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礼拝説教

「日毎の糧を与えてください」
列王記上 17章8~16節
マタイによる福音書 14章13~21節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
「主の祈り」から御言葉を受けています。6回目です。今日は「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」です。「主の祈り」は前半の三つの祈りと後半の三つの祈りから成っていますが、この祈りは後半の最初の祈りです。「主の祈り」の中でも、この祈りに一番親近感を感じるという人もいるでしょう。その意味では、この祈りについては、あまり説明する必要がないのかもしれません。しかし、私共が「分かっている」と思っている所こそ、以外と分かっていない。誤解している。そういうこともあります。大切なことは、この祈りは最初の三つの祈りの祈りの続きであるということです。御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が天になるように地にもなりますように、という祈りと無関係にこの祈りがあるのではありません。この最初の三つの祈りと同じ心で祈られるものです。そしてこの祈りは、神様に対して「父よ」と呼ぶ者とされた者が、その神様との親しい交わりの中で献げられる祈りです。ですから、この日用の糧を求める祈りは、「あれをください」「これをください」「こうしてください」「ああしてください」と、自分が欲しいものを並べ立てるような、イエス様に救われる前に私共が為していた祈りと同じように受け止めることは出来ません。では、イエス様はこの祈りによって、私共をどのような祈りの世界へと導こうとされたのでしょうか。

2.必要を満たしてくださる神様
第一に、この祈りによって示されることは、「私共には食べ物が必要だ」ということです。そして、「それを与えてくださるのは神様だ」ということです。私共は「自分で稼いで食べている」と思っているかもしれません。汗水流して働いて、食べ物を手に入れている。それはその通りです。働きもせず、収入もなく、ただお祈りしていれば食べ物が手に入る。そんなことをイエス様は言っておられるわけではありません。しかし、ここで私共は大きな間違いを犯してしまいます。それは、自分が働いて、自分の努力と働きによって、自分の命を養い、自分の家族を養っているという誤解です。これは誤解ではなく、事実ではないか。そう、確かに事実です。しかし、誤解なのです。
 そもそも、私共の命は、自分のものでしょうか。自分で手に入れたのでしょうか。自分の家族もそうです。自分で手に入れたのでしょうか。与えられたのではありませんか。神様はこの天と地とその中にあるすべてのものをお造りになり、御手の中に治めておられます。私共は誰でも、神様によって命を与えられ、必要のすべてを備えられ、一日一日生かされています。この祈りは、改めてそのことを私共に教えます。私共はとても忘れやすい。この礼拝においては、神様にすべてを与えられ、養われていることを納得しても、礼拝が終わってしばらくすると、いつの間にか「自分で稼いで食べている」と思い違いし始める。そのような私共に、私の命は神様が与えてくださり、その命を保持するために、神様は必要のすべてを満たしてくださり、私共を養い、生かしてくださっている。この祈りはそのことを私共に思い起こさせます。そして、私共が捧げるこの祈りを、父なる神様は喜んで聞いてくださり、叶えてくださいます。そのことを私共は信頼して、安心してこの祈りを捧げれば良いのです。

3.日用の糧とは
 ここで言われている「日用の糧」は、外国語では「日毎のパン」と訳されています。英語ですと「Daily Bread(デイリー ブレッド)」となります。私共はパンが主食ではありませんので、「日毎のパン」という訳は適さないということで、「日毎の糧」と訳しています。ここで祈り求めるように教えられているのは、パンであれ、米であれ、主食だ。副食は入っていない。それは贅沢だ。そんな風に考える必要はないでしょう。確かにイエス様の時代に比べて、私共の食事は格段に豊かになりました。主食だけを食べるようなことはありません。栄養学というものから考えても、パンだけ、ご飯だけ、うどんだけ、パスタだけ、そんな食生活は体に良くないのは明らかです。ここで私共が祈るように教えられているのは、毎日食べる食事を与えてくださいという祈りです。野菜も肉も魚も入っている食事です。水も味噌も醤油も油も砂糖も含まれます。要するに、私共の肉体を支える普通の食事です。それを神様に祈り求めなさいと、イエス様は教えてくださいました。しかし、食事だけあれば良いのでしょうか。衣食住という言葉があるように、私共が生きていくためには食べ物だけではなくて、着る物も住むところも必要です。更に言えば、肉体の養いだけではなくて、霊の養いもまた私共には必要です。そのように、この祈りは私共が生きていく上で必要なものを、神様に願い求める祈りだと理解して良いでしょう。
私は、この祈りは「父と子」という交わりの中で受けとめるととても分かりやすい、と思っています。私にも娘がいます。東京に行って、7、8年になります。コロナ禍もあり、ここ数年はあまり会うことも出来ませんでした。そこで思いますことは、「ちゃんと食べているか」ということです。毎日コンビニ弁当で済ませているのではないか。野菜は摂っているか。そんなことを思うわけです。これは、我が子が家を出て一人暮らしを始めた時にどの親も思うことではないでしょうか。そこで、私は(というより妻ですが)年に何度か、野菜やら調理したものやら、季節になれば餅やらを送るわけです。東京にないものなんてありません。スーパーに行けばあるものばかりです。それを、わざわざ送料をかけて送るわけです。それは「元気でいるか」という思いが、「ちゃんと食べているか」となるからです。
 イエス様は「日毎の糧を与えてください」と父なる神様に祈るように教えてくださったわけですが、神様は私共の父であられますから、神様はこの祈りを喜んで聞いてくださらないはずがありません。私共なら宅急便で送るところですけれど、父なる神様は、私共以上に私共に必要なことを御存知です。そして、その全能の御力をもって、すべてを備えてくださり、私共を養ってくださいます。私共は、この「主の養い」の中で生かされているわけです。

4.主の養い
 先ほど、旧約の預言者エリヤによって、「壺の粉(=小麦粉)は尽きることなく、瓶の油もなくならない」という不思議な業が為された聖書の箇所をお読みしました。勿論、この不思議な業は、エリヤにそのような能力があったから出来たということではなくて、エリヤと、エリヤに最後のパン菓子を与えたやもめ、そしてその息子の三人を養うために神様が為されたことでした。この出来事は、神様はどんな不思議な業を用いてでも私共を養い、生かしてくださるということを示しています。また、五千人の給食の奇跡は、私共の思いを超えて、神様は私共を養ってくださるということを示しています。この五千人の給食の出来事は、イエス様が「大勢の群衆を見て深く憐れ」まれることによって為されたことでした。実に、神様の養いとは、神様の憐れみ、神様の愛によって為される業なのです。つまり、私共は自分の力で自らの命を保っているのではない。ただ神様の養いの中で生かされているのだ、ということを聖書は告げています。このことを示す出来事は他にもあります。例えば、出エジプトの時の「マナ」です。神様は40年にも及ぶ出エジプトの旅の間中、天からの「マナ」をもってイエスエルの民を養い続けられました。神様は、イスラエルの民に「自分たちは主の養いによって生かされている」ということを思い知らせるためにこの出来事を為されました。実に、神の民とは、自分は神様の養いによって生かされているということを知っている民のことなのです。
 私共は信仰の眼差しをもって日常の営みを見ませんと、このことに気付きません。私共はその本質において不信仰ですから、神様の御業であっても、自分の業にしてしまいます。自分たちは神様の養いによってではなく、自分の稼ぎによって自分と家族を養っているのだという思い違いをしてしまうものなのです。イエス様は、「そうではない」ということをこの祈りによって教えようとされたのでしょう。

5.毎日の祈り
さて、この祈りは「日用の糧」が与えられていないので、与えてくださいと祈るものではありません。「日毎の糧」は私共に既に与えられています。与えられていなければ、私共はとっくに死んでいます。ということは、この祈りは既に与えられている神様の養いの中で、「今日も与えてください」と祈る祈りだということです。ここから、この「主の祈り」は日々の祈りであるということが分かります。昨日この祈りをしたから、今日はしなくても良い。そうではありません。「今日も与えたまえ」ですから、毎日この祈りは祈られていくものです。それは、主の養いに生かされているという現実は、毎日新しく受け取っていくものだということでしょう。「自分が稼いで食べている」という誤解は、とても根深いものです。ですから、放っておくと私共はいつの間にかその誤解に引きずられ、それが当たり前になってしまいます。「自分が稼いで食べている」という誤解は、神無き世界の常識です。しかし、私共が生きるのは、既に到来している神の国です。神様の恵みの中に私共は生きていす。そして、ここに生き続けるためには、私共はこの神無き世界の常識である「自分で稼いで生きている」という所から解き放たれ、神様の養いの中に生かされているという所に立ち続けなければなりません。この祈りは、私共をそのような神様との交わりへと導いてくれます。

6.食前の祈り
この祈りの特徴、他の祈りと違っている点。それは、この祈りは食事の度毎に神様が私共の祈りを聞いてくださった、叶えてくださったということを確認出来るということです。この祈りは、神様が聞いてくれたかどうか分からない、そういう祈りではありません。私共は食事の度毎に、この祈りが聞かれたということを確認させられます。私共の食卓に並べられた食べ物は、神様が私共の祈りに応えて備えてくださったものです。だから、私共は食前の祈りを捧げるのです。「食前の祈り」は何よりも「感謝の祈り」です。神様がこの食事を与えてくださった、神様は私の祈りを聞いてくださり、この食事を備えてくださった。このことを感謝する。この「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ったことのない人は、目の前の食事が「神様が私の祈りに応えてくださり、備えてくださったもの」として受け取ることは出来ないでしょう。これを作ってくれた人にありがとう、この食べ物を育ててくれた農家の方、漁師の方、スーパーの方、物流を担っている方等々にありがとうと感謝する。それは良いことです。しかし、何よりも感謝すべきは、すべてを備えてくださった神様に対してです。
 皆さんは「食前の祈り」をしていますか。これはとても大切な習慣です。何しろ、食事をしない日はありませんから、私共は食前の祈りを習慣化することによって、祈らない日がないキリスト者になります。子どもの時からこれを身につけさせるのが、子を持つキリスト者の大切な責任だと思います。私は小児洗礼を受けさせる両親に、必ず準備会でこのことを話します。長い祈りでなくても良いのです。しかし、祈ることなく食事をすることはない。そのように習慣づけることが大切です。「主の祈り」を祈る者は、この食前の祈りへと導かれていきます。
 この食前の祈りは、それぞれ家庭ごとに「我が家の食前の祈り」というものがあって良いでしょう。我が家にもあります。今は私共夫婦だけですから、色んな祈りがそこでは捧げられます。しかし、子どもが小さい時、私が祈ると長くなるので、娘は「私が祈る」と言い出しまして、そのために「我が家の食前の祈り」を作りました。幼稚園の頃から娘が食前の祈りを祈るようになりました。食事の度毎に、私共は神様に愛され、養われ、生かされている。神様に祈りを聞いていただいている。そのことを確認させられるわけです。家族で囲む食卓というものは、本当に恵みに満ちた、良き時です。食事だけではありません。その食卓を囲んでいる家族もまた、神様が与えてくださったものだからです。ありがたいことです。私共はこの恵みを、食事の度毎に心に留める。そして、食前の感謝の祈りを捧げるのです。

7.今日の分=30年分ではない
 さて、ある調査によりますと、日本人の82%の人が自分の老後に不安を持っているといいます。確かに、老後の生活は万全ですと言える人は、そういないでしょう。その調査では、不安の多くは経済的な不安となっています。健康への不安もあるでしょう。5年後、10年後、20年後のことを言いだせば、不安材料がないという人はいないでしょう。しかし、イエス様がここで教えてくださった祈りは、「日用の糧を今日も与えたまえ」です。5年後、10年後、20年後の日用の糧ではありません。それは、将来のことは神様の御手の中にあるのだから、私共は与えられた「今日」という日を、神様の養いの中で生きていく。それで良いということでしょう。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章33~34節)と告げられました。この御言葉は、「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの心と重なります。私共は神様の養いの中で生かされている者として、神の国と神の義を求めて「今日」という日を生きる。言い出せばきりがないほどの不安もありましょう。しかし、私共は食事の度毎に、主の養いの中に生かされている恵みの現実を受け止める。そして、御名を誉め讃える。それがイエス様に救われ、神の子としていただいた私共の歩みなのです。

8.我らとは誰か
最後に、この祈りは「我らの祈り」であることを確認して終わります。この「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、「我らの日用の糧」を求める祈りです。つまり、私の日用の糧さえ与えられればそれで良い、という祈りではありません。「我ら」に与えられなければなりません。この「我ら」とは、どこまで広がる我らなのでしょうか。家族?友人?教会の人?日本人?どこまで広がるのでしょうか。「家内安全」という祈りに馴染んでいる日本人の祈りの感覚でいえば、この「我ら」は家族、広がっても自分の友人までということになるのかもしれません。しかし、イエス様が教えてくださった「主の祈り」における「我ら」は、そんなに狭いものではありません。この「我ら」には、神様に造られたすべての人、神様が御子を与えたまうほどに愛されたすべての人が含まれます。
 ということは、この祈りから私共は「執り成しの祈り」へと導かれていくことになるということです。世界中で「今日の糧」に不足している、慢性的な飢餓状態の人たちが2021年の国連の統計では8億3千万人いると報告されています。そして、中程度から重度の食料不足人口は世界人口の約3割の約23億人と報告されています。大変な数字です。イエス様から「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りを教えていただいた私共は、このような現実があることを知らされ、主の養いの御手が伸ばされるよう祈らないわけにはいかないでしょう。
 五千人の給食の奇跡において、イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と告げられました。成人男子だけで五千人ですから、そこには一万人以上の人たちがいたでしょう。弟子たちにはそのようなおびただしい人たちに与える食料はありませんでした。ですから弟子たちはイエス様に、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言いました。この弟子たちの言葉には、「ここにはパン五つと魚二匹しかないのに、これだけの人たちに食べ物を与えることが出来るでしょうか。出来るはずがないではありませんか。イエス様、何を言っているんですか。」という、イエス様への非難が込められています。弟子たちの思いは分かります。当然の思いです。ところが、イエス様が5つのパンと2匹の魚を取り、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」ところ、5つのパンと2匹の魚は増えに増えて、弟子たちが配っても配ってもなくなりませんでした。そして、遂には皆が食べて満腹になった。不思議なことです。あり得ないことです。しかし、この奇跡を為された神様は、今も生きておられます。そして、飢えた者たちを憐れみ、御自身の養いの御手の中に生かそうとしておられます。私共は執り成しの祈りを為しつつ、自分たちの出来る小さな業を捧げていきたいと願います。

   お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は私共に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださいました。私共はあなた様によって命を与えられ、あなた様の養いの御手の中で生かされております。あなた様は私共の必要を御存知であり、私共に必要なすべてを備えてくださいます。私共は食事の度毎にそのことを知らされ、あなた様の憐れみによる養いに生かされていることを覚え、心から感謝します。どうか、今、飢えの中にあるあなた様の愛する一人一人を、あなた様が養い、生かし、支えてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年7月2日]