1.はじめに
キリスト者はどのように生きるのか。それはイエス様の言葉、イエス様の歩みと結びついています。イエス様を抜きにして、キリスト者の歩むべき姿を考えることは出来ません。それは、キリスト者とはイエス様と一つにされた者だからです。イエス様と一つにしていただいたからこそ、イエス様の十字架が私共の十字架となり、イエス様の復活が私共の復活となった。ですから、このイエス様の救いに与ったキリスト者は、イエス様の言葉によって、またイエス様の歩みによって示された道を歩む者とされています。
ペトロの手紙一を読み進めながら共々に御言葉を受けていますが、前回は、キリスト者は御国を目指す「旅人」であり「寄留者」なのであって、この世の肉の欲に引きずられてはならない、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と告げられました。更に、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」と告げられました。それは、キリスト者はイエス様によって救われ、全き自由を与えられましたが、その自由を神様の僕として行動するために用いる、仕える者として歩む者となったと教えられました。
そして、13~14節に記されている「皇帝であろうと、…総督であろうと、服従しなさい。」という御言葉は、現代では大変評判が悪い言葉です、とも申し上げました。今朝与えられている御言葉も、やはり現代では評判が良くない御言葉です。どうして評判が悪いのかといえば、現代人の感覚や常識と合わないからです。しかし、この「どうして聖書はこんなことを告げるのだろうか。」という疑問、あるいは心にザラザラしたものを感じるような御言葉に出会うのは、とても大切な機会です。それは、その御言葉からとても豊かな恵みの世界が広がっていくからです。この御言葉に対しての疑問やザラザラした感じというのは、御言葉が私共に告げようとしていることに対して、私共がよく分かっていないからそう感じるわけでしょう。ですから、この御言葉が私共の心に納まる、ピタッとくる、そうなれば私共はまた一つ神様の御心を受け止めることが出来たということになるからです。
2.主人に従いなさい
今日与えられている御言葉はこう始まっています。18節「召使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。」これだけでも、えっ!???と思いますが、更に「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」とペトロは告げます。「召使い」と訳されている言葉は、奴隷であるには違いないのですが、他の箇所で「僕」と訳されている言葉とは違います。「召使い」と訳されている言葉は、家の仕事をする奴隷のことです。この手紙が書かれた時代、奴隷はすべての産業、またすべての生活の場面におりました。農場などで働く奴隷は、肉体的に相当厳しいものがありましたけれど、奴隷はそのような肉体労働をするだけではありませんでした。家の掃除や洗濯、経理や家の管理を任されている奴隷もいましたし、家庭教師としてギリシャ語や哲学を教える奴隷もいました。ここで「召使い」と訳されているのは、そのような家庭の仕事をしていた奴隷のことです。ここで、「召使い」のような奴隷について記されている理由ははっきりしていると思います。この手紙が書かれた時代、教会にはそのような奴隷がいたからです。しかも、少ない数ではなかった。ですから、奴隷がどのように生きるのか、それはキリストの教会においてとても大切なことだったからです。
現代の日本に奴隷はいません。ですから、直接この御言葉が私共の生活に適用されることはありません。しかし、私共がこの御言葉にざらつきを覚えるのは、奴隷制度の中で苦しんでいる奴隷に対して、仕方がないのだから諦めなさいと言っているように聞こえてしまうからでしょう。まるで主人の側に立っているかのようで、奴隷の側に立って主人に抵抗することなど全く勧めていないからでしょう。これでは奴隷が可愛そうじゃないかと思う。もし、「無慈悲な主人ならば、主人の命令に従わなくて良い」とか「抵抗しなさい」とか記されているならば、「そうだ、そうだ」と思うのかもしれません。しかし、聖書はそうは言いません。ペトロだけではありません。パウロも、エフェソの信徒への手紙6章5~7節で同じことを言っています。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」キリストに従うように主人に仕えなさい、とまで言うのです。これでは奴隷制度を良しとしているのではないか、そのように読む人もいるでしょう。残念なことですが、この御言葉がそのように用いられることがあったことは認めざるを得ません。このように聖書が告げていると言って、奴隷制度に反対することは聖書に反しているとか、御心に反しているとか言うのは間違いでしょう。現代とこの手紙が書かれた状況は全く違うからです。私共はそのような聖書の読み方はしません。
3.不当な苦しみに耐える
ここで思いますことは、私共は奴隷ではありませんけれど、様々な「不当な苦しみ」を味わっているのではないかということです。私共は、ひどい扱いを自分にする「無慈悲な主人」の奴隷ではないですけれど、どうして自分はこんな目に遭わなければならないのかと思うような状況におかれることは、少なくありません。自分をひどい目に遭わせる主人を持った奴隷は、そうではない善良な優しい主人を持った奴隷に対して、きっと「あの人はいいなあ。」「どうして、自分だけこんなひどい目に遭うのだろう。」と思ったでしょう。その心の動きは、私共とて同じです。そもそも、苦しみの中にある人が不当だと思わないような苦しみなどあるのだろうかとさえ思います。私共が痛み、苦しみ、嘆くとき、私共はこれは当然のことなのだとは中々思わないでしょう。そして、そのような状況に、私共は必ずと言って良いほどに出遭うことになります。その期間が何十年と長い人もいれば、1、2年で済む人もいるでしょうけれど、そのような辛い状況に遭わない人はいません。そのような中で、私共はどう歩むのかということです。
聖書はこう告げます。19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」聖書は、その苦痛に耐えなさい、それは御心に適うことなのだ、と言うのです。「御心に適う」と訳されている言葉はそのまま訳せば、「神様の恵みを受ける、神様の感謝を受ける」となります。神様が良きこととして受け取ってくださるということです。つまり聖書は、「わたしはあなたの苦しみを知っている。辛いだろう。でも、あなたはわたしのことを思って、それに耐えている。わたしはそのことも知っている。わたしはそれを嬉しく受け止めている。」そのように神様が受け止めているから、耐えて欲しい。そう告げているのでしょう。ポイントは「神がそうお望みだとわきまえて」ということです。神様がそう求めておられるのなら、耐えます。神様との交わりの中で御心だと受け止めて、耐える。それは神様が喜ばれることだと言うのです。
ただ、どんなに苦しくても我慢しろ、耐えろと言っているのではありません。私共はその苦しい状況から逃げられないことがあります。逃げたくても逃げられない。まさに奴隷はそうでした。当時の奴隷たちは、逃げたくても逃げられないのです。逃げても追われて、捕まって、もっとひどい目に遭わせられる。それが奴隷たちのおかれている状況でした。当時の奴隷に人権など認められていません。家具と同じように、馬や牛と同じように、主人がどのように扱おうと主人の勝手でした。ですから、ひどい主人に当たれば命だって危ない。主人が奴隷を殺しても、罪に問われることはありませんでした。そういう時代でした。そのような状況の中で、苦痛に耐える者に対して、神様は受け止めてくださっている。そう告げているのです。
4.逃げられるのなら、逃げても良い
ここで誤解してはいけないのは、「逃げられるのなら逃げても良い」ということを排除しているわけではないということです。逃げられない苦しみに対しては、神様が受け止めてくださっていることを弁えて、耐えていく。逃げられないのですから、耐えるしかないのです。しかし、その耐えることは、無意味なことではない。神様が知っておられ、受け止めてくださっている。このことを弁えよう、そこに目を向けよう、と言っているのです。
では、逃げられる場合はどうなのか。逃げたら良いのです。自分の心や体や生活が壊れてしまう前に、逃げたら良い。これは大切なことです。現代の私共は奴隷ではないのですから、逃げることが出来るわけです。神様は、どんな辛くても苦しくてもそこで耐え続けよと言われているわけではありません。環境を変える、状況を変える、そういうことが出来るのであるならば、そうしたら良いのです。キリスト者はどんな辛い状況の中でも、耐えなければいけない。それが御心に適うことだ。そんな風に考えてはいけません。キリスト者として、神様の御前における責任ということをきちんと受け止める。それは良いことです。だからといって、自分を壊すようなことになってしまっては、神様を悲しませるだけです。神様は、私共が御国に向かって健やかに歩んで行くことを、何よりも望んでおられるのですから。
5.御心に適うこと=キリストの御足の跡に従う
さて聖書は、耐え忍ぶことは御心に適うことですと告げるとすぐに、キリストを語ります。しかも、十字架に架けられたキリストです。20節b~21節「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」逃れることの出来ない不当な苦しみの中にある奴隷に対して、聖書は「キリストを思い起こすように」と語ります。キリストはあなたのために十字架の苦しみを受けた。それはあなたの模範となるためだったというのです。あなたのためにキリストは苦しまれたけれども、それはあなたが苦しみの中で耐える姿の模範となるためだった。あなたは苦しみに耐える中で、キリストの足跡に続いているのだと告げている。そして、イザヤ書を引用します。苦難の僕の姿です。22~24節「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」と告げます。 キリストの苦しみ、御苦難のキリスト、この御姿にペトロ自身も、自分と重ね合わせたことが何度もあった、そして不当な苦しみに耐えたことがあったに違いありません。使徒言行禄を読めば、使徒たちがどんな不当な苦しみを受けつつ伝道したのかが分かります。使徒言行禄にはペトロ自身の伝道については前半に記されているだけですけれど、同じ時代に伝道したパウロと同じような目に遭ったと想像して間違いないでしょう。ペトロは、ここで不当な苦しみを受けている奴隷のために語っているわけですけれど、その苦しみをペトロは知っていた。そしてペトロも、ただキリストの御姿を仰ぎながら堪え忍びつつ歩んだ。
そして、更にこう続ける。24節「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」この24節は、愛唱聖句にしている方もおられるかもしれません。本当にありがたいことだと、私共がうなずく御言葉です。しかし、この24節は、18節の「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」という、私共の心にざらつきを覚えさせる御言葉との関連で語られています。18節と24節を分けることは出来ません。聖書は、無慈悲な、不当な扱いをする主人を持つ奴隷に対して、「心からおそれ敬って主人に仕えなさい」と告げるのですが、それはイエス様が十字架に架けられるまでの十字架の道行きでお受けになられた苦しみ、はずかしめを思い起こすことによって、自分はキリストの足跡をたどっているのだと受け止めることによって、それを受け入れ、耐えることが出来るからです。乗り越えられるからです。キリストのあの苦しみは、あなたの罪のためではなかったか。あのイエス様の苦しみによって、一切の罪を赦され、あなたは神様のものとされた。そのキリストの苦しみの足跡をたどるようにして、あなたは今、苦しみを受けている。あなたの苦しみは、あなただけの苦しみではない。あなたの前に、キリストが苦しまれた。だから、神の子とされ、罪の赦しを与えられ、永遠の命に与っているあなたは、キリストと一つにされた。一つにされて、同じ苦しみの道をたどっている。キリストは確かに、今、あなたと共におられる。そのことが分かりますか。そう告げているのでしょう。
6.キリストの御傷によっていやされた
私共はキリストの苦しみ、キリストの十字架、キリストの受けた傷によっていやされました。それは、罪に死んで、キリストの義によって生きるという、新しい命に生きる者にされたということです。キリストの癒やし、キリストの赦しに与るまで、私共は苦しいことに遭えば、それがすべてでした。心の中はそのことで一杯になってしまいました。不平と不満と愚痴と投げやりな思いで一杯になってしまっていました。こんな目に遭わせる人は敵だと思い、腹を立て、恨みもしました。眠れぬ夜も過ごしました。しかし、イエス様の救いに与り、今痛めつけられている苦しみが私のすべてではないことを知りました。この苦しみの日々は天の御国に繋がっていることを知ったからです。イエス様が私より先に、この苦しみを味わわれたことを知り、誰も自分の苦しみを分かってくれないと思っていたけれど、そうではない。イエス様は知ってくださっている。そして、この苦しみにおいてこそ、イエス様は私の近くにおられ、私はイエス様と一つとされていることを知りました。使徒パウロがフイリピの信徒への手紙1章29節で「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と告げている通りです。自分の苦しみは、ただ苦しいだけではない。キリスト者としてこの苦しみを引き受けるとき、それは恵みとなるということです。
痛みや苦しみは、私共の生きる力や勇気を吸い取っていきます。しかし、私共はイエス様に癒やされました。私共のまことの羊飼いであるイエス様は、そのような私共に生きる力を、勇気を与えてくれます。こんな私をも神様は決して忘れることなく養ってくださり、天の御国へと導いてくださっている。私は迷える羊ではなく、イエス様というまことの羊飼いによって養われ、導かれる者となりました。イエス様は、23節「苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」だから、私も怨んだり、呪ったり、復讐しようなんてしない。それは神様がなさること。神様がすべてを知っておられるのだから。神様にお任せすれば良い。神様にお委ねすれば良い。そのことを知る者となりました。
7.耐えるも逃げるも同じこと=キリストにあって
キリスト者にとって、逃げられないところで「耐え忍ぶこと」も、逃げられるなら「逃げる」ということも、実は同じことなのです。キリストの御苦しみを思い、この方によって神様のものとされたことを受け取る者にとって、こうでなければならないということなど何もありません。逃げられないのであれば、神様が耐える力をも与えてくださると信じて、その苦しみの中でこそキリストと共にあることを受け止めて歩みます。しかし、逃げられるのであれば、神様が新しい道を開いてくださると信頼してその場から離れれば良い。どちらにしても、神様を信頼しての歩みです。ここが肝心なところです。勿論、具体的な局面においてどうすれば良いのか、留まるべきか、逃げるべきか、どっちに決断するべきなのか迷い、悩むということはあるでしょう。私も悩んで他の牧師に相談することもありますし、相談を受けることもあります。人は中々自分のことはよく分からないものだからです。私も自分のことになると、さっぱり分からなくなってしまいます。相談しても、すっきり決められるわけではありません。ただ、どう決断するにせよ、「こっちの方が自分にとって得だ、損だ」という視点では決めないことです。御心にかなっているのはどっちなのか。その一点に立って、神様を信頼してどちらかに決めます。そして、決めたならば、神様が必ず良いようにしてくださることを信じて歩む。そして、その結果については「神様の御心」として受け止めていくという覚悟が必要です。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
今朝あなた様は、逃れられない苦しみの中で、イエス様を思って耐え忍ぶことを教えてくださいました。苦しみも嘆きも、私共の人生において消し去ることの出来ないものです。どうか、私共がそれに潰されることがありませんように、上からの力を与えてください。そして、あなた様は同時に逃げることも教えてくださいました。耐えるにしても逃げるにしても、あなた様の確かな導きを信頼して歩んでまいりとうございます。そこにこそ、イエス様によって救われた私共の、新しい命の営みがあるからです。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2023年11月19日]