1.はじめに
今日で、共に読み進めてまいりましたローマの信徒への手紙が終わります。2021年5月2日から読み始めて、2年近くローマの信徒への手紙から御言葉を受けてまいりました。私自身が牧師・説教者としてこのような形でローマの信徒への手紙から御言葉を受け続けることは、年齢を考えますと、もうないだろうと思います。そう思いますと、もっと丁寧にあのこと、このことを語るべきであった。或いは、あの箇所は一回で語るのではなくて、二回か三回に分けて語るべきであったというような思いがないわけではありません。しかし、毎週の説教は、聖霊なる神様のお働きによって、その時その会衆に告げられる神の言葉なのですから、主の日の礼拝の度ごとに、皆さんが神様の語りかけを聞き取り、受け取ることが出来たのならばそれで良い。それが一番大切なことですから。
今朝与えられている御言葉は、この手紙の終わりの挨拶の、さらにその最後の部分です。この手紙は本文も長いのですが、挨拶も他の手紙とは比べものにならないほど長いのです。16章の1節から、パウロはローマの教会にいる友人・知人の名前を挙げて、いちいち「よろしく」と言ってきました。そして、今朝の所では、この時パウロと一緒にいる人たちの名前を挙げて「○○がよろしくと言っています。」と繰り返します。そして、「神に栄光が限りなくありますように、アーメン。」と神様を賛美し、神様を誉め讃えて終わります。
順に見てまいりましょう。
2.伝道チーム
21~23節には、この手紙を書いているパウロと一緒にいる人々、多分パウロの同労者であり、主の御業に共に仕えている人たちの名前が記されています。この一人一人について、同一人物だと確認出来るわけではありませんけれど、聖書の他の箇所、特に使徒言行録に同じ名前の人が出て来ます。その中ではっきりしているのは「テモテ」です。彼の名前は使徒言行録にも出て来ますし、他のパウロの手紙にもパウロの共同の差出人として記されています。そして、彼に宛てたパウロの手紙が二つ新約聖書に含まれています。テモテへの手紙一・二です。テモテはパウロが「愛する子テモテ」(テモテへの手紙二1章2節)と呼んだ人で、年齢差がかなりありましたけれど、パウロが最も信頼した同労者・伝道者でした。そして、この手紙を筆記したテルティオ。多分、彼はパウロの弟子のような関係だったのではないかと思われます。そして、「同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロ」ですが、これは「同胞の」とありますから、ユダヤ人キリスト者だったでしょう。さらに「教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」というのは、家の教会やパウロに自分の家を提供していた人だろうと思われます。また「市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています」と告げられている二人は、多分、裕福な人たちだったでしょう。この最後の三人は信徒であったかもしれません。しかし、パウロと一緒に伝道していた人です。
ここで分かることは、パウロはこのような人たちと伝道者集団、伝道クループを作って伝道していたということです。パウロは確かに偉大な伝道者でしたけれど、彼は一人で伝道したのではありませんでした。それは使徒言行録に記されているパウロの三回の伝道旅行の記述を見ても明らかです。そもそも、イエス様が12人の弟子たちを伝道に遣わされた時も、二人一組でした(マルコによる福音書6章7節、ルカによる福音書10章1節)。これは大切なことです。キリストの福音は、その福音に生かされる者の交わりの中で証しされ、伝えられていくものだからです。勿論、福音を伝えていくのは神様御自身ですから、神様は自由にあらゆる物、あらゆる機会を用いられます。書物や音楽や映像や言葉、キリスト教学校をはじめとする様々な施設、そこで働く人、そして家族。あらゆる物・人・出会いを用いられます。それは神様の自由です。しかし、ここに神様がおられる、それがはっきり示されるのは福音に生かされた者たちの交わりにおいてです。神様は愛ですから、その愛が満ちている所において、神様の真実が証しされます。神様がここにおられることが証しされます。パウロたちは、その交わりにおいて福音を証ししつつ、福音を宣べ伝えていったということです。
ここで、私共の教会の交わりがそのようなものになっているかが問われます。教会は「神の家族」(エフェソの信徒への手紙2章19節)と呼ばれるわけですが、そのような交わりになっているかということです。それはただ仲が良いということではなくて、一人一人が福音に生かされていることによって神様がここにおられるということが明らかになる、そのような交わりかということです。
3.最後の言葉:アーメン、ハレルヤ
さてパウロは、自分たちをそしてローマの教会の人たちを救い、福音の伝道を導いてくださっている神様を賛美して、この手紙を閉じます。この手紙の最後は27節「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」です。パウロはローマの信徒への手紙という、とても長い手紙を書いてきました。この手紙は、その後のキリスト教の教理を決定づける、本当に大切なことが記されている手紙です。その最後は神様への賛美、頌栄で閉じられています。ここにはキリスト者の心とでも言うべき大切なことが示されています。キリスト者は神様の御心に従おうとして色々なことをします。また、神様の御心を思い巡らして色々なことを考えます。それが上手くいくこともありますし、上手くいかないこともあります。当然のことですが、私共は上手くいきませんとがっかりしますし、してきたことが無駄であるかのように思ってしまうことさえあります。しかし、私共は神様を見上げることを示されています。私共は考えたり、色々目論んで計画して、実行するわけです。パウロも色々なことを考えて、この長いローマの信徒への手紙を書いてきました。パウロはよくよく考えて、間違いない、正しいと思うことを記しました。これはひょっとすると間違っているかもしれない、そんなことは考えていません。当然です。しかし、本当に正しく、間違うことのないお方は、神様だけです。私共の為すことは、どこまでいっても欠けがあります。自分では上手くいったと思っても、なお欠けがあります。それは、私共の為すことはどんなことであっても、神様の赦しの中で受け取っていただくしかないということです。私共は神様を見上げることによって、そのことをはっきり知らされます。そこで生まれてくるのが、賛美・頌栄です。人間の営みの最後は、神様に対しての賛美です。神様の存在とその救いの御業に対し感謝して「アーメン」と言い、その神様を誉め讃えて「ハレルヤ」と告げる。パウロがこの手紙の最後を神様を賛美することで閉じたということは、この手紙を用いてくださる神様にすべてをお委ねしたということです。
そして、この神様を賛美する心は、悔い改めの心と共にあります。それは「上手くできた。上出来だ。自分は大したもんだ。神様、ありがとう。」というのとは、少し違います。これですと、上手くいかないと、「アーメン、ハレルヤ」とはなりません。人間の営みの最後が神様に対しての賛美、「アーメン、ハレルヤ」であるということは、神様の絶大な力、知恵、聖さ、偉大さ、愛、赦し、栄光を前にして、自らの罪、小ささ、欠け、愚かさ、分別のなさ、頑なさをはっきり示されて、赦しを求めるしかない。しかし、そこにおいて、それでも生かされ、用いられた恵みを思い、神様を誉め讃える。もうそれしかない、ということです。神様を見上げるならば、私共の営みのすべてが、神様の御手の中にあったことが明らかに示されるでしょう。しかもその御手は恵みと憐れみに満ちています。ですから、「アーメン、ハレルヤ」しかない。それは、私共がこの地上の生涯を閉じる時の最後の言葉もまた、「アーメン、ハレルヤ」だということなではないでしょうか。どんなことがあったとしても、私共は神様を見上げる時、自分の為してきたすべてを御前に差し出すしかありません。それは、神様の御前にあっては、実にみすぼらしいものでしかないでしょう。しかし、そのすべてを受け止めてくださる神様がおられる。この方を前にして、私共はもう「アーメン、ハレルヤ」しかない。最近、私は本当にそう思うのです。
さて、今、最後の27節が賛美・頌栄であると申し上げましたけれど、実は元のギリシャ語では、25~27節は一つながりの文なのです。ですから、25~27節全体が賛美・頌栄だと言えます。口語訳では、ギリシャ語を尊重して、これを一つの文にして訳していました。その結果、正直なところ、よく分からない日本語になっていました。これだけ長いとそうなってしまうのは仕方がありません。それで、新共同訳では、内容を考えて4つの文に分けて翻訳しました。その四番目の文、最後の文が今見ました27節です。では25節、最初の文から見てまいりましょう。
4.神様が強めてくださる
25節「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」と告げます。神様はあなたがたを強めてくださるお方だから、神様を賛美し、誉め讃える。これが神様を賛美する第一の理由です。何によって強くされるのかと言えば、イエス・キリストについての宣教によってです。そして、それはパウロが「わたしの福音」と言っているものです。パウロがそれによって救われ、生かされ、宣べ伝えている福音です。それによって、神様はローマの教会の人たちを強くしてくださいます。勿論、内容から言えば、強くされるのはローマの教会の人たちだけであるはずがありません。パウロたちも、代々の聖徒たちも、そして私共も、この福音によって強くしていただきましたし、強くしていただいています。逆に言いますと、ローマの教会の人々も、パウロも、代々の聖徒たちも、私共も、この福音によらなければ弱いということです。どのように弱いかと言えば、罪を知らず、悪しき霊の働きに対抗することも出来ず、希望もなく、目の前に起きる出来事に一喜一憂するしかない。自分が何者であり、何処に向かって生きているかも知らない者だからです。しかし、福音によって私共は、自分が神様に愛されていることを知らされ、神の子としていただき、御国に向かって歩む者とされました。生きていれば色々なことがあります。辛いことや悲しいことにも出遭います。しかし、福音によって私共は、これが最終結論ではないことを知っています。だから、顔を上げて、そこからまた歩み出していくことが出来ます。「アーメン、ハレルヤ」と言えるのです。
5.啓示=秘められた計画が啓かれた
そして25節b「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」と告げられます。「秘められた計画」とは、口語訳では「奥義」と訳されていました。英語の「ミステリー」の語源となった「ミステリオン」という言葉です。神様が永遠の昔に計画され、神様だけが御存知だった計画、それは隠されていました。覆いを掛けられて隠されていた神様の計画、その覆いが取られました。覆いが取られて、すべての者に神様の永遠の御計画が明らかにされました。それが福音です。その覆いを取るために、神の御子であるキリストが、イエス様として人間となってこの世界に来られ、十字架に架かり、復活されました。実に、私共を強くする福音は隠されていましたけれど、イエス様の到来によってはっきりと、覆いをはぎ取られるように明らかに示された。この福音によって救っていただいた私共は、神様を誉め讃えるのです。
ここに「啓示」という言葉が使われていますけれど、これは覆われていたものの覆いが取られて、隠されていた物が明らかにされるという意味の言葉です。神様について、その御心について、人間の力では知ることが出来ません。神様御自身が言葉や行為によって御自らを顕わされなければ、人間は神様について知ることは出来ません。そこで神様は、自然や良心や聖書、イスラエルの歴史によって示して来られました。しかし、それで十分ではありませんでした。そこで時満ちるに及んでイエス様が来られたわけです。
6.預言者たちの書き物を通して:旧約の成就
では「神様の秘められた計画」は完全に隠されていたかと言いますと、そうとは言えません。旧約聖書が与えられていたからです。それが26節「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導く」と言われていることです。「預言者たちの書き物」とは旧約聖書のことです。旧約聖書の中に神様の御心は示されていました。けれど、イスラエルの民にはそれをはっきりと理解することが出来ませんでした。しかし、イエス様が来られて、旧約聖書において示されていた神様の御心がはっきりしました。旧約聖書はイエス様のこと、またイエス様によって与えられる救いを預言していた、そのことが分かりました。このことは、私のイメージとしては、数学の図形の証明問題があり、いくら考えてさっぱり分からない。ところが、一本の補助線を引くことによって、あれほど分からなかったことが、すぐにはっきりと分かるようになる。旧約聖書の言葉だけでは、何を意味しているのか分からない。ところが、そこにイエス様の十字架をかざしてみると、はっきりとイエス様による救いの預言であることが分かる。
このことは、言葉で説明するとややこしいのですけれど、具体的に見ればすぐに分かります。例えば、先ほどお読みしましたイザヤ書53章です。今すべてをお読みすることはしませんけれど、3~5節を読みますとこうあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」この「彼」とは誰のことなのか、旧約聖書だけを読んでも全く分かりませんでした。ユダヤ人たちにとって、これは謎の預言でした。しかし、イエス様が十字架にお架かりなって、このイザヤの預言が、イエス様の十字架の預言であり、それによって私共に与えられる救いの預言、神様の救いの御計画であることが明らかにされました。旧約の預言がイエス様によって成就されたと分かることによって、神様の御心が明らかにされました。
7.すべての異邦人に知られた
そして、その御心は、ユダヤ人だけを神の民として救うというようなものではなく、すべての異邦人がただ信仰によって救われるというものでした。律法を守ることによってではなく、ただ信仰によって救われる、神様との愛の交わりに生きる者になるというものでした。ですから、その福音はユダヤ人だけではなくて、「すべての異邦人に知られるように」なったのです。ユダヤ人だけが救われるというようなものならば、異邦人が知る必要はありませんし、知る意味もありません。パウロたちが伝道することもありませんでした。勿論、実際にはこの時、パウロはイスパニアにまで伝道したいと言っているわけですから、すべての異邦人にこの福音が伝わったというわけではありませんでした。この手紙が書かれて二千年後のこの日本においても、まだすべての日本人にイエス様の福音が伝わったと言える状況ではありません。しかし、すべての異邦人にこの福音が知られるようになることは、神様の御心です。まだ福音が伝えられていない所がある。まだ福音を聞いたことのない人がいる。それは私共、現代のキリスト者が負うべき責任であり、課題であると言って良いでしょう。
この福音伝道によって、神様に敵対していた者が、神様に対して従順な者に変えられるという奇跡が起きます。これは私共の上にも起きました。私共は、以前は神様に対して反抗し敵対していましたけれど、今は神様に従う者に変えていただきました。この大いなる変化を起こす力が、神様にはあります。この神様の御力を信頼して福音を宣べ伝えていく、それが私共の為すべきことなのでしょう。
8.イエス・キリストを通して
この最後の長い賛美は、福音によって私共を強めてくださる神様。旧約の預言の成就としてイエス様が来られ、秘められた計画を明らかにして、私共に福音を啓示してくださった神様。すべての異邦人を神様に対する従順へと導くために、私共を用いてくださる神様。このお方は知恵に満ちておられる。その神様に栄光が代々限りなくありますように、と賛美しているわけです。
私共が強められるのも、福音が明らかにされたのも、すべての異邦人が救いへと招かれたのも、すべては「イエス・キリストを通して」です。私共は、イエス様抜きに、神様を誉め讃えることはありません。イエス様を抜きにしては、私共は福音が分からなくなります。自分が何者とされているのか、何処に向かって歩んでいるのかも分からなくなってしまいます。そうなると、「アーメン、ハレルヤ」と言っていられなくなります。何故なら、自分で何とかしなければならなくなるからです。私共が「アーメン、ハレルヤ」と言えるのは、イエス様を通して救われ、神の子としていただき、永遠の命の希望に生きる者とされたからです。イエス様を通して、神様の愛の御手の中で生かされ導かれていることを知らされたからです。イエス様を通して、神様がすべてを支配しておられることを知らされたからです。だから、万事において「アーメン、ハレルヤ」と言えるのでしょう。そして、そのような者たちの交わり、それがキリスト者の交わりです。神様がここにおられることが明らかにされる交わりです。そこでは「自分が、自分が」という思いは退けられます。自分が評価されたいという思いも、自分は正しいという思いも、自分は大した者だという思いも退いていきます。そこでは、ただ神様に栄光を帰することにおいて、心が一つにされます。私共はそのような交わりを形作るため、ここに召し集められました。大切なことは、神様を賛美し、神様を誉め讃えることです。そこにおいて、私共は本当の自分を取り戻し、新しい自分へと造り変えられていきます。
今から与る聖餐は、主イエス・キリストが私共の交わりのただ中におられ、私共がその命に与っていることを明らかにします。この聖餐に与った者として、健やかにこの一週も御国への歩みを為してまいりましょう。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉を通して、私共にあなたの恵みと真実とを新しく教えてくださいました。あなた様が与えてくださった福音の恵みに、私共が生き切ることが出来ますように。あなた様の御名を心から誉め讃える者として、私共を歩ませてください。そして最後に「アーメン、ハレルヤ」と言うことが出来ますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年3月5日]