1.はじめに
イエス様が与えてくださいました「主の祈り」について、これから順に学んでまいります。今朝は、最初の「天にまします我らの父よ」のところです。これは神様に対しての呼びかけです。この神様への呼びかけの言葉に「主の祈り」の特徴、イエス様によって開かれた新しい祈りの世界がどういうものであるかが、はっきり示されています。この神様への呼びかけの言葉に、イエス様によって開かれた新しい祈りの世界への扉の鍵が示されています。
今、私は「イエス様によって開かれた新しい祈りの世界」と申しましたけれど、それは旧約における神の民の祈りが破棄されたという意味では全くありません。旧約の祈りを受け継ぎつつ、新しい祈りの世界へとステージが進んだという意味です。こう言っても良いでしょう。旧約のすべての祈りが「主の祈り」に集約され、そこからまた新しい祈りの世界が広がった。それは丁度、主イエス・キリストというお方が、旧約の預言の成就であると共に、救いが完成される終末の始まりとなられたというのに似ています。実に、「主の祈り」はこれを与えてくださった主イエス・キリストというお方と切り離して理解することは出来ません。イエス様の語られた言葉、為された業、その御人格と深く結びつけて理解し受けとめなければ、この祈りによって導かれる新しい祈りの世界に入っていくことは出来ません。
順に見ていきましょう。
2.天にまします
まずは「天にまします我らの父よ」の「天にまします」の部分です。神様が天におられるというのは、特に説明は要らないかもしれません。しかし、これも重大な新しい祈りの世界の特徴を示しています。幾つかの点を確認しておきましょう。
この「天」というのは「空(そら)」という意味ではありません。空(そら)は、地上何千メートルの高さというような物理的な場所・空間のことです。しかし、この「天」というのは、「神様がおられる所」を意味します。そして、この「天」は、「地」という言葉と一対になっています。人間が存在し、活動している所が「地」です。ですから、高度1万メートルの場所でも、人間がジェット機で飛んでいる所は「地」です。宇宙空間であっても、或いは月や火星であっても、人間が宇宙船を飛ばして行くような所は「地」であって、「天」ではありません。天とはすべての地の上に広がっている、神様がおられる所です。すべての地の上に天は広がっています。上に天が広がっていない地などはありません。私共がどこにいても、何をしていても、どんな状況の中にいても、私共の上にはいつでも神様がおられる天が広がっています。
それは、いつでも、どこでも、何をしていても、どんな状況であっても、私共は神様の御支配のもとにあるということであり、私共は神様に知られているということであり、神様は私共の祈りを聞いてくださるということです。神様は、私共が神様に見て欲しいことだけを見ておられるのでありませんし、知ってほしいことだけを知ってくださっているわけでもありません。神様は私共のすべてを、良いところも悪いところも、私共以上に知っておられます。そして、私共をその恵みの御手の中に置いてくださっています。私共が喜びの日々を歩んでいる時も、悲しみの日々を歩んでいる時も、神様は天におられます。この礼拝堂の上にも天は広がっており、愛する者が入院している病院や入所している施設の上にも天は広がっています。ですから、私共はいつでも、どこでも、祈ることが出来ますし、神様は必ずその祈りを聞いてくださいます。私共の嘆きがあまりに深い故に、私共の置かれている状況があまりに悲惨なために、私共の祈りが神様に届かないということは決してありません。どんな時にも天は広がっているからです。分厚い雲に覆われて、或いは濃い霧に包まれて、明るい青空なんて全く見えない時でも、私共の上に天は広がっています。イエス様は、「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6章6節)と教えられました。戸を閉めた奥まった所で祈っても、神様は必ず私共の祈りを聞いてくださいます。その信頼をもって祈ることを、私共は求められているのでしょう。
私共は教会に来なければ祈れないとは考えていません。それは、どこにいても私共の上には神様がおられる天が広がっているからです。「主の祈り」によって導かれる祈りの世界においては、世間でよく言われる「パワースポット」と言われるものとは全く無縁です。いつでも、どこででも、私共は神様に祈ることが出来ますし、そうするようにと、この「主の祈り」においてもイエス様によって教えられているということです。
3.我らの
次に「我らの」です。神様に対して「天にまします我らの父よ」と呼ぶようにとイエス様は教えてくださいましたけれど、ここで言われている「我ら」とは誰のことなのかを考えてみましょう。すぐに思いつくのは、この「我ら」というのは「イエス様の弟子たち」ということでしょう。イエス様の弟子たちにこの「主の祈り」は教えられたのですから、「我ら」というのは「イエス様の弟子たち」、現在の言い方をすれば「キリスト者たち」を意味していると考えるのが自然でしょう。この「主の祈り」は「我らの祈り」、つまり「共同体の祈り」であり、「教会の祈り」だということになります。しかし、ここで問題となるのは、この「我ら」はそれだけなのか、ということです。つまり、この「我ら」にはキリスト者以外の者は含まれないのかということです。
この「我ら」は、第一にはキリスト者、イエス様を我が主・我が神と信じる者と考えて間違いありません。しかしその上で、私はこの「我ら」の中には、キリスト者以外の者も含まれる。そのように受けとめるべきだと考えます。もしそうでないのならば、先週申し上げましたように、私が受刑者の方に「主の祈り」を教えることや、キリスト教の幼稚園や学校で「主の祈り」を教えること、更に言えば教会学校で「主の祈り」を教えることに、どんな意味があるというのでしょうか。この「我ら」にはキリスト者しか入らないとするならば、キリスト者以外の者がこの祈りを祈ることは意味がないし、無駄だし、そもそも祈ってはならない祈りを祈っている、そういうことになってしまうでしょう。しかし、私はこの「我ら」はとても広い、神様の愛と同じくらい広いと受けとめています。これはとても大切な点です。この「我ら」を狭く限定的に理解してしまいますと、この「主の祈り」が導いてくれる祈りの世界が、とても狭いものになってしまうでしょう。それはあまりに残念なことですし、「主の祈り」によって導かれて行く祈りの世界とは少し違うように思います。
この「主の祈り」における「我ら」という言葉は、「主の祈り」の6つの祈りの後半の3つである「私たちのための祈り」すべてに出て来ます。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」そして「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」というように、「我ら」という言葉があります。ですから、この「我ら」をどのように理解するかはとても大切な問題です。そして、この「我ら」がとても広い意味であるならば、この「主の祈り」は「自分のための祈り」という枠を超えていく祈りだということになります。自分は上手くいっている。特に問題はない。では、特に祈ることはないのか。いいえ、私共にはいつでも祈るべきことが山とあります。私共が招かれている祈りの世界は「我らの祈り」の世界だからです。ここで、「主の祈り」によって導かれる祈りの世界は、家内安全・商売繁盛の祈りの世界と違うということが明らかになります。詳しくは、「主の祈り」の後半の祈りについて見る時にいたします。
4.「父よ」と呼べる恵み
さて、最後の「父よ」について見てみましょう。この言葉が、「主の祈り」の中で決定的に重要な点、新しい点だと私は考えています。神様をどのように呼ぶか。旧約からの伝統的な呼び方は幾つもあります。すぐに思いつくだけでも、「主なる神」「全能の神」「万軍の主」「聖なる方」など色々あります。しかし、イエス様が弟子たちに教えられた神様に対する呼びかけは、「我らの父よ」でした。これは実に驚くべきことです。旧約の中に神様を「父」と呼ぶところが全くないというわけではありません。代表的なところとして、イザヤ書63章16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」があります。また、先ほどお読みしました申命記32章、ここには「モーセの歌」という小見出しがついています。ですから、ここの「わたし」はモーセです。そして「彼」というのが神様のことであり、「あなた」とはイスラエルのことです。6節b「彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。」とあります。このように、多くはありませんけれど、旧約においても神様は「わたしたちの父」「造り主なる父」と呼ばれています。しかし、そこに「父と子の親しい交わり」が想起されているかといえば、そうとは言えないのではないかと思われます。旧約において神様は、聖なるお方であり、どこまでも畏れ多いお方でした。聖書を読む時でさえ、神様の御名である「ヤーウェ」という文字が出てくると「主」という意味の言葉である「アドナイ」と読み替えたほどです。
しかし、イエス様が弟子たちに教えられた「我らの父よ」という呼びかけは、神様と自分の関係を父と子という親しい関係として受けとめなさい、その関係の中で神様に祈りなさい、というものでした。マタイによる福音書において、イエス様は「主の祈り」を教えられた後で、とても有名な教えを話されました。7章7~11節です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」ここで想起されているのは、父と子の親しい交わりです。
天と地のすべてを造られたただ独りの神様に対して「父よ」と呼んで良い。呼びなさい。そう、イエス様は「主の祈り」において私共に教えてくださったのですが、これは実にとんでもない、まことに驚くべき恵みの事態を私共に告げています。神様は私共の犯した罪を何一つ見逃すことなく数え上げ、厳しく裁くお方としてではなくて、私共の犯した罪をすべて御存知の上で、それでも赦してくださり、愛してくださり、我が子として見てくださっているということです。何という恵み、何という幸いでしょう。私共は祈りの度毎に、神様の子とされている恵みを味わいます。これが私共に与えられている、何にも代えがたい恵みです。
5.「父よ」と呼べるために:イエス様の贖いの御業によって
しかし、本来、天地を造られた神様に対して「父よ」と呼べるのは、神様の独り子であるイエス様だけのはずです。実際、イエス様は神様に対して「アッバ、父よ」と呼びかけておられました。マルコによる福音書14章に記されているゲツセマネの祈りにおいて、イエス様の祈りの言葉が残されています。36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様は、神様に対して「アッバ、父よ」とお呼びになっていました。「アッバ」というのは、子どもがお父さんを呼ぶ時の言い方で、日本語に直せば「父ちゃん」という感じです。この神様との親しい交わりこそ、イエス様が天地を造られた神様の独り子、神の御子であるという「しるし」です。私共が神様に対して「父よ」と呼べるということは、私共もまたイエス様と同じように、神様との親しい交わりの中に生きる者としていただいた、そのような者として招かれたということです。
しかし、どうしてそんなことが可能でしょうか。私共はイエス様と違って、神様に造っていただいたにもかかわらず、神様に感謝することもせず、自分の人生は自分だけのものだと考え、神様の御心などお構いなしに生きていた者でした。生まれた時から罪の中にあり、自分のことしか考えられないような、まことに身勝手で、わがままな者でした。それ故、神様の裁きによって滅びるしかない者でした。しかし、イエス様はそのような私共のために身代わりとなって十字架に架かり、一切の罪の裁きを御身に負ってくださいました。私共はこのイエス様の尊い血潮によって罪赦され、神様と敵対していた関係が変えられ、和解を与えられました。そして、何と「神の子」としての身分を与えられ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが許されました。このイエス様の十字架抜きに、私共が神様に向かって「父よ」と呼べるなんてことはあり得ません。「神の子」とされるに相応しい所など、何一つない私共です。その私が、祈りの度毎に神様に向かって「父よ」と呼ぶ。私共は「父なる神様」と呼ぶ度に、このイエス様の十字架の愛、十字架の犠牲を思い起こす。そして、イエス様に対して、またイエス様を与えてくださった神様に対して、感謝しないではおられないのです。
6.聖霊に導かれる祈りの中で
私共は、神様に祈るということを、自分の信仰的な業と考えているかもしれません。しかし、私共が祈ることが出来るのは、聖霊なる神様によって導かれているからです。今朝与えられているローマの信徒への手紙8章14~15節はそのことを私共にはっきり教えてくれます。こうあります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」私共が神様に対して「父よ」と呼んで祈れるのは、神の御子であるキリストの霊である聖霊を与えられたからです。父と呼べるのは子どもだけです。当然、神の独り子であるイエス・キリストは、神様に対して「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来ます。本当の神の子だからです。その神の独り子の霊である聖霊が私共に与えられます。そこで初めて私共は、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来ます。御子の霊である聖霊によられなければ、神様に向かって「父よ」などと呼べるはずがありません。ですから、私共が「父よ」と神様に向かって祈る時、私共は聖霊を受け、聖霊なる神様のお働きの中に身を置いているのです。
「聖霊と言われてもよく分からない。」と言う人もいるかもしれません。それは、聖霊なる神様の御業を、自分の業だと勘違いしているからです。私共が神様を賛美するのも、祈るのも、愛の業を為すのも、すべては聖霊なる神様の御業です。聖霊なる神様の御業は、驚くほど大きなことだけではありません。弱っている人に水を一杯飲ませるだけのことでも、沈んでいる人に優しく声を掛けるだけでも、そこには聖霊なる神様が働いてくださっています。どんな小さな業であっても、互いに支え合い、仕え合おうとする穏やかな愛の交わりが生まれるならば、そこに聖霊なる神様はおられます。また、神様・イエス様の御名が誉め讃えられるところには、聖霊なる神様が必ず働いておられます。実に、私共はおびただしい聖霊なる神様のお働きの中に身をおいて、日々を生かされています。
私共が聖霊なる神様によって祈るのだとするならば、その時、聖霊なる神様によって新しい「神の子とされた私」が生まれているはずです。その新しい私をキリスト者と呼びます。祈りの度毎に、賛美の度毎に、愛の業をなす度毎に、この礼拝に与る度毎に、聖霊なる神様は私共に働いてくださり、新しい私を作り出し、生み出し続けてくださっています。先週、ルターは「主の祈り」を祈ると時間がかかって大変だと言ったということを紹介しましたが、ルターは今までお話ししたようなことを、「主の祈り」を祈る時に思い巡らしたのでしょう。「主の祈り」に導かれて祈るということは、そのようにして神様との交わりの世界に入って行き、その父なる神様との交わりを喜ぶことなのです。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様に向かって「父よ」と呼ぶことが許され、まことにありがたく感謝いたします。この恵みを私共に与えるために、あなた様は御子をイエス様としてお送りくださり、私共に代わって、私共のために十字架にお架けになりました。その痛ましい手続きにより、私共は罪の赦しを与えられ、あなた様の子とされ、あなた様が与えてくださる御国に向かって歩む新しい命に生きる者としていただきました。その恵みの中で、今日もこのように主の日の礼拝を御前に捧げることが許され、心より感謝いたします。どうか、私共があなた様の子として相応しい者へと変えられ続け、あなた様の御栄光を現すことが出来ますように。私共の唇に、いつもあなた様への感謝と賛美と祈りを備えていってください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年5月14日]