1.はじめに
「主の祈り」から御言葉を受けています。8回目です。今日は最後の祈り、「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」です。この祈りにおいて、私共がはっきりと知らされることは、「試み」はあるということです。信仰の歩みにおいて、全く試みに遭わずに済む人など一人もいません。誰もが、その信仰の歩みにおいて試みに遭います。勿論、試みに遭いたい人などいません。誰だって出来れば遭いたくありません。しかし、必ず遭います。その時、私共が「今、自分は試みに遭っている」ということが自覚出来るならば、私共はその試みから逃れ、これを退けることが出来るでしょう。しかし、自分が試みに遭っていることが分からなければ、それから逃れることは難しいでしょう。ここで、私共が出遭う「試み」というものについて、まず幾つかのことを確認しておきたいと思います。
2.試みとは
この「試み」という言葉は「誘惑」とも訳される言葉です。「試み」も「誘惑」もギリシャ語では同じです。文脈で訳し換えているだけです。「誘惑」と言う方が、具体的なイメージが湧いてくるでしょう。皆さんはどんな誘惑に遭ったことがあるでしょうか。
先日、刑務所の教誨師の奉仕をしている時、この「主の祈り」の話をしました。「あなたはどんな誘惑に遭いましたか。」と尋ねますと、とっても具体的なものが挙げられました。酒、お金、薬物、Sex、といった具合です。そして、「あなたは誘惑に勝てましたか。」と尋ねると、答えは「いいえ」でした。これはとても分かりやすいです。誘惑に勝っていたなら、刑務所に入ることはなかったからです。この具体的な誘惑と戦うことが、彼らが出所してからの日々の戦いとなります。そのために祈ることを教え、誘惑から逃れる方法を教えたり、一緒に考えたりしています。しかし、このような具体的な分かりやすい誘惑だけが、私共が出遭う誘惑ではありません。
この誘惑の肝は、私共を神様から離れさせる、神様なしでやっていけると思わせる、神様の言葉、神様の戒めを破ってでもそれを手に入れようとさせる、というところにあります。先ほど創世記の3章の始めの所をお読みしました。アダムとエバが蛇にそそのかされて、神様が食べてはいけないと言われた「善悪の知識の木」の実を食べてしまったということが記されております。神様に食べてはいけないと言われた木は、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように」見えたので、エバはその木の実を食べてしまいました。そして、アダムも食べました。これが人間に罪が入った時の出来事であると聖書は告げています。この木の実がいかにもまずそうだったら、とんでもなく嫌な臭いを発していたら、彼らは食べなかったかもしれません。しかし、いかにもおいしそうだった。それで食べてしまったわけです。誘惑とはそういうものです。自分にとって好ましい、得になる、今より豊かになる。そう思ってやってしまうわけです。どうして、神様に禁じられていた木の実を食べたことが、それほどまでに重大な出来事だったのでしょうか。理由は二つあります。
第一に、神様の戒めを破ることだったからです。それは神様の愛に対する裏切りでした。神様を愛し、神様に従うよりも、おいしそうな木の実を食べることを選んでしまった。その結果、神様との交わりは崩れ、神様との親しい関係は破壊されてしまいました。そして、この交わりを回復するためには、イエス様が来られて、私共に代わって十字架にお架かりにならなければなりませんでした。
第二に、この木は「善悪の知識の木」でした。この木の実を食べると、「神のように」善悪を知る者となる。これが誘惑でした。神様のようになれば、人間は神様に善悪の判断を仰がなくても良い。善悪を自分で決めるようになるわけです。この「神のようになる」ことこそ、神様なしで生きる者になるということです。これがこの誘惑の本質にあるものです。その結果、人間は神様の御心に従って善悪を判断するのではなく、自分勝手に、もっとはっきり言えば自分が得することを善とし、損することを悪とする者になってしまいました。これが、私共が生きている罪の現実です。
3.試みに遭わせる者
アダムとエバが罪を犯した時、蛇が出て来ました。これは実際の蛇と考える必要はありません。アダムとエバを罪へと誘惑し、そそのかした者です。「主の祈り」では「悪より救い出したまえ」と祈りますが、マタイによる福音書では「悪い者から救ってください」と訳されています。この「悪い者」とは、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べてしまった時の蛇、或いは先ほどお読みしました、イエス様が荒れ野で誘惑に遭われた時の悪魔がそれに当たります。この「悪い者」は、「わたしは悪い者です。」と言って近づいてくるわけではありませんから、簡単に見分けることが出来るわけではありません。それにこの「悪い者」は、具体的な人間である場合もあるでしょうけれど、その時代の空気、価値観、考え方といったものによって、私共が知らず知らずのうちに、この悪い者の影響を受けているということがあるわけです。これが本当に厄介です。私共はその時代の空気といいますか、当たり前だと思っていることから自由になることは中々出来ません。知らず知らずのうちに、強い影響を受けているものです。そして、それは神なき世界の常識として私共の心に入ってきますけれど、この根本には「神様なしで考え、神様なしで生きていく」ということがあるわけです。
十戒の第一の戒めにおいて、「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。」と教えられています。これは、神様以外のものを神様のように頼って生きてはならない。神様の言葉に反して、自分の欲に引きずられてはならない。神様よりも大切なものがあるかのように生きてはならない、ということです。しかし、私共が耳にし、目にしている情報の多くは、経済こそが最も大切なことだと言います。経済が大切じゃないと言うのではありません。しかし、まるで経済問題がすべてであるかのように、これさえ上手く行けば幸いになれるという錯覚を私共に与え続けています。本当に大切なことは何なのか、そのことを見せない、あるいは巧妙に気付かせないようにしているかのようです。また、「命」と言えば、肉体の命しか意味しません。死んでしまえば、すべてが終わり。それが常識です。しかし、本当にそうなのでしょうか。
私共はイエス様によって救われました。一切の罪を赦していただき、神の子としていただき、永遠の命に生きる者にしていただきました。この恵みの中に生き切るのが、私共に与えられた信仰の歩みです。しかし、神様なんているの? 永遠の命って何? 罪って何? 自分がやりたいようにやって生きていけば良いんじゃない? 祈ったって、どうなるの? 大事なのはお金でしょ、そして自分の力でしょ。そんな囁きが絶えず耳元でささやかれている、そのような世界に私共は生きています。神様と共に、神様の御言葉に従い、神様の御国に向かって生きていくということが、全く意味のないことであることであるかのような空気があります。その意味では、私共は悪しき者の誘惑のただ中に生きています。勝ち組・負け組などという言葉もそうです。誘惑は、私共が困難な目に遭った時、病気になった時、ひどい目に遭った時だけとは限りません。勿論、それらは私共の信仰を動揺させる大変な時ではありますけれど、私共はもっと日常的に、悟られないように静かに、そして確実に信仰を蝕むような誘惑にさらされています。ですから、この祈りは毎日祈られなければなりません。私共は誘惑にさらされている。悪しき者から救い出されなければならない。そのことをしっかり弁えて、神様に救いを求め続けなければなりません。神様に向かって叫ぶように、「救ってください」と祈らなければなりません。何故なら、悪しき者は私共よりも力があり、知恵があり、私共をそそのかすことなんて赤子の手をひねるようなものだからです。
私共は救われていないから、この祈りを祈らなければならないのではありません。私共は悪しき者から救われたからこそ、この恵みの中に留まり続けるために祈ります。救われたら、もう罪と戦う必要がなくなるわけではありません。御国に入るまで、この戦いは続きます。ですから、私共は何よりも謙遜にならなければなりません。私共は誘惑に弱い。これを退けることが出来るほど、私共は信仰が強いわけではないし、知恵があるわけでもない。愛も、勇気も、力もありません。イエス様はそのことをよく御存知でした。ですから、この祈りを私共に教えてくださいました。私共は、誘惑のただ中で、神様に助けを求め続けます。そうでなければ、私共はイエス様の救いの御手から、自ら這い出していってしまうような者だからです。イエス様も、神様も、私共を救いの御手の中から落とそうなどとは決してされません。しかし、悪しき者の誘惑に乗ってしまうと、私共は自分から神様の救いの御手の中から抜け出そうとします。しかも、自分は良いこと、正しいことをしているつもりでします。まことに愚かなのです。
4.イエス様の遭った誘惑
イエス様は、誘惑に対して私共がどれほど弱いかを知っておられるので、この祈りを与えてくださいました。イエス様は誘惑に負けて、悪しき者に心を捕らえられてしまった人たちにたくさん出会ったからです。例えば、イエス様を十字架に架けた人たちです。聖書はイエス様がピラトに引き渡されたのは「ねたみのため」であったと記しています(マタイによる福音書27章18節、マルコによる福音書15章10節)。当時のユダヤ社会の指導者たち、つまり祭司長たちは「ねたみ」という悪しき誘惑に心を捕らえられて、イエス様を十字架に架けてしまいました。イエス様は、人間が「自分の社会的立場」や「自分の名誉」や「自分の正しさ」を守るために、どんなに誘惑に弱いかということを、御自分が十字架に架けられることによってはっきり示されました。
それだけではありません。イエス様は救い主としての公の生涯を歩み始めるに当たって、荒野において悪魔から三つの誘惑を受けられました。マタイによる福音書4章では、最初に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑されました。イエス様は40日間断食をした後で空腹でしたので、厳しい誘惑でした。二番目には、イエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。天使が支えてくれるだろう。」と言いました。そして三番目に、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったのです。皆さんも良く御存知の話です。今、この三つの誘惑について、丁寧にお話しする時間はありません。ただ、これらの誘惑は、私共が出遭う誘惑と重なるものだということです。例えば、パンの問題、日々の生活の問題は、私共にとっていつでも重大です。そして、神様が養ってくださるという信仰に対立して、自分が稼いで食っているという思いに囚われやすいのが私共です。この問題については「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」の所でも学びました。また、二番目の誘惑は、神様の言葉に対する信頼を失わせようとするものです。「神様が本当に生きて働いているなら、あなたを愛しているというのなら、どうしてそんな目に遭わなければならないのだ。」そんな風に、悪しき者は私共にささやきます。この誘惑はとても強いものです。そして、三番目はこの世の富、この世の栄華の誘惑です。目に見える豊かさこそ価値があり、これを手に入れることこそ幸いなのだという誘惑です。しかし、イエス様はこの時、御言葉によって、神様の御心に従うこと、神様との交わりを第一にすること、ここにしっかりと立たれ、すべての誘惑を退けられました。
このイエス様が悪魔の試みに遭われた出来事は、一つの難しい問題を提起します。それは1節に「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」と記されているからです。この“霊”とは聖霊のことです。つまり、イエス様は神様によって導かれて悪魔の試みに遭われたということです。これは、難解な問題を私共に突きつけます。それは、試みに遭わせるのは結局の所、神様なのかという問題です。旧約ではヨブ記がこの問題を正面から取り上げています。これは、議論としては難解極まりないものです。しかし、私共の信仰の歩みにおいては、あまり意味がない議論ではないかと私は思っています。と言いますのは、イエス様がここで戦われたのは「悪魔の試み」に対してでした。イエス様は神様と戦ったのではありません。そして、私共が戦うのもまた、悪しき者の誘惑に対してです。それに、イエス様がこの荒野の試みに遭われたのは、私共のためでした。この荒野の試みを経て、イエス様の公の生涯は十字架への道であることが確定しました。そして、イエス様が受けた最後にして最大の試みは、十字架の上においてでした。この荒野の試みの時と同じように、悪魔は群衆たちの口を通して、「神の子なら、十字架から降りて来い。」と誘惑しました。この誘惑は激しく、厳しいものでした。しかし、イエス様が十字架から降りることはありませんでした。イエス様はすべての誘惑を退けられました。そのお方が、私共にこの祈りを教えてくださったのです。
5.イエス様に戦っていただく
イエス様が私共にこの祈りを教えられたのは、私共が捧げるこの祈りに応えて、イエス様が私共に代わって、私共のために、私共と共に戦ってくださる。その御意思を、私共に伝えられたということです。私共は、一人で誘惑と戦うのではありません。この祈りを祈ることによって、私共の誘惑との戦いは、イエス様と共なる戦いとなります。イエス様はこの祈りを私共に教えてくださることによって、「さあ、わたしと共に戦おう。」そう、招いてくださったのです。私共は、このイエス様の招きに応えて、この祈りを祈ることによって、イエス様と共なる歩みを為していきます。その歩みは、罪との戦い、誘惑との戦いという歩みです。でも、恐れることはありません。すべての誘惑を退けられたイエス様が共に戦ってくださいますから、私共は負けません。私共はこの戦いの中で御言葉を与えられるでしょう。また、神様の驚くべき出来事にも遭遇するでしょう。そして、神様が生きて働き、私共を御国へと導き続けてくださっていることを知ることになります。試みの時は、証しが生まれる時でもあります。その意味では、つまり私共の信仰者としての足腰が鍛えられるという意味では、神様の御手の中で私共は試みに遭うのかもしれません。しかし、それはずっと後から、或いは御国において知らされることです。この地上にあっては、私共は、悪しき者の誘惑に対して、この祈りによってイエス様と共に戦っていくしかありません。この戦いは、忍耐を求められるでしょう。何故なら、悪魔は私共が実に短気であることを知っていて、長期戦に持ち込めば勝てると思っているからです。私共は心して、忍耐を持って戦っていかなければなりません。
6.実践的な知恵① 自分は出来ると思っているところで
誘惑との戦いにおける、具体的・実践的な知恵を二つ申し上げて終わります。一つは、悪しき者の誘惑は、私共が出来ると思っているところ、私共が自信を持っているところを狙ってくると弁えておくということです。先ほど、イエス様の荒野の誘惑における「石がパンになるように命じたらどうだ。」という悪魔の誘惑は、イエス様にその能力があるから、その力があるから誘惑になりました。私共には石をパンにすることは出来ませんので、同じことは誘惑にはなりません。そのように、悪魔は私共の能力がある所、出来ると思っているところ、自信があるところに誘惑を仕掛けてきます。自分に自信がありますから、神様の助けを借りなくても自分だけで出来ると思い込ませることはとても簡単だからです。そして、自分を誇るという道へと知らず知らずのうちに誘導されていきます。実に悪魔は賢い。しかし、イエス様はもっと賢い。ですから、イエス様は悪魔の先手を打って、この祈りを私共に教えてくださいました。私共はこの祈りと共にあるならば、大丈夫です。
私共が出来ない、自信がない、と思っているところでは、私共は神様の助けと導きを願い求め続けますから、大抵は大丈夫です。もっとも、自分が弱いところ、自信がないことをやるときにも、祈ることを止めれば、悪魔はこれも利用します。「どうして、こんな自分が出来ないことを神様はやらせるのか。神様は少しも助けてくれない。」そんなつぶやきが生まれれば、悪魔はきっとほくそ笑むことでしょう。この神様への不平や不満を少しずつ大きくしていけば良いだけですから、あとは簡単です。
7.実践的な知恵② 誘惑からは逃げる、一人で戦わない
もう一つ。自分が誘惑に遭っているということが分かったならば、具体的に最初にやらなければならないことは、逃げることです。戦うことではありません。悪魔と戦うのは容易なことではありません。とにかく逃げる。その場から離れる。それが正しい対処法です。これは、刑務所で私がいつも言っていることです。薬物やアルコールが誘惑なら、それを目にしないところに身を置くということです。そして、刑務所に入るきっかけとなった人との関係を断つということです。元の仲間の所に戻れば、すぐに誘惑に負けてしまいます。
しかし、どうしても逃げられない時があります。嫁姑の厳しい関係などに代表される人間関係などがそれに当たるでしょう。それも、逃げられるのなら逃げたら良いです。逃げることは恥ではありません。でもどうしても逃げられない時、そのような場合は、一人で戦わないことです。戦うといっても、これは霊的な戦いであって、嫁姑の具体的なバトルで味方してくれる人を見つけるという意味ではありません。一緒に戦ってくれる人、つまり共に祈ってくれる人を見つけることです。一人ではないということがとても大切です。この祈りが「我ら」の祈りであることを思い起こしましょう。私共は、自分が試みに遭わなければ、それで良いのではありません。試みに遭っている友がいるならば、その人と一緒に祈りましょう。それが、どれほどの慰めと力になることか。そして、共に御言葉に聞きつつ、神様からの知恵も求めて、先立ちたもうイエス様を信頼して歩んで行くしかありません。これも忍耐が必要です。しかし、それも必ず与えられます。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は私共に、「悪より救われることを求める祈り」を教えてくださいました。私共の周りは、悪しき力に満ちています。私共は、困ったことが起きればすぐにあなた様の愛と御力を疑うような、まことに愚かで、弱く、不信仰な者です。ですから、どうか私共を悪魔の誘惑から救ってください。そのような状況に陥ることがないように、どうか私共を誘惑に遭わせないでください。そして、出会ってしまった時には、イエス様が私共と共に戦ってくださり、信仰と愛と知恵と勇気を与えてくださいますように。どうかあなた様との交わりの中に歩み続けさせてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年7月16日]