日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

召天者記念礼拝説教

「イエス様が再び来られる時」
詩編 68編20~21節
使徒言行録 1章6~11節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今日の礼拝は召天者記念礼拝です。先に天に召されました敬愛する兄弟姉妹を覚えて、御遺族の方々と共に礼拝を捧げています。皆さんのお手元に召天者名簿があると思いますが、昨年の召天者記念礼拝の後、2名の方が名簿に加わりました。礼拝の後、教会墓地に行って墓前祈祷会を行います。先に天に召された信仰の先達たちは、どのような希望をもって、何を目指してのこの地上の歩みを歩まれたのか、今朝はそのことを共に御言葉に聞いて、私共も同じ希望と目当てをもって、ここから新しい一週へと歩んで行きたいと願っています。

2.弟子たちの誤解
 イエス様は人々に神の国の話をされ、様々な奇跡を為されました。沢山の人々がイエス様の後について行きました。しかし、イエス様は十字架に架けられて殺されてしまいます。ところが、イエス様は三日目に復活し40日にわたって弟子たちにその御姿を現し、そして天に昇って行かれました。今朝与えられている御言葉は、イエス様が天に昇られた時のことが記されています。
 弟子たちは復活されたイエス様に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。弟子たちは、十字架の上で死んでイエス様はもう終わった、と思ったのだけれど、イエス様は三日目に復活され、しかも40日にわたって復活された御姿を弟子たちに現されました。ですから、イエス様が旧約において預言されていた救い主・メシアであることは疑いようがない。イエス様は本当にメシアだ、救い主だと弟子たちは受け止めておりました。そうであるならば、イエス様は死でさえも滅ぼすことの出来なかったお方なのだから、その大いなる御力をもって、偉大な王ダビデのように、イスラエルを大いなる国にしてくれる、そう思っていたわけです。「イスラエルのために国を建て直す」というのは、そういうことです。ダビデ王というのはイエス様より1000年も前の王様ですけれど、長いイスラエルの歴史の中で、ダビデ王とその息子ソロモン王の時だけ、百年に満たない期間ですけれど、この時だけイスラエルは領土を広げ、経済的にも繁栄しました。それ以外の時代は、イスラエルは弱小国であり、その時代その時代の巨大な国家によって支配されるという状態でした。イエス様の時代は、ローマ帝国の支配下にありました。ですから、弟子たちはあの栄光のダビデ王時代が再来する、あの繁栄がもたらされる。そう期待していたわけです。確かに、イエス様は「まことの王」として来られましたけれど、それは地上の国の王として来られたのではありません。もしそうであったならば、イエス様はローマによって十字架に架けられることもなかったでしょう。イエス様は、地上の王としてではなく、神の国の王として来られたのです。しかし、そのことが弟子たちにはまだ分かりませんでした。
 弟子たちは復活のイエス様と出会って、イエス様が死でさえも滅ぼすことの出来ないお方、大いなる方、神の御子であることは信じました。しかし、それが何を意味するのか、この時はまだよく分かっていませんでした。

3.聖霊が降る 
そのような弟子たちに、イエス様はこれから起こることを告げられました。8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と告げられました。ここでイエス様は二つのことを告げられました。①聖霊が降って力を受ける。②地の果てまで証人となる。この二つです。
 まず、「聖霊が降る」ということですが、これは、イエス様がこのことを告げて天に昇られた十日後に実現しました。この日は「ペンテコステ」「五旬祭」と呼ばれる、多くの巡礼者がエルサレムに集まってくる大きな祭の日でしたが、この日弟子たちに聖霊が降って、「イエス様こそ神の御子です。この方を信じて洗礼を受けなさい。そうすれば救われます。」と説教を始めたのです。そして、この日三千人もの人たちが洗礼を受けてキリスト者になりました。この日がキリスト教会の誕生日と言われています。ペンテコステはクリスマス、イースターと並んでキリスト教会における大切な日です。聖霊というのは、イエス様の霊であり、父なる神様の霊です。この聖霊が弟子たちに降ることによって、弟子たちは力を与えられました。その力とは、イエス様を神の子・救い主として人々に伝えていく力です。
 聖霊は見えませんので、そこに聖霊が降ったかどうかよく分からないではないか、と考える人もいるでしょう。聖霊は出来事を起こされます。それも神様の御心に適う出来事、神様の救いの御業、そして神様・イエス様に栄光を帰する出来事です。この礼拝において、私共は神様そしてイエス様を賛美します。祈りを捧げます。そして、神様の言葉を聖書を通して聞き、これに従って歩んで行こうという志、信仰が与えられます。これは、すべて聖霊なる神様の御業です。イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従うということは、すべて聖霊なる神様の御業です。皆さんは「私は自分で決めて今日ここに来た。」と思っておられるでしょうが、聖霊なる神様がそれを促し、ここに集うことが許された私共です。先に召された信仰の先達たちは、みな聖霊を受けて、聖霊の御業と共にこの地上の生涯を歩まれた方々です。私共は今、信仰の先達たちを導き、守り、支えてくださった、同じ聖霊なる神様によってここに集っているわけです。
 聖霊という言葉は、新約聖書が記されたギリシャ語では「霊」という意味の他に、「風」「息」という意味もあります。聖霊なる神様は風と同じように、目に見ることは出来ません。風を見たことがある人はいないでしょう。でも私共は風が吹いているのは分かります。それは風が木々を揺らすからです。そのように、聖霊は神様の喜ばれる出来事を起こして、ここに臨んでおられるということを私共に示してくださいます。

4.証人となる 
 その聖霊が起こされる最も端的な出来事が、イエス様を証言することです。イエス様こそ神の御子、救い主であることを証言する、イエス様の恵みと真実を証言することです。ここで大切なことは、「証言する」ということです。証言というのは、自分が直接見聞きしたことを、自分の言葉で語ることです。何かよく分からないけれど、牧師がこう言っていたから、或いはみんながそう言っていたから話すのではありません。自分が体験し、経験したことです。神様は私がこのような時に、こんなことをしてくださり、私を導いてくださった。このようにして私に信仰を与えてくださった。また、神様がどんなに私を愛してくださっているかをこのようにして教えてくださった。自分の言葉で、自分に起きた出来事を語ることです。
 先に召された敬愛する信仰の先達たちも、みんな自分の証言を持っていました。教会ではこれを「証し」と言いますが、自分がどのようにして信仰を与えられたのか、或いは、困難な時をどのように守られて歩んだのか、神様の愛とそれが具体的に現れた出来事は一人ひとりみんな違います。若くしてイエス様と出会って信仰を与えられた人もいれば、高齢になってから信仰を与えられた人もいます。両親がキリスト者で気か付いたら教会にいた人もいます。人それぞれです。しかし、その証言はただ独りの神様と御子イエス様の愛と恵みと真実が現れた出来事ですので、聞く者は全く違う話を聞きながら、同じことを聞くという経験をします。これはちょっと説明するのは難しいのですが、事柄としては単純なことです。家族が集まって、お父さんの話をする。お父さんはもう召されてしまった。そこで長男が、「私はお父さんにこんなことをしてもらった。」と言いますと、みんな「そんなことがあったんだ。良かったね。」と思う。そして「私もお父さんにこんなことをしてもらった。」と思う。長女が「お父さんにこんなことを言ってもらった。」と話す。すると、他の家族も、「私はこんなことを言ってもらった。」と思い出す。共通の思い出もありますけれど、みんな別々の思い出を持っている。でも、同じ大好きなお父さんのことを思い出し、お父さんはこんな人だったと思う。これに近いことではないかと思います。私共を愛し、私共を救いへと導いてくださったのはただ一人の同じ神様ですから、私共には同じ神様の愛が注がれていますけれど、全く違う出来事が起きる。しかし、それは神様・イエス様の愛と恵みと真実が示されている。それが、それぞれの証言となるわけです。実は、この聖書もまた「証言集」なのです。イエス様に出会い、イエス様に召し出され、イエス様と共に歩んだ弟子たちが、イエス様はこう言われた、こんなことをされた、それを集めたものです。一人の弟子がイエス様のすべてを見聞きしていたわけではありません。勿論、十二弟子はイエス様の近くにおりましたから、沢山のイエス様の言葉や業を間近で見ていました。でも、その中の一人しか知らないことも記されています。その沢山の人たちの証言を集めて福音書は記されました。
 この時、復活されたイエス様が弟子たちに告げられたことは、聖霊が降ると力を受けて、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」ということでした。この言葉どおり、イエス様の弟子たちはペンテコステの出来事以来、全世界に出て行って、イエス様こそ私共を救ってくださるお方、まことの神の御子であることを証言していきました。その中心にあったのは「イエス様が復活された」という、復活の証言でした。

5.復活の証言
 弟子たちが証言したイエス様の復活の出来事は、「イエス様は復活しました」という事実を伝えただけではありませんでした。「イエス様は復活されました。だからまことの神の御子です。」というように、「だから○○である」ということが付いていました。もし、弟子たちが伝えたことが「イエス様は復活された。私はそのイエス様に出会いました。」ということだけだったならば、それを聞いた人は「ふーん。そうなんだ。」それで終わってしまいます。ですから「だから」が大切です。「イエス様は復活されました。だから、今も生きて働いておられます。」ということであり、更に「イエス様は復活されました。だから、あなたも復活します。」というものでした。この「だから、あなたも復活します。」というメッセージは、強烈なものでした。死んだら終わりだと思うのは、今も昔も変わりません。死は圧倒的です。その人の身分がどうであろうと、財産も、仕事も、その人が生涯をかけて積み上げてきたものも、一切合切を飲み込んでしまいます。しかし、この肉体の死では終わらない命が、イエス様の復活によって私共にも開かれました。イエス様の弟子たちは、イエス様の御命令に従って、このメッセージを全世界に向けて、地の果てまでも語り伝えました。そして、この富山の地にも伝えられました。
 イエス様の復活の証言と共に、私共は肉体の死によっても終わることのない命、復活の命、永遠の命の希望を与えられました。死は私共に対する絶対的な勝利者ではなくなりました。イエス様がすべての勝利者となられたのです。

6.またおいでになる
 では、その復活の命はいつ与えられるのでしょうか。それは、イエス様が再び来られる時です。これを「再び臨む」と書いて、「再臨」と言います。イエス様が再臨される時、私共は復活します。イエス様が再臨される時、終末が来ます。テサロニケの信徒への手紙一4章16節にはこうあります。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、」と記されています。このイエス様が再び来られるということは、イエス様が天に昇られた時に二人の天使が弟子たちに告げたことです。今朝与えられている御言葉の10~11節「イエスが離れ去って行かれるとき(つまり天に昇られた時です)、彼ら(弟子たち)は天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人(これは天使を表現する聖書の慣用句です)がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」この天使によって告げられた言葉は、弟子たちの心に深く記憶され、そして聖書に残されました。イエス様が再び来られる。そして、先に死んだ者たちに復活の体が与えられ、キリストに似た者に変えられ、全き愛、全き信頼、全き平安に満ち満ちた「神の国」が完成する。代々の聖徒たちは、この日を待ち望みながら、地上での生涯を、信仰を持って、神様の御言葉に従って歩んだのです。
 この地上の命において、私共がこの「復活の体」をいただくことはありません。この地上における私共の体は「肉の体」です。その意味では、この地上において私共は、救いの完成には与れません。私共は既に救われていますけれど、その救いはまだ完成されていません。どこまでも不完全です。ですから、言わなくていいことを言い、してはならないことをしてしまう。何度も同じ過ちを繰り返してしまうわけです。しかし、そのような私共が完全な者となる。その希望が与えられました。私共が復活する、復活の体をいただくということは、それは体だけ永遠に生きる者になるということではありません。永遠の命とは、不老長寿になることではありません。もし、私共のこの罪がそのままで永遠に生きるとすれば、それは救いではなくて、永遠の刑罰のようなものではないでしょうか。復活の体とは、三日目に復活されたイエス様と同じ体ということです。それはイエス様に似た者にされるということです。それが私共の救いの完成です。
 そして、この救いの完成は、私共個々人のことだけではありません。罪と闇とが渦巻いているこの世界、戦禍が絶えないこの世界、それも変えられる。新しくされ、完成される。神の国の完成です。そこに争いはなく、平和と喜びに満ちています。神の国には、そもそも国境なんてありません。肌の色の違いも、言葉の違いも、意味を持ちません。その日が来ます。私共の信仰の先達たちは、その日を目指して、この地上の生涯を歩みました。

7.その時は、あなたがたの知るところではない
では、その日はいつ来るのでしょうか。イエス様は言われました。7節「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。』」残念ながら、それがいつなのかは、誰も知らされていません。イエス様は聖書の他の所で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(イエス様)も知らない。ただ、父(神様)だけがご存じである。」(マタイによる福音書24章36節)と言われました。イエス様も天使も知らないのですから、私共が知るはずがありません。
 このことに関して、「〇〇年にイエス様が来られる。終末が来る。だから悔い改めて神様を信じましょう。」と言って歩く人たちがいますが、あれは嘘です。いつイエス様が来られるのか、それは誰にも分かりません。イエス様も知らないと言っているのに、「私たちは知っている」というのはおかしいでしょう。また、「私が再臨のイエスだ。」と言う人がいますけれど、これも嘘です。だって、イエス様が再臨されたなら、復活という出来事が起きなければならないのに、起きていないでしょう。
 さて、イエス様がいつ来られるのか分かりませんので、キリスト者はいつイエス様が来られてもよいように、日々の生活を整えて、信仰の歩みをたゆみなく為していくしかありません。それがキリスト者の歩みです。
 また、このように考えることも出来ます。イエス様がいつ来られるのかは分からないけれど、私共の肉体の命の終わりが来るということは分かっている。だから、その日まで、神様と共に、神様の御前を、為すべきことを誠実になして歩んで行こう。そのような生き方がキリスト者の生き方となりました。先に召された信仰の先達たちも、そのような「信仰の構え」をもってこの地上の生涯を歩み通されたのでしょう。
 私共は欠点のような所にばかり目が向きがちです。まして、肉親となりますと、近くで見ているものですから、欠けばかりが目につくということがあるかもしれません。先に天に召された信仰の先達に対して、そんな偉いキリスト者ではなかった、と思う方もおられるでしょう。確かに、私共は欠けに満ちた者です。しかし、神様は私共をそのようには御覧になりません。勿論、神様はすべてを御存知です。すべてを御存知の上で、イエス様の十字架の故に、私共の一切の欠けと過ちを赦してくださり、御許へと召してくださいます。主の日の度ごとに、ここに集って主を礼拝していたことを、神様は決して忘れません。「あなたはわたしの招きに応えて、主の日の度にわたしの前に集った。わたしはそれを忘れはしない。それと同じように、わたしは地上での命が閉じられたあなたを招き、わたしの許に召し集めよう。わたしの平安の中に憩いなさい。」そう神様は私共を招いてくださいます。
 私共はこの地上の生涯において、こんなはずではなかったと思うこともあります。一生懸命やったのに少しも報われないということもあるでしょう。無駄なことばかりをしているように思うこともある。でも、すべてを御存知である神様がすべてを受け止めてくださいます。ですから、私共が為すことは何一つ無駄になることはありません。そのことを心に刻んで、主が喜ばれることを精一杯為しつつ、今日から始まる新しい一週も御国に向かって歩んでまいりましょう。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 私共は今朝、あなた様を愛し、信頼し、従いつつこの地上の生涯を歩んだ、敬愛する信仰の先達たちを覚えて御言葉を受けました。イエス様は再び来られます。その時、あなた様を「父よ」と呼びつつこの地上の生涯を歩んだ者たちは、一人も抜け落ちることなく、イエス様に似た者とされて復活します。この希望をもって、私共も残されたこの地上の生涯を、御国を目指して、一日一日あなた様の御前に確かな歩みをしていくことが出来ますように、聖霊なる神様が私共を導いてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年10月29日]