1.はじめに
「主の祈り」から御言葉を受けて来ましたが、今日で終わります。今日は最後の「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。アーメン」です。これは「主の祈り」を終えるに当たって、神様を賛美・頌栄しているところです。しかし、ローマ・カトリック教会では、「主の祈り」の中にこの部分はありません。確かに、イエス様が「主の祈り」を弟子たちに教えられた聖書の箇所、マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章には、この部分はありません。ですから、この部分はキリストの教会が加えたものです。しかし、教会の歴史の中でこの部分が加えられたことはとても自然なことだった、と私は思っています。神様に向かって「主の祈り」を捧げる時、私共は神様の御前に立ちます。神様の御顔を仰ぎ、ただ「主の養いに生かされている者」として、ただ「救いを求める者」として、「赦されなければならない者」として立ちます。そして、「主の祈り」を祈り終えるに当たって、神様を誉め讃え、賛美する。それは、まことに自然な心の動きではないかと思います。この神様を賛美する心をもって、私共は「主の祈り」を祈っているからです。この神様を賛美する心に、私共の祈りの立ち所が示されていると言っても良いと思います。ローマ・カトリック教会も、この部分を拒否しているわけではありません。ここ20年ほど前からローマ・カトリック教会と聖公会は、共通の翻訳した「主の祈り」を用いていますが、聖公会はこの部分がありますので、一緒に祈るときにはこの部分も加えています。それに、主の日の礼拝の中では、会衆が「主の祈り」を祈った後、司祭が祈り、それに対して会衆がこの部分の言葉で応えることになっています。ですから、「主の祈り」の中にこの部分が入っていないと言っても、直後にこれを唱えるわけですから、実際には変わらないと言って良いでしょう。福音主義教会の礼拝では、司祭と会衆の応答という形の祈りがなくなりましたから、この神様を賛美する部分が「主の祈り」に繋がったとも考えられます。しかし何よりも、「主の祈り」が主の日の礼拝の中だけで祈られるのではなくて、まさに日常生活の中で祈られてきた。そこで、この「主の祈り」における神様を賛美して終わるという祈りのあり方、それが信仰者の心と響き合い、キリスト者の祈りの心を整え、形作ってきたということです。
2.賛美のない祈りで良いの?
「主の祈り」において、この最後の所になるまで神様への賛美が言葉として表れてきてはいません。しかし、「『主の祈り』には賛美がない」と言えば、あまりに表面的な「主の祈り」の理解だと言うしかありません。例えば、最初の呼びかけである「天にまします我らの父よ」にしても、神様に対して「天にまします」「天におられる」と言っているわけです。これは単に神様がおられる場所が天であるというだけではなくて、神様に対して「あなた様はすべての地の上に広がる天におられる方です。すべてを造り、すべてを支配しておられるお方です。」と賛美しているわけです。また、最初の祈りである「御名を崇めさせたまえ」にしても、御名とは神様御自身ということですが、「神様、あなた様が神様として崇められますように。ただ独りの神様として礼拝されますように。」ということですから、「あなた様こそ神様として賛美されるべきお方です。」という信仰をもってこの祈りを祈っているわけです。次の「御国を、来たらせ給え」も、「あなた様の御国、神の国・天の国は既にイエス様と共に来ました。しかし、まだ完成されていません。完成されるのは、イエス様が再び来られる時です。その時、すべての者の唇にあなた様が賛美されることでしょう。その日が、早く来ますように。」という祈りです。これも神様を賛美する心をもって祈られるものです。「すべての者の唇にあなた様が賛美されますように。その日が早く来ますように。」と祈りながら、「私は賛美しませんけれど。」そんなことはあり得ません。このように「主の祈り」は、神様を賛美する祈りの心をもって捧げられるものです。ですから、この最後の所に来て初めて神様を賛美するわけではありません。しかし、「主の祈り」を終えるに当たって、はっきりと神様を賛美する。そのことによって、神様を賛美する心、神様の御前に立つ私共の心をはっきりさせて、その心をもって日々の歩みへ歩み出していく。それが「主の祈り」なのです。
3.国と力と栄えは神様のもの
さて、その賛美は「国と力と栄えはあなたのものです」というものです。「国と力と栄え」は私のものではありません。神様、あなたのものです、と告げます。この心を表している代表的な詩編の一つが、先ほどお読みしました115編です。1節で詩人はこう歌います。「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように」詩人は「わたしたちではなく」「わたしたちではなく」と繰り返します。私共は、自分の支配(つまり自分の国)、自分の力、自分の栄光を求める者でした。自分は大したもんだと思いたいし、自分の力を誇りたいし、自分が輝くことを求める者でした。そして、それを得るために祈る。それが、イエス様の救いにあずかる前の私共の祈りでした。しかし、イエス様に救われて、私共は変わりました。祈りも変わりました。この世界を支配されているのは神様であり、すべてを生かし、導いておられるのは神様であることを知ったからです。私共は、ただこの神様の御手の中で生かされていることを知ったからです。誉め讃えられなければならないのは、私ではなく、ただ独りの神様であることを知ったからです。
先週、「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」の祈りを学んだ時に、イエス様が荒野で悪魔から三つの誘惑を受けられたことを見ました。あの時イエス様が退けられた誘惑は、私共がこの世の「国と力と栄え」を手に入れたいと願って、そそのかされてしまう誘惑です。そして、イエス様は私共のために、私共に代わって誘惑に遭い、これを退けられました。この地上の歩みにおいて、私共がこれらの誘惑から全く自由になることはありません。しかし、「国と力と栄えはあなたのものです」と祈ることによって、「国と力と栄え」を自分のものにしようとすることが誘惑であり、これと戦わなければならないことを覚えることになります。それが「主の祈り」から始まる私共の信仰の歩みです。
4.神の栄光はどこに:十字架に
今、世界では次の時代の覇権をどちらの国が握ることになるのかということで、激しい対立が起きています。日本もそれらの対立と無関係ではいられません。ウクライナでの戦争が始まって以来、日本を含む北東アジアでの緊張も高くなっています。多くの国々が、自分の国或いは自分の国の陣営が、「国と力と栄え」を手に入れることを求めています。日本も例外ではありません。そのような中で、私共は「主の祈り」を祈る度毎に、この世界の主は天におられる神様であることを心に刻みます。「国と力と栄え」は、ある特定の国が握るのでない。この世界を支配しているのは、軍事力、経済力、政治力を持つ巨大な国家ではありません。確かに、国際政治の舞台ではそのように見えます。しかし、それは信仰なき眼差しで世界を見たときの現実です。私共は、そのような現実のただ中にあって、「国と力と栄え」はただ神様のものであることを信じます。そして、御国が来るように、また御心が天の如く地にもなるようにと祈ります。
イエス様と出会うまで、私共は目に見える力や富や名声を手に入れることによって自分は栄光に輝くと思っておりました。しかし、イエス様が私共に示してくださった栄光の姿はどうだったでしょう。イエス様の栄光の姿。それは十字架でした。目に見える所においては、最も栄光とは正反対の姿です。しかし、ここに神様の栄光が現れました。神様の愛が現れたからです。それは、イエス様が誕生された時からそうでした。先ほどルカによる福音書が記す、イエス様がお生まれになった時の記事をお読みしました。羊飼いたちに天使が現れ、天使は羊飼いたちにこう告げました。10~11節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」クリスマスのシーズンになると必ず読まれる、皆さんも良く知っている箇所です。救い主であるイエス様が生まれた時、その「しるし」は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」ということでした。イエス様はこの世の王様の家で、多くの者にかしずかれ、豪華な産着に包まれ、金のゆりかごに寝かされたのではありません。布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。それが救い主の「しるし」でした。そして、そこに神様の栄光が現れました。神様は罪に満ちた者を赦すために、愛する独り子をイエス様としてこの世に遣わされ、十字架にお架けになりました。ここに神様の栄光は現れました。いと高き所から、最も低い所へ、最も小さな者として来られたイエス様。ここに栄光が現れました。私共の栄光は、このイエス様が生まれた馬小屋、イエス様が死なれた十字架と共にあります。ローマというこの世の国、これは圧倒的な軍事力と経済力を持っていました。そしてエルサレム神殿によって権威付けられたユダヤ教の指導者たち。この世の「国と力と栄え」によって、イエス様は十字架に架けられました。しかし、神様の栄光が現れたのは、イエス様を十字架に架けた者たちの上にではなく、十字架に架けられたイエス様の上に現れました。
5.神の栄光を表す者として
このことは、私共の歩みが御国を目指しての歩みである以上、私共はこの世の「国と力と栄え」を求めて歩む者ではないということを意味します。私共はイエス様に倣って、イエス様の御足の後に続いて歩んで行きます。しかし、これはあまりにも厳しい道を私共に求めることになるのではないでしょうか。また、そのような歩みを私共は為していけるでしょうか。ここで私共は、すべての人がこのようにすべきだというマニュアルを作ろうとしてはなりません。それは律法学者たちがしていたことです。私共はみんな置かれている状況が違いますし、与えられている賜物も違います。それぞれが全く違う状況の中で、全く違うあり方で、イエス様の御足の跡に従って行きます。それは、神様の召命に応えるということによって生まれる歩みです。これは「私はこれがしたいので、これをする」というものとは違います。神様がこれを為すようにと、私を召してくださった。だから、これをするという歩みです。すべてのキリスト者が牧師や伝道者にならなければならないということではないように、それぞれがただ「神様の栄光を現す者」として、全く違った道を歩んで行きます。神様は一人一人に、全く違った道を備えてくださり、そこに私共を召してくださいます。神様の召しに従って歩んで行くのですから、そこで他の人と比べることは全く意味がありません。神様と私の関係の中で、私はこの道を歩んでいきます、と神様の召しに応えていくだけです。ただはっきりしていることは、その道はこの世の「国と力と栄え」を求めていく道ではないということです。
6.今もそして永遠に
私共は「国と力と栄えとは、限りなく神様のものでありますように」と祈ります。この「限りなく」というのは、ずっと、永遠に、という意味です。英語では「Now and forever.」となります。直訳すれば「今もそして永遠に」です。既に神の国は来ており、私共は既にその中に生きていますけれど、まだ神の国は完成していません。ですから、「国と力と栄え」がまるで人間の組織や国家や個人のものであるかのように見える現実があります。しかし、それは暫定的なものであり、部分的なものに過ぎません。パウロは「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからからです。」(コリントの信徒への手紙二4章18節b)と言いました。50年ほど前ですが、プロ野球選手の長島選手が引退する時、そのセレモニーで彼は、「私は今日ここに引退いたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です。」と語りました。若い方は知らないかもしれませんけれど、日本中がこの言葉に泣きました。しかし、巨人軍の栄光は長くは続きませんでした。当たり前と言えば当たり前のことです。目に見える栄光は必ず過ぎ去ります。ローマ帝国も大英帝国も秦王朝も永遠ではありませんでした。アメリカ・ロシア・中国の繁栄も永遠ではありません。まして、私共の持つ繁栄などほんの一時のことです。私共の地上の生涯もほんの一時に過ぎません。ただ主なる神様だけが、すべての地の上に広がる天において、今もそして永遠に「国と力と栄え」を待ち続けられます。私共は「主の祈り」を祈る度毎に、このことをしっかり心に刻みます。賛美されるべき方は、神様以外ありません。神様を賛美する中で、私共は、神様の永遠の御支配の中で今という時を生かされている者であることを知ります。すべては過ぎ去っていきます。私共の肉体の命も過ぎ去っていきます。しかし、決して過ぎ去ることのない、永遠に生きたもう神様の御手の中で、私共は復活の命・永遠の命をいただいています。何という幸いかと思うのです。
7.アーメン
この祈りの最後に、私共は「アーメン」と唱えます。「アーメン」とは「その通りです」という意味だと私はよく説明します。しかし、それだけではありません。「同意します」とか「本当です」「真理です」とも訳せる言葉です。この「主の祈り」において、私共はイエス様によって与えられた救いの恵みの中に生かされている、神様との親しい交わりの中に置かれている、神様だけが誉め讃えられるべき方である、この方の愛を私共は受けている、イエス様が再び来られて神様の国が完成する、そこに向かって私共は今という時を生きている、そのような真理に基づいて祈ります。そして、祈りの最後に「これは本当のことだ。真理だ。」そう唱える。
祈りの最後、私共は「アーメン」と唱える。これは驚くべきことでしょう。あまりに慣れてしまって、私共はこの「アーメン」と唱える驚くべき事態に気付いていないところがあります。イエス様の救いに与る前の私共の祈り、自分がこうしたい、こうなったら良いのに、といった自分の願いや希望を神様に告げる祈りの最後は、きっと「宜しくお願いします」ということになりましょう。しかし、「アーメン」にそのような意味はありません。この「アーメン」を最後に明確に唱えるのは、私共の祈りが、イエス様によって与えられた救いの真理に基づいた祈りだからです。ですから、「アーメン」「それは真実です。真理です。本当です。」と叫ぶように唱えるのです。私も妻も「アーメン」の声が少し大きいと言われます。これでも抑えているのですけれど、「アーメン」は、口の中でモゴモゴ唱えるものではなくて、本来、叫ぶようにして唱えるものなのだと思っているからです。
8.自由な祈り
この「主の祈り」によって、私共は全く新しい祈りの世界に導かれました。イエス様の救いの御業に基づく真理と共にある祈りの世界です。それは「私の願望から生まれた祈りの世界」とは、全く別の祈りの世界です。私の中から生まれた祈りの世界ではなく、真理であるイエス様によって与えられ、イエス様によって開かれた新しい祈りの世界です。そこは、私共の願望が生まれる前に、神様によって与えられた命が、恵みと真理とが息づいている世界です。神様に対して「父よ」と呼び、一切の罪が赦され、すべてが神様との愛の交わりの中で与えられていることを知らされた世界です。私共の命がイエス様の復活の命と結ばれており、肉体の命の終わりが命の終わりではないことを知らされている世界です。その新しい世界の中で、自由に、私共は神様に対して語りかけます。この祈りの世界には、まことの自由があります。真理によって与えられた自由です。このように祈らなければいけないとか、祈る順番はこうだとか、言葉遣いはこうでなければいけないとか、一切ありません。勿論、私共の祈りが整えられていく上で、そのような学びも意味があることです。しかし、本当の所は、そんなことはつまらないことです。神様との交わりにおける全き自由がここにはあります。でも、この神様への自由な語りかけは、神様が私共に語りかけられたことに応えて語られます。このことがとても重要です。そして、その自由な神様への語りかけの手引き、案内役として、「主の祈り」は決定的な役割を果たします。ですから、「主の祈り」は勿論そのまま祈って良いのですけれど、その一つから導かれて、或いは一つのフレーズに導かれて、新しい祈りの世界における神様への自由な語りかけへと私共は導かれていきます。そして、最後に「これは本当だ」「真理だ」と叫ぶように「アーメン」と唱える。しかも、この「アーメン」は、私だけが唱えるのではありません。この「主の祈り」によって導かれて祈る者は、心を一つにして「アーメン」と唱えます。それは、私だけに与えられている真理、私だけに与えられている恵みによる祈りではないからです。イエス様の救いに与ったすべての人に与えられている恵みと真理に基づいて祈るからです。だから、他の人が祈る祈りに対しても、私共は「アーメン」と唱えることが出来ます。実に、私共はこの「アーメン」によって心を一つに結び合わされた者たちの群れの中に生かされています。そして、それがキリストの教会です。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
私共に主の祈りを与えてくださり、新しい祈りの世界へと招いてくださっておりますことを、心から感謝します。私共は「自分の願いとしての祈り」しか知らない者でした。しかし、イエス様の救いに与り、真理を知らされ、共に祈りを合わせて「アーメン」と唱えることの出来る交わりの中に生きる者としていただきました。ありがとうございます。「国と力と栄えは、今もそして永遠に」ただあなた様のものです。どうか、私共が見えるものに心を奪われることなく、見えざるあなた様の恵みと真実に従って歩んで行くことが出来ますように。聖霊なる神様が私共を導いてくださいますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年7月23日]