日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「祈りを教えてください」
詩編 86編1~10節
ルカによる福音書 11章1~4節

小堀康彦 牧師

1.はじめに 今日から「主の祈り」の講解説教を始めます。「主の祈り」の講解説教は17年前、私がこの教会に赴任して間もなくルカによる福音書の連続講解説教を行った時に、一度やっています。今回改めて「主の祈り」の講解を行うことにしたのは、私共の祈りの生活をもう一度整えたいと願ったからです。私共はみんな「主の祈り」を知っています。教会学校の子どもたちも知っています。しかし、知っているというところから、もう一歩も二歩も進んで、「主の祈り」に導かれて祈りの生活を整え、形作っていきたいと願ったからです。そして、豊かな祈りの世界に導かれたいと願ったからです。
 「主の祈り」は、「このように祈りなさい」とイエス様が弟子たちに教えられた祈りです。そしてキリストの教会は、この祈りをどの祈りよりも大切にしてきました。イエス様御自身が「このように祈りなさい」と教えてくださった祈りなのですから、当然です。代々の聖徒たちはこの祈りに私共の祈りのすべてがあると信じ、祈ってきました。世界中にはたくさんのキリストの教派があります。しかし、どの教派の教会であっても、それがまともなキリスト教会であるならば、礼拝において「主の祈り」を唱えないという教会はないと思います。歴史的に言っても、「ディダケー」という、「十二使徒の遺訓」とも呼ばれる2世紀に記されたキリストの教会の最も古くから伝わる文書がありますが、これは初代教会において用いられた最初の「教理問答」であると考えられています。そこには洗礼と聖餐、そしてキリスト教会の組織について記されているのですが、その中に「主の祈り」についても記されていて、一日三回、朝・昼・晩とこれを唱えるようにと勧められています。このように、「主の祈り」は地域を越えて、時代を超えて、キリストの教会において、キリスト者の日常において、祈られ続けてきました。そこにキリストの教会があるならば、またそこにキリスト者がいるならば、何時の時代でも、世界中どの国や地域であっても必ず祈られて来た。「主の祈り」はそういうものです。翻訳によって多少の言葉遣いの違いはあっても、世界中のキリスト者は時代を超えて、教派を超えて、この祈りを共に祈ることが出来ます。これは驚くべきことではないでしょうか。

2.「主の祈り」は教会の祈り
 今朝与えられている御言葉は、ルカによる福音書です。しかし、イエス様が「主の祈り」を弟子たちに教えられたという記事は、マタイによる福音書6章9~13節にもあります。この二つを比べてみますと、全く同じ言葉ではありません。こういう違いを目にしますと、「どっちが本当なのか。どっちがオリジナルなのか。」そんな風に考える人もいるかもしれません。しかし、私はこう考えています。祈りを教えることは、イエス様が弟子たちを訓練するに当たって、とても重要な位置を占めていたはずです。祈りについての教えをイエス様は幾つも弟子たちに話されました。ですから、イエス様が弟子たちに「このように祈りなさい」と教えたのも一回だけではなく、何度も教えたのではないでしょうか。そして、それは何時も全く同じ言葉であったわけではないと思っています。現在の「主の祈り」は、礼拝の中でみんなが一緒に祈れるようにと教会が整えたものです。イエス様は弟子たちに「このように祈りなさい」と言って主の祈りを与えられましたけれど、イエス様は「この祈りを、一言一句間違えずに、全く同じように祈りなさい。」と言って与えられたのではありません。大切なことは、この「主の祈り」において教えられた内容を祈るということです。この祈りに導かれて祈るということです。勿論、「主の祈り」をそのまま祈ることは大切です。特に、複数の人と祈りを合わせる時に、同じ言葉であることはとても意味があります。しかし、私共が祈る時に、何時でも「主の祈り」だけを祈っていれば良いということではありません。主の祈りに導かれて、自分が、教会が、世界が実際に置かれている状況の中で、その人が自分の言葉で祈ることが求められています。その意味では、イエス様はこの「主の祈り」によって、「祈りの心」とでも言うべきものを弟子たちに教えられたのでしょう。
 ある求道者の方が、「外国の映画を見ていたら、葬式の場面で字幕スーパーに主の祈りが出て来て、あら、同じだと思って、何か不思議な気がした。」と言われたことがありました。それはキリスト教の葬式だったから不思議でも何でもなくて、全く当たり前のことなのですけれど、しかしこの方の「不思議な気がした」という感覚は大切なことを示していると思いました。言葉も分からない、遠い知らない国の人が、同じ祈りをしている。見も知らぬ、自分とは全く関係ないと思っている遠くの人が同じ祈りを祈っている。それは改めて不思議なこと、驚くべきことです。それは、行ったこともない遠くの異国の人が、同じ神様を拝み、同じ希望を持ち、同じところを目指し、同じ愛に生き、同じ祈りに生きているということを示しているからです。これはやはり不思議というか、凄いことなのだと思います。イエス様の救いが世界を包んでいる、そのことをこの「主の祈り」は具体的に示しています。「主の祈り」の言葉一つ一つに思いを巡らしながら、主の恵みを味わい、日々の祈りの生活を整えていきたいと思っています。

3.祈りを教えてください
 さて、今朝与えられております聖書の箇所は、ルカによる福音書におけるイエス様が弟子たちに主の祈りを教えられた場面です。1節「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」とあります。弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」とお願いして、それに応えてイエス様が「主の祈り」を弟子たちに教えられたと記されています。
 この時、イエス様はちょうど「祈りを終えられた」時でした。弟子たちはイエス様が祈るその姿を見、祈りの言葉も聞いていたのではないでしょうか。私共は「祈る」と言えば、黙祷することをイメージするかもしれませんが、イエス様の時代、祈りは声に出して祈るのが普通でした。この時、弟子たちは「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエス様に言います。この「ヨハネ」は、イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちに具体的な「祈りの言葉」を教えていました。「祈りを教える」ということは、「信仰を教える」ことと重なります。ヨハネは祈りの言葉を教えることによって、弟子たちに信仰を教え、また信仰のあり方を整えようとしたのでしょう。それで、イエス様の弟子たちは、自分たちにも「祈りの言葉」を教えてください、とお願いした。そして、イエス様はその求めに応えて「主の祈り」を弟子たちに教えられた。そういうことなのでしょう。
 しかし、なぜ弟子たちは敢えてイエス様に「祈りの言葉」を教えてくださいと求めたのでしょうか。旧約聖書にはたくさんの祈りが記されています。詩編はすべて祈りの詩です。ユダヤ社会に生きていた彼らは、生まれた時からずっと、たくさんの祈りの言葉に触れてきていたはずです。ですから、弟子たちが「祈りの言葉」を知らなかったとは考えられません。彼らは知っていたはずです。知っていたけれど、改めてイエス様に「祈りの言葉」を教えてくださいと求めた。それは、イエス様の祈りが、自分たちの知っている祈りと何か違う、そう思ったからでしょう。弟子たちはイエス様の祈りを聞いていた。それで何かが違うと思った。しかし、それが何なのか、弟子たちはよく分からなかった。それで、「祈りの言葉」を教えてくださいと求めたのではないかと思います。
どのような祈りを捧げるのかということは、祈る者と祈られる者との関係が決定的に重要です。祈りは神様との対話であると言われます。そうであればこそ、神様との関係がどのようなものであるかということが、祈りの言葉や祈りのあり方、祈りの姿勢を決定してしまうと言って良いでしょう。イエス様は神の独り子です。天地が造られる前から神様と共におられた方です。この交わりは永遠の交わりです。神様との絶対的な愛と信頼の交わりに生きていた方です。このような交わりを天地を造られた神様と持っていた者など一人もいません。この神様との親しさ、近しさ、それがイエス様の祈りと弟子たちが知っていた祈りとの決定的な違いではなかったかと思います。
 神様とイエス様との関係は特別です。もし、この関係がイエス様と神様との間だけのものならば、それは弟子たちの祈りや私共の祈りとは関係ないということになってしまいます。しかしイエス様は、御自身の十字架の贖いによって、またイエス様と一つに結ばれるための洗礼によって、私共をイエス様と神様との交わりの中へと招いてくださいました。神の独り子であるイエス様は、新しい祈りの世界を開かれました。そして、このイエス様によって開かれた新しい祈りの世界への門、或いはその門を開けるための鍵、現代的に言えばパスワード、それがこの「主の祈り」です。「主の祈り」によって、私共はイエス様が開かれた新しい祈りの世界へと招かれたのです。

4.イエス様の祈りの世界への鍵
私共はイエス様の救いに与る前から、祈ることを全く知らなかったわけではありません。家内安全・商売繁盛の祈りは、物心がついた時から知っていました。もっとも、キリスト者の家に生まれた人は、物心がついた時から「主の祈り」を知っているわけです。これは本人はそうは思っていないでしょうけれど、大変な恵みですね。私はキリスト者の家ではありませんでしたので、物心がついた時から知っていたのは家内安全・商売繁盛の祈りでした。しかし、イエス様に救われてからは、それは自分の願望を繰り返し口に出していただけだったのではないかとさえ思うのです。
 私は教誨師の奉仕をするようになって色々なことを学びましたけれど、その一つは何度か面談をすると必ず、「どう祈ったら良いのでしょうか。」と尋ねられるということでした。例外なくです。聞いている方は、そんな難しいことを尋ねているとは思っていないのでしょうが、これに答えるのは中々難しいものです。この問いは真面目な問いですから、答えないわけにはいきません。始めの頃は、私はこんな風に答えていました。「まず神様に向かって『天におられる父なる神様』と呼びかけましょう。そして、最後に『この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。』と唱えてください。その間には、何を祈っても良いです。」そのように答えていました。しかし、これでは何も伝わらない、何も教えていないのと同じだ、ということがすぐに分かりました。でも、キリスト教の信仰がまだない、イエス様のことも知らない、そういう人に「祈りを教える」というのはほとんど無理な話です。しかし、求めている人は真剣なのですから、応えないわけにはいきません。それで、最初に面談する時に「主の祈り」を印刷したものを渡して、「この『主の祈り』を一日に何度も唱えてください。」と言うようにしました。「どう祈ったらいいでしょうか。」と必ず聞かれることになるのですから、最初からそれに対応することにしたわけです。その時に「主の祈り」の説明は一切しません。「意味が分からなくて良いから、とにかく毎日祈ってみてください。」と言います。最初に「主の祈り」の説明をしても全く理解出来ませんし、理解出来なければ、教わったことを覚えていることもありません。つまり、無駄なのです。教誨師の奉仕は月一回ですから、一ヶ月後にお会いした時に、「主の祈りは覚えましたか。」と尋ねます。覚えている人もいますし、全く覚えていない人もいます。覚えている人は、毎日祈っている人です。その人には、「主の祈り」を丁寧に説明します。その時の説明は、かなり良く伝わります。それから、その人と個人教誨をする時には主の祈りを一緒に祈って、それから話を聞いたり、聖書の話をしたりするようにしています。ただ、そこから「主の祈りに導かれて祈る」というところまでは中々行きません。そこまで行く間に、みんな出所してしまうからです。
 最初に「主の祈り」を覚えてもらう。それは、「主の祈り」を祈り続けることによる二つの効用があると考えているからです。

5.「主の祈り」の効用① ~祈りを学ぶ~
 第一の効用は、キリスト教における「祈り」というものがどういうものなのか、この「主の祈り」を祈り続けることによって少しずつ身についていくということです。家内安全・商売繁盛の祈りの世界しか知らなかった人が、イエス様によって開かれた祈りの世界に入っていくのはとても難しいのです。そもそも家内安全・商売繁盛の祈りは、祈る相手が誰であろうと頓着しません。自分の願いを叶えてくれるのだったら、どんな神様でもかまわない。自分が誰に向かって祈っているかということには全く興味がない。興味・関心があるのは、自分の願いや家族の安寧だけです。しかし、それは「主の祈り」によって開かれた祈りの世界ではありません。キリスト教の祈りにおいては、誰に祈っているのかが決定的に重要です。私共は天地を造られたただ独りの神様に祈ります。祈りが神様との対話であるとするならば、誰と対話しているかは大切でしょう。相手によって対話する内容だって変わります。それが「主の祈り」によって明らかにされます。
 今日は「主の祈り」の中身についてはお話ししません。来週から見ていきます。ただ、構造だけ確認しておきますと、「主の祈り」は6つの祈りから出来ています。最初の3つは「神様についての祈り」です。①御名を崇めさせたまえ、②御国を来たらせたまえ、③御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、の3つです。そして、後半の3つが「私共のための祈り」です。④わたしたちの日用の糧を与えてください、⑤わたしたちの罪を赦してください、⑥わたしたちを誘惑に遭わせないでください、の3つです。この6つの祈りを身につけることによって、私共の前に開かれた祈りの世界へと入っていく。それは神様との親しい交わりの世界です。

6.「主の祈り」の効用② ~この祈りに相応しく変えられていく~
 第二の「主の祈り」の効用。これについては、「主の祈り」を解説した多くの書物の中にも、あまり記されていません。しかし、私はこの二つ目がとても重要だと思っています。それは、この「主の祈り」を祈り続けることによって、この祈りに相応しい私、新しい私が形作られていくということです。「主の祈り」にはそのような効用があるのです。何を祈るのかということは、何を大切だと考え、何を求めて生きるのかということと対応します。つまり、何を祈るかというところに、その人がどういう人間であるかということが現れるわけです。「主の祈り」を祈り続けることによって、「主の祈りを祈る私」が形成されていく。私共が「主の祈り」を祈る時、聖霊なる神様が働いておられます。祈りは聖霊なる神様の御業です。このことはしっかり覚えておかなければなりません。祈りを自分の業だと考えますと、「主の祈り」を祈ることが何か信心業のように誤って受けとめられ、「主の祈り」を100回唱えることが自分の罪を赦してもらうための善き業のように誤解されかねません。私共が祈るのは、聖霊なる神様が働いてくださり、聖霊なる神様の御支配と導きの中に身を置くことです。この営みが続けられることによって、聖霊なる神様が私共をこの「主の祈り」を祈るに相応しい者へと造り変え続けてくださるのです。このことは、「主の祈りを祈る私」を考えてみるならば、当然そこには「信仰者としての私」がいるわけです。「主の祈り」に導かれて、信仰が育まれ、信仰者としての私が形作られていく。しかも「主の祈り」を祈るに相応しい信仰者に変えられていく。これは本当に素晴らしい神様の恵みです。

7.「主の祈り」に導かれる祈りの生活
 私共は、イエス様が与えてくださった「主の祈り」によって導かれる「祈りの生活」を形作り、「主の祈り」を身に着けていきたいのです。「主の祈りに導かれる祈り」において大切なことは、「神様の御前にあって思い巡らす」ということです。ルターは、「『主の祈り』を祈ると時間がかかって大変だ。」と言いました。それは、ルターが主の祈りを何十回も何百回も唱えていたからではありません。そうではなくて、ルターは「主の祈り」を神様からいただいた祈りの世界への恵みの鍵として用いていたからです。例えば、「天にまします我らの父よ」と唱えたなら、「天」について思い巡らし、「天におられる神様」について思い巡らし、「我らの父」について思いを巡らし、それを一つ一つ祈っていったのです。それと同じことをしなくても良いでしょうけれど、主の祈りを丁寧に味わっていく。そして、「主の祈り」の二つの効用、つまり自分はどういう祈りするのか、また自分はどういう自分へと変えられていくのか、ということを弁えつつ、豊かな祈りの世界へと導かれて行きたいと思うのです。そして、何よりもそれぞれが「主の祈りに導かれる祈りの時」を確保していくようになることを目指して行きたいと思います。私共の信仰の歩みが健やかであり続けるためには、どうしてもこの「祈りの生活」を堅固なものにしていく必要があるからです。祈りの生活が堅固に形作られることなく悪しき誘惑にさらされるならば、私共の信仰の歩みは大変危ういからです。これから主の日の度に「主の祈り」の講解説教を受け取っていく中で、私共の祈りの生活が整えられ、豊かにされ、堅固になっていくことを心から願うものです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 私共に「主の祈り」を与えくださり、感謝いたします。祈りは易しいものであると同時に、難しいものです。祈りにおいて、私共は深く豊かにあなた様のとの交わりを与えられ、信仰と希望と愛が育まれ、慰めと勇気を与えられます。どうか、私共が日々の生活の中で祈りの時を確保し、私共が祈ることにおいて幼子の心を持ち、同時に成熟した信仰者へと成長していくことが出来ますように。いよいよあなた様を愛し、信頼し、従う者に造り変えていってください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年5月7日]