日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

イースター記念礼拝説教

「三日目によみがえり」
詩編 16編8~11節
ルカによる福音書 24章1~12節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
イエス様の御復活を記念するイースターを迎えました。先週は受難週祈祷会を火・水・木の三日間、昼・夜と行いまして、イエス様の十字架の出来事を心に刻み歩んでまいりました。受難週祈祷会は一部zoomを用いて家からも参加出来るようにしました。教会に集まる方と自宅からzoomで参加される方とのハイブリッド型です。ある高齢の教会員の方が火曜・水曜とzoomでの参加を試みたのですが、途中で切れてしまったりして上手くいきませんでした。けれど、遂に木曜日にはzoomで参加することが出来ました。嬉しかったです。まだ、zoomで参加される方は少ないのですけれど、次のアドヴェント祈祷会の時にはもっと大勢の方が参加してくれたらいいなと思っています。そして、昨日は教会学校の子どもたちがイースターエッグを作りました。今日の教会学校では、中高生が昨日隠しておいたキャンディーを小学科の子どもたちが探しました。今日の礼拝後には、祝会はまだ出来ませんけれど、三年ぶりにイースターの集合写真を撮ることにしています。コロナ禍以前に完全に戻ったわけではありませんけれど、少しずつ元に戻りつつある中でイースターを迎えています。

2.婦人たちはイエス様の墓へ
 さて、今朝与えられている御言葉は、ルカによる福音書が記すイエス様が復活された週の初めの日、つまり日曜日の朝の出来事です。4つの福音書はそれぞれこの最初のイースターの日の出来事を記していますが、どれも最初にイエス様の墓に行ったのはイエス様の弟子の婦人たちであったと記しています。
 イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちは、金曜日にイエス様が十字架の上で死なれるまで遠くから見ていました。多分、イエス様が十字架に架けられた午前9時から息を引き取る午後3時まで、彼女たちはイエス様の十字架を見ていたと思います。そして、イエス様が息を引き取った後も、そこから離れることは出来ませんでした。そして、イエス様の遺体が十字架から降ろされて運ばれるのを見て、私のイエス様をどこに運んでいくのかと思いながら、後をついて行きました。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られるのを確認しました。イエス様の十字架の上での死とイエス様の遺体が墓に葬られたこと、それを最初からずっと見ていたのは彼女たちだけでした。弟子たちはイエス様が十字架の上で死んだことも、イエス様がどこに葬られたのかも見ていません。イエス様が十字架の上で死んだのが金曜日の午後3時。午後7時には日没になって、安息日が始まってしまいます。彼女たちはイエス様が葬られた墓を確認して、家に帰りました。そして、香料と香油を準備した、と聖書は報告します。安息日が明けるのは土曜日の日没ですけれど、さすがに夜に墓には行きませんでした。そして、エルサレムの今日の日の出が6時20分頃ですから、夜が白々と明けてくる頃、多分6時より前に、彼女たちは用意した香料を持ってイエス様が葬られた墓に向かいました。イエス様は亜麻布に包んだだけで墓に葬られました。彼女たちは、イエス様の御遺体を人並みにきれいにし、香油を塗って葬りたいと考えていました。つまり、この時、彼女たちはイエス様の復活など全く考えていませんでしたし、期待もしていませんでした。

3.空の墓
さて、婦人たちがイエス様の遺体が葬られた墓に行くと、墓の入り口に蓋をしていた大きな石が墓のわきに転がしてありました。イエス様の時代の墓は、横穴です。柔らかい岩に掘った横穴に遺体を納め、入り口は大きな石で蓋をします。彼女たちが墓に行くと、その石がわきに転がっていました。それを見た婦人たちは、何があったのだろう、と思ったことでしょう。そして、彼女たちは墓の中に入ってみました。するとそこに、イエス様の遺体はありませんでした。彼女たちは「途方に暮れ」ました。イエス様を丁寧に葬り直そうとして来たのに、肝心のイエス様の遺体がない。何があったのか分からず、これからどうすれば良いのか、ただ彼女たちは途方に暮れるばかりでした。
 ここで、確認しておきたいことが一つあります。それは、どうしてイエス様の墓の蓋となっていた石がわきに転がっていたのかということです。復活されたイエス様が、墓から出るのに石が邪魔だったからわきへ転がした、ということではありません。ヨハネによる福音書によれば、弟子たちが家の戸に鍵をかけていたにもかかわらず、復活のイエス様は弟子たちが隠れていた家に入って来て、「あなたがたに平和があるように」と告げられました(ヨハネによる福音書20章19節)。ということは、復活されたイエス様が墓から出ていくのに、石を取りのける必要はなかったということになります。では、何のために石はわきに転がされていたのでしょうか。それは、この墓が空である、イエス様は復活されて墓の中にはいない、そのことを婦人たちや弟子たちに示すためであったということではないでしょうか。神様は、婦人たちにこの空の墓を見せたかった。そして、イエス様の復活を示そうとされたのでしょう。

4.天使の言葉
 そこに天使が現れます。聖書は「輝く衣を着た二人」と記していますが、これは聖書では天使を示す表現です。天使を見たことのある人は、そうはいません。彼女たちも初めてだったと思います。聖なる方に出会って、彼女たちは「恐れて地に顔を伏せ」ました。当然でしょう。その婦人たちに天使はこう告げたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」墓は遺体を納める所です。生きている人がいる所ではありません。イエス様は復活されたのだから、今も生きておられるのだから、ここにはおられない。そう天使は告げたのです。この言葉を聞いて、婦人たちはイエス様が復活されたことをすぐに喜んだでしょうか。いいえ、婦人たちはこの言葉を聞いても、イエス様の復活という出来事を受け止めることは出来なかった、つまり「復活」という言葉を聞いてもピンと来なかったのではないでしょうか。
 そして、天使は更に「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と告げたのです。確かに、イエス様は御自身の苦難と復活を三度にわたって弟子たちに予告しておられます。婦人たちもそのイエス様の言葉は聞いていたでしょう。でも、その時は何を言っているのか分かりませんでしたし、本気で聞いてはいなかったのでしょう。だから、イエス様が十字架の上で死んで、墓に葬られても、復活されるなどとは少しも考えることもなく、彼女たちはイエス様の墓にやってきたのです。その彼女たちに天使は、イエス様は十字架に架かって死なれることも復活されることも予告していたではないか、その通り復活されたのだ、と告げたのです。この言葉を聞いて婦人たちは、確かにイエス様は予告しておられたことを思い出しました。しかし、それで彼女たちはイエス様の復活を信じたでしょうか。喜びにあふれて「ハレルヤ!!」となったでしょうか。ルカは、この天使の言葉を聞いて「婦人たちに喜びが溢れた」とは記していません。それは、そうはならなかったからでしょう。
そのように復活という出来事は、人間の理解というものをはるかに超えた出来事です。人間は死んだら終わり。それが常識です。これは今も昔も変わりません。死というものは、人間の前に立ちはだかる、誰も超えることの出来ない限界です。イエス様が復活されたと言われても、イエス様がそのように予告されていたではないかと言われても、「ハイ、そうですね。」と受け止め、すぐに信じることが出来るような出来事ではありません。

5.復活はたわ言?
そのことをはっきり示しているのが、この婦人たちの報告を聞いた弟子たちの反応です。9~11節「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と記されています。婦人たちがどのような思いで、弟子たちに報告したのかはよく分かりません。イエス様の復活を信じて、弟子たちに「イエス様が復活された。」と報告したのではないと思います。そうではなくて、「自分たちが香料を持ってイエス様の墓に行ったの。そうしたら石が転がしてあって、イエス様の遺体がなくなっていたの。そして、天使が現れて『イエス様は復活して、ここにはもうおられない。』って言ったの。それに、『イエス様が十字架にお架かりなることと復活されることは、イエス様御自身が言われていたことだろう。』って言ったの。」そんな風に、自分たちが朝から見聞きしたことを弟子たちに告げたのではないかと思います。ひょっとすると、イエス様が十字架にお架かりになった場面から話したかもしれません。しかし、その報告を受けた弟子たちは「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」のです。「たわ言」というのは、ばかばかしい話ということでしょう。「何をバカなことを言っているんだ」としか受け止められなかったのです。
 復活の出来事とは、そういうものです。パウロがアテネで伝道した時も、イエス様の復活のことを話した途端に、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」と言われてしまいました(使徒言行録17章32節)。私自身、50年ほど前に最初に教会に行った時、イエス様の復活の話を聞いて、この時の弟子たちと同じ「たわ言」だと思いました。「死んだ人が復活するわけないでしょう。何を言っているんだ。教会に来ている人は、頭がおかしいんじゃないか。」そう思いました。これが、普通の常識をもって復活という出来事を聞いた時に起きる、普通の反応です。復活が分からない。復活が信じられない。それが当然なのです。

6.信じる者へ
 確かに、イエス様の復活について聞いて、すぐに信じられるという人はほとんどいないでしょう。しかし、私共は信じる者になりました。何故でしょうか。私は、今申しましたように、イエス様の復活の話を聞いて、「そんなバカな。」と思いました。しかし、だったら礼拝に行くのを止めたかといいますと、止めなかったのです。どうしてなのか、自分でもよく分かりません。ただ、礼拝における祈りの時に、意味はよく分からないのだけれども、ここには私の知らない何かがあると思って、それを知りたいと思った。それで、礼拝に通い続けました。歩いて5分くらいの所に教会があったのも大きかったと思います。「そんなバカな」というところで礼拝に通うのを止めていたならば、今の私はありません。
 弟子たちは確かに、婦人たちの報告を「たわ言」のように思って信じませんでした。しかし、それで終わりませんでした。12節「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」と聖書は記しています。ペトロは婦人たちの話を聞いて、それを信じわけではありませんけれど、とにかく墓まで行きました。そこで復活のイエス様と出会ったわけではありません。彼が見たのは亜麻布しか残っていない空の墓でした。わきに転がされた石も見たでしょう。婦人たちが言っていたことは本当でした。彼は驚きました。「たわ言のように思って信じなかった」という所から、ペトロは「驚いた」というように変わりました。でも、信じる者になったわけではありません。結局、イエス様の復活を信じる者に変えられるためには、復活されたイエス様に出会うということがなければなりませんでした。
 ルカによる福音書はこの後、エマオ途上での復活のイエス様と二人の弟子の出会いを記します。復活のイエス様から御言葉の説き明かしを受け、心が燃えたこと。そして、食事の席でその人がイエス様だと分かったことが記されます。また、エルサレムでは11人の弟子たちが、「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていたことが記されます。更に、36節以下では、復活のイエス様と弟子たちが食事をしたことが記されます。聖書は、イエス様が復活され、その復活のイエス様と出会って、弟子たちは変えられたと告げています。天使の言葉を聞いただけでは信じられない。婦人たちの話を聞いただけでは信じられない。復活のイエス様と出会わなければ、復活は信じられない。当然のことです。「イエス様の復活を信じる」ということは、「復活されたイエス様に出会う」ということによって与えられる信仰です。
 しかし、「復活されたイエス様に出会う」ということは、イエス様のことを全く知らない人には起きません。聖書が告げる復活の出来事は、復活のイエス様が弟子たちにその復活された御姿を現されたという出来事です。イエス様について見たことも聞いたこともない人に、復活のイエス様が現れたということは、聖書には記されていません。墓からイエス様が出て来た所を見た人がいたと記されているわけでもありません。復活のイエス様と出会うことによって、弟子たちはイエス様の復活を信じる者になりました。そして、いつでも、どこでも、神様と一緒に自分は生きているということを知らされた全く新しい人間、キリスト者というものが誕生したのです。

7.神様の御業の中にある世界と私
 復活という出来事は、何ともよく分からない出来事です。私共が理解出来ることを超えています。ですから、説明のしようがありません。説明されても、「なるほど」と納得出来ることでもありません。弟子たちは、復活されたイエス様に出会うことによって、イエス様は復活されたのだということを信じる者になりました。そして、それを宣べ伝える者になりました。復活のイエス様に出会い、イエス様が復活されたことを信じる者とされ、弟子たちはこの世界の本当の姿を知る者となりました。この世界の本当の姿とは、「世界は人間の理解出来ることだけで動いているのではない。世界は神様の御手の中にある。天地を造られた神様が今も生きて働いておられ、私と関わってくださっている。そして、私の命は死んでも終わらない。」という、神様と共にある世界です。目に見えることしか存在しない、自分の頭で理解出来ることしか受け入れない、信じない。そのような世界に生きていた私共でした。それは「神様抜きの世界」です。けれど、復活のイエス様に出会って、私が理解することなど出来るはずもない神様がおられ、この方が私と関わり、私を愛し、生かし、守り、支え、導いてくださっている。このことを知る者とされました。そして、私共を取り巻く世界の意味が変わり、私の人生の見通しが変わりました。こう言っても良いでしょう。死という、誰も超えられない限界を、神様はイエス様の復活によって打ち破ってくださいました。このことによって、この世界と私の限界を神様が破ってくださることを知りました。そしてそれにより、何によっても砕かれることのない、失われることのない「希望」「感謝」「喜び」が与えられたのです。

8.悲惨の混迷の中にあっても
 私共は3年に及ぶコロナ禍の中を歩んで来ました。そして、2022年はロシアがウクライナに侵攻するという事態が起きました。この戦争はまだ続いています。そして、2023年にはトルコ・シリアでの大地震がありました。何万という人が死に、何千万という人たちが難民・被災者となっています。更には第三次世界大戦、そして日本も戦争に巻き込まれていくのではないかということがそこここで言われます。そういう中で、私共は今年のイースターを迎えています。明日のことは私共には分かりません。しかし、イエス様は復活されました。神様は私共の常識や見通しを見事に打ち破ってくださいました。私共はこのイースターによって新しく生まれた民です。神様が生きて働き、私共の常識や見通しを超えて、御心を為してくださることを知らされた者です。ですから、このような時代にあっても、私共はなおも希望を、感謝を、喜びを失うことはありません。神様が事を為し、導いてくださる。このことを信じる者として生かされているからです。頭では「もうダメだ」という見通しを持ったとしても、「ダメにならない神様の御手の中にある明日」というものを信じて歩む者とされています。イエス様が復活されたことによって、私共の見通しなんていうものは、本当につまらないものでしかないことを知らされた私共です。ですから、その神様の為されることに期待し、信頼し、この2023年度も希望と感謝と喜びをもって歩んで行きたいと心から願います。

 お祈りします。

 

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 今年もイースターを迎えることが出来ました。ありがとうございます。イエス様が復活されました。あり得ないことが起きました。私共の頭の中ではあり得ないことでも、天地を造られたあなた様にとっては、造作もないことでした。私共はイエス様の復活を信じる者としていただきました。信じない者が信じる者にしていただきました。そのことによって私共は、イエス様を復活させられたあなた様の御手の中に、いつでも、どこでも、どんな時でも生かされていることを知らされました。混迷のこの時代の中にあって、誰も私共から希望と感謝と喜びを奪うことは出来ません。たとえ死んでも生きる命を与えられているからです。どうか、あなた様と共なる歩みを健やかに為していくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年4月9日]