1.はじめに
2023年最後の主の日を迎えています。先週の主の日はクリスマス記念礼拝があり、夜には燭火礼拝(キャンドル・サービス)がありました。まだクリスマスの余韻の中を歩んでいる私共です。スーパーマーケットやデパートでは、クリスマスが終わるとすぐにクリスマスの飾りを外して、門松など正月の飾りに変えます。しかし、キリストの教会の伝統においては、クリスマスのシーズンはエピファニーと呼ばれる1月6日の公現日(あるいは顕現日)までとなっていますので、それまでクリスマス・ツリーやリースなどを片づける必要はありません。この公現日・顕現日というのは、東の博士が黄金・乳香・もつ薬を献げたことを記念します。そして、その直後の主の日は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日とされてきました。元々は、公現日・顕現日というのは、イエス様が洗礼を受けて神の御子として公の歩みを始めることを記念したものだと考えられます。
イエス様が誕生されて、ヨセフとマリアに子どもが与えられました。このマリアとヨセフとイエス様の三人の家族は、聖なる家族と書いて「聖家族」と呼ばれます。理想的な家族と言いますか、家族の聖なるモデルと受け止められ、多くの絵画などに描かれてきました。確かに、聖霊によって身ごもったマリアを、ヨセフは夢でのお告げによって離縁せずに妻として迎えるわけですから、このマリアとヨセフの関係の真ん中には神様がおられました。そして、イエス様が生まれ育まれた家庭ですから、神様の愛と恵みと祝福に満ちた家庭として受け止められてきました。さて、私共の家族はどうでしょうか。聖家族と呼べるようなものではありませんけれど、やはり夫と妻がおり、子どもがいるわけです。ここで聖書が告げる家族観というものについて、まず聞きたいと思います。
2.アダムとエバ ①我が骨の骨、我が肉の肉
まず創世記2章18節で、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言われました。この「人」というのは男の人間を表す言葉ですから、「アダム」と考えて良いでしょう。これが独りでいるのは良くないと考えた。それは、愛の交わりを形作るものとして神様は人を造られたからです。神様は御自分に似た者として人間を造られたのですけれど、「神は愛」ですから、神様は愛の交わりを形作るものとして人を造られたということです。しかし、アダム独りでは「愛の交わり」を形作ることは出来なかった。人と他の動物との間においては、人は動物に名を付けて支配することにはなりましたけれど、愛の交わりは作れなかった。20節に「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」とあるとおりです。この「自分に合う助ける者」というのは、後から造られた女は「男を助ける者」であって、男が主であって女は従であるという意味ではありません。自分に合う助ける者というのは、互いに助け合うことが出来る、互いに愛し合うことが出来る、対等なパートナーということです。その関係は他の動物との間では出来なかった。それで、神様は女を造られたわけです。大切なのは愛です。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。神様は御自分にかたどって、御自分に似た者として人間を創造された。この神様に似た者、神様にかたどられた者、それが「男と女」という存在だったということです。つまり、男と女の愛の関係にこそ、神様の御姿が表れるということです。
ですからここで、男が先に造られたのだから男の方が上だ、女は下だというような「男尊女卑」の考えの根拠をここに求めようとするのは間違いでしょう。私共はそのようには聖書を読みません。自分の価値観を聖書の中に読み込むのではなくて、聖書によって自分が変えられていく、それが私共が聖書に向かうあり方です。大切なのは愛です。上下の関係は愛に相応しくありません。
神様はアダムのあばら骨の一部を取って、それで女を造ったことが記されています。神様がアダムのところにこの女(これがエバです)を連れて行くと、アダムは「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と言いました。大切なのは「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」と告げたことです。この言葉を皆さんはどう聞くでしょうか。これは人類最初の愛の告白、愛の喜びの叫び、と私には聞こえます。男は、これは自分の骨、自分の肉だ。自分と分かち難く一つである者だ。神様が与えてくださった自分と一心同体の者だ、と女を見て言ったわけです。凄い言葉です。そして、これが夫婦です。
3.アダムとエバ ②父母を離れて一体となる
さて、男が造られ女が造られ、これが一体となって夫婦・家族が生まれました。聖書がはっきり示しているのは、親子の関係に優先して夫婦があるという理解です。24節は結婚式で必ず告げられる言葉ですが、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」とあります。この創世記2章は女性が造られた記事が記されているわけですから、まだ「父母」はいません。ということは、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉は、聖書における家族観で最も基本となる関係は親子ではなくて、夫婦だということです。これは、とても大切な点です。
日本の文化における家族観では最も基本となる関係は親子です。別の言い方をすれば血、血縁です。しかし、血縁関係が家族の基本だということになりますと、嫁はどこまでもその家族の中ではよそ者ということになります。これが、日本の家族における永遠の課題といっても良い「嫁姑」の問題の根っこにあります。親子は大切じゃないと言っているわけではありません。十戒に「父母を敬え」とありますように、親子の関係は大切です。そんなことは当たり前なのです。しかし、それ以上に、夫婦の関係は家族において大切なのだ、これが基本にあるのだということです。夫婦の関係は血縁ではなく、契約です。契約が血よりも大切なのです。信仰も神様との契約です。契約によって、血縁という自然な感情を超えた関係を作り出していく。そこで形作られる関係が愛だということです。
ここで、一つ申し上げておかなければならないことは、人はみんな結婚しなければいけないわけではないということです。結婚は、神様の選びですから、この人と結婚するように選ばれた人は、その関係を大切にしなければなりません。しかし、結婚に選ばれていない人もいます。結婚しなければ幸いでないというような理解は、神様の選びに対して傲慢だろうと思います。神様によって結婚しないように選ばれている人もいれば、結婚するように選ばれている人もいる。勿論、ただ結婚すれば良いというわけでもありません。そこには神様の御心に適った関係を形作っていく責任があります。
4.妻たちよ ①自分の夫に従いなさい
その神様の御前に責任ある関係としての夫婦のあり方について、聖書は今朝与えられた御言葉において告げております。この聖書の箇所もしばしば結婚式において読まれる箇所の一つです。(もう一つの代表的な箇所はエフェソの信徒への手紙5章21節以下です。)
今朝与えられている御言葉は、3章1節「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」と始まっています。この言い方の中に女性を下に見ている視点があるではないか、とんでもない、と感じる人もいるでしょう。なんで妻は夫に従わなければならないのか。今まで見て来た創世記には、パートナーとして愛の交わりを形作るものとして神様に造られたとあったではないか。これはどういうことか、となります。まず注目しなければならないのは、この御言葉が「同じように」と始まっていることです。何と同じなのかといえば、その前の「召し使いたち」について告げられたの同じように、ということでしょう。この「召し使い」というのは、家で働いていた奴隷のことです。2章18節「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。」とあります。この御言葉を「聖書は奴隷制度に反対していない。だから、奴隷制度はあっても良いのだ。」と読むのは間違いですし、「奴隷制度に反対していない聖書は間違っている。」と読むのも間違いです。この手紙は、現実に目の前に奴隷がいる。その人たちに向かって、その置かれている状況の中で、キリスト者としてどう生きるのかということを告げているわけです。奴隷制度が良いか悪いか、そんな話をしているのはありません。この妻たちに告げられていることも同じです。当時の社会では、家庭において妻は夫より低い者とされていました。男尊女卑は、洋の東西を問わず、二千年も前の社会では当り前のことでした。そのような社会における夫婦の関係において、妻は夫に対してどうあるべきかを聖書は告げています。それが「自分の夫に従いなさい」ということでした。理由は「召し使いたちへの勧め」において、2章21節「… キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」と言われていたのと同じです。十字架に向かって歩まれたイエス様に従うということは、具体的に置かれた場で「皇帝に従う」「主人に従う」「夫に従う」ということを抜きにはあり得ないと言っているわけです。神様の御心としての十字架に向かって歩まれたイエス様の姿に、神様に従う者の姿がある。キリスト者はこのイエス様に倣って生きる。それは具体的に自分が置かれた場所で、具体的な人に対して「従う」ということになるのではないかということです。
私共は、「神様に従います」と言いながら、「この人には従わない」という心を持ってしまいます。しかし、この人と出会わせたのが神様であるならば、この人との交わりをどう形作っていくかが私共の課題なのであって、その交わりを形作っていく時のキリスト者のあり方の基本は「従う」ということ、「仕える」ということです。勿論、従い方ということもありましょうけれど、基本的には「従う」あるいは「仕える」です。そして、そこには相手を自分に従わせようとする心とは全く別の心が必要です。それが「愛」です。愛をもって従う、愛をもって仕えるということです。
5.妻たちよ ②夫を信仰に導くために
しかし、ここでは更に加えてこう告げられています。 3章1~2節「… 夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」ここで語られていることは、この妻の夫が御言葉に従わない、つまり信仰を持っていない夫であっても、ということです。現代の日本でも妻だけがキリスト者であるという人は多いのですが、生まれたばかりのキリストの教会においても、そういう状況がありました。しかも当時は、信仰は一家の主人が決めるのであって、妻に信仰の自由があったわけではなかったようです。ですから、このキリスト者である婦人は家の中で、私共が考える以上に厳しい状況に置かれていたと考えられます。
勿論、夫が信仰を与えられて夫婦でキリスト者になるならば、それは幸いなことですけれど、それはそう簡単にはいきません。ではどうすれば良いのか。聖書は、夫に従うことによって、その無言の行いによって、夫もまた信仰に導かれるようになると告げています。夫は、妻の日々の生活を見ているわけです。その生活が「神を畏れる純真な生活」であるならば、それを見ている夫は納得する。しかし、そうでないのならば、何を言っても相手にされない、本気にされないということでしょう。しかし、そんなことを言われたら私共は、夫が信仰へと導かれないのは私の責任なのか、と思ってしまうかもしれません。無言の行い、純真な生活というのを、道徳的に欠けのない生活だとイメージすると、この御言葉を読み誤ってしまいます。この「無言の行い」とか「純真な生活」というのは、神様に愛され、神様を愛し、隣人を愛し、夫を愛する生活ということです。本当にこの人は神様を愛している、本当に神様に愛されている。希望と喜びと感謝と祈りをもって生きている。それが一緒に生活している夫に分かる。そして何よりも、この人は自分を愛しているということが分かる。無言の行いにおいて分かるということです。
私共がよくやってしまう過ちは、言葉で相手を説得しようとすることです。言葉で説得されても、人は決して納得はしません。まして、妻に説得されて夫が納得するなんてことはそうそう起きません。夫はプライドが高いのですから、言葉で説得されたら反感を覚えるだけです。決して納得なんてしません。しかし、自分に仕える妻の愛情に満ちた日々の生活・行いに説得されない夫はいません。ここでも、愛だけが勝利していきます。夫婦が健やかであるためには、この愛だけが意味があるものだからです。
6.妻たちよ ③内面の装い
さて、妻に求められることはもう一つあります。それは4節に告げられています。「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄」です。これはその前に記されている「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。」に対応しています。いつの時代でも、女性は見た目の装いに気を配るものです。そんなものは必要ないといっているわけではありません。身だしなみもそれなりに大切です。しかし、「内面的な人柄」はもっと大切だと言っているわけです。しかしこれも、「私は柔和でしとやかだわ。」なんて言える人はいないでしょう。「私はキリスト者である妻として失格だわ。」と受け取りかねません。新改訳ではこの4節を「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」と訳しています。この訳は良いと思います。「柔和で穏やかな霊…を持つ」ことが大切だ、その「柔和で穏やかな霊」が心の飾りとなる人柄を形作っていくと言っているわけです。「柔和で穏やかな霊」と言えば、それはキリストの霊です。聖霊です。つまり、イエス様が私共の中に宿ってくださることによって備えられていく人柄ということです。ですから、キリスト者についての理想的なイメージを造り上げて、自分はダメだと思うことはありません。柔和で穏やかなキリストが私共の中に宿ってくださり、私共を造り変え続けてくださるのです。「柔和で穏やか」という人柄を賜物として与えてくださいます。この賜物は夫婦の関係に限らず、およそ人と人とが交わりを形作っていく上でとても大切なものではないでしょうか。私はこの年になって、やっとこの「柔和で穏やか」であるということの素晴らしさに気付いたところがあります。若い時は自分の考えをはっきり主張することが大事だと思っていました。議論して、説得して、それで愛の交わりが形作れると勘違いしていました。しかし、愛の交わりを形作っていく上で、この「柔和で穏やか」であるということが本当に大切なのだ、としみじみ思うようになりました。これは賜物です。神様は私共にそれを与えてくださっているし、いよいよそれを増し加えてくださっている。本当にありがたいことです。
7.夫たちよ 尊敬しなさい
最後に、夫に対してです。ここでも7節「同じように、夫たちよ」と始まります。次に続くのは「妻に従いなさい」かと言いますと、そうはなっていません。しかし、今まで妻に対して言われていたことは、夫に対しても基本的には同じです。ただ、当時は女性の地位というものが低かったですから、夫に対しては妻に対してとは違った表現で語っています。それが7節「… 妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」なさいということです。弱いのですから、これを守り、支え、大切にしなさいと言っているわけです。夫は強い。それは社会的に、経済的に、体力的に強いわけです。その強さを、妻を支配するために用いるのではなくて、妻を守るために用いなさいということです。
そして、最も大切なのはその後の「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」ということです。多分この夫も、妻が信仰を与えられていないケースを想定しています。まだ信仰は与えられていないかもしれないけれど、やがては共に命の恵みを受け継ぐことになるのだから、妻を軽んじることなく「尊敬しなさい」と告げます。妻を尊敬する。重んじる。リスペクトする。これは高齢の世代の人よりも、若い世代の人たちの方が自然に出来ているところがあるかもしれません。夫によるモラル・ハラスメント、モラハラ、「お前は何も知らない。世の中のことを分かっていない。バカなことばかり言っているんじゃない。」といった言葉によって、どれほど多くの妻たちが傷つけられて来たことか。しかも、大抵の場合、夫の方は妻が傷ついていることに全く気付いてもいません。これは難しい問題です。しかし、キリスト者は分からなければなりません。夫婦は神様が選び、結び合わせてくださったパートナーです。そして、妻は共に御国に向かって歩んでいる者です。自分だけ一人で御国への歩みをしているわけではありません。夫婦とはそういうものです。ですから、大事にし、重んじ、尊敬する。それがキリスト者である夫に求められていることです。まして、妻がキリスト者ならば、夫は妻を同労者として尊敬する。そして、そのような夫婦のあり方を子どもたちは見ていて、育っていくわけです。夫婦は父であり母であるわけですから、その責任は大きい。
妻も夫も、神様によって選ばれ、結び合わされた者として、互いに仕え合い、支え合い、尊敬し合って、神様の御前に歩んで行く。そこに愛の交わりが形作られていきます。そして、それこそ神様が「御自分に似た者として造られた人間」に求めておられることなのです。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
2023年最後の主の日の礼拝において御言葉を与えられましたことを感謝します。私共に妻また夫が与えられており、家族が与えられていることを感謝します。互いに愛し合い、尊敬し合い、仕え合い、支え合って、あなた様の御心に適う夫婦、家族の交わりを形作っていくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2023年12月31日]