日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「平和の道へ導く」
イザヤ書 40章1~9c節
ルカによる福音書 1章67~80節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 アドベント第三の主の日を迎えています。昨日は富山の三教会合同の中高生クリスマス会が行われました。その後、キャロリングで6軒の家を回りました。昨日だけで、20曲くらい讃美歌を歌いました。今日の午後は子どものクリスマス会が行われ、CSの子どもたちがミュージックベルの賛美演奏を行います。クリスマスの讃美歌を歌い続ける日々です。スーパーに買い物に行っても、クリスマスの讃美歌が一日中流れています。クリスマスのシーズンは讃美歌の季節と言っても良いほどです。神様を賛美しつつこの季節を歩んで行くことは、御心に適ったことだと私には思われます。それは、聖書に記されているクリスマスの出来事、またそれに繋がる様々な出来事が賛美と共にあったことを告げているからです。

2.先週の御言葉を振り返って
 先週私共は、洗礼者ヨハネの誕生の記事から御言葉を受けました。聖所で天使によって告げられた、高齢となった妻エリサベトが子を生むということを信じることが出来なかった祭司ザカリアは、10ヶ月の間、話すことが出来なくなりました。この10ヶ月の間、妻エリサベトのお腹はどんどん大きくなっていきます。天使の告げたことが本当だったことは、疑いようがありません。この10ヶ月間は、ザカリアにとって、天使が告げたことを思い巡らし、神様の御心を探り、生まれてくる我が子は何者であり、どんな使命があるのか、祭司としての知識を総動員して考え続けた時でした。そして、遂に我が子が誕生します。天使は「この事(=エリサベトが子どもを産むこと)の起こる日まで話すことができなくなる。」(20節)と告げましたが、エリサベトが出産するとすぐにザカリアは話せるようになったわけではありませんでした。彼の口が利けるようになったのは、子が生まれて8日目の割礼を受ける日、子に名前を付けた時でした。人々が集まり、その子に「ザカリア」という名を付けそうになった時、妻エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と毅然と告げます。そして、人々がザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねると、ザカリアは口が利けませんから、字を書く板を持ってこさせ、そこに「この子の名はヨハネ」と記しました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始め」ました。我が子をヨハネと名付けることによって、「その子をヨハネと名付けなさい。」(13節)という天使の言葉にザカリアが従うという意思がはっきりと示されたからです。そして、この時に神様を賛美した歌が、今朝与えられている御言葉です。

3.ベネディクトゥス
 新共同訳の小見出しでは「ザカリアの預言」となっていますが、46節以下にあります「マリアの賛歌」と同じように、これは教会の歴史の中では「ザカリアの賛歌」と呼ばれてきました。64節は「たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し」とありますが、67節では「聖霊に満たされて、預言した」とあります。では、これは賛美なのか、それとも預言なのか。それはどちらでも良いと言いましょうか、どちらでもあると言った方が良いでしょう。そもそも、賛美と預言は、全くの別物であるわけではありません。どちらも聖霊なる神様のお働きの中で、私共に与えられるものです。特に、今朝与えられております御言葉においては、神様への賛美と神様の御業や御心を告げる預言が、一つとなっています。ザカリアはここで賛美の心をもって預言し、預言の言葉から賛美へと導かれています。
 このザカリアの賛美、ザカリアの預言は、ラテン語訳の最初の言葉をとって「ベネディクトゥス」と呼ばれ、毎日の朝の祈りの時に唱えられたり、歌われたりしてきました。ちなみに「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれ、夜の祈りの時に歌われてきました。また、2章29節以下にあります「シメオンの歌」は、「ヌンク・ディミティス」と呼ばれて一日の最後の祈りの時に歌われてきました。ルカによる福音書にあるクリスマスに関係する賛歌が、日々の祈りの中で唱えられ、歌われてきた。このことは、キリスト教会の信仰のあり方にとても大きな影響を与えたと考えて良いでしょう。
 「ほめたたえよ」と訳されている言葉が「ベネディクトゥス」です。口が利けるようになったザカリアは、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」と賛美しました。どうしてザカリアは神様を賛美したのでしょうか。それは、聖所で天使によって告げられた言葉を、ザカリアははっきりと理解したからです。遂に神様の救いの御業が始まる。長い間イスラエルが待ち望んでいた神様の救いの出来事が、遂に始まる。そのことがはっきりと分かったからです。まだ、イエス様は生まれていません。そして、イエス様の十字架・復活による救いの出来事は、もっと先です。しかし、ザカリアは聖霊によって信仰の眼差しを開かれて、神様による救いの御業を確信しました。そして、その神様の救いの御業のために、我が子ヨハネは生まれてきた。この子が生まれたということは、もうすぐ救い主が来られ、救いの御業が実行される。そのことを思うと、彼は神様をほめたたえないではいられなかったのです。

4.契約の成就
 ザカリアの歌を、少し丁寧に見ていきましょう。ザカリアは「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」と賛美するとすぐに、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と告げました。ザカリアが見ているのは、救い主であるイエス様の到来です。イエス様によってもたらされる救いです。何度も言いますが、まだイエス様は生まれていません。しかし、ザカリアは10ヶ月の沈黙の中で、これから神様によって起こされる救いの出来事を確信しました。その確信は「僕ダビデの家から起こされた」と過去形で語るほどです。「起こされるだろう」ではなく「起こされた」です。過去に起きたほどに、もう動かしようがないほどに確かなこととしてザカリアは告げました。
 その救いは「主はその民を訪れ」ることによってもたらされます。主が来られるのです。主が来られて、救いの御業を成してくださる。「角」というのは、旧約以来、圧倒的な力、権力を象徴する言葉です。角と言えば、牛の角を思い浮かべますが、牛は最も力あるものと考えられておりました。そして、その角は力の象徴でした。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」とは、「我らを救うために、力に満ちた方がダビデの家系から起こされた」ということです。これは、ダビデ王家が永遠に堅く据えられるというダビデ契約(サムエル記下7章11節以下)の成就であり、また、イザヤ書11章1節から始まるキリスト預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に霊がとどまる。… 弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。」という預言。これは、エッサイはダビデの父ですから、ダビデの家系・子孫から救い主が生まれるという預言であり、この成就として神様の救いの御業が成されるという預言です。ザカリアはこの預言が成就すると理解しました。

 ザカリアは祭司でしたので、旧約における救い主が到来するという預言を幾つも知っていました。そして、その知識を総動員して、我が子ヨハネの誕生によって始まる出来事を確信したのです。それが70節からの言葉で告げられていることです。「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」ザカリアは、長い神の民の歴史を思い起こしました。それは、誇れるような立派な信仰の歩みの歴史ではありませんでした。イスラエルは何度も何度も神様から離れました。しかし、それでも神様の憐れみは失われることはありませんでした。神様は時に応じて預言者を送ってくださり、御言葉を与え、悔い改めへと導かれました。そして、将来の救いの出来事を告げてきました。神様はイスラエルとの約束を反故にされるような方ではありません。その神様の真実が、神様の憐れみが、今、出来事となる。何と幸いなこと、何と素晴らしいことか。ザカリアは主をほめたたえないではいられませんでした。

5.アブラハム契約の成就
 ザカリアは続けて「これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」と告げます。つまり、この神様の契約の根本にあったのは、アブラハム契約です。そのアブラハム契約が、今、成就するとザカリアは理解したのです。神の民イスラエルの歴史はアブラハムと共に始まりました。神様がアブラハムを選び、召し出された時、神様がアブラハムに告げられた言葉はこうでした。創世記12章1節以下「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」でした。この言葉に従ってアブラハムは故郷を離れ、生涯、旅を続けました。そして、アブラハム100歳、妻サラが90歳の時、息子イサクが生まれました。このアブラハム契約において重要なのは、アブラハムが「祝福の源となる」そして「地上の氏族はすべて、あなた(アブラハム)によって祝福に入る」です。つまり、このアブラハム契約が成就するということは、イスラエルに限定されることなく、地上のすべての民が神様の祝福に入ることになる、救われるということです。ザカリアはそれを見た。この出来事が起きることを、聖霊なる神様の導きの中でザカリアははっきりと見た。だから、神様をほめたたえないではいられなかったのです。

6.いと高き方の預言者:洗礼者ヨハネ
 では、そのすべての人が救われる出来事と、今生まれたザカリアの子、後の洗礼者ヨハネですが、彼とはどういう関係にあるのでしょう。
 76節でザカリアはこう告げました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。」ここでの「幼子」とは、今生まれた、目の前にいる洗礼者ヨハネです。イエス様は受胎告知の場面で、天使からマリアに「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(32節)と告げられました。イエス様は「いと高き方(つまり神)の子」です。一方、ヨハネは「いと高き方の預言者」です。ヨハネは神の御子であるイエス様の預言者であり、その務めは「主(=イエス様)に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ということでした。これは、先ほどお読みしましたイザヤ書40章3節において「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と告げられた「荒れ野に道を備える」者です。我が子が、あのイザヤによって預言されていた救い主のために道を備える者として、神様によって命を与えられた。神様の救いの御業がここから始まる。いや、もう始まっている。しかも、そのために我が子ヨハネが用いられる。何と光栄なことか。何と幸いなことか。ザカリアの心は喜びに打ち震えて、主をほめたたえないではおれませんでした。ザカリアが見ていたものは、イザヤが見ていたものと重なります。それは何よりも、主の民にもたらされる「罪の赦しによる救い」でした。そして、それを告げ知らせるのが洗礼者ヨハネの使命でした。

7.神の言葉はとこしえに立つ
イザヤ書40章の御言葉を告げた預言者イザヤの目の前に広がっていたのは、祖国を失い、遠い異国に連れてこられ、明日への希望を失い、打ちひしがれた神の民の姿でした。しかし、イザヤはその現実の向こうにある神様の救いの御業を、聖霊なる神様によって見せていただきました。そして、イザヤは告げました。5~8節「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ」確かに、肉なる者は草や野の花のように、すぐに枯れ、しぼんでしまいます。生きながらえても、100年には及びません。しかしそれは、人間の肉体の命だけの話ではありません。イスラエルを滅ぼしたバビロンも同じこと。ザカリアの時代にイスラエルを支配していたローマとて同じことです。草は枯れ、花はしぼむ。バビロンもローマも滅びるのです。どんなに栄華を極めようと、滅びる。しかし、しかしです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。これがイザヤが見ていたものであり、ザカリアが見ていたものです。ザカリアの時代から二千年も昔に約束されたアブラハムとの契約。神様はそのアブラハムとの契約を決して反故にすることなく、成就される。すべての罪人の罪を贖い、救いへと導かれる。この救いの御業が、ここに始まっている。イザヤが信仰の眼差しをもって神様に見させていただき、人々に告げた神様の救いの御業。それが、今、ザカリアの目の前で、大きな救いの出来事の歯車が回り始めている。神様の約束された言葉が、救いの御業が、出来事となってザカリアの目の前で展開し始めている。どうして冷静でいられましょう。ザカリアははじける喜びの中で、神様をほめたたえました。

8.イエス・キリストの光に照らされて
 ザカリアが見ていたのは、神様による「罪の赦しによる救い」です。それは、ただ「神の憐れみの心によって」与えられます。ただ神様の憐れみです。神様が私共を憐れんでくださった、その憐れみの御心によって、イエス様は来られました。天を引き裂いて、地に降って来られました。ただ神様の憐れみによってです。この憐れみは、ふわふわしたような弱々しい優しさなんかではありません。この憐れみは、神様の熱情です。激しくたぎる思いの熱情をもった憐れみです。神様の私共への憐れみは、熱く激しいものです。そうでなくて、どうして我が子を天の高みから地に降らせることが出来るでしょう。どうして我が子を十字架につけることが出来るでしょう。
 神の御子であるイエス様の十字架の御業によって、私共の罪は赦され、救われました。イエス様によって「暗闇と死の陰に座している者たち」は光に照らされました。その光は「あけぼのの光」、輝く朝日の光です。朝日が昇り、すべての人がこの光に照らされます。この光は、キリストの光、救いの光、命の光、希望の光です。イエス様の復活の朝の光と受け止めても良いでしょう。この光が訪れると、暗闇は退かなければなりません。どんなに濃く深い闇であろうとも、光が届けば闇は退かなければなりません。光の前に立ちはだかることの出来る闇などありません。キリストの光の前では、嘆きも、怒りも、罪も、死も、最早私共を支配することは出来ません。イエス様が来られて、この光がすべての人を照らします。私共は光の子として、光の中を歩む者とされました。ザカリアが仰ぎ見て、賛美しないではおれなかった光、キリストの光、救いの光に私共は既に照らされています。私共はただ信仰によって、一切の罪を赦していただき、神の子としていただいたからです。復活の命に与る者にしていただいたからです。どうして主をほめたたえないでいられましょう。

9.平和の道に導かれ
 さて、イエス様の救いの光、命の光が「我らの歩みを平和の道に導く」と告げて、ザカリアの歌は終わります。イエス様によって与えられ、導かれた道は「平和の道」です。「平和への道」ではありません。このようにしていけばやがて平和になるという道ではありません。イエス様の救いに与ったということは、既に平和の中に生きる者になったということです。何よりも神様との関係において、私共は平和を与えられました。神様は私共を赦し、救ってくださったからです。この平和の道はイエス様と共に歩む道です。
しかし今、とても平和とは言えないような状況が、世界中の様々な所で起きていることを私共は知っています。今年ほど「平和」を求める祈りをもってクリスマスを迎えることは、近年なかったほどです。昨日の中高生クリスマス会のプレゼント交換のテーマも「平和」でした。世界は平和を求めています。しかし、中々平和が来ない。理由は単純ではないでしょう。その理由の一つが、「私が主人」になっているからということは確かだ思います。お互いに、自分が正しく、自分の力を誇り、自分の思いを通そうとする。しかし、イエス様によって私共に与えられた「平和の道」は、神様が、イエス様が私共の人生の主人となってくださる道です。神様が主人となってくださらなければ、私共は互いに仕えることが出来ません。相手を自分に仕えさせようとしてしまうからです。しかし、イエス様は馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされ、十字架に架けられました。この方が私共の主人であり、私共と共に歩んでくださるお方です。人生の主人が私である限り、平和は来ません。神様との間でも、隣人との間でも、国と国との間でも、民族と民族との間においても同じでしょう。
 すべての罪の贖いとなってくださったイエス様が、私共の主人となってくださり、私共と共に歩んでくださっています。そのイエス様が再び来てくださいます。その時、神様の平和が完成します。私共はその日が来ることを知っています。そして、その平和が既に私共を包んでいます。だから、私共はザカリアと共に「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」と賛美することが出来るし、賛美する者として召されているのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 あなた様は今朝、ザカリアの賛歌・預言を通して、私共が主をほめたたえる者とされていることを知らせてくださいました。イエス様から目をそらしてしまえば、平和とはほど遠い現実しか私共は見なくなってしまいます。暗闇と死が今でも支配しているかのように思ってしまいます。しかし、イエス様は来られました。私共はイエス様によって、天地を造られた神様を「父よ」と呼ぶことが出来る者にしていただきました。罪を赦し、死を打ち破られたイエス様が、私共と共にいてくださいます。この方と共に、この方の光の中を歩む者としていただいています。どうか、あなた様の憐れみの中に生かされている恵みの現実をしっかり受けとめて、あなた様をほめたたえつつ、アドベントの第三週も歩ませてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年12月17日]