1.はじめに
神様はこの世界を愛し、皆さんお一人お一人を愛しておられます。今日はこのことをお伝えしたいと思っています。今、「神様は皆さんを愛しておられる」と申しましたけれど、「愛」という言葉は、「そこに愛はあるんか」というCMのようにテレビなどではよく使われますけれど、私共の日常の会話の中では、あまり使われることはないように思います。その意味では、私共は「愛」については馴染みが薄いと言いますか、「愛とは何か」というようなことを日常の生活の中で考えることはほとんどないと思います。しかし、聖書においてはとても大切な言葉です。今日は改めて「愛」ということについて御一緒に聖書から聞いていきたいと思います。
天と地のすべてを造られた神様はこの世界を愛しておられる。これが聖書を通して私共に告げられている最も大きなメッセージです。神様は特に人間を愛してくださっています。世界のすべてはただ独りの神様によって造られたのですけれど、特に人間については、神様は特別なものとして造られました。御自身に似た者として造られたのです。このことは聖書の一番最初、創世記の1章の天地創造の所に記されています。人間は神様に似た者として造られましたから、人間は何かを造り出す創造力や、言葉を用いたコミュニケーション能力、様々なことを考える力、或いは法律を作って複雑な社会を造るといった、他の動物とは全く違った様々な能力が与えられています。神様が人間をそのような者としてお造りになったのは、人間にその力を用いて、神様を愛し、人間同士も愛し合うようにと願ってのことでした。しかし、人間はその神様の願い、神様の思いを知らず、これに応えることもなく、自分に与えられた能力や力を自分のためだけに使ってしまいました。そして、それが当たり前のことだと思っています。しかし、それは神様が造られた本来の姿ではありませんので、それでは幸いになれない。これを、宗教的言葉で言えば「救われていない状態」にあるということになります。仏教の言葉で言えば「無明」ということになりましょうか。
2.愛はあるのか
この人間の救われない状態は、色々な形で明らかに現れます。例えば10月7日にハマスがイスラエルを攻撃するということが起きました。今後イスラエルはガザ地区に地上部隊を入れて、ハマスを殲滅する計画だと言います。これから更に悲惨な戦闘状態が生まれることが予想されています。何万人という人たちが命を失うのではないかと言われています。そして、沢山の難民が生まれるのではないかと案じられています。また、ウクライナ・ロシアの戦争は1年8ヶ月も続いています。双方とも何万人という人たちが命を失い、何十万という人たちが負傷しました。私共は神の平和が来るようにと祈るしかありませんけれど、このような状況は、神様が願っているものではないということは、誰もが了解されるでしょう。神様なんて持ち出さなくても、誰だって戦争が無い世界が良いと思っています。戦争はいけないと思っています。しかし、このような戦争状態は、いつでも世界のどこかで起きています。戦争はなくても、飢餓状態があり、著しい貧富の差があり、人身売買が行われるという現実があります。
そのような現実を知った上で、どうして「神様はこの世界を愛している」と言えるのか、と思われる方もいるでしょう。神様がこの世界を愛しているのだったら、どうしてこんなひどい状態がなくならないのか。世界が平和にならないのか。神様は本当にこの世界を愛しているのか。神様が全能のお方であるというのは本当なのか。全能ならばその力で戦争を止めさせたら良いではないか。そもそも神様なんているのか。そのような疑問も生じてくるでしょう。もっともなことです。
これらの疑問を受け止めつつ、まずは聖書が告げていることに耳を傾けてみましょう。
3.神の愛と人間の愛
聖書は「神は愛です」と告げます。この神様は天地を造られた神様です。この神様の愛は、私共が考えている愛と少し違います。
私共が知っている愛、これを仮に「人間の愛」と名付けましょう。私共は様々な「人間の愛」を知っています。親子の愛、夫婦の愛、家族の愛、師弟愛、友情等々です。これは私共に自然に備わっていると言いますか、自然に湧いてくる「この人を大切にしたい」という思いです。この「人間の愛」は、自分にとって価値がある、自分にとって大切だという相手に対して抱く思いです。しかし、この思いはその相手の態度や状況によって変わります。自分にとって価値がなくなる、自分との関係が悪くなる、そうなりますとこの思いは薄くなり、消えていきます。更には、可愛さ余って憎さ百倍というようなことさえ起きるわけです。これは相手によって左右される愛です。その結果、この「人間の愛」はいつでも麗しく、健やかであるとは限りません。ややこしい関係になってしまうことが少なくありません。これは、近い関係であればあるほど、中々しんどい状態になります。親子・夫婦・兄弟の関係も上手く行かなくなることは少なくありません。それが「人間の愛」です。「人間の愛」は私共が生きていく上で、とっても大切なものですけれど、「これがあれば大丈夫」とは言えない。そういうものです。
では、聖書が「神は愛である」と言った愛、「神の愛」とはどのような愛なのでしょうか。神様の愛は、自分が愛するものの状態、態度、その価値によらずに愛される愛です。そして、その愛は徹底的であり、無限の広がりを持っています。これは、人間の愛には不可能です。人間の愛は、自分の近しい者、そして自分にとって好ましいものに対してしか、愛情を注ぐことは出来ません。しかし、神様はそうではありません。驚くべき愛です。
4.「神の愛」の二つの現れ方(1)
この神様の愛は、大きく二つのあり方で私共に示されています。一つは、私共があまり気付いていない当たり前と思っている出来事の中に示されています。すぐに思い付くのは、私共の命、私共の誕生です。ここに神様の愛は現れています。私共は自分で生まれてこようと思って生まれてきたわけではありません。気付いたら、そこに私はいたわけですけれど、私共がこの世界に誕生した時、もし誰も私を守り、助けてくれなければ、私共はすぐに死んでしまったでしょう。人間は犬や猫と違って、生まれてすぐに歩くことも出来なければ、自分で食べることも出来ません。泣くことしか出来ません。この何も出来ない赤ちゃんであった私を、親身になって守り、世話をしてくれた人がいた。たいていは両親ですけれど、そうじゃない場合もあるでしょう。いずれにせよ、誰かが世話をしてくれました。だから、こうして私共は生きているわけです。誰かが私の命を守ってくれた。命ある者は誰でも誰かの世話になって、生きながらえました。ここに、神の愛が現れています。神様は、この子は出来が良いから、この子はこの民族の子だから、この国の子だから生かそうとされたわけではありません。神様は御自身が命を与えたすべての者を愛し、その命を守る者を備えられました。私共が生きているということは、既に神様の愛を受けている。神様に愛されているから、私共は今を生きているということです。親が我が子を愛するのは当然ですけれど、その人間の愛を神様は備えてくださった。「人間の愛」は、大きな神様の愛によって備えられたものなのなのです。
この誕生の時に与えられた神様の愛のによる守りは、その後もずっと続いています。家族がいる。食べ物がある。それはみんな神様が私共を愛してくださっている「しるし」です。しかし、多くの人はそうは思いません。自分で稼いで、自分の力で生きている。自分で頑張って家族を作り、養っていると思っています。しかし、これはいささか傲慢です。「子どもを作る」という言い方をする人がいますけれど、これは傲慢の典型です。子どもは与えられるものです。人は命を作ることは出来ません。私共は、病気になったり、人間関係で問題が起きたりしますと、なんでこんな目に遭わなければならないのかと思います。不平と不満を持ちます。しかし、普通に当たり前に生活している時には、それがありがたいことだとは思いません。けれども、当たり前のことは、本当は少しも当たり前ではなくて、神様の愛の御手の中にあって、守られ、支えられている状態なのでしょう。夜寝る時に「明日、目が覚めなかったらどうしよう」とは誰も思いません。そんなことを思ったら、眠れません。明日、目が覚めることが前提で、眠りにつきます。そして、次の日に目を覚ます。自然に目が覚めます。当たり前のことです。しかし、そこには「今日も生きよ」という神様の御心があり、神様の守りの御手の中で一日一日生かされているのが私共なのです。家族がいる、友人がいる、仕事がある、食事がある、命がある。それらはすべて神様の愛の中に生かされている証拠なのですね。
5.神の愛の二つの現れ方(2)
神様は、そのように私共が当たり前のこととして、自分では意識していない日常の出来事の中に、既に御自身の愛を注いでくださっているのですが、それに加えて、決定的なあり方で私共に愛をお示しになりました。それが、神の独り子であるイエス・キリストを人間としてこの世に遣わされ、すべての罪人の裁きの身代わりとして、十字架におかけになったという出来事でした。今朝与えられている御言葉の10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と聖書は告げます。
「私共が神様を愛したのではなくて、神様が私共を愛して」くださった。ここに神様の愛の大きさと、私共の神様の愛に対しての疎さが示されています。神様の愛の中に私共を生してくださっているのですけれど、それを当たり前のことだと思っているものですから、神様に感謝することもありませんし、神様の御心、神様が私共に求めておられることがあるなどということを考えもしない。神様から見れば、これが傲慢であり、罪であり、神様に造られた本来の人間の道を踏み外しているということです。その結果が人間同士の争いであり、それが大きくなれば戦争となり、貧富の格差という現実を生み出しているわけです。そこで神様は、御自身の愛を決定的なあり方で示されました。それが、愛する独り子をすべての罪人の身代わりとするという、イエス様の十字架です。聖書は「ここに愛がある」と告げます。神様のどんな愛の業によっても、神様に対して目が開かれることのなかった人も、これを見れば分かる。神様がどんなに自分を愛してくださっているかが分かる。それがイエス様の十字架です。
イエス様の十字架は、本当に理不尽なものです。天地を造られた神様が、天において永遠に一つであられた独り子を人間として地上に下し、そして罪人である人間の身代わりとなって裁きを受ける。そのことによって、人間は神様に赦され、神様との交わりを与えられる。神様は損ばかりしています。どうして、そんなことを神様はされたのか。理由は一つしかありません。それは神様が愛だからです。神様が私共一人ひとりを徹底的に愛され、私共との交わりを求められたからです。私共に命を与え、必要のすべてを満たし、どんなに愛を注いでも当たり前だと思って、神様を無視し、神様に感謝もせず、互いに相争っている人間。その人間のために、神様は御子を送り、十字架にお架けになった。理屈に合いません。どうして、そんなことまで神様はされるのか。不思議です。しかし、この不思議こそが、神様の愛なのです。神様の愛は、人間の合理的な理屈には合いません。神様の愛は不合理で、不可思議で、徹底的です。
6.私のような者が愛されるのか
神様は、誰のためにこんなことをされたのでしょうか。それは、私共のためです。すべての罪人のためです。まったく度外れた愛です。徹底的な愛、私共が考えつきもしないほどに深く、激しく、広く、徹底的な愛です。神様は私共を愛し、私共との愛の交わりを求めた。何としても、愛の交わりの中に生きる者にしたかった。この神様の愛の御手からこぼれ落ちてしまう者は一人もいません。
牧師をしていますと、「自分のような者が救われるのでしょうか。」と聞かれることがあります。「自分のような者」とはどのような者ですか、と聞きますと、以前別の宗教をしていたとか、家に仏壇があるとか、離婚をしたとか、神様の愛の前では何も問題にならないことばかりです。しかし、たとえこの世で「とんでもない大罪」と言われる罪を犯した人であったとしても、神様の愛の御手の中からその人がこぼれ落ちることはありません。それなのに、どうして「私のような者が」と言うのでしょうか。それはきっと、良い人、正しい人、立派な人、信仰深い人、情け深い人でなければ救われないと思っているからでしょう。良いことをして正しい人になったら、神様に愛され、神様に赦され、救われる。そう思っているからでしょう。それは、「人間の愛」と「神様の愛」が、全く別物であるということが分かっていないからだと思います。神様の愛が、人間の愛のように、自分に好ましい者に対してだけ注がれるということでしたら、良い人、正しい人にならなければ、神様の愛を受けることは出来ないし、救われないということになるでしょう。でも、どこまで良い人になればいいのでしょうか。どこまで正しい人になればいいのでしょうか。しかし、神様の愛は、人間の愛とは全く違います。どんなにしょうもない人間でも、神様は愛しておられます。どんな人も、神様が造られた最高傑作だからです。人間は他の人と比べて、自分の価値を判断します。しかし、神様は私共を造ってくださった方ですから、私共一人一人を大切な命として愛してくださっています。他の人と比べるということは、神様には全く意味がありません。神様の愛は徹底的です。ですから、最も愛する我が子イエス・キリストを私共のために、私共に代わって十字架におかけになったのです。イエス様の十字架は、圧倒的であり、決定的です。「私のような者が救われるのか」と考えるのは、イエス様の十字架の圧倒的な大きさ、広さ、徹底性が分からないからでしょう。イエス様の十字架をなめてはいけません。イエス様の十字架によって救われないほどの大きな罪は、この世界には存在しません。
では、キリスト者になって、それから教会を離れた人、あるいは大きな罪を犯した人はどうなのか。それも全く同じです。神様の前に悔い改めて、やり直したら良いだけのことです。神様は何回までやり直させてくれますか。何度でも何度でもです。イエス様はペトロに、何回赦すべきでしょうか、7回までですか、と問われて、7の70倍までも赦せ、と言われました(マタイによる福音書18章22節)。ですから、何度でも何度でもやり直せば良いのです。神様の愛、イエス様の愛は徹底的です。この神様の愛の徹底性は、赦しの徹底性であり、そして「しつこさ」の徹底性でもあります。神様の愛は淡泊じゃありません。「あなたとの愛の交わりを形造ろう」と招いて、「お断りします」と私共が答えても、神様は何度でも、どこまでも、私共を招き続けられます。だから、私共は救われました。一度で神様の招きに気づいて受け入れる人なんてそうそういるわけではありませんから。
イエス様を「我が主、我が神」と受け入れるならば、ただそれだけで私共は救われます。イエス様を「我が主、我が神」と受け入れるということは、神様の愛を受け入るということだからです。私共が地上の命を与えられた時からずっと、神様は私共を愛しておられました。しかし、それは一方通行の片思いでした。しかし、イエス様の十字架によって示された愛を受け入れる時、私共は神様と両思いになります。そこに、神様と私共との愛の交わりが生まれます。神様に対して「父よ」と呼び、神様から「我が子よ」と呼ばれる交わりです。この交わりに入ることが「救われる」ということです。この神様との交わりに入ることは、一切の罪が赦されるということであり、永遠の命に与るということだからです。既に、神様の愛は私共の前に差し出されています。私共はそれを感謝して受け取ればよいだけです。
7.互いに愛し合いなさい
さて、今朝与えられている御言葉には、愛という言葉が15回も使われています。そして「互いに愛し合いましょう」という勧めが告げられています。神様に愛されている。その愛を受け入れて、神様との愛の交わりが与えられる。神様はこの交わりにおいて、私共に神様御自身の愛を注いでくださいます。私共は人間の愛しか知らない者でしたけれど、神様の愛を注がれ、神様の愛が私共の中に宿ります。私共は人間ですので、私共の愛は不徹底であり、狭いものです。しかし、徹底した神様の愛、無限に広い神様の愛を注がれることによって、私共は変えられていきます。その変化は遅々たるものかもしれません。その歩みは大きな悪がはびこっているこの世界に於いては、焼け石に水のような営みかもしれません。しかし、人間の愛を超えて、神の愛に生きようとする者が一人また一人と生まれていく。私はここに、この世界の希望があると思っています。
最初の問い、「神様は本当にこの世界を愛しているのか。」「神様が本当にこの世界を愛しているのなら、どうしてこんな悲惨な現実がなくならないのか。」この問いにもどりましょう。この問いに答えるのは容易ではありません。ただ、このような世界の現実があるにもかかわらず、神様はなお徹底的にこの世界を愛してくださっている。神様は諦めていません。ここに、世界の希望があるのではないでしょうか。自分のことしか考えられず、自分が良ければそれで良いといった自己中心的な心を、人はそうそう変えられません。しかし、神様は変えてくださいます。パレスチナ難民の人たちとイスラエルの人たちが愛し合うことがあるだろうか。ロシアとウクライナが心から赦し合う時が来るだろうか。どんな国際政治学者も、このことについての見通しを持つことは出来ません。希望は人間の見通しの中にあるのではありません。人間には出来ない。しかし、神様には出来ます。神様は世界を諦めていません。なお徹底的に愛してくださっています。我が子を献げるほどにです。この神様の愛から、この神様の愛によって、人も、家族も、社会も、国も、世界も変わっていきます。「愛は地球を救う」これは本当です。ただ、この愛は人間の愛ではありません。人間の愛で地球は救えません。しかし、神様の愛は救えます。この混迷の時代のただ中にあって、決して変わることのない神様の愛を信じ、神様との交わりの中を、希望と喜びと感謝をもって、健やかに歩んでまいりたいと願うものです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
あなた様は今朝、私共にあなた様御自身が愛であることを教えてくださり、その愛の交わりの中に生きるように招いてくださいます。私共の愛は小さく、自分中心なものです。あなた様は御自身との交わりによって、私共にあなた様の愛を注いでくださり、私共を造り変えてくださいます。どうか、私共があなた様の招きに応えて、あなた様との共なる歩みへと歩み出すことが出来ますように。どうぞ私共を導いてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年10月15日]