覚ましていなさい」と警告しました。
 ローマの教会は、この時は健やかに歩んでいたと思います。19節で「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。」と言われているからです。でも、ローマの教会がいつまでも大丈夫、心配ないとは言えません。いつの時代でも、この偽教師の問題は重大です。現代においてこの偽教師の問題が顕著に現れているのは、「異端」或いは「カルト」の問題でしょう。異端やカルトは、まさに偽教師によってもたらされるものです。異端やカルトを信じてしまった人々は、どちらかと言えば犠牲者です。彼らは元々は純朴な人だった。もっとも、自分も勧誘することで加害者にもなってしまったわけですけれど、一番悪いのは偽教師である教祖や牧師です。しかし、異端やカルトの問題だけならば、自分たちの教会には入ってこないから安心だと思うかもしれません。しかし、そうとばかりは言えないところがあります。それは、この手の問題は私共の罪から生じてくることだからです。

  4.人々を欺く者
 この偽教師によって何が為されるかと言いますと、「純朴な人の心を欺く」ということです。この「純朴な人」というのは、私共は日常生活では良いニュアンスで使うことが多い言葉でしょう。「あの人は純朴な人だ」と言った時には、たいてい良い意味でしょう。けれど、この文脈では「未熟な人、よく弁えていない人」というニュアンスで使われています。信仰の筋道、福音の筋道を十分に弁えていない人、信仰において未熟な人が、欺かれ、だまされる。彼らは「うまい言葉やへつらいの言葉」で純朴で未熟な信仰者に近づきます。そして、健全な教えに反することを教え、自分たちのグループを作ります。このグループが出来ますと、事は相当ややこしくなっていきます。簡単に解決には至りません。
 では、どうしてこの偽教師のような人が生まれてしまうのか。パウロは「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。」(18節)と言います。「自分の腹に仕える」とは「自分の欲に仕える」ということです。自分の欲に引きずられてしまうわけです。人には色々な欲があります。人に認められたい、重んじられたい、人の上に立ちたいという欲もありましょう。自分は中々大したもんだと思いたいという欲もありましょう。そして、自分は正しい者だと思いたいという欲もあります。これらの欲は、イエス様の福音によって砕かれていくものです。しかし、これらの欲は心の奥底の罪から湧いてくるものですから、中々しぶといのです。イエス様の御言葉によって悔い改めへと導かれて新しくされても、それで終わりではありません。そのような思いはすぐに湧き上がってきて、私共を虜にしようとします。ですから、私共は御言葉を与えられ、イエス様の御前に立って、悔い改め続けることによってしか、この「自分の腹」「自分の欲」から自由になることが出来ません。私の主人は自分の腹、自分の欲ではなく、イエス様だけだ。そのことをしっかり心に刻んで、ただイエス様に従う。これが大切です。
 もう一つ私共が弁えていなければならない点があります。それは、このような人の後ろにはサタンが働いているということです。この点を見落としてはなりません。「わたしたちの戦いは、血肉(=つまり人間)を相手にするものではない」(エフェソの信徒への手紙6章12節)からです。諸々の悪しき霊が私共を囲み、そそのかし、信仰の歩みを頓挫させようとします。教会に「不和やつまずきをもたらす」ようにします。教会の中に不和が起きれば、それを見て「これでも教会か」とつまずく人も出て来ます。これを喜ぶのはサタンだけです。しかし、実際に「不和やつまずきをもたらす」ということが起きても、人は自分が悪いとは中々思いません。そもそも神様の愛の交わりの中に「不和」という状態がもたらされる段階で、サタンが闊歩しているのですけれど、そのように思う人はあまりいません。教会の外では「不和」「仲違い」はどこにでもある当たり前のことですから、慣れっこになっているからでしょう。改めて、サタンや悪しき霊などとは考えない。さらに悪いことに、人は自分が正しいと思っていますので、相手が悪いと責めます。でも、「自分は正しい」と言い始めた時、思い始めた時、人はサタンの誘惑に陥り始めているのです。正しいのは神様だけだからです。私共はどこまで行っても「自分は正しい」と言い切れるものではありません。これがイエス様の十字架の前で与えられる、新しい自己認識です。ですから、互いに「自分は正しい」と言う者たちが、不和や仲違いになって相手を責める。さらにはつまずく者が出る。これはもうサタンが暗躍している明らかな証拠です。パウロはこの手紙を終えるに当たって、このことをしっかり弁えておきなさい、とローマの教会の人たちに告げました。それは、このような事態に陥らない保証がある教会やキリスト者など、この地上には存在しないからです。

   5.サタンとの戦い:警戒し、遠ざかる
では、これらのことに対して、私共はどのように対処していけば良いのでしょうか。私共は、そのようなことが起きるならば、こういう人と断固戦わなければならないと考えるかもしれません。しかし、パウロはそのようには言わないのです。こういう人々を「警戒しなさい」、そして「彼らから遠ざかりなさい」と告げます。要するに、「相手にせずに逃げろ」と言うのです。意外だと思われるかもしれません。しかし、ここには霊的生活の実際的な知恵が示されています。武術の達人たちが出演して、その業を見せたり話したりする番組を見ていましたら、色んな流派の人たちがいたのですが皆、「最高の護身術は、戦わずに逃げることだ。」と言うのです。なるほどと思いました。サタンとの戦いもそうです。サタンは私共よりもずっと賢いし、力もあります。言葉も巧みです。実際、こういう人とまともに関わって戦ったら、時間も労力も霊的なエネルギーも消耗して、弱り果ててしまいます。それに、実際これとまともに戦えば、まるで教会が二つの陣営に分かれたかのような状態になり、ますますつまずく者が多く出るでしょう。つまり、サタンの思うつぼということになります。戦わずに逃げることの方が、賢く正しい対処の仕方であることもある。サタンとの戦いでは、そのような賢さが必要とされます。勿論、決して戦うなということではありません。教会において福音の筋道が失われそうになるならば、それは放っておくことは出来ません。それが宗教改革という戦いでした。しかし、いつでも戦えば良いということではないということです。
 また、相手をサタン呼ばわりするのはもっての外です。そんなことをすれば、全面的な戦いが始まってしまいます。それに、相手をサタン呼ばわりし始める時、自分は神様の側に身を置くことになります。そうすると、悔い改めは決して起こりません。お互いに自分が正しいのであって、相手はサタンなのですから、戦いを続ける中で自分が悔い改めることはありません。悔い改めは相手がすれば良いと思います。こうなるともう、完全にサタンの策略に乗せられてしまっています。喜ぶのはサタンだけです。人間は愚かですから、何度でもこのようなサタンの策略に引っかかってしまいます。教会の歴史を見れば、そのような出来事の例を上げるのに不自由しません。いくらでもあります。

6.主に委ねる:主の勝利を信頼して
でも、大丈夫です。パウロは、だから大変だ、もうダメだ、なんて考えもしません。理由は単純です。神様御自身が戦ってくださるからです。パウロは、20節「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」と告げます。この言葉の背景にあるのは、創世記3章において、アダムとエバが蛇にそそのかされ、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまった後、蛇に対して神様が言われた言葉です。神様は蛇に対して、アダムとエバの子孫が蛇の頭を砕き、蛇はアダムとエバの子孫のかかとを砕く、と言われました。アダムとエバの子孫はイエス様を指し示し、蛇はサタンを示しています。蛇がかかとを砕くのは、イエス様の十字架を指していると読みます。サタンはアダムとエバを誘惑して、罪を犯させることに成功しました。けれど、それがサタンの勝利にはならなかった。勝利するのは神様です。私共も、また教会も、サタンにそそのかされて愚かな歩みをするでしょう。しかし、それで終わりにはなりません。パウロは神様の勝利を確信しています。サタンが勝利することはありません。たとえ、一時はサタンの勢力が強大になるかのように見えたとしても、そのままサタンが勝利することは決してありません。既にイエス様の復活によって、神様は勝利されているからです。信仰の筋道においては、これはとても単純なことです。誰でも分かることです。ただ、そこに私共が立ち続けることが出来るかどうかです。もし、私共が自分の力で何とか出来ると考え、何とかしようとすれば、それはとても危険です。私共には知恵も力もないからです。その時、サタンは大いに喜ぶでしょう。そして、こう言って笑います。「そうだ!神になど頼むな。自分の力に頼れ。それで良いんだ。相手をやっつけろ。」サタンは大喜びです。しかし、私共はその手に乗ってはなりません。私共は神様に寄り頼みます。サタンを相手に戦うのは、神様御自身です。それさえはっきりしていれば、私共は何度でもやり直すことが出来ます。そして、神様が勝利してくださいます。神様の勝利によって与えられるのが「平和」です。神の平和です。私共の神様は「平和の神」だからです。
 ここでパウロは、その神様の勝利は「間もなく」だと告げます。つまり、救いの完成、神の国の完成においてそうなるというのではなくて、私共の人生の中で「サタンが足の下で打ち砕かれる」という出来事か起きると言っているわけです。パウロはそのような出来事を何度も味わいました。あなたたちもそれを味わうことになる、と告げているわけです。「相手にせずに逃げる」それは、神様が戦ってくださり、勝利してくださることを信じて、神様にお委ねするということです。

7.善に聡く、悪には疎く
 パウロはここで「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」と告げます。私共は放っておけば、「善に疎く、悪にはさとく」なってしまいます。それが罪人ということです。しかし、イエス様の御前に立つ時、私共は、何が善いことなのか、何が神様に喜ばれることなのかを知ります。愛すること、仕えること、信じること、祈ること、賛美すること、御国への希望に生きること、共に喜ぶこと、共に泣くこと、困っている人を助けること等々は善いことです。問題は、具体的な日常の生活において、それをどのように為していくのかということです。実際にこれを為していくためには、知恵が必要です。例えば、どうすれば祈りの時を確保出来るのか。祈りが大切であることは誰でも知っています。しかし、それを実践するには生活を整えていく必要がありますし、知恵も工夫も必要です。或いは、どうすれば隣り人に、また愛する者に仕えることが出来るのか。それは具体的な生活の中で工夫していくものです。放っておいても自然にそのような生活になっていくということはありません。神様を愛し、信頼し、従う生活を整えていくためには知恵が必要です。霊的な知恵とでも言うべきものです。それは、実際にそのように生きようとし続けていく中で、聖霊なる神様の導きによって与えられていく知恵です。そして、その知恵は、教会の伝統の中に豊かに蓄えられています。
 一方で、私共は自分の欲を満たすためならば、放っておいても色々な知恵が次々と湧いてきます。時には、自分の欲を満たすために他の人を利用するようなことだってします。自分を正しいと思わせる立場に立つためには、嘘も平気でつきます。近年、当たり前に使われるようになったフェイクニュースという言葉が示しているのは、そういう現実です。何十年か前にはニュースに嘘があるなんて考えもしませんでした。最近の状況で言えば、ウクライナでの戦争について流されるニュースは、ウクライナ側から出るものとロシア側から出てくるものとでは全く違います。お互いに偽情報を出します。戦争などは悪の典型ですから、そこにおいて罪人である人間は、最も知恵を発揮することになるのでしょう。しかし、そんな知恵は、御国に行くのには何の役にも立ちません。このような知恵にはうとくて良いのです。
 私共が共に御国に向かって健やかに歩んで行くことが出来るように、聖霊なる神様の導きを共に祈りたいと思います。

 祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉をもって、私共がサタンの誘惑を退けて、御国に向かって健やかに歩んで行くようにと勧めを与えてくださいました。正しいお方はあなた様だけです。どうか私共が、善に聡く、悪に疎く、あなた様の子・僕とされた者としてしっかり歩んで行くことが出来ますよう、一切のサタンの誘惑から私共をお守りください。自分の欲に振り回されることなく、ただあなた様を愛し、信頼し、従ってゆくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年2月19日]