1.はじめに
2月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。サムエル記上の12章です。前回は9章・10章から、サウルが神様に選ばれ、サムエルによって油を注がれて、イスラエルの初代の王様とされたところから御言葉を受けました。イスラエルは士師によって導かれる時代から、王様によって導かれる時代、王国時代へと移ります。12章の小見出しは「サムエルの告別の辞」となっていて、まるでサムエルはこれで隠退するかのようですが、この後ダビデを選び、彼に油を注いでサウルの次の王として立てるのはサムエルです。ですから、サムエルはこれで隠退するわけではありません。確かに、イスラエルにはサウルが王様として立てられたわけですから、今までのようにサムエルがすべてを導くことはなくなり、サウル王が中心となってイスラエルは歩んでいくことになります。そのような時に当たって、サムエルは、イスラエルに対してどうしても告げておかなければならないことがありました。それは、サウルという王様を戴いて新しく歩み出すイスラエルに対して、神の民として歩んでいくとはどういうことなのか、何に気をつけて歩まなければならないのか、そのことをどうしても話しておかなければならないと思ったのでしょう。そうでないと、サウルに油を注ぎ、王として立てた自分の責任を果たせないと、サムエルは考えたのでしょう。サウルを王として立てた。そこで自分の役割は終わり。後のことは知りません。サムエルにはそんなことは出来ませんでした。神の民としてイスラエルが忘れてはならないこと、イスラエルに伝えておかなければならないこと、それをサムエルは全イスラエルを集めてここで告げたのです。士師の時代から王の時代に変わっていく、神の民の歴史の転換点において、サムエルがどうしても伝えなければならなかったこと、それがここに記されています。それは、時代を超えて、神の民である私共に告げられている言葉でもあります。順に見てまいりましょう。
2.サムエルの身の潔白
最初にサムエルがイスラエルの民に告げたのは、自分の身の潔白でした。サムエルは年老いてきました。サウル王が立てられ、これからは自分が今まで為してきたことの多くを、サウル王が代わってやるようになります。しかし、それはサムエルに落ち度があったからではありませんし、或いはサムエルがもう使い物にならなくなったからでもありませんでした。このことをサムエルはまずはっきりさせます。3節「わたしが、だれかの牛を取り上げたことがあるか。だれかのろばを取り上げたことがあるか。だれかを抑えつけ、だれかを踏みにじったことがあるか。だれかの手から賄賂を取って何かを見逃してやったことがあるか。あるなら、償おう。」サムエルを育ててくれた祭司エリは、最後は自分の息子たちが神様をないがしろにしているのに、それを止めることが出来ませんでした。「晩節を汚す」という言葉がありますけれど、祭司エリの晩年はそのようになってしまいました。しかし、サムエルはそうではありませんでした。そのことをイスラエルの人々に確認させ、主をその証人とします。王が立てられるのは士師に問題があったからではない。そのことを、最後の士師として、サムエルは確認したのです。士師に問題があったから王が立てられたのではないことを確認すると同時に、新しく王として立てられたサウルに対して、「あなたはイスラエルの民を抑圧したり、賄賂を取ったり、裁きを歪めてはいけない。わたしはそのように身をもって示してきた。王もまたそうでなければならない。」そう告げたかったのでしょう。
3.モーセ以来の神様の憐れみの歴史
第二にサムエルがイスラエルの民に告げたのは、モーセ以来のイスラエルの歴史です。神様はモーセとアロンを立てて、イスラエルをエジプトから導き出しました。そして、カナンの地に住むようになった。それなのに、先祖は自分たちの神様を忘れて、バアルとアシュトレトに仕えた。そこで神様は、ペリシテ人やモアブの王を用いてイスラエルを懲らしめました。イスラエルは自らの犯した罪を悔い改めます。そして、神様は士師を立て、イスラエルを救い出されました。士師記に繰り返し記されているのはこのことです。イスラエルの民が神様を裏切り、バアルとアシュトレトに仕える。それに対して神様の懲らしめがあり、イスラエルは近隣諸国に攻められ、危機に陥る。イスラエルは悔い改めて神様に助けを求め、士師が立てられてイスラエルは救われる。この繰り返しが士師の時代でした。神様は何度も何度も赦し、士師を送り、イスラエルを救いました。その最後の士師がサムエルです。イスラエルの歴史はイスラエルの裏切りと、それを赦し助ける神様の憐れみの歴史でした。
神様の憐れみは、その歴史の中に示されています。士師が立てられ続けたのは、神様の憐れみの具体的な現れでした。士師が立てられ続けることによって、イスラエルは守られ、救われ続けてきました。神様には何の問題もありませんでした。問題があったのはイスラエルです。ところが、イスラエルは士師では満足せずに、王を求めたのです。このことをはっきりさせておかなければなりませんでした。
4.罪をも踏み超えて
12~13節を見てみましょう。「ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。」イスラエルの王は、主なる神様です。しかし、イスラエルは目に見える人間の王を求めたのです。これは不信仰です。目に見えない神様なんて嫌だ。他の国のように、目に見える人間の王の方が良い。そう言って王を求めた。これはもう、偶像礼拝すれすれでしょう。サムエルも神様も、そのことを分かっていました。しかし、分かった上で、それでも神様はイスラエルにサウル王を与えました。神様は甘いのではないか。そう思う方もおられるでしょう。その通りです。甘いのです。神様はイスラエルに甘いのです。何故なら、イスラエルを愛しているからです。神様は、神の民イスラエルが、神の民であることを忘れず、神の民であり続けるならばそれで良いとして、この要求を受け入れたのです。
これが聖書の神様、私共の神様です。人間の罪・不信仰を踏み越えて、なお私共と共に歩もうとされる神様です。そのような神様であるからこそ、私共のために愛する独り子を与えてくださったのです。神様はイスラエルに何度も何度も裏切られました。それでも、神様はイスラエルとの関係、「主なる神と神の民」という関係を反故にしたりなさいませんでした。そこに愛があります。神の独り子であるイエス様は、神の民と自認するユダヤ人によって十字架に架けられました。これは決定的な神様への反逆でした。しかし、神様はそのイエス様の十字架をもって、私共の救いの道を開いてくださいました。最も罪深い業を用いて、救いを貫徹する。それが聖書の神、私共の神様です。主なる神様は、神の民の罪を踏み越えて、自らの愛を貫徹されるお方なのです。
5.神の民に求められることは、ただ一つ
神様が神の民に求められることは、ただ一つです。それは14節に「だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。」とありますように、神様を畏れ、主に従い、御声に聞き従うことです。そこに神の民のすべてが懸かっています。もし、イスラエルの民もイスラエルの王も、みんながそうであり続けるならば、それで良いのです。そして、士師から王に代わったことも、サウル王が与えられたことも、意味あることになります。イスラエルは神様の祝福を受け、王様のもとで神の民として繁栄していくことになります。
しかし、そうでないならば。つまり、主を畏れず、主を侮り、主に仕えることなく、主の御声に従わなくなるのならば、神様がそれを放っておくことはない。そうサムエルは告げました。それが15節です。「しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。」つまり、士師記に記されているように、イスラエルは他の民によって攻撃を受け、困窮し、立ちゆかないようになる。
実際にはどうなったでしょうか。サウル王の後、ダビデ王が立てられるわけですが、その子ソロモン王が亡くなると、イスラエル王国は北と南に分裂します。それらのことが記されているのが列王記です。そこには北イスラエル王国と南ユダ王国のすべての王様のことが記されています。その中で、偶像を取り除き、主に従い続けた王はたったの二人だけです。ヒゼキヤ王とヨシュア王です。何百年という間に王となった者の中で、たったの二人だけ。その結果、北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされて、バビロン捕囚という目に遭うことになりました。「主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」ことになってしまいました。残念なことに、このサムエルの言葉は現実となったのです。
しかし、私共はその先のことも知っています。確かに、神様の裁きは神の民に下されたのですけれど、それで神の民の歴史が終わることはありませんでした。神の民が歴史の中から消えてしまうことはありませんでした。バビロン捕囚で神の民イスラエルの歴史は終わらなかった。バビロン捕囚から解放された神の民は、イスラエルに戻ってエルサレムを再建し、神殿を再建し、神の民としての歩みを続けました。神様は確かにイスラエルを歴史の中で裁かれましたけれど、滅ぼし尽くすことはされませんでした。その神様の救いの歴史の中に、イエス様は来られました。そして、今日の私共がいます。神の民としての私共です。神の民の歴史は、神様の救いが完成するまで、神の国が完成するまで閉じられることはありません。神の国が完成するまで、神様の救いの歴史は終わりません。
6.警告
さて、サムエルはイスラエルの民に対して警告を与えます。16~17節「さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」と告げました。小麦の刈り入れ時期は、現代の暦で言えば5月から6月です。パレスチナ地方ではこの時期は「乾いた季節」と書く「乾季」となります。乾季には雷も雨もありません。富山に住む私共には想像することも難しいのですけれど、エルサレムの5月から9月までの乾季における降雨量はほぼ0です。乾季に雷を伴う雨など降ることは決してありません。しかし、そのようなことが起こる。それによって、神様がサムエルと共にいて悔い改めを求めておられることを知れ。そうサムエルは告げたわけです。そして、実際サムエルが主に呼ぶと、雷と雨が下されました。民は驚き、恐れ、サムエルに告げます。19節「民は皆、サムエルに願った。『僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。』」と罪を告白し、悔い改めたわけです。しかし、何かサムエルに脅されて悔い改めているような印象も受けます。これで良いのかな、と思う方もおられるでしょう。
先ほど、イスラエルのこの後の歴史を見ましたので、このような記事を読んでも、このような罪の告白や悔い改めは一時的なもの、その場しのぎのものではないか、と思うかもしれません。確かに、そうなのです。この時の罪の告白や悔い改めが嘘だとは言いませんが、本当にこれで生まれ変わるほどの決定的な転換がイスラエルに起きたのかというと、なお疑問が残るでしょう。しかし、ここでもう一歩悔い改めについて考えてみますと、私共の悔い改めというものは、そのようなものなのではないかと思わされるのです。一度悔い改めたら、もう二度と罪を犯さない、元の所には戻らない。そう言い切れる人がいるでしょうか。私共の為す悔い改めは、そんな立派なものでしょうか。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がありますけれど、これが愚かな私共の実際の姿のように思えます。私共の悔い改めとは、そうでしかあり得ないのではないでしょうか。涙を流して自らの罪を悔い、神様に赦しを求める経験をした。それは本気だった。しかし、しばらくすれば熱が冷めたようになった。そういう経験もしているでしょう。だから悔い改めは意味がないというのではありません。私共が悔い改めることは決定的に重要です。それが神様の御前に立つということだからです。しかし、思い違いしてはなりません。私共が救われ、新しくされるのは、私共の悔い改めによるのではなく、罪を認めて悔い改めるその私共を義(よし)としてくださる神様の憐れみによってです。私共は何度でも何度でも、自らの罪を認め、神様の御前に赦しを求めて悔い改めます。そして、そこで私共は何度でも何度でも、神の民として新しくされます。私共は新しくされ続けるのです。それが神の民の歩みです。
7.勧め
ですから、次にサムエルは「勧め」を告げるのです。20~21節「サムエルは民に言った。『恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。』」サムエルは「恐れるな。」と民に告げました。民は確かに悪を行いました。見えない神様が王であることを不満とし、見える王を求めました。しかし、神様はその憐れみの中で、イスラエルの求めを受け入れ、サウル王を立ててくださいました。大事なことは、「これから」です。それは、いつでもそうです。私共にとってもいつも大切なことは、「これから」です。これからどう歩むのかということです。昨日までどうであったかではありません。「主に従い、心を尽くして主に仕えなさい。」とサムエルは告げます。24節でも「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。」と告げます。さらに「むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。」と告げます。神の民は「むなしいものを慕って」いくことはしない。「むなしいもの」とは「偶像」のことです。サムエルがここで告げているのは、十戒の第一と第二の戒めです。この偶像には色々なものがなり得ます。偶像は刻んだ像だけではありません。神様以外の、私共の目に良きものは、すべて偶像になり得ます。神様以上に心を引かれ、それに頼る時、それは偶像となります。富も、権力も、名誉も、人も、物も、自分の能力や力も、何でも偶像になり得ます。しかし、それらは「何の力もなく、救う力もない」のです。私共を死から救い、永遠の命へと導くことは出来ません。ですから、それに心を奪われて御国を目指す道からそれてしまえば、死に飲み込まれてすべてを失うことになってしまいます。
そして、24節b「主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。」と告げます。「主が示された偉大なこと」。それは、天地創造であり、出エジプトの出来事です。海の奇跡、天からのマナの養い等々、幾つも挙げることが出来ます。そして、私共にとっては、主イエス・キリストの十字架であり、復活です。勿論、それだけではありません。教会の歴史の中で与えられた偉大なこともありますし、私共一人一人の人生においても大きな出来事を為してくださいました。私にもそのような忘れ難い恵みの出来事が、幾つもあります。この大いなる出来事を為された方が、私共の唯一の主であり、まことの王なのです。
8.約束
サムエルは警告と勧めを告げると共に、約束も告げます。22節「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。」神様は「御自分の民を決しておろそかにはなさらない」と言われていますが、これは「決して見捨てたりはしない」ということです。この約束は本当に素晴らしい約束です。私共がどういう者であるか、どんなに欠けがあり、何度も神様の御前から離れてしまうような者であったとしても、神様は決して私共を見捨てません。神の御国に至るまで、私共を捕らえて決して離しません。私共は、自分に都合の悪いことがありますと、「神様は自分を見捨てたのではないか。」と思ったりするかもしれません。しかし、それは私共の勝手な思い込み、誤解です。神様は決して私共を見捨てたりなさいません。それは、神様が私共を「御自分の民と決めておられる」からです。神様はいつそれをお決めになったのでしょうか。それは、私共が生まれる前から、天地を造られる前からです。天地を造られる前から、神様は私共を御自分の民と決められ、時至るに及んで、私共に信仰を与え、洗礼へと導いてくださいました。私共が神様を知る前から、神様は私共を御存知であり、私共を「御自分の民」とお決めになってくださいました。この富山の地にも、私共が未だ知らない、既に神様が御自分の民とお決めになっている民が大勢いることでしょう。神様はお決めになったことを、途中で投げ出したりはなさいません。それでは「その偉大な御名」を辱めることになるからです。御自分の民は、どんな者も決して見捨てず、必ず御国へと導く。そこに神様の偉大さが懸かっているからです。そのことによって、神様は御自身が偉大であることを証しされるからです。もし神様が、正しい人や善い人だけを見捨てないとするならば、その神様はなんと小さな、つまらないお方ではないでしょうか。私共の神様は、そんな小さな、つまらないお方ではありません。もし、そんな方なら、どうして愛する御子を私共に与えてくださることがあるでしょうか。ですから、私共は心安んじて、主に従い、主にお仕えしていけば良いのです。主はそのことだけを、いつも待っておられます。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉を通して、私共を御自分の民とお決めになり、決して私共を見捨てることのないお方であることを示してくださいました。感謝します。私共は何度でも同じような罪を犯してしまう者です。しかし、その度毎に、あなた様の御前に悔い改め、赦しを受け、あなた様との交わりの中を歩ませてください。あなた様を心から畏れ敬い、心を尽くしてあなた様を愛し、信頼し、お仕えする者として、この一週も歩ませてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年2月26日]