1.はじめに
「主の祈り」から御言葉を受けています。7回目です。「主の祈り」を学びますのは、私共の祈りが変えられ、整えられ、イエス様が拓いてくださった新しい祈りの世界に生きるためです。祈りが変わるということは、私共自身が変わることです。私共はイエス様の十字架の贖いによって、一切の罪を赦していただき、神の子とされ、神様との親しい交わりの中に生きる者となりました。私共は生まれ変わって、神の子という新しい存在になった。その確かなしるしが、私共の祈りが変わったということです。新しい命に生きる者とされた私共が祈る祈り、それが「主の祈り」です。また、「主の祈り」によって導かれる祈りです。この祈りの世界は、全く新しい祈りの世界であり、神の国に繋がる世界です。そして、私共は既にその世界に生き始めています。
2.赦されなければならない私
今日は「主の祈り」の後半の「我らの祈り」の二番目の祈り、「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」です。ここでイエス様は、罪の赦しを求めることを教えてくださいました。自らの罪の赦しを求める。これはイエス様に教えていただかなければ、私共の心に浮かぶことさえなかった祈りでしょう。誰の心にも自然に湧いてくる祈り、それは自分や家族また愛する者が、病気になったり厳しい状況になったときに神様に助けを求める、神様に癒しを求めるといった、具体的な願いだろうと思います。それは本気で真剣な祈りとなりましょう。しかし、イエス様と出会うまで、罪の赦しを求めるという祈りが、私共の本気の祈り、真剣な祈りとなったことはなかったでしょう。私共は、自分のことを完全に正しい人間だと思っているわけではないけれど、そこそこに良い人間だと思い、神様によって罪を赦されなければならない者だとは思っていなかったからです。それは、神様をイエス様を知らなかったからです。人と比べれば、私共はみんな「そこそこに良い人」です。勿論、欠けや弱さはありますけれど、決定的な悪人、度外れた悪人とは思っていません。神様に裁かれなければならない者だとは思っていない。神無き世界においては、誰もがそう思っています。しかし、神様の御前に出ればどうでしょうか。永遠にして全能なる方、聖なる方、完全な愛と真実の方。このお方の御前に出るとき、私共は自分が何と我が儘で、自分のことしか考えていないか、愛がなく、嘘にまみれているかを知らされます。この方の御前に出るとき、「みんなやっていることではないか。」といった言いわけが通用しないことを私共は知っています。また、この方の前では何一つ隠し立てすることが出来ないことも知っています。
「主の祈り」は、主イエス・キリストというお方によって御自身を現された唯一の神様の御前に立って、この方に向かって祈るものです。私共以上に私共のことをすべて御存知のお方の御前に立って、私共は祈ります。その時、私共は何一つ誇るべき所などない、ただの罪人として立ちます。この時、私共は神様の憐れみを求め、自らの罪の赦しを求めるしかありません。イエス様は、この罪の赦しを求める祈りにおいて、私共の祈りは何よりも聖なるお方の御前に立って祈るものなのだということを教えてくださいました。この祈りの姿勢こそ、「主の祈り」において私共が第一に教えられることです。
3.祈りの姿勢
何をするにしても、それに取り組む姿勢というものは大切です。仕事も、スポーツも、芸事も、それに取り組む姿勢というものが崩れていれば、それを継続し、深めていくことは出来ません。簡単な話、毎日会社に遅刻しているようでは、ちゃんとした仕事は出来ません。祈りも、その姿勢が崩れていれば、イエス様が導いてくださる祈りの世界に分け入っていくことは出来ません。イエス様が教えてくださった祈りの姿勢、それが「ただの罪人として神様の御前に立つ」ということです。社会的な立場も、今まで成し遂げてきた実績も、全く関係ありません。私共はただの罪人です。
この祈りの姿勢について、イエス様はファリサイ派の人と徴税人の祈りの「たとえ話」で教えてくださいました(ルカによる福音書18章9~14節)。こういう話です。ファリサイ派の人と徴税人が、神殿に上って祈りを捧げた。ファリサイ派の人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。そして、神様に義とされたのは、徴税人の方であったという話です。
このイエス様のたとえ話ではっきりと示されているのは、神様の御前に立った時の私共の姿勢、祈りの姿勢です。世の中の尺度でいえば、ファリサイ派の人の方が正しい人であり、良い行いもしていたことでしょう。しかし、彼は神様の御前に出ても、相変わらず他の人と自分を比べ、自分は大した者でしょうと自慢します。余程、自分に自信があったのでしょう。しかし、ファリサイ派の人の祈りは、神様の御前に立つ者の祈りになっていません。彼は聖なる神様の御前に出ていることへの畏れもなければ、自らの罪に対する自覚もありません。ですから、罪の赦しを求めることもありません。これは大きな勘違いです。一方、取税人は自らの罪を自覚し、神様に憐れみを求めました。つまり、赦しを求めるしかありませんでした。そして、神様はそれを義とされました。
4.赦すことが赦しの条件か
さて、この「罪の赦しを求める祈り」について、よく聞かれることがあります。それは、自分が人を赦すことが神様に赦されることの条件なのか、ということです。そして、それはおかしいではないか、という質問です。イエス様の赦しは、私共がこれこれの良い事をしたから与えられるというものではないはずでしょう。それが福音ではないか。それなのに、この祈りは、我らに罪を犯す者を赦すから、我らの罪を赦してくださいと祈る。これはどういうわけなのだ、という質問です。
「主の祈り」はマタイによる福音書とルカによる福音書に記されていますけれど、マタイではこの部分は、6章12節「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」となっています。またルカでは11章4節「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」となっています。確かに、これを文字通り受け止めますと、「自分に負い目のある人を赦しましたように」或いは「自分に負い目のある人を皆赦しますから」とありますから、まるで、私共がまず赦すことが条件としてあって、その上で「赦してください」と祈るということかと受け止めてしまうかもしれません。ちなみに「負い目」と訳されている言葉は、直訳すれば「負債」「借金」を意味する言葉です。
ここで、私共は先程お読みしました、マタイによる福音書18章21節以下にありますイエス様のたとえ話を思い起こす必要があります。このたとえ話は、イエス様が「七の七十倍までも赦しなさい。」と告げた直後に語られたたとえ話です。こういう話です。ある家来が王様に1万タラントンの借金を帳消しにしてもらいました。1万タラントンというのは、現代のお金に換算しますと、(1タラントンは6千ドラクメですので、6千万ドラクメとなります。1ドラクメは1デナリオンで、1デナリオンは一日の賃金ですから、一日の賃金を5千円としますと、)3千億円となります。このとんでもない借金を帳消しにしてもらった人が、自分に100デナリオン(現在のお金で50万円ほど)借金している人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。そして、「どうか待ってくれ」という願いも聞き入れず、借金を返すまでと牢に入れた。そのことを聞き及んだ王様は、その家来を呼びつけて「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、王様は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した、という話です。このたとえ話の王様とは神様のことであり、3千億円の借金を帳消しにしてもらった家来が私共です。そして、100デナリオンの借金をしているのが私に罪を犯した隣人ということになります。では、イエス様はどこに出て来ているでしょうか。直接には出て来ていませんが、この1万タラントンつまり3千億円の借金を帳消しにして王様が被った被害。それがイエス様の十字架です。
イエス様がこのたとえ話で言われたことが、「罪の赦しを求める祈り」の心と重なります。私共はこの「罪の赦しを求める祈り」をする人は、自分に嫌なことをした人、自分が腹を立てている人、それを私共は赦さなければならないと考えます。それはそのとおりです。しかし、理由は「自分が赦してもらうため」ではありません。私共は「既に赦されている」のです。しかも、徹底的にです。神様に「父よ」と呼んで祈ることが出来るのは、この徹底的な赦しに既にあずかっているからです。私共は赦されました。だから神様の子とされ、神様に向かって「父よ」と呼べるわけです。この祈りは、まだ赦されていないから、赦されるために自分も赦します、だから赦してください、という祈りではありません。
5.赦された者は、赦す者として生きる
先週、私共は「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という祈りについて教えられました。この祈りは、日毎の糧が与えられていないから与えてくださいと祈る祈りではない、と申しました。日毎の糧は、私共に毎日与えられています。与えられていなければ、私共はとっくに死んでいます。私共は主の養いの中で生かされてます。その恵みの中で、いよいよ神様の愛と支えと導きと御支配を信頼して、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と祈る。そして、食事の度毎に、この祈りが聞かれたことが分かる。神様はこの食事を与えてくださり、私に「今日も生きよ」と祝福くださっている。このことを覚え、感謝して、食前の祈りを私共は祈るわけです。
この罪の赦しを求める祈りも同じです。私共は神様に赦されています。3千億円の借金を帳消しにしていただいたほどに、徹底的に赦されています。一切の罪が赦されています。そして、神様は私共にこの赦しを与えてくださるために、御子イエス・キリストを私共のために、私共に代わって十字架の上で裁かれました。このイエス様の十字架抜きに、私共が赦されることはありません。私共が自分に罪を犯す者を赦したからといって、それは私共が神様に対して犯した罪や隣人に犯した罪の何万分の一にもならないでしょう。赦したら赦されるというのは、全くの誤解です。バランスが取れません。私共の赦しは、ただイエス様の十字架の故です。だから、私共は徹底的に赦されています。イエス様の血潮によって赦された者はどう生きるでしょうか。赦す者として生きるしかありません。それ以外の選択肢はありません。赦さなくても赦しても、どっちでもいいけれど、赦すことにしよう。そんな呑気な話ではありません。いいですか皆さん。私共に代わって十字架にお架かりになったイエス様の前に立つとき、私共は「私共を赦してくださるために十字架にお架かりになってくださり、ただただありがとうございます。私も赦します。赦す者として生きていきます。」そう言うしかないではありませんか。それがこの祈りです。そして、「私をあなた様の赦しの中で生かしてください。」と祈る。この祈りは神様に向かって「父よ」と呼ぶことを許された者が、その神様との交わりの中に生きていきたいと願って祈る祈りです。イエス様の十字架の御前に立って、この罪の赦しにあずかって生きていきたいと願う者の祈りなのです。
6.気持ちに逆らって赦す
私共が地上の歩みを為していく中で、私共は必ず人を傷つけたり、人に傷つけられたりするということが起きます。この傷は、物理的な暴力によるとは限りません。言葉によって心に深い傷を負う、また負わせるということがあります。実際には、言葉の方が多いでしょう。DVという言葉ありますが、これはdomestic violence(ドメスティック・バイオレンス)の略で、日本では「夫婦や恋人など親密な関係にある者から振るわれる暴力」という意味です。この言葉は、傷つける、傷つけられるということが、夫婦・親子・兄弟・恋人といった最も愛すべき、最も近しい者の間でも起きるということを示しています。これが私共が生きている世界における罪の現実です。
実際にそのような状況になると、この祈りはとても辛い祈りとなります。それは、自分の気持ちに反して祈ることになるからです。この祈りだけはどうしても祈れない。そういう時だってあるかもしれません。あの人の顔を思い出すだけで血圧が上がる。とても眠れない。悔しくて、腹が立って、どうしようもない。そういう時もあるでしょう。確かに、そのように感情が高ぶっているとき、この祈りは祈れないかもしれません。しかし、この祈りは私共の気分によって為される祈りではありません。イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった祈りです。もっと言えば、イエス様によってこのように祈るように命じられている、と言っても良いでしょう。ですから、気持ちの高ぶりが収まったら、私共はこの祈りを捧げなければなりません。そこで私共は、神の子とされた新しい自分を見出すことになるでしょう。その時の気持ちや気分で祈るのではなくて、神様・イエス様に命じられたから祈る私です。自分の気持ちに逆らってでも、イエス様に従って祈る私です。それは神様に従う、神の民としての私、神の僕としての私です。私共は、何よりも祈ることにおいて、神様に従う者とされていきます。そして、その祈りによって赦す者としての歩みへと導かれていきます。
そして、この赦すことと愛することとは深く結びついています。今、このことについて十分にお話しする時間はありませんけれど、神様が私共の罪を赦してくださったのは、私共を愛しておられるからです。そして、イエス様が「主の祈り」において、私共を赦す者へと導いておられるのは、私共が愛に生きる者へと変えられていくことを望んでのことです。神様の愛に、隣人との愛に生きるために、私共は赦す者へと導かれているのです。
7.赦しは神の御前で
ここで「赦す」ということについて、少し考えましょう。これは相手の間違い、或いは理不尽な言葉や行いを不問にするということではありません。間違いや理不尽な言動は糺されなければなりません。それは当たり前のことです。しかし、ここでよく弁えておかなければならないことは、私共は人にされたことは覚えているけれど、自分がしたことについてはほとんど分かっていないということです。傷つけられたことはよく覚えているけれど、自分が相手を傷つけたことについては、覚えていないどころか、気付いてもいない。「売り言葉に買い言葉」という言葉があるように、一方の人だけが暴言を吐くということではないことが多いのです。しかし、それをすべて知っておられるのは、神様だけです。ですから、この「赦す」ということは、被害者である私が加害者であるあなたを「赦してやる」というのとは、少し違うのではないかと思います。被害者と思っている自分が、加害者でもあることは十分にあり得ます。この人とは被害者だけれども、あの人には加害者ということもありましょう。ここで私共が良く弁えておかなければならないことは、この「赦す」ということは、主の御前で為されることだということです。神様の御前に立てば、私はただの罪人に過ぎません。その私が「神様の御前で赦す」ということは、神様に「あの人を赦してください」と祈るということになるのではないでしょうか。私と私が腹を立てている人が、共に神様の御前に立つ。そして、互いに自らの罪を認めて、神様と相手に赦しを願う。もし、それが出来るなら、ここに本当の和解が生まれます。しかし、そういうことは、そうそう起きるものではありません。でも、たとえそういうことにならないとしても、自分は神様の御前に立って自らの罪の赦しを求め、そして相手のために神様の赦しを願い、祈る。これが、私共に与えられている「赦しの道」とでも言うべきものなのではないでしょうか。神様を抜きにしたところで、赦しはありません。赦しは、私が赦されたところでしか起きません。それは、神様の御前、イエス様の御前という場です。
8.我らの罪
最後に、この祈りもまた「我らの罪」の赦しを求める祈りであることを確認して終わります。この祈りを捧げる者は、私の罪が赦されればそれで良いというところに生きることは出来ません。「我らの罪」が問題だからです。罪には、単独で犯す罪もありますが、共同で犯す罪もあります。戦争のような「大きな罪」は、共同の罪の典型です。飢餓、貧困などもそうです。その「大きな罪」の責任は、時の政治の責任者、指導者に負わせればそれで済むということではありません。この「我らの罪」は、神の国が完成していない、この世界の現実です。御心が天になるごとく地になっていない、この世界の現実です。神の国が完成すれば、「私の罪」も「大きな罪」もなくなりましょう。しかし、この地上にあっては、なくなることはありません。
今、ウクライナで戦争が続いています。ロシアが侵攻した、ロシアが悪い。ウクライナは被害者だ。政治的には、そうも言えるでしょう。けれど、神様の御前に立てば、どちらも大きな罪を犯していると言わざるを得ません。どちらの国の人も、多くが命を落とし、怪我を負っている。その一人一人に家族がいます。この戦争でどれ程の嘆きが、怒りが、憎しみが、新たに生まれたことでしょう。遠い国の話です。しかし、彼らもまた「主の祈り」における「我ら」の中に含まれています。私共は、彼らの赦しのためにも、執り成しの祈りを捧げていかなければなりません。そして、今は無理でも、やがて両者の間に和解の時が来ることを信じて祈ります。何故なら、イエス様が再び来られるからです。御国が完成するからです。それまで、私共はこの祈りを祈り続けます。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は私共に「主の祈り」を与えてくださり、祈ることを教えてくださいました。私共は自分のことしか考えることの出来ない、まことに愚かで身勝手な者です。しかし、あなた様はそれでも私共を愛してくださり、イエス様を与えてくださり、一切の罪を赦し、あなた様の子として、あなた様との親しい交わりの中に生きるようにと、私共を招いてくださいました。この恵みの中に私共が生ききることが出来るよう、どうぞ私共の唇に祈りを備え続けてください。自分の思いを超えて、あなた様の御前にへりくだり、互いに赦し合い、御心に適う交わりを形作っていくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きの中、生かしてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年7月9日]