1.はじめに
今朝は11月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けていきます。サムエル記上の18章です。10月の最後の主の日は召天者記念礼拝でしたので、別の箇所から御言葉を受けました。ですから、前回、サムエル記上17章から御言葉を受けたのは、9月の最後の主の日でした。2ヶ月前ですので、少し振り返っておきましょう。
17章はダビデとペリシテの大男の戦士ゴリアトが戦った場面でした。ダビデは鎧も着けず、剣も持たず、石投げ紐と石一つでゴリアトを倒しました。このイスラエルとペリシテの全軍勢が見ている前での一騎打ち。ダビデがゴリアトを倒したことによって、イスラエルは鬨の声を上げてペリシテ軍に襲いかかり、ペリシテ軍は敗走しました。ダビデはイスラエルに大勝利をもたらしました。これがダビデのデビュー戦でした。
2.愛されるダビデ① ヨナタンとミカル
このような鮮烈なデビューをしたダビデを、サウル王が放っておくはずがありません。サウル王は当然、自分の家来として召し抱えました。このダビデを誰よりも愛し、信頼したのは、サウル王の息子ヨナタンでした。1節を見ますと「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」とあります。ダビデとヨナタンの話は今朝はあまり触れませんけれど、サウル王の息子ヨナタンとダビデの間に結ばれた友情は、聖書の中の最も美しい話の一つです。ヨナタンは普通に考えれば、サウル王の跡取りであり、次のイスラエルの王になる人でした。ダビデは羊飼いです。しかし、ヨナタンはそんなことには頓着せず、ダビデを愛し、ダビデが父サウルに殺されそうになる時も、ダビデを何度も逃がしました。3~4節には、「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。」と記されています。この時ダビデはまだ羊飼いの格好をしていました。ヨナタンは王の息子ですから、立派な装束や武具を持っていたことでしょう。それをすべてダビデに与えるほどに、ヨナタンはダビデを愛しました。「ダビデを自分自身のように愛し」と二回繰り返されています。
ヨナタンだけではありません。今朝お読みしましたすぐ後の所、20節には、「サウル王の娘ミカルはダビデを愛していた。」と記されています。ダビデはこのミカルと結婚することになるのですが、ミカルもまた、ダビデの命がサウル王に狙われたときに、ダビデを逃がします。
ダビデはやがて全イスラエルの王となるのですけれど、それはもっと後の話です。ダビデはサウル王の息子ヨナタン、そして娘ミカルに愛されました。それだけではありません。今朝与えられた御言葉には、ダビデがどれほど多くの人たちに愛されたかということが記されています。
3.愛されるダビデ② 兵士・女たち
ダビデを愛したのは、サウル王の家族だけではありませんでした。5節を見ますと、「ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。」とあります。サウル王に召し抱えられると、サウル王に派遣されてダビデは次々と戦場へ赴きました。そのダビデの働きは目覚ましく、ダビデはそのたびに勝利していきました。そして、ダビデは遂に「戦士の長」に任命されます。それをすべての兵士は支持し、サウルの家臣たちも喜んだのです。更には、13節を見ると「千人隊の長」に任命された、とあります。千人隊長というのは、千人の兵士の長ですから、今で言うところの司令官の一人になったということでしょう。ダビデはゴリアトとの戦いで、ひとりの戦士として強いことは証明されていましたけれど、兵士たちを統率して戦いに臨んでも強かった。このダビデの活躍は、全イスラエルに喜ばれ、ダビデは瞬く間に時の人、スターになりました。
ダビデがどれほどイスラエルの人々の心を虜にしたか、6~7節を読むと分かります。「皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。』」サウル王とダビデが凱旋してくると、女たちは歌い、踊り、太鼓を叩き、まさにお祭り騒ぎで迎えました。戦いに勝利するということは、何よりもめでたい、嬉しいことでしたから、これ自体は普通のことでした。しかし、「イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て」というのは、ちょっといつもとは違う感じです。まさにダビデがイスラエルのスターになった時でした。
16節を見ると、「イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。」とあります。ダビデは出陣の時も凱旋する時も、人々の先頭に立ち、一身に称賛を浴びました。女性たちの黄色い声に包まれて、まさに全イスラエルの大スターです。
実に、ダビデはサウル王の家族に愛され、兵士たちに愛され、サウルの家臣に愛され、女性たちに愛され、人々に愛されました。ダビデの前途は洋々と開けているように見えました。
4.ダビデとサウル① ねたみ
ところが、ここでダビデの人気ぶりに面白くない思いを抱いた人がいました。それがサウル王でした。きっかけは、女たちの歌った歌でした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」これを聞いたサウル王は激怒し、悔しがりました。ダビデは若いし、サウル王はもう中年のおじさんです。女たちにダビデの方が人気があっても当然で、これと張り合おうとする方がおかしいでしょう。それに、ダビデはサウル王の家来なのですから、サウル王は「ダビデよ、良くやった。」と言って鷹揚に構えていれば良いものをと思います。けれど、サウル王はそうではなかった。8~9節「サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」とあります。サウル王は、このままではダビデにイスラエルの王座を奪われると思ったんですね。ダビデはそんなことは思っていなかったし、人々もそんな風に思っていたわけではありません。しかし、サウル王はそう思った。そして、ダビデを「ねたみ」の目で見るようになったのです。
ここからのサウル王の行動は尋常ではありません。異常です。狂気を帯びていきます。サウル王は以前から悪霊にさいなまれるようになっていましたが、そのような時はダビデがそばで竪琴を奏で、癒やしておりました。ところが、この次の日にはサウル王は槍を手にして、ダビデを壁に突き刺そうとして槍を振りかざしたのです。ダビデは身をかわして難を逃れました。この時から、サウル王はダビデの命を執拗に狙うようになりました。後にダビデはサウル王の娘ミカルの夫になる、つまり義理の息子になるのですけれど、それでもサウル王はダビデの命を狙い続けます。当然、ダビデはサウル王のもとにいることは出来なくなり、逃げます。それでもサウル王はダビデを執拗に追いかけ、ダビデをお尋ね者にしてしまうのです。結局、31章でサウル王がペリシテとの戦いの中で命を落とすまで、それは続きました。
「ねたみ」というものは恐ろしいものです。自分を制御出来なくなるほどに激しい、ネガティブな感情です。相手を葬り去るまで納得しない。そして、このサウル王の「ねたみ」の原因は、自分の地位をダビデが奪うのではないかという不安、恐れがありました。
5.ダビデとサウル② 神の選び
台頭してくるダビデと「ねたみ」に我を忘れてしまうサウル王。この二人の違いの根本にあるのは、「神様の選び」でした。サウル王は神様に選ばれて初代のイスラエルの王となりました。初めの頃は良かったのです。しかし、15章にありますアマレクとの戦いにおいて、サウル王は神様の言葉に背き、羊や牛の最上のものなどを惜しんで滅ぼさず、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くしました。ここから、神様はサウルをイスラエルの王としたことを悔います。そして16章で、神様はサウル王の次の王としてダビデを選び、サムエルによってダビデは油を注がれました。そのことが、今日与えらた御言葉の12節「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られた」という言葉に表れています。主がダビデと共におられた故に、ダビデは戦いにおいて目覚ましい活躍をすることが出来ました。そして、サウルには悪霊が激しく降るということに表れたわけです。実は、アマレクとの戦いの後、サウルはサムエルからはっきりこう告げられていました。15章28節「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたより優れた隣人にお与えになる。」この言葉が、サウル王の頭から消えることはありませんでした。ダビデの台頭を目の当たりにした時、サウル王は「神様はわたしからイスラエルの王国を奪い、ダビデに与えようとしている。」と確信したのでしょう。それは15節の「サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。」という言葉に示されています。ダビデが勝利するのを見て、みんなは喜びました。しかし、サウル王だけは喜べませんでした。喜べないどころか「彼を恐れた」のです。ダビデこそ、自分に代わってイスラエルを治めるために神様に選ばれた者だと確信したからです。だから、彼はダビデを殺さないではいられないほどの思いに駆られてしまったのです。
しかし、神様の選びが自分からダビデに移ったということを自覚したのならば、サウル王が取るべき道はたった一つだったはずです。それは、自分がイスラエルの王座から退き、ダビデにその王座を明け渡すこと。しかし、彼にはそれが出来ませんでした。元々、ただ神様に選ばれてイスラエルの王になったサウルでした。それまでの実績など何もない、一番小さな部族のその中でも一番小さな一族の若者に過ぎませんでした。全イスラエルを治める王になるなど考えられない者でした。それがある日突然、神様に選ばれてイスラエル王として立てられることになってしまった。イスラエルの王という地位は、彼が努力して勝ち得たものではありません。ですから、神様の選びがなくなったのならば退いたら良い。それだけのことだったはずです。ところが、サウル王にはそれが出来なかった。王になったばかりの頃ならば、それも出来たかもしれません。しかし、長くイスラエルの王であり続ける内に、いつの間にかイスラエルの王という地位・立場を自分のものであるかのように思い違いをしてしまったのです。そして、たとえそれが神様の御心であろうとも、王座を譲るなどということは絶対に出来ない。つまり神様の御心に従えない者になってしまっていた。その神様の御心に従えないサウル王の心を、聖書は「ねたみ」という言葉で表現しているわけです。この「ねたみ」「嫉妬」という黒い心の思いの根っこには、神様の御心に従おうとしない罪があるということを聖書は見ているのです。
6.「ねたみ」とイエス様
サウル王は「ねたみ」の思いに心が囚われ、ダビデを殺そうとしたわけですけれど、聖書においてこの「ねたみ」の思いに囚われた一群の人たちのことが記されている所があります。それが、先ほどお読みいたしましたイエス様が十字架に架けられることになった、総督ピラトよってイエス様が裁かれる場面です。マルコによる福音書はこう記しています。15章6~10節「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」ここではっきり、「祭司長たちがイエスを引き渡したのはねたみのためだと分かっていた」と告げています。この「祭司長たち」とは、祭司や祭司長そして長老、律法学者たちのことでしょう。つまり、イエス様を死刑にすべしと決めた最高法院と訳されているユダヤの自治組織を仕切っていた人たちです。彼らはイエス様の何を「ねたんだ」のでしょう。一つには、奇跡を起こすことが出来るイエス様の圧倒的な力があったでしょう。彼らにはそんな力はありませんでした。二つ目には、律法学者たちがイエス様を陥れようとして仕掛ける議論を簡単に論破してしまう圧倒的な知恵があったでしょう。彼らは、自分たちは律法を隅々まで知っているし、律法を正しく解釈出来るのは自分たちしかいない。そう思っていました。その彼らの考え抜いたイエス様を陥れるための罠を、イエス様はスルリと抜けてしまう。しかも人々の前でです。彼らは恥をかかされ、その権威は失墜してしまいました。そして三つ目、そのようなイエス様を圧倒的に支持する民衆というものがあったでしょう。イエス様の後をついていく民衆、イエス様を大歓迎する民衆がいました。
彼らはイエス様をねたんで、十字架に架けて殺しました。ひょっとすると、サウル王と同じように、彼らの中にはイエス様が待ち望んでいた救い主かもしれないと思っていた者もいたかしれません。ニコデモやアリマタヤのヨセフなどです。しかし、もしイエス様が救い主であることを認めたならば、祭司長も長老も律法学者たちもみな自分たちの場所をイエス様に明け渡さなければなりませんでした。しかし、それは出来ません。それで、十字架に架けて殺しました。この「ねたみ」にも、神様の御心に従うよりも自分の地位・立場を守ろうとする人間の罪が示されています。
7.ねたみ心に支配されてはならない
さて、ダビデとサウルですが、神様の選びがサウルからダビデに移ったことを、私共は聖書を読んでいるので分かります。しかし、同時代に生きていた人たちは分かったでしょうか。今朝与えられた御言葉だけを見るならば、ダビデは台頭し、サウル王はそれに脅えています。しかしこの後、ダビデは、サウル王に追われて、放浪すると言っても良いような歩みをしていきます。そして、サウルはイスラエルの王様で、ダビデはお尋ね者になってしまう。そうなると、当時の人たちにとって、ダビデに神様の選びがあるのは明らかであるとは言い切れなかったと思います。この時、それをはっきり分かっていたのはサムエルだけだった。サウル王もダビデも、そうだろうとは思っていたかもしれません。しかし、それ以外の人はまず分からなかった。そして、それが私共の生きている現実でしょう。神様の選びはあります。しかし、それが具体的に誰にどのように神様の選びがあるのか、そう分かるものではありません。
しかし、ここではっきり言えることがあります。それは、「ねたみ心に支配されてはならない」ということです。人と自分を比べて、うらやましいという思いを持つことは誰にでもありましょう。しかし、それが「ねたみ」というものにまでなってはならない。相手を全否定して、亡き者にしようとするような思いに囚われてはならないということです。そこに働いているのは、聖霊ではなく、悪霊だからです。私共は聖霊の導きの中に生きるようにと招かれた者です。そうである以上、自分の中にねたみ心が湧いてくるようなことがあるならば、これと戦い、これを退け、たとえ辛い選択であろうとも、神様が求めておられる道を歩む。自分が手放さなければならないものがあるのならば、その後のことは主に委ねて手放していく。それが私共に求められていることなのではないかと思わされるのです。人は一度手に入れたものを、中々手放すことが出来ないものです。しかし、私共が手に入れたと思っているもので、神様に与えられたものでないものがあるでしょうか。みんな神様に与えていただいたものです。だったら、神様にお返ししたら良い。それで私共がねたみ心から解き放たれるのであるなら、それに越したことはありません。
8.イエス様はすべてを手放した
「ねたみ心」と無縁だった方が一人おられます。それはイエス様です。どうしてイエス様は「ねたみ心」と無縁でいられたのか。それは、イエス様はクリスマスに馬小屋にお生まれになったときから、すべてを手放しておられたからです。フィリピの信徒への手紙2章6節以下にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」この言葉は、パウロがこの手紙を書いたときに、主の日の礼拝の中でキリストを誉め讃える賛歌として歌われていたものだったと言われています。イエス様は天地を造られた神様の独り子でしたから、元々すべてをお持ちでした。神の栄光、神の力、神の知恵、永遠の命、永遠の平安、永遠の祝福。しかし、イエス様はそのすべてを手放されました。イエス様は「神の身分」も「神と等しい者であること」も手放されて、「自分を無にし」「僕の身分」「人間と同じ者」になられた。しかも、「十字架の死」によって命さえも手放されました。どうしてか。それが神様の御心、神様の選びだったからです。そして、イエス様がすべてを手放して貧しくなられたから、私共が豊かにされました。神の子としていただき、天の資産を受け継ぐ者としていただきました。このイエス様が「我に従え」と招いてくださっています。ねたみ心に支配されてしまうくらいならば、このイエス様に倣って、手放したら良いのです。そこに、私共が神様の御前で「高くしていただく道」が、御国への確かな道が開かれていきます。私には何もない。それで良いのです。イエス様が何もない者として、馬小屋に生まれてくださったのですから。私共はこのお方に従っていけば良い。そこに、まことの平安への道が開かれています。
お祈りいたします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
あなた様は今朝、私共がねたみの心から解き放たれていくようにと、招いてくださいました。私共は、自分が持っているようで、実は自分が持っているものに囚われてしまっています。そのような私共を解き放ち、ただあなた様だけが私共の主、私共の王であられることを新しく教えてくださいました。ありがとうございます。どうか、私共が自分で握りしめているその手を離し、あなた様が導いてくださる御手に抱かれて、御国への道を健やかに歩んで行くことが出来ますように、心より祈り願います。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年11月26日]