1.はじめに
8月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。前回はサムエル記上15章から御言葉を受けました。神の民イスラエルの王であったサウルが、アマレク人との戦いにおいて神様の言葉に従わずに、上等なものを滅ぼし尽くさずに残しておいたので、神様によってイスラエル王であることから退けられた場面でした。サムエルはサウル王に対して「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」(サムエル記上15章28節)と宣告しました。神様によってイスラエルの王とされたサウル王に対する神様の選びは、ここで終わりました。そして、今日のサムエル記上16章です。神の民イスラエルの王として、サウル王に代わってダビデが選ばれた場面です。皆さんよく御存知の、大変有名な場面です。イスラエルの王としての神様の選びが、サウル王からダビデに移ったのです。しかし、実際にダビデがイスラエルの王として即位するのは、これから十数年後のことになります。神様の選びが移ったならば、すぐにでも王様が代わると私共は考えがちですけれど、そうではありませんでした。ダビデが実際に王となるのは、サウル王の息子であるヨナタンとサウル王が戦死した後でした。
どうしてすぐに代わらないのか。理由が明確に記されているわけではありませんけれど、もしすぐに代わるとすれば、それは実際の王様であるサウル王側と、新しくダビデを王としようとする人たちとの間に、内戦という事態を招くことになったでしょう。それに、ダビデがイスラエルの王として神様に選ばれて油注がれたこの時、ダビデを王として戴こうする者など一人もおりませんでした。何故なら、彼はまだ一人前の大人にもなっていなかったからです。ダビデがイスラエルの王となるには、もうしばらくの時が必要でした。全イスラエルがダビデを王として迎えようとする状況が整っていく必要がありました。サムエルに油を注がれたダビデが、すぐに王となることはなかった。しかし、それは神様の御心の中で既に定まっていることでした。その御心が出来事として現れたのが、この16章に記されていることです。
2.いつまで嘆くのか
さて、サムエルはサウル王に対して、「イスラエルの王国はあなたから取り上げられる」と宣告したわけですけれど、それはサムエルにとって、とても辛いことでした。このことは、神様からサウル王を退けると示された時、「サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。」(15章11節)ことにも現れています。サウル王に油を注ぎ、イスラエルの王として立てたのはサムエルでした。サムエルはサウル王に期待もしていたでしょう。実際、彼は王としてよく働きました。近隣の国々と戦い、勝利を重ねました。しかし、彼は神様の御言葉に従うという一点が決定的に重要であることを忘れ、ただの王様になってしまったのです。サウル王に対して神様の御心、「イスラエルの王国はあなたから取り上げられる」と告げたサムエルでしたけれど、その嘆きは深いものでした。すぐに癒えるようなものではなかった。サウル王に対する期待は裏切られ、これからイスラエルはどうなっていくのか、サムエルには何も分からなかったからです。それに、サムエルはもう高齢でした。今更、自分がサウル王に代わってイスラエルを統率していくことなど出来るはずもありません。どうしたら良いものか。どうすれば神の民イスラエルは立ち続けていくことが出来るのか。暗澹たる思いがサムエルの心を塞がせていました。
そのサムエルに神様の言葉が告げられます。16章1節「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」神様は、サウルのことで嘆き続けているサムエルを叱咤激励します。いつまで嘆いてるのか、わたしが次の事を始めると告げたのです。私共は自分が深く関わり、一生懸命に尽くしたことが頓挫すれば、意気消沈し、何もやる気が出てこない。そういうことを経験したことがあると思います。サムエルもそんな状態だったのではないでしょうか。そのサムエルに、神様は「いつまで嘆くのか。…わたしは王となるべき者を見いだした。」と告げるのです。この神様の言葉によって、サムエルは再び立ち上がります。新しく事を起こされるのは神様です。サムエルではありません。新しく事を起こされるのは私共ではありません。神様です。神様が新しいことを始められる。サムエルも私共も、この神様の御業に用いられ、仕えていくだけです。私共の希望は、この神様が為される新しいことに信頼するところで与えられます。私共の計画や見通しの中に希望があるのではありません。私共の計画や見通しは崩れるものです。しかし、私共の希望は失われません。神様が新しく事を起こしてくださるからです。
3.サムエルの恐れ
神様がサムエルに、「あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」と告げた時、サムエルは「喜んで行きましょう。」とは答えませんでした。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」(2節)と言います。サムエルはサウル王を恐れていたからです。これは少し考えれば当然のことです。サムエルはサウル王に「主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」と宣告しました。サウル王がこのことを忘れているはずがありません。もし、サムエルが実際に誰かをイスラエルの王として立てて油を注いだということがサウル王の耳に届けば、サウル王が黙っているはずがない。このことは、イエス様がお生まれになった時にヘロデ王が何をしたのかを思い起こせばよく分かるでしょう。サムエルは、自分はサウル王に殺されると考えました。サウル王が黙ってイスラエルの王位をその人に譲るのであれば問題ないのですが、そうはならない。そのことをサムエルはよく分かっていました。サウル王が普通の王様になってしまったことがサムエルには分かっていたからです。
私共は何年かに一度選挙をして、代議士や県知事や市長や議員たちを選びます。そして、選挙に勝った者がその地位に着き、負けた者は退きます。何年、何十年とその地位にあった者でも、選挙に敗れれば退きます。私共にとって、これは当たり前のことです。しかし、これは人類が長い時間をかけてやっとたどり着いた、戦乱を伴わずに権力の移行を行うという政治システムです。これが出来ている国は、現在の世界でもそんなに多くはありません。4分の1から3分の1程度ではないでしょうか。権力を持つということは、軍隊あるいは警察を支配するということでもありますから。権力の移行というものは、本来、中々物騒なものなのです。今から三千年前のイスラエルにおいて、そんなことはまだ出来ませんし、知りません。だから、サムエルはサウル王を恐れたのです。
そこで神様は、サムエルに知恵を授けます。2節「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い」なさいという知恵でした。サムエルは祭司としての務めを担っていましたから、「主にいけにえをささげる」という理由なら、サムエルはイスラエルのどこへでも行くことが出来ます。さすが神様です。サムエルは神様の言う通りにします。しかし、ベツレヘムの町の長老はサムエルを不安げに出迎えて、尋ねます。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」(4節)これは、サムエルとサウル王との間が上手くいっていないということを、既に人々は聞きつけていたのかもしれません。それに、サムエルは通常はベテル、ミツパ、ギルガルを巡回して祭儀や裁きを行っていました。それがわざわざベツレヘムまで来る。しかも、いけにえの雌牛さえも携えて来た。「これはただ事ではない。何があるのか。戦争でも始まるのか。」そんな風にベツレヘムの長老は不安になったのでしょう。サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。」と答えました。
4.人は目によって見るが、主は心によって見る
サムエルはエッサイとその息子たちを会食に招きます。いけにえの雌牛を屠って神様に捧げ、その肉を皆で食べる。これは普通のことでした。このエッサイの息子たちの中に、神様がサウル王の次のイスラエルの王として選んだ者がいるわけです。しかし、誰なのかまだサムエルにも知らされていません。サムエルは、長男エリアブ(意味は「神は父なり」)、次男アビナダブ(意味は「父は寛大」)、三男シャンマ(意味は「彼は聞いた」)と次々に前を通らせます。エッサイの7人の息子を通らせましたが、しかし神様は「これがその者だ。」とは言われません。そして、サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか。」と問います。エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています。」と答えると、サムエルは「彼を連れて来させなさい。」と言い、ダビデを連れて来させます。そして、彼が来ると、主は「立って、彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」とサムエルに告げます。そこで、サムエルはダビデに油を注ぎました。これは、サウル王の次の王にダビデが神様によって選ばれたことのしるしでした。これが、ダビデがサムエルによって油を注がれた経緯です。
この時、神様がサムエルに告げた言葉が7節にあります。「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」とても有名な言葉です。特に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」は有名です。口語訳では「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」と訳されていました。こちらの方がなじみ深い人が多いと思います。この口語訳ですと、人間はその人の外見を見て判断するが、神様はその人の心を見て判断すると神様は言われたということになります。これは確かに分かりやすいのですけれど、幾つかの問いが生まれます。この言葉は、サムエルがエッサイの長男のエリアブを見て、これが神様に選ばれた者に違いないと思った時に神様から告げられた言葉なのですが、しかし、サムエルはただ外見だけを見て、長男のエリアブに対して「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思ったのでしょうか。長い間イスラエルを導いてきたサムエルは、外見に表れたその人の人となりを見抜く力は全く無かったのでしょうか。サムエルがただ背が高いとか、容姿が良いとかそんなことで、イスラエルの王になるのに相応しいと考えた、ということは考えにくいと思います。勿論、外見に表れたその人の人となりを見ようとしても、完全に見極めることなど誰にも出来ない。それは本当でしょう。それに対して、神様はその人の心の奥底まで見通すことがお出来になり、それによって判断される。確かにそのように言うことは出来るでしょう。神様は全知全能のお方なのですから。しかし、皆さん、思い起こしてください。ダビデは、罪を全く犯さないような人だったでしょうか。これはダビデが王になってからのことですけれど、サムエル記下11章に記されているように、彼は自分の家来であるウリヤが戦場に行っている間に、その妻バト・シェバとの間に大変な罪を犯し、子どもまで身籠もらせてしまいました。神様はダビデの心の中にそのような罪があることを見抜けなかったのでしょうか。主がダビデの心を見たのは、この時点での心であって、何十年後のダビデの心までは見られなかったということなのでしょうか。そうすると、神様の全知全能とはその程度のものなのでしょうか。これは難しい問題です。そもそも、「心を見る」というのは、心の何を見るのでしょうか。神様はダビデの心の何を見たのでしょうか。「人は外見を見、神様は心を見る」というのは、何となく分かった気になる言葉ですけれど、その実「よく分からない」ように思います。
新共同訳は工夫してこれを「主は心によって見る」と訳しています。神様は「心を見る」のではなくて「心によって見る」です。この訳し方をするならば、その前も「人は目によって見る」と訳せます。そうすると、「人は目によって見るが、主は心によって見る」となります。この意味は「人は自分の目によって見るけれど、神様は御自分の心によって見る」ということになります。私共は心の中の奥底まで分け入って見られたならば、神様の御前で義とされる者なんて一人もいません。しかし、神様は御自身の恵みの選びの心、神様の救いの御計画の心によって見て、ダビデを選ばれたということになります。それならば、私共が選ばれたことと同じです。このように、「主は心によって見る」とは実に、神様の選びの根拠を選ばれる者の中に見出さない、という福音の恵みを私共に語りかけています。そして、そのようにこの御言葉を聞き取る時、サムエルがこの時行ったベツレヘムの町、そしてこの時に選ばれたダビデ、そしてダビデの父であるエッサイ。これらは、神様の救いの御計画の中において、特別な意味を持つことが分かってきます。
5.ダビデそしてベツレヘム
まずダビデです。彼はこの時、父エッサイがこの場に連れて来る必要がないと思うほどに子どもでした。つまり、まだ一人前の男ではなかったということです。はっきり言えば、エッサイの息子の中で取るに足らない者であったということです。しかし、実はこのことこそがダビデが選ばれた理由の一つなのではないでしょうか。そして、彼の父エッサイはルツ記に記されているように、モアブの女ルツとボアズの間に生まれたオベドの子です。つまり、エッサイはモアブの女ルツの孫です。その子がダビデでした。つまりダビデは、イスラエル以外の女性を曽祖母に持つ者であったということであり、ダビデはイスラエルの民の中で血筋において誇れるような者ではなかったということです。それもまた、ダビデが選ばれた理由の一つなのではないでしょうか。
「主は心によって見る」ではなくて、「主は心を見る」と読むとき、私共はダビデが選ばれた理由を、彼の心の中に見出そうとします。そうすると、イスラエル王として相応しい何かを彼の中に見出そうとするわけです。謙遜であったり、悔い改める心であったり、ゴリアトに立ち向かう勇気であったり、ペリシテと戦う戦略家としての知恵であったり、人々を束ねていく統率力であったり、ダビデの中に良い点はたくさんあります。しかし、それ故にダビデが選ばれたとするならば、それはやっぱり「人は目によって見る」ということになるのではないでしょうか。そして、「主は心によって見る」という福音の調べを聞き逃してしまうことになってしまうでしょう。
次にベツレヘムです。神様に命じられたサムエルが出かけていって、ダビデに油を注いだのはベツレヘムという町でした。この時神様は、エッサイの家の者たちをサムエルのいる所に招くということも出来たかもしれません。勿論、サウル王との関係がありますから、そのような目立ったことはまずかった、あるいは理由も言わずにエッサイの家族をみんなサムエルの所に来させるのには無理があった、という理解も出来ます。しかし、肝心なことはそこではありません。「ベツレヘムにおいて」サムエルはダビデに油を注がなければならなかったのです。それこそが神様の救いの御計画という御心に適ったことだったからです。そのことがはっきりするのは、これから千年後になります。ベツレヘムの町でダビデの家系からイエス様が生まれました。イエス様は「油注がれた者=メシア=キリスト」でした。この出来事のために、ダビデは選ばれ、ベツレヘムにおいて油注がれたのです。「主は心によって見る」という福音が、一筋の救いの御計画によって繋がっていることが、これによって明らかになります。ダビデが油注がれた者となるのはベツレヘムでなければなりませんでした。そして、この町の名はダビデの名と共に明記されなければならなかったのです。
6.主の霊が降るダビデ、悪霊が降るサウル
最後に、油注がれたダビデがどのようになったのかを見てみますと、聖書は「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」(13節)とあります。一方、サウル王については「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」(14節)と聖書は告げます。神様が悪霊を送るのかと思う方もおられるでしょうが、聖書において悪霊は神様に対抗する力を持った存在ではありません。悪霊も神様の御心の中で存在を許されているに過ぎない者です。サウル王は神様にイスラエル王国を取り上げられ、いつ神様によって裁かれるか、不安でたまらなかったのでしょう。不安と恐れがいつもサウル王をさいなむことになったと理解して良いと思います。それが悪霊の業でした。一方ダビデは、そのようなサウル王のために竪琴を奏でて、彼を癒やしました。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」(23節)とあります。詩編はダビデが作ったと長く考えられてきました。本来、詩編にはメロディーが付いていましたので、ダビデが竪琴を奏でつつ主を賛美したのではないでしょうか。それがダビデに「主の霊が激しく降った」ということだったのではないでしょうか。主を賛美することは、聖霊なる神様の御業です。サウル王はダビデの賛美を聞き、神様への信頼を取り戻して、気分が戻ったのかもしれません。ちなみに、ダビデが竪琴を奏でてサウル王を癒やしたのが、音楽療法の始まりだと言われています。
また「王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。」(21節)とあります。「王の武器を持つ者」とは、王の側近ということです。こうしてダビデはサウル王の近くに仕える者となりました。ダビデがイスラエルの王となるための備えの日々が、ここから始まっていきます。短い期間ではありません。しかし、羊飼いがいきなりイスラエルの王にはなれません。備えが必要です。ダビデがイスラエルの王となるには、イスラエルの民みんながダビデを王として戴きたいという機運も必要です。神様はダビデを選び、必要な備えの日々を与え、時が満ちるに及んでイスラエルの王として立てることになります。それまでの間、様々なことが起きます。サウル王に命を狙われて逃げ続けるという日々もありました。しかし、それらがすべて備えの時となっていきます。神様は救いの御計画という御心によって選んだ者に、必要とあれば備えの時を与えてくださり、その御心が完成するまで導き続けてくださいます。ダビデはイスラエルの王となる者として油注がれました。そして、私共も神様の御心によって、神様の子となる者として洗礼に与りました。ですから、安心して歩んでまいりましょう。今、私共は神様が備えられた、救いが完成されるまでの備えの日々を歩んでいるのです。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様はその救いの御心の中で私共を選んでくださいました。私共は自分のことさえよく分からない者ですが、あなた様はすべてを御存知です。その上で私共を選んでくださいました。感謝します。私共がそのあなた様の御心を信頼して、安んじて為すべき務めに励んで、この一週も歩んでいくことが出来ますように、聖霊を豊かに注いでください。私共の唇に、賛美と感謝と祈りを満たしていってください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年8月27日]