1.はじめに
私共は週の初めの日を「主の日」と呼び、この日に礼拝を捧げています。この日を「主の日」と呼んで礼拝を捧げるのは、イエス様がこの日に復活されたからです。イエス様の復活を覚えて礼拝を捧げる、それがキリストの教会の「主の日の礼拝」です。この「主の日の礼拝」の中心にあるのは、聖書の説き明かしである説教と聖餐です。説教だけではありません。「説教と聖餐」が、「聞く神の言葉」と「見える神の言葉」として、主の日の礼拝の中心にあります。この二つの神の言葉は、復活のイエス様がここに臨んでおられることを私共に示し、私共はこの二つの御言葉によって現臨されている復活のイエス様と出会い、この方を「我が主、我が神」として拝み、礼拝します。このキリストの教会の礼拝は、イエス様の復活によって始まりました。今朝与えられている御言葉は、そのことを明瞭に示しています。
2.目が開かれる
先週私共は、エマオ途上の出来事から御言葉を受けました。エルサレムからエマオに戻る二人の弟子に復活のイエス様が現れ、道々、聖書(旧約聖書)を説き明かされました。しかし二人は、自分たちに聖書を説き明かしている方がイエス様だとは分かりませんでした。彼らの目が「遮られて」いたからです。そして、今朝与えられている御言葉はその続きです。エマオという村に近づいた時、二人の弟子はなおも先へ行こうとされるイエス様を無理に引き止めます。イエス様は家に入られました。それでも、まだ二人はイエス様だと気づきません。そして、二人の弟子はイエス様と一緒に食事をし始めます。その時です。「二人の目が開け」、イエス様だと分かった。イエス様だと分からなかったことも不思議ですけれど、この時突然イエス様だと分かったのも不思議です。どうしてなのか、よく分かりません。聖書はただ「二人の目が開け」と記しているだけです。勿論、この目は肉体の目ではありません。肉体の目はずっと開いていました。しかし、イエス様だとは分からなかった。そして、一緒に食事をした時、目が開け、自分たちと一緒にいるのが復活されたイエス様だと分かった。不思議なことですけれど、復活のイエス様が一緒にいてくださることが分かるためには、この「霊の目」あるいは「信仰の目」とでも言うべき「目」が開かれるということが起きなければならない、そう聖書は告げています。そして、そのためにはイエス様と一緒に食事をすることが必要なのだと言っているのでしょう。
この復活のイエス様との食事について、聖書は30節で、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」と記しています。この言葉は最後の晩餐を記している言葉ととてもよく似ています。最後の晩餐を記した22章19節にはこうあります。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。」ほとんど一緒です。「賛美の祈り」か「感謝の祈り」の違いだけです。この二人の弟子は、最後の晩餐の時、その場にはいませんでした。最後の晩餐はイエス様と十二弟子との食事でした。ですから、この復活のイエス様の食事の所作や祈りを聞いて、最後の晩餐を思い出して「目が開け」たわけではありません。しかし、この福音書を記したルカが、聖餐が制定された最後の晩餐とこの復活のイエス様との食事を、ほとんど同じ言葉を用いて記しているということは、偶然とは思えません。聖餐は、最後の晩餐の時にイエス様が制定されました。そして、この聖餐によって復活のイエス様がそこにおられることが明らかになる、霊の目が開かれる。そういう食事であることを、この出来事は示しているのではないでしょうか。
エマオまでの道において、イエス様がこの二人の弟子に聖書の説き明しをしたのが、キリスト教会における最初の説教であったとするならば、この復活のイエス様との食事は、キリスト教会における最初の聖餐であったと言って良いでしょう。32節で、この二人の弟子は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合います。聖書の説き明かしを聞いて心が燃え、聖餐によって復活のイエス様が共におられることに目が開かれる。この復活のイエス様によってなされたことが、キリストの教会の最初の礼拝となり、そしてこの礼拝は私共にまで受け継がれてきました。「主の日の礼拝」において、イエス様が復活された日に起きた出来事が起き続けてきました。説教と聖餐によって、心が燃え、ここに復活のイエス様がおられることが明らかにされ、イエス様を礼拝するということが為され続けてきたのです。
3.イエス様の姿が見えなくなった
この時、二人の弟子が復活のイエス様と食事を始めると、二人の弟子たちの目が開け、イエス様だと分かった、と聖書は告げます。ところが、イエス様だと分かった途端にイエス様の「姿は見えなく」なりました。エルサレムからエマオまで3時間くらい道々話し、食事を初めてやっと復活のイエス様だと分かったのに、どうしてイエス様はその姿が見えなくなってしまったのでしょうか。ずっとその姿を見せてくれていれば良いではありませんか。何とも不思議なことではありますけれど、これはあまり難しく考えることはないように思います。復活のイエス様は肉体を持っていますから、同時に別の場所でたくさんの弟子たちに復活の御姿を現すことは出来ません。これはとても大切なことで、もしそれが出来たならば、それは体を持った復活ではなく、霊の復活ということになってしまうでしょう。いつでも、どこでも、誰とでもイエス様が共におられるのは、ペンテコステまで待たなくてはなりません。イエス様は、他の弟子たちにもその復活の御姿を現されなければならない。それで先を急がれたのでしょう。それに、もうこの二人の弟子たちは、イエス様が復活されたこと、イエス様が誰であるのか、そのことを御言葉の説き明かしと食事によってはっきりと示されたので、もうその御姿を見せ続ける必要がなくなったからです。
復活されたイエス様が、ずっと弟子たちと一緒にいて、十字架にお架かりになる前と同じように弟子たちと生活を一緒にしたというようなことは、四つの福音書のどれにも記されておりません。復活されたイエス様は40日後に天に昇られます。その間、何度もイエス様はその復活の御姿を弟子たちに現されました。けれども、そのままずっと弟子たちと一緒にいたとは記されておりません。十字架にお架かりなる前のイエス様と復活されたイエス様とは、全く同じではありません。確かに、イエス様は肉体を持って復活されました。しかし、それは十字架の上で死なれる前の肉体と全く同じではなく、「復活の体」とでも言うべき体だったのでしょう。ですから、40日後にその体を持って天に昇ることもお出来になったのです。
4.エルサレムにて
さて、この二人の弟子は、復活のイエス様に出会って、それからどうしたでしょうか。彼らはエルサレムに戻ったのです。復活のイエス様に出会ったことを、他の弟子たちに報告するためです。この時の二人の弟子たちの顔は、聖書には記されておりませんけれど、エルサレムからエマオに向かう時とは全く違っていたことでしょう。エルサレムからエマオに帰る時、彼らはイエス様の復活なんて考えてもいませんでした。イエス様が十字架に架かって死んでしまって、もうすべては終わってしまった。そう思っていました。ですから「暗い顔」をしていました。しかし、エルサレムに戻る時の顔は、喜びに満ちていたことでしょう。復活のイエス様に出会ったからです。きっと二人は、復活されたイエス様のこと、そしてイエス様が説き明かしてくださったことなどを話しながら、エルサレムに戻っていったことでしょう。
そして、エルサレムに戻ってみると、「十一人とその仲間(つまりイエス様の弟子たち)が集まって、本当に主は復活して、シモン(つまりペトロ)に現れたと言っていた」のです。ペトロに復活のイエス様が現れた時のことについては、ルカによる福音書は記していません。しかし、復活のイエス様はペトロにも既に現れていて、弟子たちがその話をしていました。それで、二人の弟子も自分たちに起きたことを弟子たちに話しました。そして、そこに復活のイエス様が御姿を現された。この時の弟子たちの反応には興味深いものがあります。37節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」と聖書は記しています。今、二人の弟子やペトロから復活のイエス様に出会ったという報告を聞いたばかりです。ところが、実際に復活のイエス様が現れると、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。イエス様の幽霊、お化けが現れたと思ったのでしょう。イエス様は十字架の上で死んだのですから、目の前に現れたのは、幽霊・亡霊・お化けの類いだと思った。それで、恐れおののいた。
復活のイエス様か、イエス様の幽霊や亡霊か、これは全く意味が違います。正反対の意味になってしまいます。もし復活のイエス様であるならば、イエス様は死に勝利されたということになります。そしてイエス様は、死さえも滅ぼすことの出来ないお方、永遠から永遠まで生き給うまことの神ということになります。しかし、幽霊・亡霊ということになるならば、イエス様は結局のところ、死には勝てなかった。死によって滅んでしまったということになります。まして、イエス様が十字架にお架かりになる前にイエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちにしてみれば、幽霊ならば自分たちに恨みを晴らすために現れたのかということにもなるでしょう。それは恐ろしかったに違いありません。しかし、復活ということであるならば、確かに自分たちはイエス様を見捨てて逃げてしまったけれども、それによってイエス様は滅びはしなかったということになります。イエス様を見捨てたという罪は決定的な意味を持たなくなります。これは大変な違いです。どっちでも良いということではありません。
5.亡霊でなく
ですからイエス様は、御自身が幽霊・亡霊の類いではない、自分は肉体を持っている、復活したのだということをどうしても弟子たちに分からせなければなりませんでした。イエス様は弟子たちにこう告げます。39節「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」と告げます。日本では幽霊には足がないということになっていますので、「手や足を見なさい」というのは、「ほら、足があるでしょう。だから、わたしは幽霊なんかではありません。」と言っているように読みかねませんけれど、そういう意味では全くありません。そもそも、日本で幽霊には足がないということになったのは、江戸時代中期の円山応挙という人の幽霊の絵から始まったと言われています。それほど古い話ではありません。この「手や足を見なさい」というのは、手と足にはイエス様が十字架にお架かりなったときの釘の跡があって、それを見なさいと言われているわけです。つまり、「わたしはあの十字架に架かったイエスだ」と言っているわけです。そして「触ってみなさい」というのは、幽霊・亡霊であれば、それは触れないはずです。だから、触って確かめてみなさいと言われたわけです。ここまで言われれば、弟子たちもさすがに信じたかと言いますと、それでもまだ信じられないわけです。41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がってい」たと聖書は告げます。これは面白い表現です。さっきまでは「恐れおののいて」いたわけですけれど、イエス様に「触ってみなさい」とまで言われて、幽霊じゃない、それなら本当に復活されたんだろうか、そう思い始めて喜ぶのですけれど、「喜びのあまりまだ信じられない」。それで、ただ不思議がっている。そこでイエス様は、ダメ押しします。それが、「ここに何か食べ物があるか」と言われたことです。弟子が「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」のです。さすがに、幽霊は食べたりはしませんから、これは幽霊・亡霊の類いではない。確かに肉体を持ったお方だ。イエス様は本当に復活されたんだ。そのことを、イエス様は焼いた魚を食べることによってお示しになったのです。
これは、イエス様の復活を中々信じることが出来ない弟子たちに、イエス様が何とかして信じさせようとしている姿です。イエス様は何としても「復活した」ということを、弟子たちに信じさせたかった。そうでないと弟子たちは、自分たちに与えられた救いの恵みを受けとめて、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を与えられたという喜びに満たされることがないからです。幽霊じゃダメなのです。ですから、何としても信じて欲しい。信じさせたい。でも、弟子たちは復活されたイエス様を見ても、それでも中々イエス様の復活を信じることが出来なかった。それで、イエス様は弟子たちに復活された御自分の身体を触らせたり、魚を食べたりして、御自分が本当に復活したということを弟子たちに信じさせるわけです。イエス様がここまでしないと、弟子たちはイエス様の復活を信じなかったということです。復活とは、それほどまでに度外れたことであり、人が簡単に受け入れることなど出来ない出来事だということでしょう。それにしても、何としても弟子たちに御自分の復活を信じさせようとするこのイエス様の姿に、何としてもこの弟子たちを救いたいというイエス様のお心がはっきり現れています。信じない者、信じられない者を、何としても信じる者へと導こうとされるイエス様。このイエス様の御心によって、救いへと導かれたのは、この時の弟子たちだけではありません。私共もそうです。心が頑なで、いつまでたっても信じられない私共を、イエス様は何としても信じる者へと導こうとされて、出来事を起こし、御言葉を与え、私共に働きかけ続けてくださった。だから、私共は信じる者へと変えられました。まことにありがたいことです。
6.平和があるように
先ほど申しましたように、もしイエス様が復活したのではなく、幽霊・亡霊の類いであったのならば、この時、イエス様が弟子たちに告げる言葉は「うらめしや~」ということになります。「よくもわたしを裏切り、見捨てて逃げたな。うらめしや~。」です。これは怖い。しかし、復活されたイエス様が弟子たちに告げられた言葉は、そのようなものでは全くありませんでした。36節「イエス御自身が彼ら(つまり弟子たち)の真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」のです。「あなたがたに平和があるように」これが復活のイエス様が弟子たちに告げた言葉です。これは、ユダヤ人の挨拶「シャローム」をギリシャ語に直訳して、このような「平和があるように」という言葉になったのだと考えられています。
しかし、それだけではありません。この「平和があるように」という言葉は、実に復活のイエス様が弟子たちに告げる言葉として、まことに相応しい言葉だからです。復活のイエス様は、御自身が復活することによって、弟子たちに「まことの平和」を与えられました。この「まことの平和」。それは、何よりも神様との平和です。イエス様の十字架による贖いが、この復活によって確かなものであることが明らかにされるからです。イエス様が復活されなかったのならば、誰がイエス様の十字架による贖いをきちんと受け止めることが出来たでしょうか。弟子たちさえも、イエス様は十字架で終わったと思っていたわけですから、十字架による罪の赦しなど思いもよらないことでした。イエス様は「愛の人で、素敵な言葉をたくさん語ってくれた方。力ある預言者。」として、せいぜい弟子たちの思い出の中に生きるくらいで終わったことでしょう。しかし、復活されたことによって、イエス様は死によっても滅ぼされない方。それどころか、死の支配を打ち破られた方。まことの神の御子、まことの神であられることが明らかになりました。そして、その罪なき神の独り子が十字架にお架かりになったということは、イエス様は私共の身代わりになって裁かれたということであり、それ故私共はもはや裁かれることなく、神様との親しい交わりの中に生きる者となった。神の子・神の僕として生きる者とされた。これが、イエス様の復活によって与えられた「まことの平和」であり、私共に与えられた救いです。
7.平和を告げる者として
この復活のイエス様に「平和があるように」と告げられた者は、どうなるのでしょうか。神様との平和に生きるようになる。そのとおりです。それは、具体的にはどういうことなのでしょうか。それは、「平和があるように」と告げる者になるということです。そのことをはっきり示しているのが使徒たちです。新約聖書には使徒たちが書いた手紙がたくさん収められています。その手紙のほとんどすべてにおいて、最初の挨拶の所で、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ローマの信徒への手紙1章7節)という言葉が、多少の言葉の違いはあっても必ず記されています。この言葉が手紙の最初に記されていないのは、ヘブライ人への手紙とヤコブの手紙それにヨハネの手紙一だけです。他のすべての手紙の挨拶において、「恵みと平和があるように」と告げられています。これは、キリストの教会の挨拶の定型句・決まり文句になったということを示しています。ただの挨拶の言葉、大した意味はないということではありません。誰もがこの言葉で挨拶するようになったということは、すごいことです。復活のイエス様によって「平和があるように」と告げられ、神様との平和を与えられた者は、今度は「平和があるように」と告げる者となった。私共は、実に「平和があるように」と告げる者とされているということです。神様が与えてくださる恵みと平和は、神様の祝福と言い換えても良いでしょう。つまり、神様の祝福を告げる者となったということです。神の民は誰から始まりましたか。アブラハムからです。アブラハムが選ばれたのは神様の祝福を与えるためです。地に住むすべての人が神様の祝福を受けるようになるために、アブラハムは選ばれ、神の民はその使命を受け継いできました。そして、この神の民の使命は、イエス様の復活によって、新しい神の民であるキリストの教会に受け継がれました。復活のイエス様は、弟子たちに「平和があるように」と告げることによって、この「祝福を告げる」という神の民の使命を全うされました。そして、その使命を新しい神の民にお与えになったのです。
これはとても具体的なことです。確かにこの日本で「あなたがたに平和があるように」と口に出すのは気恥ずかしくて出来ないでしょう。しかし、この心をもって私共は人と出会っていくことに変わりはありません。私共が出会う人毎に「主の平和」と心で唱える。これはとても短い祈りです。「射る」「祷り」と書いて「射祷」と言います。一日に何度も、何人にでも、心で「主の平和」と祈り、出会っていく。商売相手の人、近所の人、そして自分の家族。みんなに「主の平和」を祈って、出会っていく。私共はこの富山の地に住む人たちに「主の平和」を告げていく責任があります。このことをはっきり自覚して歩んで行きたいと願います。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は御子イエス・キリストを私共に与えてくださり、その十字架と復活の出来事によって私共を救ってくださいました。あなた様との平和に生きる者としてくださいました。まことにありがたく感謝いたします。どうか、あなた様からの聞く御言葉と見える御言葉によって十分な霊の養いを受けて、健やかな神の民として、あなた様の平和に生き切ることが出来ますように。そして、自分が出会う人たちに対して、あなた様の平和を告げる者、平和を祈る者であらしめてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年4月23日]