日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

夕礼拝説教

「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」
ローマの信徒への手紙 6章1~14節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今朝は富山地区の交換講壇ということで、朝の礼拝は魚津教会で奉仕してまいりました。交換講壇の説教は、その日だけの会衆に語ることになります。それで、キリスト者としてどうしても弁えておきたい大切なこと、私共がイエス様によって救われたとはどういうことなのか、その恵みを共に分かち合いたいと思いました。私共はイエス様によって救われましたが、その恵みの圧倒的な大きさ、豊かさの故に、私共はそれを十分に受けとめていないというところがあるのではないかと思っています。既に与えられている救いの恵みをきちんと受け止めることが出来るならば、私共は何も恐れることはありませんし、健やかに信仰の歩みを為していくことが出来ます。しかし、この救いの恵みを十分に受けとめておりませんと、様々な困難、苦難、不安、誘惑といったものに出会ったときに、それを信仰によって乗り越えていくことが出来ないということになりかねません。今日は、救いの恵みにおいて、どうしても弁えて欲しいという「この一点」について、聖書から聞いていきたいと思っています。

2.キリスト・イエスに結ばれた
結論を先に申しますと、今日、私共がしっかり心に刻みたい救いの恵みの「この一点」とは、私共は「イエス様と一つに結ばれた、結ばれている」ということです。これが救われたということです。聖書は、イエス様に救われたということを色々な側面から告げています。「神様の子とされた」「一切の罪を赦された」「永遠の命を与えられた」「神様と共に生きる者とされた」等々、本当にたくさんあります。ですから、「イエス様と一つに結ばれた」ということだけが、イエス様に救われたということではありません。しかし、「イエス様と一つに結ばれた、結ばれている」ということを抜きにしますと、イエス様に救われたということがはっきりしないと言いますか、救われたということがぼんやりしてしまって、一番大切な所が抜け落ちてしまうのではないかと思います。
 この「イエス様と一つに結ばれた」という救いの恵みについて最も端的に示しているのが、今日与えられている御言葉です。ローマの信徒への手紙の6章は、洗礼ということについて聖書の中で最も多くの分量を用いて記している所です。洗礼について語るとき、ここを抜きには語れません。私共は洗礼を受けて救われたわけですから、私共が自らの救いということを考えますときに、洗礼について聖書に聞くことは不可欠なことでしょう。ここでパウロは3節で、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」と告げています。これが決定的に大切です。私共は洗礼を受け、イエス様の救いにあずかりました。その洗礼とは「キリスト・イエスに結ばれるため」のものであるということです。
 少しややこしい話をしますけれど、私共が今用いています新共同訳聖書では、今読みましたように「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」と訳しています。けれど、口語訳では「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた」と訳し、新改訳では「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」、そして最近出ました聖書協会共同訳でも「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた」となっています。このように読み比べてみますと、新共同訳だけがちょっと違うといいますか、内容に踏み込んだ訳になっています。私はこの訳が大変優れていると思っています。この訳語は新共同訳聖書の特徴で、「キリストに結ばれ」という言葉は40箇所にも及びます。口語訳では「キリストにあって」と訳されていた所が「キリストに結ばれて」と訳されています。最近出ました聖書協会共同訳では、みんな口語訳に戻っています。残念です。口語訳などで「キリストにあって」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「エン・クリストゥ」、これは英語では「イン・クライスト」です。キリストに前置詞のキリシャ語エン、英語のインが付いただけです。ですから翻訳としては「キリストにあって」で良いのでしょうけれど、まったくピンと来ない日本語です。「キリストにあって語る」とか「キリストにあって望みを抱く」とか色々あります。どうもピンと来ない。そこで新共同訳では大胆に、「キリストに結ばれ」と訳したわけです。「キリストに結ばれて語る」「キリストに結ばれて望みを抱く」この方がずっと分かりやすい。 この新共同訳の翻訳によって、私共が洗礼を受けたということはキリスト・イエスに結ばれるためなのだとはっきりしました。これによって洗礼というものが何なのか、極めて明瞭に告げられましたて。洗礼によって私共はイエス様と一つに結ばれた。これが救われたということです。良いですか皆さん。父・子・聖霊の御名によって洗礼を受けた者は、イエス様と一つに結ばれたのです。これは私共の気持ちの問題なんかではありません。どんな立派なことが出来るようになったとか、病気が治ったとか、こんな良いことがあったとか、そんな話ではありません。イエス様に救われたということは、そんなつまらないことではないのです。これは、私の命そのものの問題です。私という者の存在そのものの話です。私共はイエス様と一つに結ばれたから、イエス様の兄弟とされ、神様の子としていただきました。私共の存在そのものが、「ただの罪人」から「神の子」に変えられたのです。
 そして、洗礼によってイエス様と一つに結ばれたことを更に明確に示しているのが、聖餐です。どうして洗礼を受けた者しか聖餐にあずかれないのか。その理由ははっきりしています。洗礼によってイエス様と一つに結ばれた者が、この恵みを味わい知るのが聖餐だからです。キリストの体を食し、キリストの血を飲む。それはまさに、イエス・キリストと一つとされていることを味わうことだからです。

  3.キリストと共に死に、キリストと共に生きる
 8節を見てみましょう。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」とあります。キリストと一つにされたということは、キリストの死、あの十字架の死と私共は一つにされたということです。そして同時に、キリストと一つにされたということは、復活されたキリストと一つにされたということです。このことをはっきり知って欲しいのです。
 イエス様の十字架と復活は、二千年前に地球の裏側で起きたことです。ですから、現代の日本に生きている私と何の関係があるのかと問われて、上手く説明することは出来ません。この二千年前のイエス様と私共が一つに結ばれるというのは、神様の業ですから、神様抜きに説明出来ませんし、いくら説明しても神様抜きの理屈で納得出来ることではありません。これは神様の御業です。天地を造られた全能の神様に、出来ないことはありません。神様にとって、私共とイエス様を隔てている時間も空間も、天と地の隔絶も、少しも問題ではありません。これが問題ならば、天地を造られたときから神様と共におり、神様の御子であるキリストが、どうして天から降り、肉体を持つことが出来たでしょう。更に言えば、どうして神の御子が十字架の上で死に、三日目に復活したでしょう。人間には全く不可能なことばかりです。しかし、神様は天と地の隔たりも問題とせず、愛する御子を人間として生まれさせることがお出来になり、死んだ者を復活させることがお出来になるお方なのです。私共の小さな頭の中で、この神様の大いなる救いの御業を理解することなど、出来るはずもありません。はっきりしていることは、神様は御子を与えるほどに私共を愛してくださっているということ、そして御子を復活させるほどの御力をお持ちになっているお方だということです。そして、そのお方が私共を救うために、洗礼という出来事によって、私共をイエス様と一つに結び合わせてくださったということです。
 キリストと一つにされたということは、あのゴルゴタのイエス様の十字架の死が、私の死となったということです。私共は、もう死んだのです。自分の人生は自分のものだと思い違いをしていた私。神様に命を与えられておりながら、神様に感謝することも知らなかった私。自分のことしか考えることが出来なかった私。傲慢で、我が儘で、身勝手な私。良いことがあれば自分は大した者だと自惚れ、失敗すれば人のせいにするような私。いつも周りの目を気にして、自分がどのように思われているかということで行動していた私。そのような私は、死んだのです。そして、新しい私が生きている。それは人の目ばかりを気にするのではなくて、神様の御前に自分はどうであるかということを第一にする私です。日々の命が神様から与えられたものであることを弁え、神様に感謝をする私。家族も仕事も仲間も神様が備え、与えてくださったことを知り、その一つ一つの交わりを大切にする私。それは、復活されたイエス様の命と一つにしていただいた私分です。それは、イエス様と共に神の国に生き始めている私です。神の国は、既に私共の所に来ています。だから、私共はこのように主の日に集って、父・子・聖霊なる神様を誉め讃え、礼拝している。ここに神の国は来ています。

4.罪に対して死んだ:罪は最早支配せず
このように申しますと、「そうは言っても、私たちは罪を犯してしまうではないか。」と思う方もおられるでしょう。その通りです。私共は罪を犯します。それは、神の国に生き始めている私共ですけれど、まだ神の国は完成していないからです。それが完成されるのは、イエス様が再び来られる時です。聖書はこう告げています。6節「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」私共は、確かに罪を犯してしまいます。しかし最早、罪の奴隷ではありません。これは大きな違いです。奴隷は、主人の言うことを聞くしかありません。主人に逆らうことは出来ません。罪の奴隷とは、罪が主人であり、主人である罪に抵抗出来ない者ということです。私共はどうでしょうか。私共は何が罪であるかを知りました。そして、それをしないで生きていきたいと思っています。何が神様に喜ばれるかを知り、それを為していきたいと思っています。それが、罪の奴隷でなくなっている確かなしるしです。私共の主人は罪でも悪魔でもありません。ただ主なる神様だけです。
 イエス様を知らなかったとき、私共は何が罪なのかということさえ知りませんでした。私共に命を与えてくださった神様をないがしろにしても、何とも思いませんでした。たくさんの「お守り」を持ち、星占いをし、お地蔵さんに手を合わせても、それらを神様がお嫌いになることも知りませんでしたから、平気で行っていました。しかし、今はそんなことはしません。罪の奴隷ではなくなっているからです。罪人の一番の特徴は、自分の罪が分からない、自分の罪が見えないということです。罪が分からないのですから、罪を犯しても、どうということはないわけです。しかし、私共はそうではありません。罪の奴隷ではなくなったからです。

5.神に対して生きている:神の子として生きている
 聖書は11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と告げます。私共は罪に死に、神に対して生きる者となりました。私共は罪の奴隷ではなく、神様の僕・神様の子となりました。まことの神の御子であるイエス様と一つに結び合わされたからです。
 パウロの手紙は幾つも聖書の中にありますけれど、それらの手紙の冒頭で彼は自分のことを「キリスト・イエスの僕」と言いました。この「僕」という言葉は、直訳すれば奴隷です。パウロは、自分は罪の奴隷ではなくなった。キリスト・イエスの奴隷となった。このことを喜びとし、誇りとしていました。パウロは、伝道者としての召しに従い、御言葉を宣べ伝えていく中で、何よりも罪と戦い、神様・イエス様の御心に従うことを、最も大きな喜びとし、誇りとしました。イエス様と一つに結ばれたのですから、どうして父なる神様に敵対することが出来ましょう。彼は「神に対して生きる」者となりました。神様に相対して生きる者、つまり、神様の御前に生きる者となったということです。父なる神様と子なるキリストは、永遠の愛の交わりの中にあります。私共がキリストと一つにされたということは、私共もその交わりの中に入れていただいたということです。神様に向かって「父よ」と呼ぶ者となり、このお方との親しい交わりの中で、このお方と共に、このお方の御前に生きる者となったのです。
 私共はどうして今日、このように主の日の礼拝に集っているのでしょうか。家にいてやりたいこと、やらなければならないこともありましょう。しかし、ここに集って礼拝を捧げている。それは、ここに集うことが自分には一番大切であり、イエス様に救われた私には一番ふさわしいと知っているからでしょう。それは、神様に敵対していた「罪の奴隷」という状態から解放され、神様の御支配の中に生きる者とされた、神様の御前に生きる者となったからです。

6.既に神の国に生きている:復活の命に生きている
 そして、キリストに結ばれて、キリストの復活の命に生きる者となったということは、この肉体の終わりが私の命の終わりではなくなったということです。これはあまりにも凄いことなので、よく分からないと感じる方もおられるでしょう。でも、これはとても単純なことです。イエス様は十字架の上で死に、三日目に復活されました。私共はこの方と結ばれたのですから、私共もまた、やがて時が来れば復活するということです。罪の支配、死の支配、悪魔の支配から救い出され、恵みの支配、命の支配、神様の支配に生きる者とされたからです。良いですか皆さん。私共の命はキリストの命と結ばれたのですから、肉体の死で終わることなどあり得ないのです。イエス様はこの命のことを、ラザロの復活の場面でマルタに対してこう告げられました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25~26節)これは日本語として、よく分からない言葉です。「わたしを信じる者は死んでも生きる。」死んだら生きていないのであって、「死んでも生きる」という日本語は、何を言っているのか分からない。しかし、それは「命」というものが「肉体の命」しかないと思っているからです。イエス様はここで、「復活であり、命であるわたしと一つに結ばれた者は、肉体の命に死んだとしても、わたしの復活の命は死にはしない。」そう言っておられるわけです。
 また、イエス様は有名なあの「ぶどうの木のたとえ」をお語りになられました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書15章5節)教会学校の子どもたちも知っている有名な御言葉です。イエス様に繋がることによって結ぶ豊かな実とは何でしょうか。愛、信仰、希望、喜び、平安、真実、感謝等々、いくらでも挙げられます。しかし、何よりも大切なのは「命」でしょう。イエス様と繋がることによって、私共は何よりもイエス様の命、復活の命の実を結ぶ。この復活の命は、死んでから与えられるのではなくて、洗礼においてイエス様と結ばれたときから、私共に与えられているものです。確かに、それが完全な形で成就するのは、イエス様が再び来られて神の国が完成するときです。しかし、私共は既に神の国に生きて始めています。
 日本語で「棺桶に片足を突っ込んでいる」という言い方をしますけれど、それは罪と死が支配している世界の言葉です。しかし、神様と命が支配する世界に行き始めている私共は、この地上にあって既に「神の国に片足を突っ込んで生きている」。私共が片足をつっこんでいるのは、棺桶ではなくて神の国です。そのことをしっかり受けとめましょう。神の国はまだ完成されていません。しかし、既に来ている。イエス様と共に神の国は到来し、私共はイエス様と結ばれることによって、既にそこに生きているのです。

  7.神様に献げる歩み:献身者として
 最後に、そのようにキリストと一つに結ばれた者は、どう生きるのか。聖書はこう告げています。13節「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」ここで繰り返されているのは「神に献げる」ということです。献身者という言葉は、狭い意味では、牧師・伝道者に対して用いられますけれど、本来の意味では、イエス様に救われた者として新しい歩みをする者、神様に献げる歩みをする者、それが献身者です。ですから、すべてのキリスト者は献身者です。イエス様に救われた者は、最早、自分の人生の主人を自分自身であるかのような思い違いの中に生きることは出来ません。神様・イエス様が私の主人となってくださった。この恵みの中で、この恵みを感謝し、喜んでこの身を神様に献げます。身を献げるとは、神様が自分に与えてくださった賜物・能力・時間・富などを神様の御業のために献げるということです。それは美しい歩みです。私には何もない。ただ、神様の恵みだけがあります。私の持っているすべては、神様が与えてくださったものです。それを感謝し、献げる者として生きるということです。
 ただ、最近はカルト宗教のことがマスコミを賑わせていますので、このことについて語るときには少し注意が必要です。聖書が語る献身は、どこまでも神様と自分との愛の交わりの中で為されていくものです。これをしなければ救われないなどということは全くありません。献身は喜びの業、感謝の業です。まして、人に勧められて為すのでもありません。例えば、私は27歳の時に会社を辞めて神学校に行きました。この時、神学校に行くことを誰かに勧められたでしょうか。誰にも勧められませんでした。ただ、神様が御言葉と御業をもって私に迫ってきました。献身とはそういうものです。献身の歩みは、いつでも人に評価されたり、感謝されるとは限りません。たとえそうであっても、神様が喜んでくださっていることを知っているならば大丈夫です。しかし、これが見失われますと、結局の所、人にほめてもらいたい、認められたい、自分は大したもんだと思いたい、そういうことになってしまいます。それは少しも美しくありません。私共の歩みは、あの十字架のイエス様の美しさに倣っていくものです。信仰がなければ、イエス様の十字架は少しも美しくありません。悲惨で、醜い、死にゆく者の姿でしかありません。しかし、イエス様と一つにされた者にとって、あの十字架こそが最も美しい。その美しさに生きるのが、イエス様と一つにされた者の歩みなのです。

   お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は、天地を造られる前から私共を選び、イエス様の救いにあずからせてくださいました。私共は洗礼によってイエス様と一つに結ばれ、イエス様の命に生きる者としていただきました。罪も死も悪魔も、最早私共を支配することは出来ません。私共は神様のものだからです。どうか、あなた様が与えてくださったすべての恵みに感謝して、献身者としての歩みを御前に捧げていくことが出来ますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年6月25日]