日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「受胎告知 ~神に出来ないことは何一つない~」
サムエル記下 7章8~17節
ルカによる福音書 1章26~38節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
今日からアドベントに入ります。一昨日から教会の前に電飾が点りました。そして、昨日は富山市民クリスマスがありました。今日は教会学校の子どもたちによってクリスマスツリーが飾られます。これからクリスマスの行事が目白押しになります。毎年、アドベントに入る頃になりますと、「もうクリスマスだ。早いな。」と思います。皆さんも、そう思われるのではないかと思います。私共は当たり前のように毎年アドベントを迎え、クリスマスを迎えます。しかし、イエス様がお生まれになったクリスマスの出来事は、たった1回、一度きり。繰り返されることのない、1回限りの出来事でした。それは、イエス様が私共のために十字架にお架かりになったあの出来事は、二度と繰り返す必要のない、すべての人に完全な罪の赦しを与える出来事だったからです。神の御子イエス様の誕生というクリスマスの出来事は、このイエス様の十字架の出来事と切り離して受け止めることは出来ません。あの十字架にお架かりになるイエス様がお生まれになった。私のためにお生まれになった。神の独り子が天から降り、人間として誕生されたのは、私のために十字架にお架かりになるためでした。アドベントの忙しさの中でこのことを見失うことなく、このことをしっかり受けとめる時としてアドベントの日々を過ごしてまいりたと思います。

2.神様の永遠の御計画の中で
今年クリスマスに向けて与えられております御言葉はルカによる福音書です。ルカによる福音書は、イエス様の誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生をイエス様の誕生と同じくらい丁寧に記しています。イエス様の誕生の前に洗礼者ヨハネが生まれなければならなかった。それは、預言者イザヤによって、「主に先立って行き、道を整える者」が現れることになっていた(イザヤ書40章3節)からです。救い主であるイエス様の誕生の出来事は、たまたま偶然に起きたというようなことではなくて、長い長い神様の御計画の中で、遂に時満ちるに及んで実現したことであったということを、このことは示しています。これはとても大切な点です。イエス様による神様の救いは、旧約の歴史の中で預言されていたことの成就であったということ、神様の永遠の御計画の中の出来事であったということです。
 天使ガブリエルがマリアに告げた言葉を見てみましょう。31~33節「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」これは何を告げているかと言えば、先ほどお読みしましたサムエル記下7章において、預言者ナタンがダビデに告げたこと、いわゆる「ダビデ契約」と言われるものですが、この預言者ナタンが告げたことの成就として、マリアは男の子を産むと告げられているわけです。ナタンはダビデにこう告げました。サムエル記下7章11節b~16節「主はあなた(=ダビデ)に告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。… あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」ここで神様は預言者ナタンを通して、「あなた(=ダビデ)の身から出る子孫に跡を継がせ」る、「彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」、「あなたの家、あなたの王国はとこしえに続き、あなたの王座は堅く据えられる」と約束されたわけです。つまり、ダビデに対して「ダビデ王家を興し、そのダビデ王家をとこしえに堅く据える」と約束されました。しかし、実際はどうだったでしょうか。ダビデの子ソロモンまではイスラエル王国は一つでしたけれど、その後二つに分裂し、南ユダ王国はダビデ王家が王様となって存続しますけれど、それも紀元前587年にバビロンによって滅ぼされてしまいました。その時起きたのがバビロン捕囚です。では、この「ダビデ契約」と呼ばれる神様の約束は反故にされてしまったのでしょうか。そうではありません。この神様が約束された王国は地上の王国ではなく、神の国、神の王国であり、ダビデの子孫からこの神の国の王が生まれ、その王座はとこしえに堅く据えられる。その神の国のまことの王としてイエス様が生まれる。そして、マリアはそのイエス様の母となるのだとガブリエルは告げたのです。イエス様によってもたらされる神の国は、とこしえに堅く据えられ、その御国は終わることがありません。

3.神様の選びによって
 さて、この神様の永遠の御計画の中で、預言者ナタンの預言の成就としてイエス様はお生まれになったわけですが、その時に神様に選ばれてイエス様の母として立てられたのがマリアでした。神様がその御計画に従って御業をなさるとき、必ずそのために選ばれ、立てられ、用いられる者がいます。この時はマリアでした。そして、ここには記されておりませんが、マリアの許婚であったヨセフです。マリアが母となり、ヨセフが父となり、イエス様が生まれ、育まれ、育てられます。神様の御業は多くの場合、人間を用いて為されます。その時、神様の御業に用いられる者が選ばれ、立てられるということが必ず起きます。例えば、神様が神の民を興そうとされたときに選ばれたのがアブラハムでした。イスラエルの民をエジプトから導き出そうとされたときに選ばれたのがモーセでした。そして、神の民を悔い改めへ導こうとされたときに選ばれたのがイザヤやエレミヤといった預言者たちです。また、イエス様の福音を異邦人にまで、地の果てまで宣べ伝えようとしたときに選ばれたのがパウロであり使徒たちでした。このように、聖書には、神様に選ばれて立てられたおびただしい人たちのことが記されています。この人たちは皆、突然、一方的に神様によって召し出され、立てられ、用いられていきました。

4.どうして自分が?
 この時のマリアもそうでした。突然、天使ガブリエルがマリアの所に来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げます。天使が現れただけでも、マリアにとっては驚くべきことであり、十分恐ろしかったことでしょう。それに、マリアは天使が告げる「おめでとう、恵まれた方。」という言葉が何を意味しているのか分かりませんでした。ですから、彼女は戸惑い、何のことかと考え込んでしまいます。すると天使はこう続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」いよいよ何を言われているのか分かりません。マリアはまだ結婚していないのですから。更に天使は続けます。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは、この時天使が何を言っているのか、さっぱり分からなかったことでしょう。ただ、自分が男の子を産むなんて、まだ結婚もしていないのにあり得ない。これだけは、はっきり分かったと思います。しかし、天使が告げる「その子はいと高き方の子」つまり「神の御子」と言われるとか、「彼に父ダビデの王座をくださる」とか、「彼は永遠にヤコブの家を治める」とか、「その支配は終わることがない」とか、それは全く何を言っているのか分からなかったと思います。まして、これが旧約において神様が約束されたことの成就であるなんて、全く分からなかったと思います。この時、マリアは12、3歳ぐらいだったと考えられています。マリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と応えるのがやっとでした。それに対しての天使の答えは、マリアの想像を遙かに超えたものでした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」天使ガブリエルは、聖霊がマリアに降って、「いと高き方の力」つまり神様の力があなたを包む、要するに、聖霊によって、神の力によって、あなたは身籠もり、子どもを産むと告げたのです。これは、常識を越えたこと、普通の感覚で受け入れることなどとても出来るはずのないことでした。

5.神の業によって
 ここで、マリアは天使によって全く別の所へと導かれていきます。マリアが生きている日常という世界から、神の御前へと天使はマリアを導きます。この神の御前においてこそ、神様は永遠の御計画を持ち、その御計画を実現するために神様は事を起こし、神様がすべてを支配されていることが明らかになります。私共が生きているこの世界は、本来そういう世界なのですけれど、私共は常識という眼鏡や日常の感覚というものによって、この世界が神様によってすべてを完全に支配されていることを意識しないで生活しています。神様のお働きが隠されている。私共は通常、そのようにこの世界を見ています。そのような世界では、処女が身籠もるなどということは起こり得ません。
 しかし、ここでもう日常の感覚では捉えることの出来ないことが起きています。それが天使です。天使が現れて、マリアに語りかけています。これは常識の中の出来事ではありません。マリアはこれをどう受け止めれば良いのでしょう。マリアは混乱したでしょう。そのマリアに対して、天使は告げます。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」これは、既に高齢になっていた女性エリサベトが洗礼者ヨハネを身籠もったという出来事を指しています。エリサベトとマリアは親類でした。親戚の間では、エリサベトのことは評判になっていたはずです。人々はあり得ないことが起きたと喜び、エリサベトの噂をしていたことでしょう。マリアも当然、このことは知っていました。天使は、「あれが神様の御業だ。」と、マリアに告げたのです。そして、マリアの上にも、その神様の御業が為されるのだと告げたわけです。天使は、神様が御心のままに事を起こされるお方であること、全能の御力をお持ちであることを、エリサベトが身籠もったことによって示しました。そして、「あなたは今、この世界を造り、すべてを支配しておられる神様の御前に立っている。あなたは神様によって選ばれ、立てられ、神様の御業に用いられようとしている。この神様の御心をあなたは受け入れるか。」そのように天使はマリアに問いかけたのでしょう。

6.神にできないことは何一つない
天使ガブリエルはマリアを神様の御前に引き出し、マリアを納得させる決定的な言葉としてこの言葉を告げました。「神にできないことは何一つない。」この言葉は、99歳のアブラハムと89歳のサラに「来年の今ごろ、男の子が産まれるでしょう。」と主に告げられたとき、サラはその言葉を信じられずに、そんなバカなことがあろうかと思ってひそかに笑いました。その笑いをとがめて主が告げられた言葉「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18章14節)と同じです。どちらも、神様の全能の力を信じられず、自分の常識の中に神様を閉じ込めようとしたときに、また神様抜きの日常の世界だけに生きようとしたときに、それを打ち破るようにして神様によって告げられた言葉です。この言葉は、単に神様の力が全能であるということだけを告げているわけではありません。神様は御計画を持っておられ、それを実現するためには何でもなさるし、何でもお出来になる。そして、完全な神様の御支配というものが為されていくことを告げたのです。そして、天使はこの時、何よりも「マリア、あなたはこの神様の御業のために選ばれました。あなたは、全能なる神様の御業の中に、神様と共に生きていきますか。それとも、神様など関係ない世界に生きていきますか。」そう天使は、マリアに迫ったのです。
 このように神様に迫られた時、人間には選択の余地はありません。人が神様の御業のために選ばれ、立てられるために神様に召されることを「召命を受ける」と申します。先ほど神様の御業に用いられるために神様に選ばれた人たちの名前を挙げましたけれど、彼らが召命を受けたとき、神様の御業に用いられることを拒否する、神様の召命を断るという選択があり得たでしょうか。ありませんでした。多少の抵抗はしても、神様からの召命を受けたなら、人間はそれを受けるしかありません。それは、聖なる神様の御臨在のもとで、圧倒的な権威と力をもって「召命」を受けたならば、ちっぽけな人間は受けるしかない。マリアもまた、この時天使の言っている意味はよく分からないにせよ、そしてこれからどうなっていくのか分からないにせよ、神様が聖なる力と権威をもって、私を選び、召しておられるということははっきり分かった。そして、マリアはその召命を受け止め、従いました。この場面は「受胎告知」と呼ばれ、多くの絵にも描かれてきた場面です。けれど、今お話ししたような意味では、この場面は「マリアの召命」と言い換えても良いでしょう。

7.お言葉どおり、この身に成りますように
 この時、マリアが天使に告げた答えが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」でした。ここでマリアが「わたしは主のはしためです。」と告げたことについて、「マリアは何と謙遜な人だ。」と読む人がいますが、そうではないでしょう。マリアは神様の御前にへりくだったのではありません。マリアはここで、圧倒的な神様の偉大さ、御力、栄光を前にして、自らの小ささを徹底的に思い知らされた。そこで出て来た言葉が「わたしは主のはしためです。」でした。これは、マリアが神様に降参した言葉です。「分かりました。神様、わたしの負けです。わたしをあなた様の御業のために用いてください。」とマリアは言ったのです。これは、イザヤが召命を受けたときの言葉「『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。…』…そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。…』…わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」(イザヤ書6章5~8節)と同じように受け取って良いでしょう。ちなみに、英語訳の聖書の中で最も広く用いられているものの一つに New King James Versionというものがありますが、それによるここの英語訳が”Let it be "なんですね。ビートルズのあの名曲「Let it be」です。「御心のままに」という感じでしょうか。マリアは自分自身を捧げて、神様の御業の舞台となることを受け入れたわけです。

8.召命を受けた者として
 さて、私共も神様に召し出されて、キリスト者になりました。しかし、具体的に、神様が私をどのような御業のために用いようとされているのか。はっきり示された人もいるでしょうし、まだはっきりとは示されていないという人もいるでしょう。この神様の召命というものは、色々なあり方で示されます。百人百様です。ただ知っておきたいことは、この神様の召命というものには、「本人の自覚」と「客観的な事実」という二つの面が揃って、初めて召命となるということです。この二つの面は時間的にずれることもあります。例えば、伝道者などは本人の召命の自覚から始まりますけれど、その後で神学校での学びや検定試験・准允・按手や教会からの招聘という客観的な面が伴っていかなければなりません。逆に、牧師婦人のように、牧師との結婚という客観的な面が先に備えられ、それから「ああ、自分はこういうあり方で神様と教会に仕えていくように召されたのだ。」と受け取る場合もあります。長老・執事の方で、始めて教会総会で選ばれる前に、自分は「長老として召されている」「執事として召されている」、そう自覚している人はいないでしょう。でも、選ばれ、「自分は神様に召されたのだ」と受け止める。そういうものでしょう。もし、長老や執事に選出されて「どうして自分のような者が…」と思われたなら、ちょっと僭越でしょうが、「マリアと同じだ」と思っていただいたら良い。マリアだって、「どうして自分が…」と思ったでしょう。でも、召命として受け止め、イエス様の母となった。私共は、神様の召命に応えるとき、「神にできないことは何一つない。」という全能の父なる神様の御力によって守られ、支えられ、健やかに、神様に、教会に、そして隣人にお仕えしていくことが出来るのでしょう。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 今朝あなた様は、マリアの召命の場面から御言葉を与えてくださいました。感謝します。あなた様は私共一人ひとりを召し出し、イエス様の救いに与らせてくださいました。どうか、私共に明確な召命を与えてくださり、私共があなた様の召命にしっかり応えていくことが出来ますように。どうか私共をあなた様の救いの御業に用いられる者として、存分に用いていってください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年12月3日]