1.はじめに
今日は9月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。サムエル記上17章です。ここはダビデとペリシテ人の戦士ゴリアトが一騎打ちをして、ダビデが勝利したという大変有名な場面が記されています。教会学校でダビデについて学ぶ時には、省くことが出来ない場面です。そして、子どもたちが大好きな場面でもあります。少年ダビデが大男の戦士ゴリアトを倒すという痛快な場面です。小さな者が大きな者をやっつけるという点では、五条の橋の上で牛若丸が大きな弁慶をやっつける場面と似ているとも言えます。確かに、痛快です。しかし、小が大をやっつけるという所だけに目を奪われてしまいますと、この出来事が私共に示している一番大切な点を見落としてしまいます。その一番大切な点とは、ダビデは万軍の主の守りを信じ、万軍の主の名によって戦い、勝利したということです。ダビデの勝利は主なる神様の勝利であり、信仰の勝利であるということです。ここが一番大切なところです。
2.ゴリアト
さて、サウル王に率いられたイスラエル軍とペリシテの軍隊がエラの谷という所を挟んで対峙しました(1~3節)。そして、ペリシテ軍の中から一人の戦士、ゴリアトが進み出て来まして、イスラエルの軍勢に向かってこう呼ばわりました。8~9節「一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」これは一騎打ちの挑戦です。もっとも、「自分が討ち取られたなら、ペリシテ人がイスラエルの奴隷になる」というのは、嘘でしょう。そんな約束をペリシテの王がするはずがありません。これは、イスラエルから自分の挑戦を受ける者が出てくるように仕向ける嘘です。ここまで言っても挑戦する者がいないのかとイスラエルを馬鹿にするためでもありました。
このゴリアトについては4節以下に「背丈は六アンマ半(1アンマは約45㎝ですから、290㎝にもなります。とんでもない大男です)、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着(1シェケルは約11.4グラムですので57㎏となります。こんな重い鎧を身に着けても大丈夫なほど筋骨隆々な戦士でした)、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり(これは6.8㎏です)、彼の前には、盾持ちがいた。」とあります。3メートル近い大男で、青銅の兜をかぶり、57㎏もある青銅の鎧を着け、青銅のすね当ても着け、肩に青銅の投げ槍を背負い、槍は鉄の穂先だけで7㎏近くある。しかも、盾を持つ従者までいます。ちなみに、槍の穂先は鉄と記しているのは、イスラエルはまだ鉄を作れなかったからです。イスラエルの武器はこん棒と石です。そこに完璧な武具に身を包んだ大男の戦士がイスラエルの軍勢に挑戦してきたわけです。ゴリアトにしてみれば、「この俺様の挑戦を受ける勇気のある奴など、イスラエル軍にはいないだろう。腰抜け共め。」という思いだったでしょう。実際、この挑戦に応えるイスラエルの兵士は一人もおりませんでした。サウル王としては、ゴリアトにイスラエル軍が馬鹿にされているわけですから、この屈辱を晴らしたい。それでサウル王は「あの男を討ち取る者があれば、大金をやる。しかも、王女とも結婚させてやる。更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与える。」(25節)とまで言いましたけれど、このゴリアトの挑戦を受けて立つ者は現れませんでした。これは一騎打ちですから、負けるということは殺されることを意味します。この大男の戦士ゴリアトに対して、自分は勝てると思える者はイスラエルの中に一人もいなかったということです。
3.ダビデの信仰
そこに、羊の群れの番をしていたダビデが、兄たちに父エッサイからことづけられた品を届け、また兄たちの安否を確かめるためにやって来ました。そして、ダビデはゴリアトの挑発する言葉を聞きます。ダビデはゴリアトの言葉を聞いて、「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」(26節)と腹を立てます。そして、これを聞いた兵士がサウル王にダビデのことを報告します。「王様、あのペリシテの大男の戦士ゴリアトと戦うと言っている者がいます。」そんな感じだったでしょう。サウル王はダビデを召し寄せます。ダビデはサウル王の前に出ても同じことを言います。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕(しもべ)が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(32節)しかし、ダビデを見たサウル王はがっかりしたでしょう。「自分があのペリシテ人と戦う。」と言いだすほどの者ならば、イスラエルの中でも飛び抜けて腕に自信のある戦士だろう。そう思ったはずです。ところが、目の前に現れたのは、力自慢、腕自慢の戦士とはほど遠い、少年と言っても良いほどの、まだ兵士にもなっていない者でした。サウル王は言います。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」(33節)相手にならない。話にならない。そうサウル王は思いました。しかし、ダビデは怯みません。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(34~36節)と告げます。自分は羊飼いだけれども、羊を守るために獅子や熊と戦うこともある。獅子や熊を倒してきた自分からすれば、あんなペリシテ人など、どうということはない。獣の一匹のように倒して見せましょうと言ったのです。何よりもダビデは、生ける神の戦列が馬鹿にされている。それは即ち、生ける神様御自身があなどられていることだ。それが我慢出来ない。放っておくことは出来ない。更にダビデは「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(37節)と告げました。主なる神様がわたしを守ってくださる。この神様に対する信頼。それを拠り所に、ダビデはゴリアトに勝てると信じて疑わなかったのです。
4.ダビデの戦い
サウル王はダビデがゴリアトと戦うことを許可します。しかし、羊飼いの格好ではあまりに可愛そうだと思ったのでしょう。サウル王はダビデに自分の兜と鎧を着けさせ、自分の剣を帯びさせました。しかし、ダビデは兜や鎧を身に着けたことがありませんから、こんなものを着ていたのでは、自由に歩くことも出来ません。ダビデはそれらを脱ぎました。つまり、ダビデは戦士としてゴリアトと戦ったのではなく、羊飼いの格好で戦いました。ダビデはいつもの杖を手に取り、滑らかな石を5つ選んで袋に入れました。これはダビデのいつもの武器、石投げ紐で投げる石でした。この「石投げ紐」というのは、口語訳では「石投げ器」となっていましたが、中央に石を包む革で出来た膨らみがあって、その両端に1メートルくらいの紐が付いているものです。紐の両端を握って、それをグルグル回し、回転が速くなったところで一方の紐を離すと石が勢いよく飛んでいくというものです。これはとても古くから使われていた武器でした。弓よりも遠くに、勢いよく石を飛ばすことが出来ました。ただ、狙い通りの所に飛ばすのは、相当の熟練が必要な武器でした。羊飼いはこれを日常の武器としており、子どもの時からおもちゃのようにしてこれの練習を積んでいました。ダビデのこの石投げ紐を扱う技術は大変なもので、百発百中の腕でした。
さて、ダビデが出ていきますと、ゴリアトはちっぽけな子どものような若者が鎧も着けず、羊飼いそのままの格好で近づいて来たものですから、ダビデを侮り、馬鹿にします。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」(44節)と言います。それに対してダビデは、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(45~47節)と告げます。ダビデにとって、この戦いは主の戦いでした。主がイスラエルと共におられ、生きて働いておられることを示してくださる戦いでした。剣や槍や投げ槍による戦いではない。ダビデは主の御名によって、ゴリアトに立ち向かいました。そして、ダビデは石投げ紐を使って、ゴリアトの額に向けて石を勢いよく飛ばしました。石はゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつ伏せに倒れました。ダビデは倒れたゴリアトに素早く近づくと、彼の剣を引き抜き、首を切り落としました。勝負は一瞬で決まりました。イスラエルはときの声を上げ、ペリシテは敗走しました。
5.イエス様を指し示すダビデ
さて、これがダビデがゴリアトを倒した時の有名な出来事です。ダビデは凄いと思います。しかし、もしそれで終わってしまうのでしたら、これは今から三千年も前の「昔々の話」ということで終わりです。しかし、それでは聖書を読んだことにはなりません。このゴリアトを倒したダビデの姿が二つのことと重なるということが必要だと私は思います。二つとは主イエス・キリストと私共です。
まず、このダビデの姿は、主イエス・キリストのお姿を指し示しているということです。イエス様はダビデの子孫としてお生まれになりましたけれど、ダビデの存在はこの主イエス・キリストを指し示しています。そうすると、このゴリアトは何を指しているのか。大きく二つ考えられます。一つは、罪であり、その価としての死です。イエス様は十字架に架けられて死なれました。死の力は圧倒的で、誰もそれに逆らうことなど出来ないほどのものです。しかし、イエス様は三日目に復活させられ、死の支配が終わったことを示されました。また、人間の罪がどんなに深く、大きく、闇の力に支配されていようと、イエス様は十字架によって一切の罪の裁きを身に受け、罪の支配を滅ぼされました。罪も死も、イエス様によって退けられたのです。
第二に、ゴリアトは当時の世界を支配していたローマ帝国を指していると読むことが出来るでしょう。ゴリアトのように巨大で、現実の力を持ち、この世界を支配していたのはローマ帝国でした。実際、イエス様を十字架にかけて殺したのはローマの総督ピラトでした。ローマはイエス様を殺し、イエス様に勝利したように見えました。しかし、イエス様は復活され、天に昇り、聖霊を弟子たちに注ぎ、イエス様をまことの王とする国、キリストの教会が建てられます。そして、主の教会はローマ帝国中に広がっていきました。そして、ローマ帝国が滅んでも、イエス様の国は滅びることはありませんでした。それどころか、ローマ帝国を超えて、全世界に広がり続けました。今も広がり続けています。この世のどんな大きな力も、イエス様の国、神の国、キリストの教会を滅ぼすことは出来ませんでした。私共はその神の国の民なのです。
6.私たちはダビデです
そして、もう一つ。ゴリアトを倒したダビデは、私共自身と重ね合わせて受け取られなければなりません。それは、私共が直接ダビデと重なるというよりも、ダビデによって指し示されたイエス様の勝利に私共が与る。そういう重なり方です。つまり、イエス様が勝利された。そして、そのイエス様と一つとされている私共は、ダビデが勝利したように、必ず勝利するということです。ダビデはゴリアトに勝利しました。信仰によって戦ったからです。主の戦いを為したからです。主と共に戦ったからです。主の御力だけを頼りに戦ったからです。ですから、私共もまた「ただ信仰によって立ち、主と共に、主の戦いに臨むならば、必ず勝利する」ということです。これが大切な所です。これが今朝、私共に与えられている聖書が告げる約束です。私とこの出来事が繋がらないのであれば、このダビデのゴリアトとの戦いは単なる昔話にすぎません。「ダビデは凄いな。」で終わりです。しかし、ダビデとゴリアトの戦いの話を、今朝、神の言葉として聞いたということは、この出来事は私共の歩みと重なるということです。私共の信仰の歩みが、このダビデの姿に示されているからです。
私共の信仰の歩みにおいて、決して勝てないと思う相手と戦っているということが起きます。自分たちの力ではとても敵わないように思える相手との戦い。それは、重い病気であったり、老いであったり、経済的な問題であったり、こじれた人間関係の問題だったり、日本における伝道という課題であったり、色々です。どれも厳しい戦いです。しかし、私共がそれを信仰の戦いとして受け取り、ただ信仰によって、ただ神様が戦ってくださるということを信頼して歩むならば、私共は必ず勝利すると聖書は告げています。
では、私共が勝利するとは、どういうことでしょうか。色々な勝利の仕方があると思います。祈って病気が癒やされるといった、分かりやすい、目に見える結果が与えられることもあるでしょう。しかし、そういうことだけが私共の勝利なのではありません。勿論、神様はそのような具体的な恵みの出来事も起こしてくださるでしょう。そんな時は素直に喜んで、神様に感謝すれば良い。しかし、聖書が告げる信仰の勝利とは、私共がキリスト者としての歩みを止めない。キリストの救いの恵みの中に留まり続ける。それこそが、私共の信仰の勝利なのです。何故なら、この勝利によってこそ私共は救いの完成、神の国の完成という冠を受けることが出来るからです。この信仰の勝利によって、キリストの教会は立ち続けてきましたし、キリストの福音は世界中に広がり続けてきました。どんなことがあってもキリスト者であり続ける。イエス様の救いの恵みの中に留まり続ける。これが、私共の最も厳しい、最も激しい、そして最も大切な信仰の戦いです。様々な力が誘惑が私共を襲い、私共を神様・イエス様から引き離そうとします。そのために、悪しき霊は様々な困難な状況に私共を追い込みます。その中で、私共は信仰の戦いを為していかなければなりません。そして、その戦いは必ず勝利します。
7.私たちの武具
先ほどエフェソの信徒への手紙の6章10節以下をお読みしました。聖書は「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(10節)と告げます。私共が強くなるのは「主に依り頼む」ことによってです。「主の偉大な力によって」です。私共は自分の内側から湧き出る力によって強くなるのではありません。確かに、私共の内側から強い力が湧き上がってくることがあります。しかし、それは恐れ、不安、怒り、恨みといった罪の思いを源とするものです。悪しき力です。それは信仰と希望と愛と平和をもたらす力ではありません。私共を強くする良き力は、神様・イエス様から注がれます。「わたしたちの戦いは、血肉(つまり人間)を相手にするものでは」ありません(12節)。私共の信仰の戦いは、「悪の諸霊」を相手にします。これを相手にする時、目に見える武具は何の役にも立ちません。ただ「神の武具」、神様が与えてくださる武具だけが役に立ちます。
このエフェソの信徒への手紙には、たくさんの神の武具が記されています。今、それを一つ一つ見ていく暇はありませんけれど、ここで何より大切なのは「神の言葉と祈り」です。昨日、富山地区信徒修養会がありました。富山新庄教会の前任牧師の坪内先生が鎌倉から来てくださいまして、素晴らしい講演をしてくださいました。私は心が揺り動かされました。出席された方はみんな心を動かされたのではないかと思います。そこで話されたことも、要は「御言葉と祈りによって、キリスト者としてのルーティンを形作っていきましょう」というお話でした。本当にそうだと思います。私共は礼拝に毎週集えないという状況になることもあります。高齢になればみんなそうなります。しかし今は、色々な方法・手段で、御言葉を受けることが出来ます。オンラインの礼拝もあります。そして何よりも、祈ることは、体のあちこちが痛くなっても、ベッドに横になることが多くなっても、することが出来ます。ただ私共はそのような状態になってから、いざ祈りましょう、御言葉に聞きましょうといっても、中々そうはなりません。昨日、坪内先生は「キリスト者のルーティン」という言葉を使われました。ルーティンというのは、いつもやっていること、習慣のようなことですね。御言葉に与ることと祈ることは、ルーティンになっていることが大切なんです。このルーティンが、私共の信仰の歩みを支え続け、信仰の戦いを戦い抜く力を与えてくれます。良いですか皆さん。ダビデとゴリアトの戦いは、昔話ではありません。今も私共の上に起きていることです。そして、私共が御言葉と祈りの武具によってこれと戦うのならば、私共は必ず勝利する。そして、その勝利は私共の救いの完成、神の国の完成へと繋がっています。今、しっかり眼差しを天の御国に向けて、ここから新しい一週への旅路へと歩み出していきたいと思います。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に富みたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝も私共に御言葉を与えてくださいました。ただあなた様だけに依り頼み、祈りと御言葉によって歩むならば、私共は必ず勝利する、救いの完成へ導かれていくという約束を与えてくださいました。ありがとうございます。どうか私共が日々御言葉に聞き、祈り、あなた様との親しい交わりの中に歩み続けることが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心からお願い申し上げます。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2023年9月24日]