日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

ペンテコステ記念礼拝説教

「聖霊を注がれて」
ヨエル書 3章1~5節
コリントの信徒への手紙一 12章1~3節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今朝、私共はペンテコステの出来事を記念する礼拝を御前に捧げています。ペンテコステの日に起きた出来事については、使徒言行録2章に記されていますのでお開きください。イエス様は十字架にお架かりになって死んで、三日目に復活されました。そして、40日にわたってその復活の御姿を弟子たちに現して御言葉を説き明かされた後、全世界に出て行って福音を宣べ伝えるようにと弟子たちにお命じになり、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。それから弟子たちは、イエス様が「あなたがたに聖霊が降る」と約束された言葉を信じ、祈って待っておりました。いつ聖霊が降るかは、イエス様は言われませんでした。
 イエス様が天に上げられてから10日の後、イエス様が復活されて50日後、弟子たちの上に聖霊が降りました。ペンテコステの出来事を記している使徒言行録2章1節の冒頭は「五旬祭の日が来て」となっています。この「五旬祭」と訳されているギリシャ語がペンテコステです。ペンテコステは日本語では「聖霊降臨日」と訳されますけれど、ギリシャ語のペンテコステという言葉にはそのような意味はありません。単純に50番目という意味です。過越祭から50日目の祭り、旧約では「七週の祭り」と言われていました。イエス様が復活されてから50日目になります。旧約の申命記16章16節には「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」と記されています。「除酵祭」と「七週の祭り」と「仮庵の祭り」の時、すべてのユダヤ人の男子はエルサレム神殿に詣でなければならないと決められていたわけです。「除酵祭」と「七週の祭り」と「仮庵の祭り」は皆がエルサレムに巡礼しなければならない、ユダヤ教の三大祭りだったのです。実際には、すべての人が年3回、毎年巡礼に来ていたわけではないでしょう。エルサレム近くの人は来たでしょうが、遠方の人、特にディアスポラと呼ばれる、ローマ帝国中に散っていたユダヤ人たちは、年3回もエルサレムに来ていたら仕事をする時がありません。ですから、すべての人が毎年必ず来ていたということではないでしょうけれど、この三大祭りの時にはエルサレムの人口が何倍にも増え、混雑するほどであったことは想像出来ます。
 除酵祭というのは、過越の祭りの時には酵母(イースト菌)を取り除いて、食事はイースト菌の入っていないパンを必ず食べなければなりませんでした。ですから、除酵祭は過越の祭りの時と考えて良いでしょう。この時イエス様は十字架につけられ、そして復活されました。そして、七週の祭りがペンテコステの祭りです。7×7=49ですから、イースターから七つ後の主の日が丁度50日となります。イエス様が十字架に架けられたのは過越の祭りの時で、大勢の人たちがエルサレムに巡礼に来ていました。そして、その次の巡礼者が大勢集まる祭りが七週の祭りの時、つまりペンテコステの日でした。そしてこの日、聖霊がイエス様の弟子たちに降りました。

2.ペンテコステの日の出来事① 弟子たちの証言
 聖霊がイエス様の弟子たちに降ったペンテコステの日、何が起きたのかと申しますと、第一には、イエス様の弟子たちが人々の前で説教をしたのです。その内容を要約すれば、「イエス様こそ神様に遣わされた救い主・キリストです。あなたたちはイエス様を十字架につけて殺してしまったけれど、イエス様は三日目に復活させられました。そのことによって、御自身がキリストであることを証しされました。わたしたちはそのことの証人です。」ということになります。
 このペンテコステの日にエルサレムに来ていた人たちの多くは、過越の祭りの時にもエルサレムに来ていたでしょう。ですから、ナザレ人イエスが十字架に架けられたことを知っていたはずです。彼らの中には、総督ピラトがイエス様に判決を下す時に「十字架につけろ」と叫んだ人もいたかもしれません。或いは、十字架に架けられたイエス様に対して「お前がメシアなら、自分を救うがよい。」とあざ笑った人もいたでしょう。今、弟子たちが「あなたたちが十字架につけて殺したナザレ人イエスは復活した。本当のキリストだった。」と告げるのを聞いて、「わたしたちはどうすればよいのか」と言う者たちが現れました。それに対して弟子たちは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2章38節)と告げたのです。ペンテコステの日に起きたことは、何よりも弟子たちが人々に、「イエス様が復活された」そして「イエス様がキリストである」と告げたということです。さらに、罪を赦して欲しいのならば「悔い改めて、洗礼を受けなさい」と告げたということです。
 弟子たちはイエス様が捕らえられる時、逃げてしまいました。その弟子たちに復活のイエス様はその御姿を現され、再び弟子として召し出されました。弟子たちは復活のイエス様と出会って、変えられます。もう逃げたりしません。雄々しく大胆に、イエス様こそメシア、キリストであると公に語り始めました。この弟子たちが語り始めるということが起きたのが、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降ることによって起きた出来事でした。もう弟子たちは逃げません。もう弟子たちは黙っていません。聖霊なる神様によって力を与えられ、語るべき言葉を与えられたからです。この日以来、キリストの教会は語り続けています。世界中で語り続けています。語っている内容は、この時弟子たちが語ったことと同じです。イエス様は神の独り子・キリストであり、十字架に架かって殺されたけれど三日目に復活された。悔い改めて、洗礼を受けるならば救われる。そう二千年前と同じことを語り続けています。

3.ペンテコステの日の出来事② 様々な言葉で
 さて、ペンテコステの日に起きた出来事の不思議な点は、弟子たちが色々な言葉でこのことを語ったということです。イエス様の弟子たちの多くはガリラヤの漁師ですから、ほかの国の言葉を話せるはずがありません。使徒言行録2章9~11節には、世界中の色々な所から来たユダヤ人やユダヤ教への改宗者たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉で弟子たちが語るのを聞いたとあります。そして、具体的な15の地域・地方の名前が記されています。ここに記されている地域・地方は、当時の人たちが知っていた世界のすべてと言ってよいでしょう。世界中の言葉で弟子たちはイエス様のことを語った。どうしてそんなことが起きたのでしょうか。それは聖霊なる神様の御力によるとしか言いようがありません。それ以外には説明しようがありません。
 しかし、ここで大切なことは、ここで起きたことの意味を考えることです。その意味とは、聖霊なる神様のお働きの中で、キリストの教会によって、これから起き続けていくことが予告されたということです。クリスマスとイースターは、二千年前に一度起きたことです。しかし、ペンテコステの出来事は、二千年に一度起きたことではありません。ペンテコステの出来事は、聖霊なる神様による「はじめの一歩」のようなもので、その後もずっと起き続けていますし、しかもそれは更に拡大し、増大していっています。
 2022年の世界の聖書翻訳の状況を調べてみました。聖書全巻が翻訳されているのは724言語です。これで世界の人口の75%の人たちがカバーされています。このことは、少なくとも724言語で、今日も主の日の礼拝が捧げられており、イエス様の福音が伝えられているということを示しています。その他に、新約聖書のみの翻訳言語は1,617言語、分冊のみ1,248言語、合わせて3,589言語となります。世界には一言語当たり10万人とか20万人、或いは数千人しか話されていない言語もたくさんあって、おびただしい言語の数になります。この聖書翻訳のために尽力しているのがウィクリフ聖書翻訳協会という超教派の団体です。文字のない民族の中に入り、辞書を作り、翻訳をする。そのための宣教師を送り続けている団体です。これはペンテコステの出来事が今も継続されている一つの証しでしょう。

4.聖霊の御業 ① 「イエスは主なり」
ところで、聖霊なる神様の御業はペンテコステの時に始まったわけではありません。聖霊なる神様は、父・子・聖霊なる三位一体の神様ですから、天地が造られたときにも聖霊なる神様は父なる神様・子なるキリストと共に働かれました。その後も、ずっと働き続けておられます。旧約の預言者たちに御言葉が与えられたのは、聖霊なる神様の働きでしょう。ただ、ペンテコステの時以来、それまでとは違った働きが加わりました。それが、人々をイエス様に対する信仰へと導く、信仰を与えるという働きです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と告げています。私共は、信仰というものを、自分の努力や熱心によって手に入れるものだと考えてしまうところがあるかもしれません。この日本における宗教土壌には、そのような考え方がしみ込んでいるからでしょう。学んで、修行して、信仰を得る。しかし、私共がイエス様を「我が主・我が神」と信じることが出来るのは、聖霊なる神様の御業によるのだと聖書は教えています。勿論、何も学ぶこともなく、知ろうともしないで、いきなりイエス様への信仰が与えられるわけがありません。しかし、聖書を学ぼうとすること、或いは教会に行こうとすること、その思いもまた、聖霊なる神様によって与えられたものです。教会に来るきっかけは、友人であったり、家族であったり、本を読んだことであったり、色々でしょう。しかし、それもまた、聖霊なる神様の御業による導きなのです。ですから、今日ここに集っている方たちは全員、聖霊なる神様の御業の中で導かれているということになります。
 さて、ペンテコステの日に洗礼を受けたのは三千人ほどであったと聖書は記しています(使徒言行録2章41節)けれど、これもまた継続され、更に拡大しています。聖霊なる神様は天地を造られた父なる神様の霊ですから、その御業を私共の目の届く、近場の出来事だけで判断してはいけません。聖霊なる神様の御業は、全世界で起きています。現在、毎日何人の人が洗礼を受けてキリスト者になっていると思いますか。何と、平均して毎日10万人ほどの人が洗礼を受け、キリスト者となっているのです。そうでなければ、25億人のキリスト者にはなりません。一日10万人、一年で3600万人、10年で3億6千万人、70年で25億人となります。毎日10万人がキリスト者になっていると言われても、ピンと来ないでしょうけれど、そうなのです。そして、その一人一人に不思議な出会いがあり、導きがあった。聖霊なる神様のお働きは、本当に大きく、素晴らしいものなのです。

5.聖霊の御業 ② 栄光は主に
 勿論、聖霊なる神様のお働きは、私共にイエス様を我が主・我が神と信じる信仰を与えるだけではありません。父なる神様・イエス様に栄光を帰するすべての業、すべての出来事が聖霊なる神様によるものです。私共が神様を賛美するのも、神様に感謝をするのも、そして、祈るのも、すべて聖霊なる神様のお働きによってです。私共が賛美する時、感謝する時、祈る時、聖霊なる神様は私共と共にいてくださいます。
 聖霊なる神様は、「神様は真実である」「神様は偉大である」「神様は愛である」ということを私共に教えてくださいます。しかし、私共の罪は「私は真実である」「私は偉大である」「私は愛である」と思わせます。これはとても分かりやすい違いです。今、私共の罪は、と申しましたけれど、この罪に働きかけて増大させ、聖霊なる神様と全く反対の所に私共を連れて行くのが悪霊です。神様に栄光を帰するのが聖霊であり、自分に栄光を帰すことが罪です。聖霊は私共に働きかけ、自らの罪を知らせ、悔い改めへと導きます。神ならぬものを崇め、信頼し、自分は大した者であると思い違いをさせる私共の罪。その罪を聖霊は打ち砕きます。そして、ただ崇められるべきは、世界を造り、自分を造り、世界を支配し、私共を養い、導いてくださっている父・子・聖霊なる神様であることを悟らせてくださいます。その聖霊なる神様のお働きの中で、私共は今朝もこのように、世界中のキリスト者と共に主の日の礼拝を捧げています。
 その聖霊なる神様のお働き、お導きによって形作られていくのが愛の交わりです。ペンテコステによってキリストの教会は誕生しました。ですから、キリストの教会には、父なる神様と子なる神様を崇める賛美と祈りとが満ちていますし、愛の交わりが形作られていきます。しかし、人間の罪はこの愛の交わりを崩し、破壊します。勿論、キリストの教会の歩みが、二千年の間ずっと間違うことがなかったとは言いません。何度も間違いました。聖霊の導きに従うのではなく、間違った指導者の欲に引きずられたことも何度もありました。十字軍などはその代表的な例です。教理的に間違ったこともありました。しかし、聖霊なる神様は人を送り、宗教改革を起こし、道を正してくださいました。そして、今の教会があります。

6.聖霊の促しに生きる
私共は愛と信頼に満ちた交わりの中で生きていきたいと願います。神様と共に生きていきたいと願います。その私共の願いを起こさせ、それを叶えてくださるのも聖霊なる神様です。先ほど、信仰を与えてくださるのは聖霊なる神様であると申しました。私共が感謝し、祈り、賛美するのも聖霊なる神様の御業であると申しました。そして、信仰が与えられるようにという思いを与えてくださるのも聖霊なる神様であると申しました。だったら、私共は何もしないでもよいのでしょうか。ただぼうっとして、聖霊なる神様が働いてくださるのを待っていればよいのでしょうか。私共が信仰において健やかに歩めないのは、聖霊なる神様の責任なのでしょうか。
 ここで、よく弁えておかなければならないことがあります。それは、聖霊なる神様は私共から意思や思いや考えをすべて排除し、私共をロボットのようにしてしまうお方ではないということです。私共は今朝起きて、今日は教会に行こうと思って行動したから、私共は今ここに集っているわけです。それは、聖霊なる神様が私共に働きかけ、礼拝へ集うようにと促してくださったからです。その促しに従ったから、私共は今、ここにいます。聖霊なる神様は私共に働きかけ、神様の御心に適う良き歩みをするようにと促しますけれど、私共の心を縛り付けて、無理矢理にでもそうさせるわけではありません。時にはそうされることもありますけれど、普通はされません。ですから、私共はその促しを無視することも出来ますし、そんな促しなどなかったことにも出来ます。私共には、この聖霊なる神様の促しをしっかり受けとめる責任があります。その促しに従って行こうと志し、一歩を踏み出していく責任です。その一歩を踏み出していくならば、私共は更に聖霊なる神様の促しを受けることになります。そして、それに従って行く。その営みを止めないことです。それがキリスト者の歩みです。
 私共は弱く、愚かで、罪に満ちていますから、聖霊の促しに従うよりも、自分の内側から湧いてくる罪の思いに引きずられてしまうこともあるでしょう。そのような失敗は誰にでもあります。しかし、聖霊なる神様は私共を促すことを止めたりはしません。ですから、何度でも立ち帰れば良いのです。聖霊なる神様の促しに従って行こうとの思いを新たにして、一歩を踏み出していけば良いのです。自分の弱さに気付いたのならば、「強くしてください」と祈ったら良い。自分の内から湧き上がってくる罪の思いに気付いたのならば、「これに勝利させてください」と祈ったら良い。聖霊なる神様は、その祈る私と共にいてくださり、その祈りを聞き、その祈りに応えてくださいます。聖霊なる神様は、全能の父なる神様の霊であり、私共のために十字架にお架かりになってくださったイエス様の霊ですから、その御力と愛とを信頼して祈ったら良いのです。

 お祈りします。

 

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様はペンテコステの日に聖霊を弟子たちに注いでくださり、キリストの体としての教会を生み出してくださいました。あの日以来、聖霊なる神様は働き続け、今も救いの御業を前進させ、あなた様の御言葉を全世界に広げてくださっています。あなた様の御言葉はこの富山の地にまで伝えられ、あなた様を信じる群れを建ててくださいました。弱く小さな私共を、この群れを、どうか強めてくださり、愛と信頼に満ちた交わりとしていってください。ここに来ればあなた様の御臨在が分かる程に、私共を清めてください。ただあなた様にのみ、栄光がありますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年5月28日]