1.はじめに
ペトロの手紙を読み進めています。今朝与えられております御言葉は「だから」と告げて始まります。「だから」と話が始まる、それは前回まで告げられていたことを前提に話を進めているわけです。特に1章23節で告げられている、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」という私共が救われた恵みを指しています。つまり、神様の変わることのない生きた御言葉によって、神様の永遠の救いのご計画の言葉によって、その御言葉が人となって現れたイエス・キリストによって、私共は救われました。新しい命に生まれ、神の子として新しく誕生しました。「だから」です。だから、そこには神の子としての新しい歩み、キリスト者としての新しい歩みが始まる。そのことを今朝与えられた御言葉は告げています。
今朝与えられた御言葉には、その新しい私共のありようが、幾つかの局面において告げられています。第一に、今までの御心に適わないありようを捨てる。第二に、霊の乳を求める。第三に、霊的な家を造り上げる。第四に、聖なる祭司なる。という4つの点です。このことを順に見ていきましょう。
2.悪癖を捨てる:悪口を捨てる
最初に告げられているのは、「神様の御心に適わないありようを捨てる」ということです。具体的には「悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口をみな捨て去りなさい」と告げられています。常識的に考えて、「悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口」が良くないことは、誰にでも分かります。しかし、正直なところ、「そんなに重大な悪いこととは思っていない」かもしれません。これはほとんど日常的なことだからです。では、どうして聖書は私共がほとんど日常的に犯してしまっていることをことさら取り上げて、「みな捨て去りなさい」と告げているのでしょうか。それは、これらのことが私共の心の底にある罪から生まれてくるものだからです。神様の子とされた私共は、神様によって一切の罪を赦していただきました。私共は何によって赦されたのかを知っています。イエス様の十字架によってです。ですから、神様の赦しを感謝と喜びをもって受け取り、これを無駄にしないようにと思います。神様の赦しの上に胡座をかいているわけにはいきません。自らの罪を赦された者は、その罪と戦うことになります。その戦いは日常的であり、具体的です。少しも観念的なことではありません。そこで、聖書はこの日常的で具体的な、今までそれほど悪いとも思っていなかったことに対して、ちゃんと「これはいけないことだ」と自覚して、それと戦いなさい、そう告げているわけです。
今、ここで挙げられている5つについて丁寧に見ていくいとまはありませんけれど、「悪口」について考えてみます。私共は、その人に面と向かって馬鹿にしたり、その人をおとしめたりする悪口を言うことはあまりないかもしれません。たいていは、本人がいないところで噂話のような形で口にすることが多いでしょう。「悪口」が悪いというのは、本人が聞いたら傷つくからと考えるかもしれません。しかし、この「悪口」の根っこには、「その人より自分が上に立とうとする」「自分を正しい者として、相手をおとしめる」という思いが潜んでいる。つまり、その人に対して愛がない。だから、この悪口というものを捨てなければならないのです。典型的なのは、差別発言です。他の4つもそうです。「その人より自分が上に立とうとする」「相手をおとしめる」思いがある。「愛がない」わけです。ですから、これらを「みな捨て去りなさい」と聖書は告げているわけです。私共は、自分の言葉や心の動きに対して、もっと感受性を豊かにする必要があるということなのでしょう。
ここで、もう一つ言わなければならないことがあります。それは、私共の口から出る悪口ではなく、私共を取り巻いている悪口です。私共はテレビや新聞の記事は正しいと思っています。しかし、それらの記事には色が付いています。それらが報じられる意図がある。特に世界が大きく二つの陣営に分かれているような中では、互いに相手をおとしめようとする情報、つまり言葉が溢れています。まさに悪意に満ちた言葉が、その意図を隠して溢れている。私共はそのような言葉に囲まれています。だからこそ、いよいよ「愛」がなければならないと思わされます。
3.霊の乳を求めて
では、その愛に生きようとするためには、どうすれば良いのか。聖書は「霊の乳によって養われること」だと告げます。2節「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」と言われているとおりです。生まれたばかりの乳飲み子はお母さんのお乳を求め、一心に飲みます。お腹が空けば泣きます。泣いてお母さんのお乳を求めます。お乳が与えられるまで泣き止みません。そのように、私共も神様の養い、霊の乳を求めなさいと言います。この「霊の乳」とは、聖書の言葉です。聖書の御言葉を慕い求め、これに養われ、私共はキリスト者として成長していきます。キリスト者は放っておいても成長するのではありません。霊の養いが必要です。もし、赤ちゃんがお母さんのお乳を求めず、お乳を与えられることがなかったなら、すぐに危険な状態になってしまうでしょう。私共の信仰もそうです。主の日の礼拝に集い、霊の養いを受ける。また、日々の生活の中でも聖書の言葉に親しむ。これがなければ、私共の信仰もまた危険な状態になってしまいます。赤ちゃんがすぐに大人にはならないように、聖書の言葉に養われ、神様を愛し、信頼し、神様に従うキリスト者が形作られていくには時間がかかります。しかし、この霊の養いを受けていく中で、キリスト者は必ず成長し、変えられ続けていきます。
この霊の乳を慕うということは、聖書の言葉を通して神様との交わりを求めるということですから、聖書をただ読めば良いということではなくて、この聖書の言葉をもって語りかけてくださる神様に応える「祈り」も必然的に伴うことになります。ですから、聖書を神様の言葉として慕い求める人は、祈る人ともなっていきます。このような神様との交わりの中で、私共は神の子・神の僕として成長していきます。それは、変えられ続けていくということです。
4.尊い生きた石
ここで、もう一つ私共がキリスト者として成長していく上で不可欠なことが告げられています。それが教会に繋がって、教会を形成していくということです。キリスト者の信仰生活は、単独で営まれるものではありません。キリストの体である教会に繋がることによって為されていきます。これは聖書が告げるとても大切な点です。私共は一人ひとりが神様の御言葉によって愛を知らされ、聖霊を注がれて神様を愛し、信頼する者とされ、洗礼を受けました。この洗礼は、キリストの体である教会に連なる契約式です。キリストの体に連なった者は、この契約を更新する聖餐に与ります。聖餐において、キリストの体を食し、キリストの血を飲み、キリストの命と一つにされます。このキリストと一つにされた者の群れが「新しい神の民」です。
3~4節を見ますと「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。」と告げられています。ここまでは分かりますね。私共はイエス様の憐れみによって救われ、こうして今日も主のもとに集い、礼拝を捧げています。問題はその次です。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」と告げられます。突然「主は、尊い、生きた石なのです」と言われ、何が言われているのか分からない方もおられるでしょう。まず、「主は、人々からは見捨てられたのですが」と告げられていることですが、これは明らかに、イエス様が十字架に架けられたことを指しています。イエス様は人々に捨てられ、十字架に架けられました。けれども、それは神様の永遠の救いのご計画の中での出来事でした。神様はイエス様を復活させられ、新しい建物の土台の石、これがなければ建物を建てることが出来ない基礎、土台、隅のかしら石とされました。そして、このイエス様を土台として建てられる建物、それが「キリストの体である教会」です。この教会の基礎となっている石、それが「尊い生きた石」であるイエス様です。ここで、教会を建物のイメージで語っているので、イエス様を石にたとえています。これはたとえですから、教会とはこの礼拝堂のような建物のことではありません。キリストの体という霊的な存在です。この霊的なキリストの体としての教会の基礎・土台・根本にイエス様がおられます。イエス様は生きています。イエス様は今も生きて働き、この建物全体に命を与え、その建物が神様の御業にお仕えすることが出来るように必要のすべてを備え、力を与えてくださっています。
このような教会理解は、聖書の様々な所で告げられています。代表的な所を一箇所見てみましょう。エフェソの信徒への手紙2章19~22節です。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」教会は、イエス様がかなめ石となって、その上に使徒や預言者が土台となり、すべてのキリスト者が組み合わされて、キリストの教会という神殿、神の住まい、神様が御臨在され神様が拝まれ神様との交わりが与えられる所となります。この神殿としてのキリストの体である教会は、キリスト者が組み合わされ、成長していきます。
5.霊的な家に建て上げられていく
5節を見ますと、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」とあります。私共自身も「生きた石」として、この「霊的な家」であるキリストの教会の一部となって造り上げられていきます。キリストの教会の一部として用いられ、建て上げられていくということは、キリストの救いの御業に仕え、用いられていくということです。それは、自分一人で何かをするということではなくて、他のキリスト者たちと心を合わせ、力を合わせ、祈りを合わせて為されていきます。
今朝与えられた御言葉の最初の所では、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」と告げられていました。ここだけを見ますと、私共の信仰の歩みは自分と神様との関係をしっかりもって、それぞれが自分の罪と戦っていくという、個人の営みであるように読むかもしれません。勿論、一人一人の神様との関係というものはとても大切です。しかし、私共の信仰の歩みは各自バラバラに為されていくものではありません。教会と共にあります。今朝与えられた御言葉において、自らの罪との戦いを語るとすぐに、キリストの体である教会の一部となって、共にキリストの教会を建て上げていくようにと告げられている。これは、キリスト教信仰において極めて重要なことです。教会抜きのキリスト教などありません。そもそも、キリスト者の出発点である洗礼は教会の業であり、教会に繋がる契約式です。聖餐だって一人では出来ません。実は、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ということも、教会の交わりの中でこそ私共は訓練され、育まれていくのでしょう。自らの罪との戦いもまた、キリストの体ある教会の交わりにおいてこそ、お互いに自覚的に為されていくからです。
こう言っても良いと思います。「キリスト者としての成長は、教会の成長と共にある。」勿論、教会の成長とは、数が増えるとか、会計規模が大きくなる、立派な会堂を持つというようなことではありません。教会の成長を会社の成長と同じように考えてはいけません。会社の成長は、売り上げや利益が増え、従業員が増え、業績が大きくなるということかもしれません。しかし、教会の成長とはそういうことではありません。教会の成長とは、そこにキリストがおられるということが明らかになる交わりが出来ていくということであり、神様が真実に礼拝され、崇められ、神様に喜んで従う群れとなっていくということです。そこで神様の祝福を受け、数が増し加えられるということも起きるでしょう。しかし、数が増えることが教会の成長ではありません。教会の成長とは、霊的な成長です。その意味で、「キリスト者の成長は、教会の成長と共にある」と言えるのです。
6.聖なる祭司として
キリストの体である教会で、互いに組み合わされてキリストの御業に仕える者として成長していく私共は、一体何をするのかと言いますと、5節bに「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」と告げられています。つまり、キリストの体に結ばれた私共は「聖なる祭司」になるのだと言うのです。私共一人ひとりがです。祭司とは、聖書では他の人の罪を神様に執り成す役割を与えられた人のことです。旧約においては、イエス様の時代までエルサレム神殿に仕える人たちでした。祭司たちは、神殿に礼拝に来る人たちが献げる犠牲(いけにえ)を捧げ、神様に執り成しをする人たちでした。そして、その祭司の中で一人だけ、大祭司が立てられていました。この大祭司は、神殿の聖所の中の一番奥にある至聖所に年に一度だけ入って、すべての神の民の罪の赦しを願って、執り成しをしました。今、「聖書を学び祈る会」ではヘブライ人への手紙を学んでいますけれど、ちょうど「大祭司キリスト」の所を学んでいます。旧約における大祭司をはるかに超えて偉大な大祭司がイエス・キリストである。イエス・キリストは動物の犠牲ではなく、まことの神の御子である御自身の命をもって、すべての人の罪を贖い、神様に執り成しをされた。この執り成しは完全で、永遠の効力を持つものであるということが記されています。確かに、イエス様は完全な、ただ独りの私共の大祭司です。それ故、イエス様の十字架の執り成しによって、一切の罪を赦された私共です。しかし、その私共が「聖なる祭司」になるとは、どういうことなのでしょうか。それは、二つの意味があると思います。
一つは、キリストの体である教会に連なり、キリストの救いの御業に仕える。それは大祭司であるイエス様の救いの御業によって、私共以外の人々がイエス様の救いに与るようにと祈り、福音を伝えて行くことです。それは人々をイエス様の救いへと招くことですから、まさに大祭司であるイエス様の執り成しに仕える、祭司の務めに仕えることだと言えましょう。宗教改革者たちは、この務めを「万人祭司」と言いました。これが福音主義教会のキリスト者の理解の仕方です。
もう一つは、イエス様は御自身を十字架によって捧げて偉大な大祭司としての務めを果たされました。そのイエス様の姿と重ねるならば、私共が「聖なる祭司」となるということは、私共自身を神様に捧げることを意味しています。私共は毎週の礼拝において献金を捧げますが、その献金の祈りにおいて必ず「これは私共の献身のしるしです」という言葉で祈ります。私共は、礼拝のたびごとに私共自身を神様に捧げる「献身」の志を新たにされます。ここで、有名なローマの信徒への手紙12章1節を思い起こすことが出来るでしょう。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」私共は、毎週ここに集って礼拝を捧げているわけですが、この礼拝はここだけで終わりません。この礼拝の心、献身の心、賛美の心、感謝の心をもって、それぞれが置かれている所へと私共は遣わされていきます。そして、神様の御名を誉め讃えて、祈りつつ、与えられた為すべき務めに神様にお仕えする者として励んでいく。仕事であれ、家事であれ、献身した者として、神様にお仕えする業として、私共は誠実に事に当たっていきます。神様の御言葉に喜んで従う者として歩んで行きます。自分の栄光ではなく、ただ神様の栄光を求めて歩んで行きます。それが「聖なる祭司」となるということです。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
あなた様は今朝、あなた様の憐れみによって救われ、あなた様の子としていただいた者として、私共がどのように歩んでいくのかを、御言葉によって示してくださいました。ありがとうございます。私共は、自分の罪から湧き上がってくる悪しき思いと戦うことにおいて不徹底であり、しばしばその思いに囚われてしまうことがあります。人を侮り、責め、不満を口にします。どうか私共があなた様の御言葉に養われ、私共の心に聖霊なる神様が御言葉と共に宿ってくださり、すべての歩みを導いてくださいますように。私共がキリストの体である教会の枝として、言葉と行いと存在をもって、あなた様の愛と恵みを証ししていくことが出来ますように。どうか、私共一人ひとりを清めて、あなた様の御業の道具として存分に用いてください。そのために必要なすべてをあなた様が備えてくださいますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年10月22日]